暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

「野月の茶事」を終えて・・・(1)蓮月と鉄斎

2023年10月07日 | 「立礼の茶事」(2023年~自会記録)

 

令和5年9月29日は中秋の名月でしたが、あいにく横浜では名月が見れませんでした。その翌日の9月30日(土)に「野月の茶事」をしました。

その日の気温は少し高めで曇りでした・・・それで、いろいろと悩みました。

先ずは着物、長月の終わりなので単衣のクリーム色にススキ模様が描かれている付け下げにし、平安時代の貴公子が琴を弾いている紫色系の帯を締めました。この帯は大のお気に入りで、業平さまと名付けています。

それから汲出し、白湯の予定でしたが、まだ暑そうだったのでロック氷を入れたレモングラスに急遽変更しました。

 

 

席入は11時半です。

まだ暑さが残る中、お客さまが素敵な袴や着物姿でいらしてくださいました。 

お客さまは全員が社中の方で、正客M氏、次客YRさま、三客Y氏、詰Iさまです。立礼の茶事へ社中の皆様を早くお招きしたいもの・・・と思っていましたので、とても嬉しく気合も入ります。

待合の御軸は、「枯れた蓮」と「菊」の小品で、富岡鉄斎画です。15年以上前に我が家へ来たと思うのですが、思い出せずにおります(トホホ

富岡鉄斎(天保7年(1837)12月19日-大正13年(1924)12月31日)は京都に生まれた、明治・大正期の文人画家、日本画家、儒学者、教育者です。耳が少し不自由でしたが、幼少の頃から勉学や画に励み、15歳ころから大田垣蓮月の侍童となり、薫陶を受けたそうです。

画、国学、儒学を修め、幕末には勤王家として国事に奔走しました。中国明清絵画を学び、大和絵も得意としました。国内各地を旅し、後に日本南画界の重鎮となりました。

 

      (富岡鉄斎の画の御軸)

どんな方(お茶人さん?)がこの御軸を仕立てたのかしら・・と思いながら、この御軸を掛けると次の禅語が思い出されます。

   荷尽己無■雨蓋

   菊残猶有傲霜枝

 読み下しは、

   荷(はす)は尽きて己(すで)に雨をささぐるの蓋(かさ)無く

   菊は残りて猶(なお)霜に傲(おご)るの枝有り

蓮の葉は枯れて雨をさえぎる傘のような姿はもう見られないけれど、菊は残っていて霜にもめげない枝をなお保っている・・・という意味で、「色即是空 空即是色」の禅の境地を表わしているそうです。

詰Iさまの打つ板木の音で、半東KTさんがレモングラスとロック氷の入ったワイングラスを運び出し、腰掛待合へご案内しました。

水桶を持って迎え付けに出ました。蹲の水を周囲に撒いていると、大粒の雨が降り出しました。慌てて、お客さまに待合へ戻っていただき、蹲省略で茶道口から席入りして頂きました。

雨の時は玄関の蹲を使っていただくのですが、あいにく用意が出来ていません。「降らずとも雨の用意・・・」が足らなかったことを反省しながら、玄関先に広げていた緋傘を急ぎしまいました。

 

      (野月の和歌の御軸)

茶席が静まるのを待って襖を開け、お客さまとご挨拶を交わしました。茶事が久しぶりの方、初めての方、皆さまが暁庵の茶事を楽しみに待っていてくださったようで感激でした・・・。

床には「夕去りの茶事」でも掛けた、大田垣蓮月の野月の和歌の御軸が掛っています。もう数十年前から太田垣蓮月尼に憧れ、敬愛していましたが、今春にご縁があって蓮月尼の和歌の御軸が手元にやってきました。

  野月

     むさし野の 尾花が末にかかれるは

        誰がひきすてし 弓張の月     蓮月

 

  

大田垣蓮月尼(寛政3年(1791)-明治8年(1875)12月10日)の簡単な年譜を記します。

寛政3年1月8日京都三本木に出生。名は誠(のぶ)。伊賀上野城代家老職・藤堂新七郎家六代良聖の庶子。生後まもなく知恩院譜代・大田垣光古の養女となる。

33才の時二番目の夫(古肥)が亡くなり、出家し蓮月と号す。

42才の盆に養父光古(西心)が亡くなり天涯孤独となる(それ以前に二人の夫、子供5人が亡くなる)。

知恩院・真葛庵より岡崎村へ移り、陶芸により生計を立てる。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫で施した作品は「蓮月焼」と呼ばれ、人気を博した。後に贋作が出回ったほどである。

6年間岡崎村に住んだのち75才で西加茂へ移るまでの間、「屋越しの蓮月」と呼ばれるほどに岡崎村、聖護院村を中心に引っ越しを繰り返す。1年に13回も引っ越しをしたこともあったという。

60才、富岡鉄斎(15才頃)が侍童として同居し、蓮月の薫陶を受ける。この頃大飢饉になり蓮月は30両を喜捨する。

70才、この頃蓮月焼の偽物があらわれる。丸太町橋を独力で架ける。

75才、西加茂・神光院の茶所に移る。

80-81才、歌集「海人の刈藻」を刊行。

85才、神光院の茶所で85才で没する。 

  夕ざり空をながめて

     ちりばかり心にかゝるくもゝなし

       いつの夕やかぎりなるらん   時とし八十四  蓮月

 

大好きな蓮月尼の野月の和歌と、尼の侍童となって薫陶を受けたという富岡鉄斎の画が約百五十年の時を経て「野月の茶事」で出合い、社中のお客さまに見てもらうことが出来て、もうもう喜んでいます。

 

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      野月の茶事支度・・・花を生ける