暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

蝋燭能「姨捨」をみる・・・その1

2019年10月26日 | 歌舞伎・能など



10月14日(月・祭)に横浜能楽堂で能「姨捨」(おばすて)をみました。
「姨捨」は秘奥の能とされ、「桧垣」「関寺小町」とともに「三老女物」と称されています。

遥か遠く・・・2012年9月16日の楽美術館・特別鑑賞茶会で「姨捨(おばすて)」という銘の黒楽茶碗に出逢いました。ブログに次のように書かれていました。

なかでも茶会に使われた六個の茶碗は興味深いものでした。
主茶碗は、黒楽で「姨捨(おばすて)」という銘です。
「姨捨」伝説の舞台、長野県千曲市の「田毎の月」を連想させます。六代左入作、二百之内、如心斎書付が添ってます。
(中略)
「姨捨」という能があることを知りました。
中秋の名月の夜、老女の霊が旅人の前に現れます。
老女の霊は、山奥に捨てられた悲しみも孤独な死も突き抜けて、月光の精のように舞います。

能の多くは仏の導きにより成仏して終わるのですが、
「姨捨」の老女の霊は成仏してあの世へ帰ったのか、
この世の悲しみの中にあって山にとどまっているのか、
わからない終わり方になっている・・・という当代楽吉左衛門(現 直入)氏のお話を伺うと、
手に取った「姨捨」の黒楽が一層趣深いものに思われてきたのでした。 (後略)






その時から能「姨捨」を観たい、どんな終わり方になっているのかしら?・・確かめてみたいと思っていたのですが、やっと横浜能楽堂特別公演-蝋燭能-で観ることができました。

午後4時の開演で、最初に「狂言「空腕」(和泉流 野村萬)が演じられ、休憩をはさんで照明が消され、火入れ式が行われました。
橋掛かりから舞台の周りにかけて20本ほどの燭台が置かれ、厳かに1つずつ火が入っていきました。
これから始まる能「姨捨」の呪術(まじない)のようでもあり、異次元空間への結界のようにも思え、その異次元空間でどのような「姨捨」が舞われ表現されるのだろうか・・・と胸が高鳴りました。

「能は現実をただ表現するための演劇ではない。異次元空間の世界を造型する目的を多く持っている。そのためには演者自らがまず自己催眠にかかる必要がある。(中略)
能面をかけて、演者が一種の暗黒の世界に肉体と精神を閉じ込めるのも、自己催眠に必要な祭儀と考えることができる。」

上記は、私の能の入門書「能をたのしむ」(増田正造 戸井田道三)からの引用ですが、演者自らが自己催眠が必要ならば、観る側も自己催眠をかけて幽幻浮遊の時間を過ごしたいものです。





能「姨捨」のあらすじ(パンフより抜粋)

信夫の何某は同行者たちと信濃国・姨捨山に仲秋の名月を眺めに訪れます。
そこへ女が現れます。女は、ここは昔、山に捨てられた老女が

”わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て”

と詠んだ所だと教え、その旧跡である桂の木を案内します。
そして、自らも山に捨てられた一人で、秋の名月の折に現れて執心を晴らしていると、正体を明かして姿を消しました。
(ここで里人(アイ)が登場し、旅人に姨捨伝説を語ります。)

やがて満月が昇り、あたりを隈なく照らすと、白衣の老女が現れます。老女は、仏の話と極楽世界について説き、静かに舞います(序の舞)。
夜が明けると、男たちは去り、老女は山に一人寂しく残されるのでした。






      蝋燭能「姨捨」をみる・・・その2へつづく