6月5日に水無月の正午の茶事をしました。
お客さまはKさまとOさま、灑雪庵での茶事も残り少なくなり、
今のうちに是非・・・とお誘いし、関東からお出まし頂きました。
雨の予報でしたが、なんとか降らずにすみ、天の助けでしょうか。
単衣のお召し物と帯が水無月にぴったりで、素敵!でした。
あとで、お二人とも新調されたものとか・・・恐れ入ります(汗
)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/3e/385b44c0f31bd780dfa41d00e8c0a8fe.jpg)
待合の短冊は「雪月花」。
昨秋、正教授の親授式にいらした茶友から贈られたものです。
御筆は臨済正宗・山本玄峰師、
曹洞宗祖・道元禅師の歌に思いを馳せて書かれたそうです。
春は花 夏ほととぎず 秋は月
冬雪さえて冷(すず)しかりけり (傘松道詠)
短冊のご縁で山本玄峰師の生涯を初めて知り、凄い方!と衝撃を受けました。
よろしかったら、巻末の略歴をお読みください。
「雪月花」といえば、まさに風流心を凝縮した語句に思われ、
2年前に京都で古い貸家と出合った時を思い出します。
土間のしっくい壁のシミ模様、外が見えるような戸の隙間がなぜか気に入りました。
戸の隙間から降り灑ぐ(そそぐ)雪を愛でる風流心を大切にしたい・・・。
その心を忘れぬようにしたい・・と、灑雪庵(さいせつあん)と名付けたのです。
大好きな大綱和尚の和歌を読み上げ、遠来の茶友を歓迎しました・・・。
我がいほに 同じ心の友からと
つきゆきはなの ものかたりせむ (大綱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/36/4f1ec79fb89c2743895af8c70697393f.jpg)
床の軸は「洗心」、
紫野大徳寺・藤田寛道和尚の筆です。
東京で正客Kさまと相談しながら買い求めた、思い出の軸です。
水無月の天水で余計なものを洗い流し、
清らな心で茶事にのぞみたい・・と願って。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_please.gif)
ご挨拶のあと、香道具を運びだし、Oさまにお願いしました。
香炉を廻して幽かな伽羅の香りを共有し、清閑なひと時・・でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/95/a215e41a5d74c7b3331ef2ec02ac14be.jpg)
お気に入りの土間の壁と扁額
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
山本玄峰(げんぽう)師(1866年(慶応2年)~1961年(昭和36年))
慶応2年1月28日和歌山県湯の峰の旅館で生まれました。
産まれてすぐ盥に入れられ捨て子となりましたが、岡本善三夫婦に
拾われ、養子として育てられました。
17歳で結婚、19歳の時、悪質な眼病に掛かり失明寸前になり、
弟に家督を譲り、離婚し、四国八十八カ所遍路へ旅立ちました。
裸足で巡礼すること7回(巡礼に生きる道を求めて・・)
24歳の時、三十三番札所・雪蹊寺で行き倒れていたところを
山本太玄和尚に助けられ、僧門に入り修業を重ねます。
後に養子となり、雪蹊寺の住職となりました。
その後、全国をまわって修行を続け、龍沢寺(静岡県三島市)、
松蔭寺など白隠慧鶴ゆかりの古刹を再興しました。
1926年からアメリカ、イギリス、ドイツ、インドを訪問します。
帰国後に臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍沢寺住職となり、
昭和36年(1961年)6月3日遷化、世寿96歳。
灑雪庵 水無月の正午の茶事-2へつづく
お客さまはKさまとOさま、灑雪庵での茶事も残り少なくなり、
今のうちに是非・・・とお誘いし、関東からお出まし頂きました。
雨の予報でしたが、なんとか降らずにすみ、天の助けでしょうか。
単衣のお召し物と帯が水無月にぴったりで、素敵!でした。
あとで、お二人とも新調されたものとか・・・恐れ入ります(汗
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ase.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/3e/385b44c0f31bd780dfa41d00e8c0a8fe.jpg)
待合の短冊は「雪月花」。
昨秋、正教授の親授式にいらした茶友から贈られたものです。
御筆は臨済正宗・山本玄峰師、
曹洞宗祖・道元禅師の歌に思いを馳せて書かれたそうです。
春は花 夏ほととぎず 秋は月
冬雪さえて冷(すず)しかりけり (傘松道詠)
短冊のご縁で山本玄峰師の生涯を初めて知り、凄い方!と衝撃を受けました。
よろしかったら、巻末の略歴をお読みください。
「雪月花」といえば、まさに風流心を凝縮した語句に思われ、
2年前に京都で古い貸家と出合った時を思い出します。
土間のしっくい壁のシミ模様、外が見えるような戸の隙間がなぜか気に入りました。
戸の隙間から降り灑ぐ(そそぐ)雪を愛でる風流心を大切にしたい・・・。
その心を忘れぬようにしたい・・と、灑雪庵(さいせつあん)と名付けたのです。
大好きな大綱和尚の和歌を読み上げ、遠来の茶友を歓迎しました・・・。
我がいほに 同じ心の友からと
つきゆきはなの ものかたりせむ (大綱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/36/4f1ec79fb89c2743895af8c70697393f.jpg)
床の軸は「洗心」、
紫野大徳寺・藤田寛道和尚の筆です。
東京で正客Kさまと相談しながら買い求めた、思い出の軸です。
水無月の天水で余計なものを洗い流し、
清らな心で茶事にのぞみたい・・と願って。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_please.gif)
ご挨拶のあと、香道具を運びだし、Oさまにお願いしました。
香炉を廻して幽かな伽羅の香りを共有し、清閑なひと時・・でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/95/a215e41a5d74c7b3331ef2ec02ac14be.jpg)
お気に入りの土間の壁と扁額
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kirakira.gif)
山本玄峰(げんぽう)師(1866年(慶応2年)~1961年(昭和36年))
慶応2年1月28日和歌山県湯の峰の旅館で生まれました。
産まれてすぐ盥に入れられ捨て子となりましたが、岡本善三夫婦に
拾われ、養子として育てられました。
17歳で結婚、19歳の時、悪質な眼病に掛かり失明寸前になり、
弟に家督を譲り、離婚し、四国八十八カ所遍路へ旅立ちました。
裸足で巡礼すること7回(巡礼に生きる道を求めて・・)
24歳の時、三十三番札所・雪蹊寺で行き倒れていたところを
山本太玄和尚に助けられ、僧門に入り修業を重ねます。
後に養子となり、雪蹊寺の住職となりました。
その後、全国をまわって修行を続け、龍沢寺(静岡県三島市)、
松蔭寺など白隠慧鶴ゆかりの古刹を再興しました。
1926年からアメリカ、イギリス、ドイツ、インドを訪問します。
帰国後に臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍沢寺住職となり、
昭和36年(1961年)6月3日遷化、世寿96歳。
灑雪庵 水無月の正午の茶事-2へつづく