暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

西行庵の朝茶-2  茶室・皆如庵

2013年11月19日 | 献茶式&茶会  京都編
(つづき)
西行庵の見どころの一つに茶室・皆如庵(かいにょあん)があり、
見学が朝茶のあとの楽しみです。

雨上がり、すっかり明るくなった露地を歩き、
皆如庵の貴人口から中へ入りました。

伺った皆如庵の歴史は複雑で、とても興味深いものでした。
ちゃんと覚えているかどうか?(西行庵にてぜひお聴きください) 
頂いたパンフには、
桃山時代、豊臣秀吉の五大老の一人・宇喜多秀家の息女が
久我大納言へ輿入れの際、引出物として持参した茶室と伝えられる
・・・とありましたが、面白い異説を聞くことが出来ました。

           

           

実は、皆如庵は切支丹大名として名高い高山右近が関わっていました。
豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)ののち、信仰のため大名を辞した
高山右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれて、
1万5千石の扶持を受けて暮らしていました。
皆如庵はその頃に高山右近によって金沢に建てられた茶室で、
茶会の名目の元、切支丹の集会場としても使われたらしいのです。

皆如庵で有名な床の創りがそのことを裏付けていて、
板敷の框床の壁には正面に丸窓があり、裏側に障子を立てています。
障子の中央に板を入れて花入を掛けることもできますが、
障子の桟を組み合わせ十字架に見立てることも可能です。


               金沢・灑雪亭の切支丹灯篭

徳川家康のキリシタン禁教令(1612)の後、切支丹への弾圧が高まる中、
高山右近はマニラへ行き、1年後にそこで亡くなりました(享年63歳)。
皆如庵の存在は次第に徳川幕府を気遣う加賀藩前田家のお荷物に
なってきます。
宇喜多秀家(妻は前田利家の娘・豪姫)の孫娘(パンフでは娘)が
久我家へ輿入れする際に引出物として持参させ、
京都市平野の久我別邸に西行庵へ移設されるまであったそうです。

・・・そんな歴史を伺いながら、
金沢・灑雪亭の切支丹灯篭を思い出したりしました。
皆如庵の正面には躙口と貴人口が並んでいて、特色の一つだそうですが、
金沢・灑雪亭も似た造りになっています。

          
                 左が貴人口、右が躙口

床の丸窓の中央に板を入れ、花入を掛ける使い方もユニークですが、
掛軸は床の左側壁に掛けるのも変わっています。
皆如庵は一名「夜咄の席」とも呼ばれ、
夜咄の茶事では水屋の灯火が丸窓の障子を通して
客座を照らし、一層の風情を添えるとか・・・。

魅力いっぱいの皆如庵ですが、
私が一番惹かれるのは「道安囲(どうあんがこい、宗貞囲ともいう)」
の茶室です。
四畳向切で、三畳の客座と一畳の点前座の間に囲いがあります。
道安囲の仕切り壁は上部が吹き抜けで中柱まで続いていて、
中柱に接して太鼓張り襖のある火灯口があります。

道安囲があっても上部が抜けていること、点前座正面と勝手口に
窓があること・・・そういえば他にも窓がたくさんあって明るく、
開放感と緊張感が複雑に交じり合う茶室です。

「夜目、遠目、傘(道安囲)の内」ではないけれど、
襖を開けたときに現われるご亭主の印象や道具類の全貌、
道安囲の演出効果やかげ点ての便利さなどいろいろ考えると、
実に使い方が楽しみな茶席だと心躍りました。

一度でいいから、皆如庵の茶事を経験したいものです・・・!
                                  


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