マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

友の洗礼・・・『幼きイエズスの聖テレジア』 そして アウシュビッツの聖者・・・『聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 記念日』

2020-08-14 22:43:31 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
8月14日。金曜日。快晴。34度。真夏日。

 明日は『聖母の被昇天祭』

   そして。
    
   明日は友の洗礼式・・・   『幼きイエズスの聖テレジア』
  
  
友人は、ご自分の 『洗礼名』を『幼きイエズスの聖テレジア』 と決めました。
                   偶然に、代母の私の『洗礼名』と同じです。

          聖テレジアは、
       カトリック教会の聖人にして、 教会博士の一人。
  若くして(24歳)世を去ったが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、
          日本でも人気のある聖人の一人です。

         コロナ禍で、洗礼式が、延び延びになっていました。
明日は、教会共同体の皆様の出席もお祝いもなしで、4人の洗礼式が執り行われます。
           神様の特別の祝福が頂けますことでしょう。
         私も心からのお祈りを友のために捧げたいと思います。

     
   友人は、若き頃、勤めていた日本の銀行からアメリカの支店に派遣されました。
   そのアメリカで夫様となる男性に巡り会い、アメリカの大学で教える夫様と共に、
           40年間のアメリカ生活でした。
        友人も、アメリカの銀行でエグゼクティブとして働きました。
       そして、お二人は、『終の棲家』を日本に決めて帰国なさいました。
      そして明日、友人は、カトリック信者の『夫の世界』に入られるのです。


     人の人生は、神様とともにあるのだと、友人の人生を知り、確信するのです。
         自由を許された『人の人生』は100人100色です。
      どのような『花』を咲かせるのも、個人に任せられています。
         
        神様の計らいに、明日の洗礼を思い、感動する私です。
                       感謝!感謝!


そして。

今日は8月14日。年間第十九金曜日。

     『聖マキシミリアノ・マリア・コルベ 司祭殉教者 記念日』
  

          ポーランド人のカトリック司祭。
  6人の修道院志願者と共に、「汚れなき聖母の騎士会」 を創立した。
       出版物:『無原罪の聖母の騎士』 を出版した。
    アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、
       餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、
         「アウシュビッツの聖者」と呼ばれる。

              『毎日の読書』より


『今日の入祭唱』

  『私の父に祝福された人たち、
       天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

              マタイ福音書 25章34&40節


明日は『終戦記念日』です。
戦争の犠牲となり、お人のためにご自分の命を捧げた
コルベ神父様の『生涯』を
是非、ご一緒に、偲んでください。


1894年。 当時ロシア帝国の衛星国で、5人兄弟の次男として生まれた。出生名はライムンド・コルベ。 
        父は、在俗フランシスコ会のリーダーであった。
     そして、愛国心に富んだ父は、第一次世界大戦中にポーランド独立のための義勇軍に参加し、
           ロシア軍に捕らえられ、1914年に処刑された。
        母は、結婚前は修道生活を志したが、
    帝政ロシアの統治下にあった地域ではカトリックの修道院は許されていなかったため、
          修道生活は不可能であった。

1907年。13歳。 兄と共に、『コンベンツァル聖フランシスコ修道会』への入会を決め、
             同修道会の小神学校に入学。
            彼は数学の才能に恵まれ、この頃に彼はロケットで月に行けると考え、
             ロケットの図面を描いたという。
1911年。17歳。  『コンベンツァル聖フランシスコ修道会』で、初誓願をたてる。
            その時、 『マキシミリアン』 の名前を与えられた。
1915年。21歳。 ローマで哲学、神学、数学および物理学を学び、哲学の博士号取得。
1917年。23歳。 6人の志願者と共に、神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で、聖母へ奉献を行い、
            『汚れなき聖母の騎士会』 と呼ばれる信心会を創立し、
             ポーランドをはじめ他の国々にも、 『汚れなき聖母の騎士会』 を広めた。
1918年。24歳。 ローマで司祭に叙階。
1919年。25歳。 更に、聖ボナベントゥラ大学で神学の博士号取得。

1922年。28歳。 コルベは、 出版による布教活動を志し、 初めて、
         『無原罪の聖母の騎士』 を一人で執筆し出版した。 部数は5,000部であった。

       グロドノの修道院に移り、当地での出版活動を開始した。
       この頃に、コルベと共に後に日本に宣教に来ることになる
          ゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会う。

1927年。32歳。 『ニエポカラノフ修道院』:『無原罪の聖母の騎士修道院』を創立し、
            『無原罪の聖母の騎士』 等の出版による宣教に力を入れた。

1930年。35歳。3月7日。 コルベを含む5人の宣教師は、フランスのマルセイユから上海行きのアンジェ号に乗船。
        4月11日。 上海に到着した。上海では布教活動は成功しなかった。
        4月24日。 ゼノ修道士、ヒラリオ修道士ら3人で、 長崎に到着 すると、
               早坂司教に 『無原罪の聖母の騎士』の 出版許可を願った。
          司教はコルベ師が哲学ならびに神学博士号を持っていることを知ると、
          長崎大司教区、大浦神学校で哲学を教えることを条件に、出版を許可した。
1931年。36歳。5月。 長崎大浦の仮修道院で、日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始した。
1932年。37歳。    長崎に、 修道院:『聖母の騎士修道院』 を設立した。

1932年。37歳。5月。 インドで修道院を設立するために、神戸から船に乗り、エルナクーラムを訪れて、
           教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、 その後の計画は進まなかった。

1933年。38歳。4月。 ポーランドでの管区会議に出席するために日本を離れる。
 そして再び。    日本に戻る。
1936年。41歳。   ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために 故国ポーランドに帰国した。
 帰国後。   ニエポカラノフ修道院の院長を務め、出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行った

     コルベはこのころには既に将来の戦争と自分の運命を悟っていた。

1939年。44歳。9月1日。 ドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界大戦の勃発により、
              コルベは、活動の縮小や停止を余儀なくされた。
         ニエポカラノフ修道院も病院として接収され、 多くの修道者が修道院を去った。

1939年。44歳。9月19日。 コルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、
               ドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容される。
   12月18日。  釈放された。
          病院となっていたニエポカラヌフ修道院に戻ったコルベたちは、
           ユダヤ人にもカトリック教徒にも分け隔てなく看護をした。
            この行為はナチスを刺激し、監視が強化された。
        どうにかポーランド語版のみ『無原罪の聖母の騎士』の再出版を許可された。
           修道院には再び多くの人が集まり、食料不足に悩まされた。

1941年。46歳。2月17日。 ゲシュタポにより、コルベは、4人の神父と共に逮捕された。
                   その理由としては、
  コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチスに対して批判的なものであったからとも、
  当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。

          コルベは、 パヴィアックの収容所に収容された後に、
         『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所』 に送られた。
 
             囚人番号は16670であった。


1941年。46歳。7月末。  収容所から脱走者が出たことで、
             無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。
          その一人の、フランツェク・ガイオニチェク・ポーランド人軍曹が
              「私には妻子がいる」 と泣き叫びだした。
                 この声を聞いたコルベは
    「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。
         責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。
               コルベと9人の囚人が地下牢の『餓死室』に押し込められた。

       通常、『餓死刑』に処せられると、その牢内において受刑者たちは、
         飢えと渇きによって、 錯乱状態で死ぬのが普通であったが、
            コルベは全く毅然としており、
             他の囚人を励ましていた。

     時折牢内の様子を見に来た、通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、
   牢内から聞こえる祈りと歌声によって、 『餓死室』は『聖堂』 のように感じられた。
                       と証言している。

 2週間後。46歳。     当局は、 コルベを含む4人はまだ息があったため、
          病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せて、フェノールを注射して殺害した。

    通訳のボルゴヴィツはこのときのことを以下のように 『証言』 している。

      『マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。
     私は見るに見かねて、 用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。
        監視兵とボフが出て行くと、 もう一度地下に降りました。
 マキシミリアノ神父は、壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。
          その顔は穏やかで、美しく輝いていました。』


       コルベ神父の亡骸は、木の棺桶に入れられ、
    翌日のカトリック教会の大祝日にあたる、『聖母被昇天の日』である8月15日に、
           火葬場で焼かれた。
    なお、コルベ神父は生前、『聖母の祝日』に死にたいと語っていたといわれている。

                            その願い通りになりました。


 人の人生は、神様とともにあるあるのだと、コルベ神父様の人生を知り、確信するのです。
     自由を許された『人の人生』は100人100色です。
   どのような『花』を咲かせるのも、個人に任せられています。
         
        神様の計らいに、沢山のお人の人生を重ねて、感動する私です。
                       

そして。

『今日のアレルヤ唱 使徒パウロの御言葉』

   アレルヤ、アレルヤ。  わたしたちは絶えず神に感謝しています。
 なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたはそれを人の言葉としてではなく、
        神の言葉として受け入れたからです。 アレルヤ、アレルヤ。

            テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章13節


使徒パウロの宣教師としての生活は、
労苦と苦難に満ちていましたが、パウロは報いを求めることなく、
『神の言葉』 を宣べ伝えました。

    キリスト信徒たちは、
    神に選ばれ、神に愛されている者であるから、
    神に対する信仰、希望、愛に満ちた心を持って、日常を送り、
    『神の国』の完成に向かって主イエス・キリストが栄光に包まれて再び来られるのを、
    『神の言葉』として受け入れ、 待ち望むように、 と勧めました。

コルベ神父様も、
世界中の人に『神の言葉』を宣べ伝え、
世界中の人に『信じる者の模範』を示されたのです。


『今日の祈願』

     『全能の神よ、 聖コルベの模範に力づけられ、
  私達も自分のいのちをあなたにささげることができますように。』



皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
明日は終戦記念日です。祈りをささげ、世界の恒久平和を祈りましょう。
皆様の平和と平安をお祈り申し上げます。  お元気で!

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