マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

聖書100週間・聖書通読会・・・『人は律法の実行ではなく、ただイエスキリストへの信仰によって義とされる。』 そして 『昼も夜も、気を落とさずに絶えず祈らなければならない。』

2021-11-12 14:00:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
11月12日。金曜日。晴。


今日の金曜日も、
聖書100週間・聖書通読会。
オンラインクラスです。


    『聖書100週間・聖書通読会 オンラインクラス』 
 

    クラスの始まりは2時です。
    2時10分前になると、オンラインをONにします。
    クラスの始まる前の10分間は・・・
     「御家族の皆様お元気でしたか?」
     「先日転んだ時に打ちつけたお顔は大丈夫ですか?」
     「風景画の絵画展出展の作品は仕上がりましたか?」
        等々。お顔が画面に映る仲間に、順に話しかけます。
        仲間の1週間が豊かであったことを、互いに喜び合うのです♡♡
        それは、クラスのウォーミングUpタイムにもなるのです♡♡
 
   
     今日の通読範囲は、『ガラテヤの信徒への手紙』  
     使徒パウロがこの手紙を書いたのは、西暦56年頃。

     その内容は、
      パウロがガラテアの地を去った後、
      パウロに対して、又 パウロが宣教した事柄に対して、
      疑いを持つようになったガラテアの信徒たちに、
      パウロは、※「根本的な問題」※を考えるようにと、書き送ったのです。
        どうして教えたことを疑うのか。
        ※福音とは何か。
        ※イエス・キリストの福音を受け入れる人は、何を守るべきか。


      ※パウロの宣教の中心は、『十字架のキリスト』でした。
      キリストは、私たちの神であリ父である方の『御心』に従い、
      この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、
      御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
      更に、復活によって『神の子』として現わされたのです。
       これが 『福音』 であるとパウロは言うのです。
            『ガラテヤの信徒への手紙』1章4節より 
 
   もう一つ、

   ※パウロの宣教の中心は、
   『人は律法の実行ではなく、ただイエスキリストへの信仰によって義とされる』
                               でした。
       アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。
       信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であり子孫であり、
       イエス・キリストに結ばれて神の子であり、神の相続人なのです。
        これが『私の教えたこと』であるとパウロは言うのです。
            『ガラテヤの信徒への手紙』2章15節より 


今日、『ガラテアの信徒への手紙』を読んで、
私は考えました。


  生前のキリストの足跡は、
  十字架のもとで、母マリアとヨハネとマリア以外は逃げ去ったように、消えてしまったかのように見えました。
  しかし、イエス様は、※準備※をしていてくださったのです。

        ※イエスは御昇天後、
        一同が集まっている所へ、天から、 
       
        『聖霊降臨』  エル・グレコ作品

          聖霊を送ってくださったのです。

     同様に、

     キリストは、キリスト者を迫害するパウロに現われ、
            回心させ、
      
      『パウロの回心』  ミケランジェロ・カラヴァッジオ作品

          聖霊を与えたのです。

     消えてしまったかのように見えた『イエスの足跡』
     それは、
     イエスがその土地に蒔かれた『種』は芽を吹き、
     枝が大きく広がった『木』に成長したのです。
     

     聖霊を受けた弟子たちやパウロは、
     再び誰を恐れることなく、世界中に、宣教に向かったのです。
     イエスの『木の枝』は、当時、ローマ帝国全土を覆うほどに育ったのです。

      その『枝』を育んだのは、イエスの弟子たちでしたが、
      特に、使徒パウロの働きであっともいえるのではないでしょうか。


    今日も、皆様仲間のお考えの発表が、とても楽しみです。
                   感謝!感謝!


そして。

今日は11月13日。年間第三十二土曜日。

『今日の入祭唱』

  『新しい歌を主に歌え。 主は驚くべき業を成し遂げられた。
  右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。』
        詩編 98章1節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『そのとき、
  イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを
     教えるために、弟子たちにたとえを話された。
    

  「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
     ところが、その町に一人のやもめがいて、
        裁判官のところに来ては、
    
    『相手を裁いて、わたしを守ってください』 
          と言っていた。

   裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。
       しかし、その後に考えた。
   『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
   しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、
       彼女のために裁判をしてやろう。
     さもないと、ひっきりなしにやって来て、
    わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

  
       それから、主は言われた。
    「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。

       まして神は、
  昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、
     彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
     言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。

       しかし、人の子が来るとき、
    果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」』
          ルカによる福音書 18章1-8節


     今日のイエス様は、
    『昼も夜も絶えず祈リ求める』ことの大切さを、
            弟子たちに話しました。


   当時のやもめは、収入もなく、社会においての価値も低く、
    世話する人もなく、とても苦しい立場にありました。

     裁判官だけは、やもめを助ける義務がありました。

    そこで、
      やもめは、裁判官に何回も頼むなら、
      助けてもらえると思ったのでしょう。
    その通りでした。
      裁判官は、何回も来られては面倒だということで、
      やもめの言い分を聞きました。やもめは救われたのです。


     同様に・・・
     私たちキリスト者は、
     神の前で、『貧しい者』でなくてはならないのです。
     自分の弱さを感じても、神が必ず助けてくださると信じています。
     神様は、私たちの父であり、私たちの幸せをいつも望んでくださり、
     神様はいつも支えてくださると信じています。
        “アーメン!” ”そのとおりでありますように!” 
          と、絶えず祈り続けるのです。


     私たちは、
     祈るときに、いつも自分の貧しさを、認めているでしょうか。
     神の助けが必要であると、認めているでしょうか。
     神が一番ふさわしい方法で助けてくださると、信じているでしょうか。
     神様にすべての解決を、お任せしているでしょうか。
     神様が確かに祈りを聞き入れてくださる、と信じているでしょうか。
       すべてを神様に願いましょう。 
         祈り続けましょう。


『今日のアレルヤ唱』

 アレルヤ、アレルヤ。
 『神は、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、
   わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。』
     テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章14節  アレルヤ、アレルヤ。


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
明日は日曜日。皆様にとって穏やかな一日でありますように。 お元気で!