マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

始めての教会でミサ参加・・・『ミサってな~に?』 そして 『油の用意をしていなかった。』

2017-11-12 09:30:00 | 娘と娘家族

東京での2日目。

孫娘は、私と二人で、東京宅で過ごす一日です。
ママは、仕事で、東京から朝一番に出発して、信州で一日を過ごします。
パパは、ハーフマラソン出場で、応援の孫息子と、信州宅で過ごした一日でした。

午前中。

孫娘と私・・・    『主日ミサ』
 
初めて訪問する『小平カトリック教会』

出かける前に、
孫娘が質問してきた。 『ミサってな~に?』

私は答えた。 

ミサは、『神様の恵みを頂く時間』なのよ。前半と後半に分かれているの。
前半は、『神様とイエス様そして使徒からの御言葉』を聴きながら、神様の恵みを頂くの。
後半は、イエス様が十字架にかけられる前日の『弟子たちとの最後の晩餐』を再現して、神様の恵みを頂くのよ。

イエス様は、最後の晩餐の席で、大事な『お話』して、弟子たちの足を洗った後、パンを裂き配りながら『これは私の体である』 杯のぶどう酒を配りながら『これは私の血である』と、弟子たちに言われたの。
神父様は、ミサの時に、イエス様が十字架上で亡くなった後、1984年間、世界中の教会で、毎日、『最後の晩餐』を再現なさるのです。
パンを裂いて『これはキリストの体』、ぶどう酒を『これは十字架上で流された人類の赦しのためのキリストの血』と、キリスト者に配るのよ。

孫娘は、
ミサ中、大きな声で、『使徒信条』と『主の祈り』を唱え、賛美歌を歌った。
前半で、聖書朗読を聴きながら、「御言葉を聞きながら、恵みを頂くのね。」と、私に言った。
後半で、聖体拝領の列に並ぶ前に、「イエス様の御体と御血から、恵みを頂くのね。」と、私に言った。

   小学4年生は、『吸い取り紙に水を吸い取る』ように、人の話を聞く年齢です。
   孫娘に良い水を飲ませたい。 と、有難く思った祖母でした。 感謝!感謝!

 

教会からの帰路・・・      『ベトナム料理』
 
  私は『日替わりウォー』 孫娘は『ブンティットヴヌン』        ベトナム料理屋。
 
最寄駅前のベトナム料理屋で昼食。
可愛いウエイトレスの娘さん。
「2年前に来日して、ここでバイトをしながら、経済の勉強をしています。日本語が難しい。日本企業に就職したいです。」と。

   グローバルの時代を生きる若者たち。 頑張ってください! 声援を送りました。


夕方4時半から・・・    『夕食準備』
 
孫娘の提案で。 『ハート形ハンバーグ』 『カレー』      

「全部自分で作りたい」との孫娘の提案。 女シェフに、「作り方をおしえますね」と助手の私。
松本から帰ってくるママと弟のために、懸命に、愛情込めて、夕食作りの孫娘は優しい。
孫娘は、料理の間中、ミサの余韻か?、大きな声で、『使徒信条』と『主の祈り』を口ずさんでいました。


ママと弟の帰宅・・・     『夕食』
 
 孫娘の手作り。     『愛情料理』です。

   長い、幸せで、穏やかな、日曜日の一日でした。


そして。

今日は11月12日。年間第三十二主日。

『今日の福音 イエスの励ましの御言葉』

『イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。

「天の国は次のようにたとえられる。

十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな乙女たちは、ともし火は持っていたが、油の用意はしていなかった。
賢いおとめたちは、ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、十人皆、眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿が到着して、
用意のできている五人は、花婿と一緒に婚姻の席に入り、戸が閉められた。

だから、目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから。」』
         マタイ福音書 25章1-13節

 イエスは『天の国』を『結婚式』、にたとえました。

ミサ司式司祭は、
『イエスのたとえ』は、主の降誕と主の再臨を待ち望む降誕節を来月に迎えるキリスト者への、『励ましと警告』の言葉です。 と言われた。

『目を覚ましていなさい。』
愚かなおとめたちだけでなく、賢いおとめたちも目を覚ましていることなく、眠ってしまっているのです。

全体として、『賢くあれ』と言っているのだと思います。
『知的能力』ではなく、『状況判断して用意のできる能力』 又 『思慮深さ』で、人は賢くなるのです。

『油』 しかも 分け与えることができない『油』とは何か?
『油』とは、『愛』又『希望』です。  『油を入れる壺』とは、一人一人に神が与えられた『心』です。

   人は、『心』に、いつも、『希望』を持って生きていく、ことが大切なのです。
『希望』は、苦しい時にも、暗闇に迷い込んだ時にも、その人の『光』となり、道を照らしてくれるのです。

私たち・キリスト者は、待降節の時期を迎えるにあたり、思慮深く、『希望』の再確認を致しましょう。
   『キリスト者の希望』は、『キリストの降誕』と『キリストの再臨』なのです。

                          以上。神父様の説教の一部でした。

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
日曜日はいかがお過ごしでしたか? 
私の通りかかった駅では、高尾山紅葉見学ハイカーであふれていました。 残秋を楽しみましょう。お元気で!