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マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

琵琶湖の東 紅葉名所の『湖東三山』 訪問記・・・『己を忘れて他を利する』  

2014-11-09 21:00:00 | 旅行。海外旅行。
  私は自然と山が大好きです。  そして  お寺も大好きです。
小雨が時々降る、静かで穏やかな日。 『湖東三山』 を訪ねました。
    大好きなプチ登山とお寺周りが満喫できました。
                   ご一緒にプチ登山をお楽しみ下さい

二番目に訪ねたお寺。   『金剛輪寺』
『湖東三山』のまん中のお寺です。      
         『金剛輪寺本堂への参道』

天台宗。 開基は行基。  創建年は天平13年(741年)。
                            1273年間の歴史です。

  『総門』から参道を進むと・・・
     左に本坊の『明寿院』。 
           そこから両側に・・・  『千体地蔵の並ぶ参道』
 
こうありたいものです。人生の指標。              『己を忘れて他を利する』

     『金剛輪寺』
         『天台宗』のお寺です。
           『大乗仏教』の一派です。
『大乗仏教』は、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた、仏教の分派の一つです。
         自身の成仏を求めるにあたって・・・
   まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心。
         つまり
     大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、
  『利他行』の精神を指標とします。
               『己を忘れて他を利する』


    そこは・・・

歴史を物語る・・・       『紅葉舞い散る苔』 

美しい                    本堂に至る前に・・・心が洗われます。

その先に・・・
                『本堂』

『中世天台仏堂』の代表作として、『国宝』です。
                         入母屋造。檜皮葺。『和様仏堂』

   本尊は『聖観音立像』。 他の多くの天台寺院の本尊と同様、『秘仏』でした。
                                            勿論の撮影禁止。
     『像』は、一見、未完成像かと思われるほど、体部の彫りが荒々しい。
             平安時代後期の 『鉈彫像』 です。  

『本尊』の裏に回ると・・・
                『阿弥陀如来像』  
          
                『慈愛の御顔』
                         こうありたいものと

『本堂』の左手の坂を上り・・・

     霧の中の・・・  『黄葉』

私たち夫婦二人だけ。                 美しさにため息です

    『金剛輪寺』
        天正元年(1573年)
      織田信長の兵火で・・・
        湖東三山の一つである『百済寺』は全焼。
  『金剛輪寺』も被害を受けるが、現存の本堂、三重塔は、寺僧の尽力で焼失をまぬがれた。
            又。
『金剛輪寺』の本堂をはじめとする中心堂宇は、総門や本坊のある地点から数百メートルの石段を上ったはるか奥にあるため、
               見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのではないかという説もある。
                                     良かった!良かった!

坂を上りきると・・・   
                  『三重塔』 
        
           重要文化財   さもありなん。 この重厚さと美しさなら。

  今回の私たち夫婦の旅。
   「雨のようだから延ばそうか?」と夫。 延ばしても天気の保障なし。と決行しました。
        それが良かった。 
   明るい日差しの元の旅は、確かに楽しい。
         でも。
   「霧の中の歴史散策と紅葉狩りは、お人も少なく、一味勝る旅ですね。」 と。幸運でした。


     『三重塔』の前の・・・    『紅葉』

自然の大好きな私。                   離れがたい。  

それでも。
『本堂』と『三重塔』に別れを告げて・・・

次は。
      名勝。          『明寿院庭園』
  

               黄色。        そして            紅色。
 
美しい!                                   幻想的に・・・。

               ここで・・・幸せに。癒されて。
  
                               73歳を迎えた夫の幸せを願いました。

三番目に訪れた『西明寺』
『受付』の手前に。
苔深い・・・             『道場』

この寺の『受付』だけは、お坊さんでした。
          『道場』で鍛えた心身。 『お顔』に現れていました。
                             ここでも…かくありたいものと

           感謝!感謝! 合掌。合掌。

最後は。
旅といえば・・・
    『ご当地グルメ』ですよね
琵琶湖の自産品。

向こうに比叡山。 そして 琵琶湖。 
      琵琶湖から水を頂戴する・・・   『瀬田川』

琵琶湖から流れ出る唯一の河川。『瀬田川』。              
                                  『淀川』と名前を変えて大阪湾に流れ込みます。

美しい川を眺めながらの昼食です。
  
          『しじみ釜飯』               『鯉の洗い』
 
おいしいです!                         長野県出身のMy両親。『鯉の洗い』が懐かしい。

     そして。
             『10割蕎麦』
       
                       蕎麦も長野県の名物でもあります。両親が懐かしい。

                          以上。 『三山』めぐりは終わりです。
                               お付き合い有難うございました My足跡12090歩
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
処世術:『己を忘れて他を利する』。 他を利することは、己を利することかもしれませんね! 


織田信長の幻の城・安土城 訪問記・・・『一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』  

2014-11-09 11:00:00 | 旅行。海外旅行。
           皆様!
      『御三英傑』   どのお方が一番お好きですか?
  
    織田信長                  豊臣秀吉              徳川家康
(1534年 - 1582年)             (1537年 - 1598年)          (1542年 - 1616年)
                                         難しい質問ですね。
NHK大河ドラマ・・・
      架橋に入ってきました。 目が離せません。
    御三人の英傑の人生が、軍師官兵衛との関わりにおいて、それぞれに描かれていきます。
 私も・・・    
    今日は、『織田信長』 の人生について、『安土城』を中心に、迫ってみます。描いてみます。
     『人間50年
下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり  一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』 信長の言葉。
                      『信長の館』 と 『安土城跡』 の訪問記です。 お楽しみ下さい

『織田信長』
 天文3年(1534年) 今からさかのぼること480年前。 5月12日
尾張国(現在の愛知県)。 古渡城主・織田信秀の嫡男として誕生。
      まだ世子であった頃。
父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。
       そんな頃。
後の徳川家康(松平竹千代)が、今川氏へ人質として護送される途中で、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されて来る。
    信長と家康は、幼少期を共に過ごします。
       後に。
  両者・信長と家康は、『固い盟約関係』 を結ぶこととなります。

   共に、武将のことして生まれた、信長と家康。
  共に、苦労の幼児期を過ごした経験は、二人を結ぶ強い絆が生まれます。
                        良かった!良かった! と。 ほっとする私です。
                          幼い頃の経験は、生涯に影響を与えるものです。


天文4年(1535年) 2歳にして!
     『那古野城主』 となる。

天文12年(1543年) 9歳
      種子島にポルトガル船が到来。
           後に。
      織田信長 & 豊臣秀吉は、基本的に 『南蛮貿易』を進んで行った。


天文15年(1546年) 13歳で!
     『古渡城』にて 元服。 上総介信長と称する。

天文17年(1548年) 14歳
     父・信秀 と 敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との、和睦が成立。

天文18年(1549年) 16歳で人生の転機!
     信長は、正徳寺で、斉藤道三と会見します。

       『信長 斉藤道三訪問』

                             二人の深い係わりは、このときから始まります。
信長がどんな格好で来るのか見てやろうと、物陰から覗き見をする道三
      ”ややこれは!” と目を見張った道三。
信長の馬上のいでたちは、聞きしに優る珍妙奇怪なるものでした。
ひょうたんの袋を七つ八つぶらさげ、長柄の大小をわら縄で巻きつけている。
しかし・・・その前後には弓、鉄砲五百丁、三間柄の朱槍五百本を押し立て、
       『異形の威風』は、あたりの目をうばうばかりであった。
   道三は首を振ってうなった。
 近道からそっと正徳寺に戻って、着かえをして信長を待った。
 
会見で・・・
道三は、『うつけ者』と呼ばれていた、<f ont color="red">信長の器量を見抜いた。
     信長は、道三の娘・濃姫と、結婚に至りました。

天文20年(1551年) 18歳にして!
     父・信秀が没。  家督を継ぐ。  徳川一族を束ねます!

天文23年(1554年) 21歳
    本拠を 『清洲城』 に移転。

弘治2年(1556年) 22歳
    義父・斎藤道三が、子の斎藤義龍との戦いに敗れて、戦死。  
         『長良川の戦い』
                         実の親子同士の親子の悲惨な戦いです。

    信長は、道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するが・・・
  道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に、苦戦し、道三敗死の知らせにより、退却した。
                         義兄弟との確執の始まりです!


        その後も
          数々の戦いが続きます。


弘治3年(1557年)11月2日   24歳
    弟・信勝(信行)を 暗殺

        尾張国の支配権を確立し、
           『尾張の国主』 となる。

永禄2年(1559年)2月2日  25歳
     初上洛。 13代将軍足利義輝に謁見


永禄3年(1560年)5月19日。  27歳 
     今川義元を討つ。 『桶狭間の戦い』
         『尾張国統一』 を果たす。

永禄6年(1563年)  30歳
     本拠を 『小牧山城』 に移転。

 永禄3年(1560年)5月19日午後一時。 
    先ず 熱田神宮に参拝。
    その後 善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。
     今川軍の陣中に強襲をかけ、前当主で隠居の、今川義元を討ち取る。
         『桶狭間の戦い』

           桶狭間の戦いの後・・・
  信長は、今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康と、手を結ぶ。
           それまで・・・
      織田家と松平家は、敵対関係にあり、幾度も戦っていた。
           それでも・・・
        両者・信長と家康の利益のために、譲歩していきます。

    信長は美濃国の斎藤氏攻略のために。 そして 家康も駿河国の今川氏真らに対抗するために。
           永禄5年(1562年)
     両者は同盟を結んで、互いに背後を固めます。 『清洲同盟』
           この同盟は、
      信長死後…『小牧・長久手の戦い』 まで維持されます。


     私は、
     信長と家康のつながりを知る度に、戦国の世に光が差すようで、ほっとします。


永禄6年(1563年)  29歳
     美濃攻略のため 本拠を 『小牧山城』 に移す。 
                  『信長が築いた初めての城』

永禄10年(1567年)  34歳
    信長は、ついに義兄弟・斎藤龍興を敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になる。 
            『稲葉山城の戦い』
                       義兄弟との確執が果たせたのでしょうか? 勝つか負けるかの世界です

    8月15日。 本拠を、義兄弟・斎藤龍興の 『岐阜城』 に移転。   
             井ノ口を岐阜と改称する。
     11月。  僧・沢彦から与えられた『印文』 『天下布武』 を使用しはじめる。
               
                信長の生涯の目標は『天下布武』でした。

     私は、
    信長の人生を変えていく道三と出会いの場を確かめたくて・・・
       今年の9月に、『岐阜城訪問』 をしました。

           
               その後も数々の戦い。
          信長は、織田政権の政治・全軍を総括する立場 にあった。


天正3年(1575年)11月28日  42歳  
     『岐阜城』を本拠とする織田家の家督 を嫡男・信忠に譲る。
                      信長同様に…軍師官兵衛が、嫡男・長政に家督譲ったのは、44歳の時です。
                                  その後も…『如水』として活躍を続けます。
家督を息子に譲った信長。
天正4年(1576年)1月  43歳
      信長自身の指揮のもと、琵琶湖湖岸に、『安土城築城』 を開始します。

     『民が大石を力を合わせて運ぶ』

動かしてはならぬ『神宿る大石』。        動かすときに大事件が勃発します。

皆様はご覧になりましたか?
   西田敏行主演映画:『火天の城』
建築をまかされた・加賀藩の宮大工 と 民の 『安土城建設物語』 です。 感動物です。 是非にご覧下さい


 今も美しく残る・・・ 
      権力の象徴のような・・・      『壁石』

美しい!                             民の涙の結晶です

天正7年(1579年)46歳
   建築開始から3年後。
               『五層七重の豪華絢爛な城』  
      
                                       安土城の完成。
     信長は『岐阜城』を信忠に譲り、完成した『安土城』に移り住んだ。
      信長は、『安土城』を拠点に、天下統一に邁進することとなる。

   日本で最初に『天守閣』を備えた城。  そして  世界で始めての『木造高層建築』 でした。  高さ46m。
 
                     絢爛豪華               
    「ヨーロッパにもあるとは思えないとても壮大なもの。」 キリスト教宣教師も絶賛です。

5階。 仏教の世界観による理想郷の象徴。      
                    『天界をイメージした黄金の間』

宇宙空間を表す八角形。 金箔の壁。  『釈迦説法図の襖絵』     30坪(99m平方)
         総朱漆塗りの床の中央に2枚の畳が置かれています。 『信長の瞑想の場』?

                       5階&6階は『信長夫婦の個室』だったそうです。 

6階。       金箔10万枚を使用した『外壁』 

           信長が『狩野永徳』を中心に描かせた『金碧障壁画』
    
                                天守内部は吹き抜けとなっていました。


天正4年(1576年)1月  44歳
      信長に誼を通じていた丹波国の 波多野秀治の謀反。
             さらに
      石山本願寺も再挙兵する。 謀反に加担します。 
             再び・・・
       反信長の動きが強まり始める。

4月。
       信長は、明智光秀荒木村重・塙直政の三人を大将とした、
           3万人の軍勢を大坂に派遣。 砦を構築させる。
        本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は 窮地に陥った。


        
            続きます。 数々の合戦・・・。


天正6年(1578年)  46歳
          又もや・・・
3月。  播磨国の別所長治謀反。 『三木合戦』
10月。 摂津国の荒木村重が、有岡城に籠って、信長から離反する。 謀反。 
                           『有岡城の戦い』

      どこの政権の世界も。世界中。
          今も昔も。  『謀反』が『天下統一』の前に立ちはだかります。
        謀反者の家族を根無しにするまで滅ぼす。
                  
         『天下布武』は、道遠い。 生易しいことではありません。


天正9年(1581年)  48歳
1月23日。 信長は、明智光秀に、京都で『馬揃え』 を行なうための、準備の命令を出した。
    『馬揃え』は、織田軍の実力を、朝廷から洛中洛外の民衆さらには他国の武将にも誇示する、『一大軍事パレード』です。

天正10年(1582年)  49歳
2月1日。  武田との戦いが続く。
          そんな中・・・・
4月10日。 信長は富士山見物に出かけ、家康の手厚い接待を受けた。
4月12日。 『駿河興国寺城』に入城し、北条氏政による接待を受ける。
       さらに『江尻城』。 『田中城』に入城。
4月16日。 『浜松城』 に入城した。
         浜松からは船で吉田城に至り、
4月19日。  『清洲城』に入城。  五つの城を訪問。

4月21日。 『安土城』 へ戻ります。

         一ヵ月後・・・・
            今度は。

5月15日。 徳川家康『安土城』を訪れた。 6日間の滞在。
          そこで
    信長は、明智光秀『接待役』を命じる。
       光秀は、15日~17日にわたって、家康を手厚くもてなした。

おもてなし。        『安土御献立』         『7膳』まで続きます。
 
                      『饗応メニュー』   一部です。
 
    織田信長が、武田勝頼討伐に功を成した 徳川家康や穴山梅雪を、安土城でもてなしました。 
          しかし。
       この時・・・
光秀の接待内容に不満を覚えた信長は、小姓の森成利(蘭丸)に命じて、光秀の頭をはたかせた。と言われる。
                                         明智光秀は屈辱に耐えたと、語り草です。

     明智光秀は、屈辱を、信長の死を招く謀反へと、変形させたのでしょうか
                                    事実だとすれば、人の心ははかないものです。


5月29日。 信長は、中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。
       ところが、
     秀吉への援軍を命じられていたはずの、明智光秀が、命に逆らい、更に 謀反
                   秀吉の援軍ではなく・・・京都に進軍していきます。

6月2日。   明智光秀が本能寺を襲撃!!

     100人ほどの手勢しか率いていなかった信長
          初めは自ら槍を手に奮闘しました。
            しかし
   圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で・・・
           天下統一を目前にして
        明智光秀が反旗を許し、本能寺で自害します。
           信長の遺体は見つかりませんでした。

     『織田信長の言葉』
      『人間50年
      下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり  一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』
           信長の潔さが良い。 好き。
     「生まれたものは必ず死ぬ。夢幻のごとくなり。 生きているうちに何をしようか。自分の生きた証になるのだから。」 と。 
そして。 
     『織田信長の人物像』
                       宣教師ルイス・フロイスの記述より。
       『中くらいの背丈。華奢な体。ヒゲは少ない。声ははなはだ快調。
    極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
             睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でない
  決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
   わずかしか、または、ほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。
     酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。

           そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
             戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。

        自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げた。
   対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした

          格別愛好したのは、著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りである。
   少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
          生来純粋で、説得することが容易である。
      葬儀は、信長という非常に王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった。』

                  面白いですね。
          私の想像は、あれへこれへと、広がります。
           人の人生を想像することで、我が人生がはっきり見えてきますね。

            後に。
           『安土城・天主・本丸の焼失』
     『本能寺の変』の知らせを受けた羽柴秀吉軍が、備中高松城の攻城戦から、引き返してきます
       6月13日。摂津国と山城国の境に位置する山崎において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突。
                                     『山崎の戦い』

  
    その後 安土城の焼失。
        築城後3年目の焼失です。

         不幸中の幸い。
               焼失したのは、『天主』 や 『本丸』 など。 
      『二の丸』は焼失をのがれ・・・後に織田秀信が『二の丸』に入城。 『二ノ丸』 をもって十分に機能していた。

             『焼失の原因』についてはいくつかの説がある。
1       ① 明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説   
   ② 伊勢国から入った織田信雄軍が、明智の残党を炙り出すために城下に放火。 天主に延焼したという説。
        ③ 略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説。
           ④ 落雷によって焼失したとする説。

   現在に至り。③⑤⑥説が有力です。
     ⑤ 林屋辰三郎(東大教授)は、略奪目的の土民が放火したとしたとする。
      ⑥ 熱田公は、『山崎の戦い』後の混乱の中で、略奪に入った野盗の類が放火したとする。
            しかし。
              真偽は不明です。

夫と私。
織田信長を偲んで。 安土城を偲んで。
   霧雨の中・・・『安土城跡』 を訪ねました。

    始まりです。        『大手道』
    
        霧深く。                      情緒たっぷり

お分かり頂けますか?  
石階段の・・・     側溝にも『石仏』         真真ん中にも『石仏』
 
                 『大手道の石仏』
  城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から摂取しました。
        その中には、墓石や石仏も多く含まれていました。
    出土した石仏などは、本来は、信仰の対象となっていたものです。

    人はいつの時代も変わらないものですね。 
              霧雨の中での『石仏』。 私の涙を誘います

大手道に沿って・・・      『秀吉邸 址地』

邸宅を与えられ・・・           呼び出しに備えていたのでしょう! はせ参じます


いにしえを偲んで・・・    『歩いた石段を振り返ります・・・。』

霧の中に美しい           『405階段』
                信長と共に、三人で歩きます      雨のため人もなく。

        上る道の人達を見守るように・・・   『釈迦の足跡』
     
      進む方向ではなく・・・            上る人を見守る足の方向です

       私の足に比べても・・・   『大きな御足』
      
         恐れ多くて…My足を浮かせて。   「足は命です!」

釈迦のパワーを頂いて・・・    『本丸への道は続きます』

長く。美しい。                         道を歩むにつれて・・・心が洗われます

           『二の丸』近く。      『蘭丸邸址』
         
          信長に一番そば近く仕える蘭丸。                
                           幸せであったはずです。

     『二の丸』を過ぎた所の正面に。    
                 『信長 本廟』
    
    頭を何度も垂れました    信長の功績に感謝!感謝!
          ご立派でした。 お疲れ様でございました

            「夏草や兵どもが夢の跡」
「優れた御英傑たち。功名を競ったが、それも一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。」
                                            松尾芭蕉

        光の先には・・・   『天守閣跡』
    
     信長を偲んで・・・     参りましたよ!

              『天守閣跡』

3年間の輝きでした。『安土城』    立っている部分は『地下1階部分』
            ”信長様! やっと…会いに来ましたよ。”  涙が出ました
                   最期の無念さはいかばかりだったか!  有難うございました

      『天守台』の広さは、この 約2倍半でした。
          現代では、石垣部分の崩壊が大きく、目で確かめることができません。

                        以上です。 お楽しみいただけましたか 
                               写真は楽しいですね。 写真もお楽しみいただけましたか?

まだまだ。
私はこれで終わりではありませんでした。
下り道の『城郭中枢部の寺院』:『見寺』があります。 そちらも楽しみでした。
帰り道は。
   天主台南西の『百々橋口』。 
         その途中の『見寺』
      
                       『堂塔伽藍』
   
      信長は、世間の言うとおりに、無心論者だったのだろうか?
            そうであるのかないのか。検証できるのは『見寺』です。

    持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は、各地に見られます。
       が・・・
 『堂塔伽藍』を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも『安土城』だけである。とのことです。
       しかも・・・
 単に城郭内にあるだけでなく、『百々橋口道』から城への通り道が境内になっており、
     この入口から入った者が城にたどり着くためには、
     必ず見寺の境内の中を通り抜けなければならない。
               城に上がるには、寺の境内を通らなければならない。とした信長です。

              そんな『百々橋口道』 を歩いてみたかった私です。
          信長の宗教心はいかに? 私の目で確かめてみたかったのです。

   信長の強い宗教心が表れている 『見寺』
      一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、
     天守内部の宝塔や絵画、見寺の存在。 等。『安土城』には宗教的要素が多く見られます。

          皆様! ご自分の目で色々と確かめてみて下さいね。 
                         私はお蔭様で確かめることが出来ました。 
                                長くなりすぎたので・・・。My足跡19290歩。

つくづく思いますね。
   人生色々。 人も色々。

  『マッサン』の主人公たちは語ります。
     『人生は冒険人生だ!』
        どんなに苦しくとも、努力して・・・。 『あっ!』というものを見なくちゃつまらない!
                人生は短いんだから!  と。
       
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
歴史は繰り返す。 歴史は人を育てる。 色々言われますよね。 お元気で! 人生をお楽しみ下さい!

73歳誕生日おめでとうございます。  そして  『三日目で建て直して見せる。』

2014-11-09 08:40:00 | 夫のこと
2014年11月9日。日曜日。
      我が夫様。
         73歳誕生日おめでとうございます

     健康でこの日を迎えられて、感謝!感謝!

              『祝い酒』       進みます。進みます。
         『七本槍』  『富田酒造』  辛口。 おいしい
あえて・・・。
『大吟醸』ではなく。
大好きな純米吟醸。  『純米吟醸・七本槍』

              「本能寺の変」の翌年 
               天正11年(1583年)
       信長の跡目をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った
               賎ケ岳の戦い
勇猛果敢な働きによって、秀吉に天下人へ道を開くきっかけを開いた七人の若武者。
   加藤清正福島正則片桐且元加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟谷武則
            七人の若武者を称えた地酒
               ロマンいっぱい
            『賎ケ岳の七本槍』   大好きです。

琵琶湖といえば。
当然の・・・。酒の肴。      『琵琶湖の珍味』

『鮒すし』 『小鮎の山椒煮』 『たにし山椒煮』 『合鴨ロース』 『もろこの南蛮漬』
珍味が最高。                        酒の勢いが止まりません

          ”幸せですね~!” ”幸せだね!”
73年間の43年間は、30年間の独身の時期より長くなりました、夫婦としての期間です。
        ”長年お世話になりました。” ”こちらこそ。”
    夫の両親は、
 夫婦共に、亡くなくなったのは老衰で、最後まで二人で暮らました、94歳でした。
    ”あなたも両親の歳まで、20年以上、元気でいてね!” ”よろしくね!”

幸せですね~。 と。
大好きな純米吟醸。 続きます。      
      『純米吟醸・近江米のしずく』   『北島酒造』

   近江産酒造好適米を高度に精白。 精米歩合:55%。 中辛。
                       &  『近江牛・陶板焼きステーキ』
近江といえば。
当然の・・・。『近江牛』ですよね

     ”いよいよ。『人生の林住期 も佳境に入ってきましたね。”
              ”そうだね。一緒に有意義に過ごそうね。”

     子供達は、立派に、形成と洗練、 『家住期』 の真っ最中。
     私達夫婦は、
     絆や再生から解放されて、自由となり、『存在』に満ちあふれ、『完成の境地』に向かっています。
                                ”がんばろうね!” ”がんばりましょうね!”

割烹店主から・・・
『いかがですか? お祝いです。』 と。
『祝い酒』                  日本酒カクテル

感謝!感謝!
   ”何事にも感謝を忘れずにいこうね!” ”そうですね!”

       夫の73歳誕生日の 『祝宴』
   ”たわいのない話”をしながら・・・ふけていきました。 感謝!感謝!


そして。
夫の73歳誕生日は、一泊二日の、 『プチ旅行』
私の大好きな織田信長。       『幻の安土城・本丸跡』

        『人間50年
下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり  一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』 

        信長の潔さが良い。 好き。
「人は必ず死ぬ。生きているうちに何をしようか。それが自分の生きた証になるのだから。」 と。
        築城3年目にして、炎の中に消えた、『幻の安土城』

   優しい夫。
 自分の誕生日の旅行なのに・・・行き先は 『歴史大好き妻の憧れの諸所』でした。
   『信長の館』→ 『幻の安土城』→ 『湖東三山』→ 『長浜城』→ 『石山寺』
             興味津々。楽しい旅でした。 後ほどに旅行記をUPしますね。 お楽しみに!


そして。
今日11月9日。日曜日。主日。
  イエス・キリストも、信長のように、言います。
          『今日の御言葉』
     『イエスは言われた。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』
                               ヨハネ福音書 2章19節

 イエスより昔。 
『エルサレムの神殿』は、神が民と一緒に居られるシンボルで、『神の家』 と言われました。
 イエスの到来で。
新しい時代が始まりました。
神が民と一緒に居たいと・・・神であるイエスは、人間となられて、この世に来られました。

   ということは・・・
イエスご自身 が、 『神の家』 であり 『神の神殿』、なのです。 『新しい神殿』です。
   更に・・・
イエスは、神の民への愛の証として、『民の贖罪』 としての 『十字架上での死』  を引き受けました。
   『イエスの神の神殿』 は壊されました。 この世でのイエスの命は終わりました。
        それでも
   イエスは三日目に復活して・・・
 壊された『神の神殿』を、『三日で建て直してみせた。』 のです。
                    『新しい神殿』  は今も健在です。


    同様に・・・
イエスは、イエスを信じる者に、御自分の霊・『聖霊』を与えます。
    私達も、与えられた霊に於いて、『神の神殿』 なのです。
                               ”がんばりましょううね!”


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
楽しい日曜日をお過ごしでしたか?  本番の紅葉の秋を、散歩しながら楽しみましょうね!