皆様!
『御三英傑』 どのお方が一番お好きですか?

織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
(1534年 - 1582年) (1537年 - 1598年) (1542年 - 1616年)
難しい質問ですね。
NHK大河ドラマ・・・
架橋に入ってきました。 目が離せません。
御三人の英傑の人生が、軍師官兵衛との関わりにおいて、それぞれに描かれていきます。
私も・・・
今日は、
『織田信長』 の人生について、『安土城』を中心に、迫ってみます。描いてみます。
『人間50年
下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり
一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』 信長の言葉。
『信長の館』 と 『安土城跡』 の訪問記です。 お楽しみ下さい
『織田信長』

天文3年(1534年) 今からさかのぼること480年前。
5月12日
尾張国(現在の愛知県)。 古渡城主・織田信秀の嫡男として誕生。
まだ世子であった頃。
父・信秀も寝耳に水の行動をとり、
豪胆さを早くから見せた。
そんな頃。
後の徳川家康(松平竹千代)が、今川氏へ人質として護送される途中で、松平氏家中の戸田康光の裏切りにより、織田氏に護送されて来る。
信長と家康は、幼少期を共に過ごします。
後に。
両者・信長と家康は、
『固い盟約関係』 を結ぶこととなります。
共に、武将のことして生まれた、信長と家康。
共に、苦労の幼児期を過ごした経験は、
二人を結ぶ強い絆が生まれます。
良かった!良かった! と。
ほっとする私です。
幼い頃の経験は、生涯に影響を与えるものです。

天文4年(1535年)
2歳にして!
『那古野城主』 となる。

天文12年(1543年)
9歳
種子島にポルトガル船が到来。
後に。
織田信長 & 豊臣秀吉は、基本的に
『南蛮貿易』を進んで行った。

天文15年(1546年)
13歳で!
『古渡城』にて
元服。 上総介信長と称する。

天文17年(1548年)
14歳
父・信秀 と 敵対していた美濃国の戦国大名・
斎藤道三との、
和睦が成立。

天文18年(1549年)
16歳で人生の転機!
信長は、正徳寺で、
斉藤道三と会見します。
『信長 斉藤道三訪問』
二人の深い係わりは、このときから始まります。
信長がどんな格好で来るのか見てやろうと、物陰から覗き見をする
道三。
”ややこれは!” と目を見張った道三。
信長の馬上のいでたちは、
聞きしに優る珍妙奇怪なるものでした。
ひょうたんの袋を七つ八つぶらさげ、長柄の大小をわら縄で巻きつけている。
しかし・・・その前後には弓、鉄砲五百丁、三間柄の朱槍五百本を押し立て、
『異形の威風』は、あたりの目をうばうばかりであった。
道三は首を振ってうなった。
近道からそっと正徳寺に戻って、着かえをして信長を待った。
会見で・・・
道三は、
『うつけ者』と呼ばれていた、<f ont color="red">信長の器量を見抜いた。
信長は、
道三の娘・濃姫と、
結婚に至りました。

天文20年(1551年)
18歳にして!
父・信秀が没。
家督を継ぐ。 徳川一族を束ねます!
天文23年(1554年)
21歳
本拠を
『清洲城』 に移転。

弘治2年(1556年)
22歳
義父・
斎藤道三が、子の斎藤義龍との戦いに敗れて、
戦死。
『長良川の戦い』
実の親子同士の親子の悲惨な戦いです。
信長は、
道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するが・・・
道三を討ち取り勢いに乗った
義龍軍に、苦戦し、道三敗死の知らせにより、
退却した。
義兄弟との確執の始まりです!
その後も
数々の戦いが続きます。

弘治3年(1557年)11月2日
24歳
弟・信勝(信行)を
暗殺。
尾張国の支配権を確立し、
『尾張の国主』 となる。

永禄2年(1559年)2月2日
25歳
初上洛。 13代将軍足利義輝に
謁見。

永禄3年(1560年)5月19日。
27歳
今川義元を討つ。
『桶狭間の戦い』
『尾張国統一』 を果たす。

永禄6年(1563年)
30歳
本拠を
『小牧山城』 に移転。

永禄3年(1560年)5月19日午後一時。
先ず 熱田神宮に参拝。
その後 善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。
今川軍の陣中に強襲をかけ、前当主で隠居の、
今川義元を討ち取る。
『桶狭間の戦い』
桶狭間の戦いの後・・・
信長は、今川氏の支配から独立した松平氏の
徳川家康と、
手を結ぶ。
それまで・・・
織田家と松平家は、敵対関係にあり、幾度も戦っていた。
それでも・・・
両者・信長と家康の利益のために、譲歩していきます。
信長は美濃国の斎藤氏攻略のために。 そして 家康も駿河国の今川氏真らに対抗するために。
永禄5年(1562年)
両者は同盟を結んで、互いに背後を固めます。
『清洲同盟』
この同盟は、
信長死後…
『小牧・長久手の戦い』 まで維持されます。
私は、
信長と家康のつながりを知る度に、戦国の世に光が差すようで、
ほっとします。

永禄6年(1563年)
29歳
美濃攻略のため 本拠を
『小牧山城』 に移す。
『信長が築いた初めての城』

永禄10年(1567年)
34歳
信長は、ついに義兄弟・斎藤龍興を敗走させ、
尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になる。
『稲葉山城の戦い』
義兄弟との確執が果たせたのでしょうか?
勝つか負けるかの世界です。
8月15日。 本拠を、義兄弟・斎藤龍興の
『岐阜城』 に
移転。
井ノ口を
岐阜と改称する。
11月。 僧・沢彦から与えられた『印文』
『天下布武』 を使用しはじめる。

信長の生涯の目標は『天下布武』でした。
私は、
信長の人生を変えていく道三と出会いの場を確かめたくて・・・
今年の9月に、
『岐阜城訪問』 をしました。
その後も数々の戦い。
信長は、織田政権の政治・全軍を総括する立場 にあった。
天正3年(1575年)11月28日
42歳
『岐阜城』を本拠とする織田家の家督 を嫡男・信忠に譲る。
信長同様に…軍師官兵衛が、嫡男・長政に家督譲ったのは、
44歳の時です。
その後も…
『如水』として活躍を続けます。
家督を息子に譲った信長。

天正4年(1576年)1月
43歳
信長自身の指揮のもと、琵琶湖湖岸に、
『安土城築城』 を開始します。
『民が大石を力を合わせて運ぶ』



動かしてはならぬ
『神宿る大石』。 動かすときに大事件が勃発します。
皆様はご覧になりましたか?
西田敏行主演映画:
『火天の城』
建築をまかされた・加賀藩の宮大工 と 民の
『安土城建設物語』 です。 感動物です。 是非にご覧下さい
今も美しく残る・・・
権力の象徴のような・・・
『壁石』

美しい!

民の涙の結晶です
天正7年(1579年)
46歳
建築開始から3年後。
『五層七重の豪華絢爛な城』
安土城の完成。
信長は『岐阜城』を信忠に譲り、完成した『安土城』に移り住んだ。
信長は、
『安土城』を拠点に、
天下統一に邁進することとなる。
日本で最初に『天守閣』を備えた城。 そして
世界で始めての『木造高層建築』 でした。
高さ46m。
絢爛豪華
「ヨーロッパにもあるとは思えないとても壮大なもの。」 キリスト教宣教師も絶賛です。
5階。 仏教の世界観による理想郷の象徴。
『天界をイメージした黄金の間』

宇宙空間を表す八角形。 金箔の壁。
『釈迦説法図の襖絵』 30坪(99m平方)
総朱漆塗りの床の中央に2枚の畳が置かれています。 『信長の瞑想の場』?
5階&6階は『信長夫婦の個室』だったそうです。
6階。 金箔10万枚を使用した
『外壁』

信長が
『狩野永徳』を中心に描かせた
『金碧障壁画』

天守内部は吹き抜けとなっていました。
天正4年(1576年)1月
44歳
信長に誼を通じていた丹波国の
波多野秀治の謀反。
さらに
石山本願寺も再挙兵する。 謀反に加担します。
再び・・・
反信長の動きが強まり始める。
4月。
信長は、
明智光秀・
荒木村重・塙直政の三人を大将とした、
3万人の軍勢を大坂に派遣。 砦を構築させる。
本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は
窮地に陥った。
続きます。 数々の合戦・・・。

天正6年(1578年)
46歳
又もや・・・
3月。 播磨国の
別所長治の
謀反。
『三木合戦』
10月。 摂津国の
荒木村重が、有岡城に籠って、信長から離反する。
謀反。
『有岡城の戦い』
どこの政権の世界も。世界中。
今も昔も。
『謀反』が『天下統一』の前に立ちはだかります。
謀反者の家族を根無しにするまで滅ぼす。
『天下布武』は、道遠い。 生易しいことではありません。

天正9年(1581年)
48歳
1月23日。 信長は、
明智光秀に、京都で
『馬揃え』 を行なうための、準備の命令を出した。
『馬揃え』は、織田軍の実力を、朝廷から洛中洛外の民衆さらには他国の武将にも誇示する、
『一大軍事パレード』です。
天正10年(1582年)
49歳
2月1日。 武田との戦いが続く。
そんな中・・・・
4月10日。 信長は
富士山見物に出かけ、
家康の手厚い接待を受けた。
4月12日。 『駿河興国寺城』に入城し、北条氏政による
接待を受ける。
さらに『江尻城』。 『田中城』に入城。
4月16日。
『浜松城』 に入城した。
浜松からは船で吉田城に至り、
4月19日。 『清洲城』に入城。 五つの城を訪問。
4月21日。
『安土城』 へ戻ります。
一ヵ月後・・・・
今度は。
5月15日。
徳川家康が
『安土城』を訪れた。 6日間の滞在。
そこで
信長は、
明智光秀に
『接待役』を命じる。
光秀は、15日~17日にわたって、家康を手厚くもてなした。
おもてなし。
『安土御献立』 『7膳』まで続きます。
『饗応メニュー』 一部です。

織田信長が、
武田勝頼討伐に功を成した 徳川家康や穴山梅雪を、安土城でもてなしました。
しかし。
この時・・・
光秀の接待内容に不満を覚えた信長は、小姓の
森成利(蘭丸)に命じて、光秀の頭をはたかせた。と言われる。
明智光秀は屈辱に耐えたと、語り草です。
明智光秀は、
屈辱を、信長の死を招く
謀反へと、変形させたのでしょうか

事実だとすれば、人の心ははかないものです。
5月29日。 信長は、中国遠征の出兵準備のために上洛し、
本能寺に逗留していた。
ところが、
秀吉への援軍を命じられていたはずの、
明智光秀が、命に逆らい、更に 謀反。
秀吉の援軍ではなく・・・
京都に進軍していきます。
6月2日。 明智光秀が本能寺を襲撃!!
100人ほどの手勢しか率いていなかった
信長。
初めは自ら槍を手に奮闘しました。
しかし
圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、
燃え盛る炎の中で・・・
天下統一を目前にして
明智光秀が反旗を許し、
本能寺で自害します。
信長の遺体は見つかりませんでした。
『織田信長の言葉』
『人間50年
下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか。』
信長の潔さが良い。 好き。
「生まれたものは必ず死ぬ。夢幻のごとくなり。 生きているうちに何をしようか。自分の生きた証になるのだから。」 と。
そして。
『織田信長の人物像』
宣教師ルイス・フロイスの記述より。
『中くらいの背丈。華奢な体。ヒゲは少ない。声ははなはだ快調。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
睡眠時間は短く早朝に起床した。
貪欲でない。
決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
わずかしか、または、ほとんど全く
家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。
酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げた。
対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
ごく卑賎の家来とも親しく話をした。
格別愛好したのは、著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りである。
少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ
大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。
生来純粋で、説得することが容易である。
葬儀は、信長という非常に
王者の風格をもつ、優れた人物に相応しいものとなった。』
面白いですね。
私の想像は、あれへこれへと、広がります。
人の人生を想像することで、
我が人生がはっきり見えてきますね。
後に。
『安土城・天主・本丸の焼失』
『本能寺の変』の知らせを受けた羽柴秀吉軍が、備中高松城の攻城戦から、引き返してきます







6月13日。摂津国と山城国の境に位置する山崎において、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突。
『山崎の戦い』
その後 安土城の焼失。
築城後3年目の焼失です。
不幸中の幸い。
焼失したのは、『天主』 や 『本丸』 など。
『二の丸』は焼失をのがれ・・・
後に織田秀信が『二の丸』に入城。 『二ノ丸』 をもって十分に機能していた。
『焼失の原因』についてはいくつかの説がある。
1 ① 明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説
② 伊勢国から入った織田信雄軍が、明智の残党を炙り出すために城下に放火。 天主に延焼したという説。
③ 略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説。
④ 落雷によって焼失したとする説。
現在に至り。③⑤⑥説が有力です。
⑤ 林屋辰三郎(東大教授)は、略奪目的の土民が放火したとしたとする。
⑥ 熱田公は、『山崎の戦い』後の混乱の中で、略奪に入った野盗の類が放火したとする。
しかし。
真偽は不明です。
夫と私。
織田信長を偲んで。 安土城を偲んで。
霧雨の中・・・『安土城跡』 を訪ねました。
始まりです。
『大手道』

霧深く。 情緒たっぷり
お分かり頂けますか?
石階段の・・・ 側溝にも『石仏』 真真ん中にも『石仏』
『大手道の石仏』
城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から摂取しました。
その中には、墓石や石仏も多く含まれていました。
出土した石仏などは、本来は、信仰の対象となっていたものです。
人はいつの時代も変わらないものですね。
霧雨の中での『石仏』。
私の涙を誘います
大手道に沿って・・・
『秀吉邸 址地』

邸宅を与えられ・・・ 呼び出しに備えていたのでしょう! はせ参じます
いにしえを偲んで・・・
『歩いた石段を振り返ります・・・。』

霧の中に美しい
『405階段』
信長と共に、三人で歩きます



雨のため人もなく。
上る道の人達を見守るように・・・
『釈迦の足跡』

進む方向ではなく・・・ 上る人を見守る足の方向です
私の足に比べても・・・
『大きな御足』

恐れ多くて…My足を浮かせて。 「足は命です!」
釈迦のパワーを頂いて・・・
『本丸への道は続きます』

長く。美しい。 道を歩むにつれて・・・心が洗われます

『二の丸』近く。
『蘭丸邸址』

信長に一番そば近く仕える蘭丸。
幸せであったはずです。
『二の丸』を過ぎた所の正面に。
『信長 本廟』

頭を何度も垂れました


信長の功績に感謝!感謝!


ご立派でした。 お疲れ様でございました

「夏草や兵どもが夢の跡」
「優れた御英傑たち。功名を競ったが、それも一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。」
松尾芭蕉
光の先には・・・
『天守閣跡』

信長を偲んで・・・ 参りましたよ!

『天守閣跡』

3年間の輝きでした。

『安土城』

立っている部分は
『地下1階部分』
”信長様! やっと…会いに来ましたよ。” 涙が出ました


最期の無念さはいかばかりだったか! 有難うございました


。
『天守台』の広さは、この

約2倍半でした。
現代では、石垣部分の崩壊が大きく、目で確かめることができません。
以上です。 お楽しみいただけましたか
写真は楽しいですね。 写真もお楽しみいただけましたか?
まだまだ。
私はこれで終わりではありませんでした。
下り道の『城郭中枢部の寺院』:『見寺』があります。 そちらも楽しみでした。
帰り道は。
天主台南西の
『百々橋口』。
その途中の
『見寺』
『堂塔伽藍』
信長は、世間の言うとおりに、無心論者だったのだろうか?
そうであるのかないのか。検証できるのは『見寺』です。
持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は、各地に見られます。
が・・・
『堂塔伽藍』を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも
『安土城』だけである。とのことです。
しかも・・・
単に城郭内にあるだけでなく、『百々橋口道』から城への通り道が境内になっており、
この入口から入った者が城にたどり着くためには、
必ず見寺の境内の中を通り抜けなければならない。
城に上がるには、寺の境内を通らなければならない。とした信長です。
そんな『百々橋口道』 を歩いてみたかった私です。
信長の宗教心はいかに? 私の目で確かめてみたかったのです。
信長の強い宗教心が表れている
『見寺』
一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、
天守内部の宝塔や絵画、見寺の存在。 等。『安土城』には宗教的要素が多く見られます。
皆様! ご自分の目で色々と確かめてみて下さいね。
私はお蔭様で確かめることが出来ました。
長くなりすぎたので・・・。My足跡19290歩。
つくづく思いますね。
人生色々。 人も色々。
『マッサン』の主人公たちは語ります。
『人生は冒険人生だ!』
どんなに苦しくとも、努力して・・・。
『あっ!』というものを見なくちゃつまらない!
人生は短いんだから! と。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
歴史は繰り返す。 歴史は人を育てる。 色々言われますよね。 お元気で! 人生をお楽しみ下さい!