誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして、形ばかりのものになってしまうこと。
外形だけを残して、実質的な意味を失っているもの。 大辞典より。
何事も、油断すると、形骸化は、すぐに起こる。 すぐに腐る。マンネリのワンパターンでは中身がなく形だけになりやすい。 生き生きしてない。てことです。
今日・8日・金曜日は、聖書通読会の日。
『エレミヤ書 13~23章』
この世で、いつも、生き生きしておられる方は、神かも知れません。
神は、自分の有り様を、宣言します。

『神はモーゼに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われます。』
・・・私は、死んだものではない。昔も今も未来も生きている。と。 出エジプト記 3章14節
そして、

主は宣言します。
『「わたしは生きている」と主は言われる。』
人々も、生きた信仰を、誓います エレミヤ書 22章24節
『「イスラエルの子孫を、捕囚の地・バビロンから導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる」と。』
エレミヤ書 23章8節
さて・・・
私たちの信仰も、
「神は救われる。これでもう安心。大丈夫。」と安心し油断し進化がなければ、たちまちに形骸化してしまい、信仰自体が偶像崇拝と化する恐れすらあるのではなかろうか?
ミサすらも、
「主の十字架で救いは完成した!」と安心しマンネリ化してしまえば、私たちにとって、ミサが形骸化し、ミサ自体が偶像崇拝と化する恐れすらあるのではなかろうか?
・・・エレミヤの、エレミヤ書の所々に散りばめられた、警告です。
私たちの信仰は、
『行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。』
ヤコブの手紙 2章17節
ヤコブも、警告を重ねました。
行いが伴わない信仰、他者の痛みを引き受ける事のない信仰、は死んだものです。 形骸化してしまった信仰です。信仰が偶像崇拝と化する恐れすらある。と。
他者の痛みを黙っていられない神は、述べます。 行動を始めます。

また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。』 と述べます。
そして、モーゼに、『イスラエルの人々をエジプトから連れ出せ。』 救え! と命じます。 出エジプト記3章9&10節
又

・・・イスラエルの人々の痛み苦しみをわが身に引き受け、動き出す神です。
エレミアは、預言します。
『彼らを牧する牧者を立てる。彼は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。
貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、人々は幸いである。
彼の名は、「主は我らの正義」と呼ばれる。』
エレミヤ書 22章16節 23章5&6節
私たちの信仰も
『主の正義』に倣って、他者の痛みを引き受ける隣人愛の実行で、生き生きとした信仰を持って生きていたいものです。
以上。
聖書通読会発表の、ほんの一部でした。
しかし・・・
人は弱い。私は特に弱い。 頭で分かっていることでも、実行することの難しさを痛感する。
さて・・・
どうすればいいのか??? 理想と現実のギャップ。 そのギャップを埋めるのは、神しかない。 お粗末さまでございました

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 心も体も活性化して生き生きと若々しく雄雄しく美しくありましょう!
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今日・10日のラン距離:14km
朝5時。外気温度0度。名古屋マラソンまであと28日。その日まで走るきゃない!

2月走行距離合計:36km