今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

500 人吉(熊本県)球磨川の瀬音に目覚め人は善し

2013-04-13 11:00:14 | 熊本・鹿児島
夜通し驟雨が続いたのだなと思いつつ目が覚めた。肥後・人吉の朝である。本降りになったに違いないと窓を開けると、それは眼下の球磨川の瀬音なのだった。ホテル最上階まで届くほど、急流はせめぎ合い、響いている。橋を行く人は傘を差しているものの雨脚は微かで、対岸の城跡は靄に包まれている。仲居さんは「大雨になると、その中洲も流れに埋まってしまいます」と事も無げに言ったけれど、それは恐ろしい光景であろう。



南九州は平野と呼べる平坦部に乏しく、総じて山がちである。人吉は、そうした南九州のほぼ中央の、山中の街ではあるが、ただその標高はたかだか100メートル程度だから、水俣から峠を越えてやって来た私たちは、さほど峻険な山や深い渓谷を踏破したわけではない。対岸をJR肥薩線が走る球磨川沿いの国道を遡ると、いつの間にか道は平坦になり、空が広々とした街に入っているのだった。盆地であることを忘れそうなになる。



日暮れ時は暮らしの音が家々に籠るせいか、どこの街も静かになるものだが、山あいでのそのいっときは、海辺や里よりもっと静けさが漂うように思う。人吉に着いて、暮れなずむ街を歩く。球磨川に、中洲を跨いで大きな橋が架かっている。橋の途中から降りると公園として整備されていて、花見を楽しんでいた家族が引き上げる仕度を始めていた。そこから望む街は温泉街の灯りが川に映え、音はすべて流れが拾って行くようであった。



静岡県の駿河湾に臨んで、相良という土地がある。800年ほど前、鎌倉幕府の地頭としてその相良氏が人吉にやって来た。以来この一族は明治になるまでの700年間、ずっと変わらずこの地を治めた。こんな長命の大名は薩摩の島津くらいしか他にいないという。熊本城を築いた加藤清正の加藤家などは息子の代で改易させられ、わずか2代の命であったことと比べたくなる。英雄的生き方を望むか? 戦々恐々でも生き延びるが勝ちか?



そんな歴史が、街の気風に独特なものを残しているかどうかは知らないけれど、相良氏700年が築いた人吉城は、長々とした石垣を残している。山間地の富は、なかなか豊かな集積地を創るということを、私は上州・沼田や近江・朽木で知ったのだが、人吉も、山々の水が流れ集まり、いったん緩んで球磨川となる地勢に恵まれたからだろう、四囲の山谷から自ずと人と物資が集まって、現代より繁華な時代があったのではないか。



そのことは市中の青井阿蘇神社に行くとよく偲ばれる。門も社殿もすべて茅葺きという、神寂びた佇まいの土地神に参ると、人々がずっと変わらぬ殿様を担ぎ、それよりずっと古くから居る神様を祀り続けて山中の小宇宙に安堵し、生きて来た姿が浮かんで来る。人吉は「人善」なのかどうかは知らないけれど、盆地だからという閉塞感は薄く、むしろ山あいの静寂に心を休める穏やかな暮らしがあったに違いない。



私の古い知友に人吉出身者が居る。東京に出て長くなる彼だが、郷里を語るときはいつも若々しくなった。私が知る熊本県人は彼くらいのものなのだが、拙宅近くのマーケットで「キクラゲパスタ」なるものを売っているおばさんに会ったことがある。遠く人吉から、販路拡大のため東京に来たという。その熱意にほだされて買ってみると、旨い以前に不思議な食感だった。彼もおばさんも、明らかに「人善」の人であった。(2013.3.26-27)










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