今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

499 美山(鹿児島県)異境にて土を焼きつつ400年

2013-04-06 22:31:11 | 熊本・鹿児島
薩摩焼はどうも苦手だ。特に白薩摩の、ヌメッとした肌と細やか過ぎる細工、繊細な絵付けは、私には体質的に合わないようだ。確かに超絶した技法の裏付けがあり、絶賛されて不思議ではないけれど、私にとってそれは、薩摩人がキビナゴと薩摩揚げの郷土料理こそが至上のご馳走だと自慢し、奨めてくれる際に味わされる気分に似ている。ただ沈壽官窯には行ってみたかった。15代も続く朝鮮陶工の窯場を、見てみたかったのである。



その存在を司馬遼太郎の『故郷亡じがたく候』で知った者(私もそうだが)なら、窯の在所は苗代川という地名が思い浮かぶだろうけれど、地域の分割合併が繰り返されて、現在は日置市東市来町美山(みやま)という。鹿児島市街地から高速で30分程度しか離れていないのに、丘陵を越えるとすっかり山里の風情である。しかしさすがに同書がいう「丘陵は低く、天が広く、朝鮮の山河であった」といった印象は失われたようである。



文禄・慶長の役に出陣した薩摩島津軍は、1598年の帰国に際し朝鮮陶工80人を連れて来た。茶道具が異様に珍重されたその時代、朝鮮の陶工は名品を生む貴重な存在だった。だから佐賀鍋島藩など西国の大名は競ってこうした行為に走ったが、それは陶工たちの意思によらず、拉致同然だったかもしれない。ただ薩摩藩は、言葉も名前も「朝鮮」を認め、士分として遇したというからいささか気が休まる。そして薩摩焼が生まれた。



沈壽官窯は陶工集落のなかほどにある。緩い傾斜地を利用した登り窯を中心に、工房や収蔵庫、居宅・売店などが配置されている。まず驚かされたことは、敷地内に塵一つ落ちていないことである。陶芸の窯場というのは土を扱うからか、整頓されてはいてもどこか埃っぽかったりするものだ。これほど整然とした窯場を見たことがない。工房は白薩摩が特に埃を嫌うからであろう、見学はガラス戸越しになる。清々しい工房である。



収蔵庫に納められた沈家400年余の伝世品を眺めて行くと、藩の威信をかけた万国博出品、藩の崩壊と西南戦争の打撃、独立窯としての経営難など、幾多の苦労を乗り越えて技法を磨いた一族の、逞しくも数奇な歩みに感服させられた。里には沈家のほか朴家、金家、鄭家、李家もあり、朴家からは太平洋戦争終戦寺の外務大臣・東郷茂徳が出ている。朝鮮族とは、何と学ぶべきことの多い人々であることか。



現当主15代の手になるという初代・沈当吉の像の、白い礼服をまとった気品にはうたれたが、白薩摩はやはり私には合わないと再認識した。そして黒薩摩の何点かは、欲しくてたまらなかった。ただ最近、自分でも土をいじるようになって、「欲しい」という欲求以上に「作ってみたい」という思いが優るようになった。もちろん素人に、真似事さえもできるわけがないが、ただ真似ようとすることで、知り得ることがあるかもしれない。



敷地内に、みごとな白椿が咲いていた。湿った空気と緑に包まれて、光を放っているようだった。朝鮮は「白」である。白磁にしろチマチョゴリにせよ、朝鮮の白はまことに美しい。白椿はそのことを意識して植えられたものだろうか。清々しく見学を終えて門を出ると、帽子にべっとりとススが付着していた。登り窯を覗いていて、天井に触れたのだろう。その真っ黒なススさえ貴重なものに思えて、今もそのまま被っている。(2013.3.26)












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