今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

104 明石(兵庫県)・・・子午線の街は暮れても時刻み

2007-12-01 10:10:02 | 大阪・兵庫

「明石」と聞いて「蛸だ鯛だ明石焼だ」と大騒ぎするほど、私は食いしん坊ではない。「明石」といえばやはり日本標準時・子午線の街であろう。というわけで駅を降りると、まずは東経135度のラインを探しに街に出た(はずだった)のだが、途中の市場街「魚の棚」で屋台のオバちゃんに篭絡され、タコのやわらか煮を頬張ることになってしまった。従って子午線にたどり着いたときには、晩秋の1日はすっかり暮れていた。

「子午線」は、地球上の真北(子)と真南(午)を結ぶ線のことだから、どこにだってあるといえばあるのだけれど、明治政府が1886(明治19)年、グリニッジ標準時に9時間を加えた東経135度の時刻を日本標準時と定めたことで、特別の子午線が決まった。もちろん135度のライン上には、明石以外にも多くの街があるわけだが、明石は最初の子午線標識が立てられたことで「時の街」となったのだそうだ。

明石はまた、「柿本人麻呂が愛でた街」「光源氏ゆかりの街」「宮本武蔵が区割りした街」「明石原人の街」「世界一の吊り橋の街」と枕詞に不足はない。駅前の明石銀座商店街にはさらに「海峡の街」というアーチが掛けられていた。なるほど淡路島との狭間の海は「明石海峡」と呼ばれている。「海峡」という言葉の響きから来る物悲しさとは無縁で、なんとも賑やかな街である。

人口は29万人ということだから、地方都市としては大きな規模の方だろうが、街の構造はいたってシンプルで、JRと山陽電鉄の明石駅をはさんで北に城跡公園、南に商店街が広がって港に至る。いにしえより文人憧れの風光明媚の地だったのだろう、そうでなければ人麻呂が5首も歌を残していないだろうし、紫式部もわざわざ光源氏を派遣することはなかったはずだ。

煮ダコをぶら下げて入った立ち飲み屋で1杯所望すると、店構えとは似ても似つかぬ上品な物言いをする老婦人が「そうなのでございますよ、あなた、須磨、舞子、明石と、それはもういい景色が続いて、ここだけは新幹線で通過なさってはいけません。在来の風景をお楽しみにならねば」などとおっしゃる。

城跡は県立公園になっていて、街の規模からするとずいぶん豊かな公共スペースだ。市民共有の歴史遺産を有効に活用している好例で、台無しにしてしまった静岡の駿府城跡や福井の北ノ庄城跡とは好対照だ。これも剣豪が区割りを考えてくれたお陰か。平日の午後、お年寄りや子供連れが散歩を楽しんでいた。

神戸市に包み込まれるような位置にあって、自治体としてなお独立を保っているということは、播磨灘に列なる漁港の水揚げなどで財政が豊かなのだろう。ただ、かつては賑わいを見せていたに違いない西国街道沿いの商店街は、大都市に客を奪われたのか、寂れ行く繁華街の見本のような冷たい風が吹いていた。明石は、大阪の通勤圏に組み込まれているのだという。

東京が大阪だとすれば神戸が横浜で、明石は磯子か鎌倉の街に当たるだろうか。首都圏と関西圏は、不思議と街同士の関連が似ている。人の営みは、街に独特のニオイを醸し出しながらも、結局は似た街を創り、似た地域を形成して行くのかも知れない。子午線上に屹立する「SEIKO TOWER」は、「午」の方角を向いて時を告げていた。淡路島がすぐそこに見えた。(2007.11.27)

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