今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

981 龍口(神奈川県)刑場も今は騒音に包まれて

2021-10-18 08:40:45 | 埼玉・神奈川
江ノ島に近い住宅地に囲まれて、藤沢市と鎌倉市を分かつように延びる緑の丘陵は片瀬丘陵だ。その南麓に甍を広げるのは龍口(りゅうこう)寺で、「日蓮宗霊跡本山」を掲げている。鎌倉で「龍ノ口」と耳にすれば、とっさに「刑場」が思い浮かぶのは、その時代をいささか聞きかじっているからかもしれない。門の脇には「刑場跡」の碑が建ち、門前の複雑な交差点は、「電車優先」と書かれた狭い道を江ノ電が行き交っている。中世に遡る道だろう。



この地が刑場として記録に現れるのは、鎌倉時代後期のことだという。丘陵に囲まれた鎌倉の、ここから西は府外の地とされていたのだろう。元の国使や北条執政の遺児らもここで処刑されたという、殺伐とした時代の話である。そして日蓮宗がここを霊跡として篤く守っているのは、日蓮最大の法難の地だからだ。『立正安国論』を著した日蓮は1271年、幕政を中傷したとして捕らえられ、龍ノ口へと引き回されたうえ、斬首の刑と決まった。

(龍口寺の日蓮像)

しかし殺伐たる時代にも良識はある。評定も行わず斬首とした決定に異議が出され、執行直前に使者が到着、刑は中止された。日蓮はこの後、佐渡へ3年間の流刑になるのだが、信者にしてみればこれは聖人の大法難の地である。日蓮没後に次第に堂宇が整えられ、霊跡として守られてきたのだという。境内には日蓮の像が立ち、頑なな意志を秘めた眼光を放っている。宗教家というのはそういうものなのだろう、ドレスデンのルター像を思い出す。

(ドレスデンのルター像)

日蓮(1222-1282)の時代から200年後、16世紀のドイツで宗教改革の先頭に立ったマルティン・ルター(1483-1546)は、30代半ば、カトリック教会への意見書をめぐってローマ教皇に破門される。当時の社会で「教皇からの破門」は、日蓮に対する斬首の宣告のようなものではなかったか。それでもこうした改革者は不敵な面魂を崩すことなく、己の信ずる道を突き進んだのだろう。こうした稀な人格は、人類史に時折り出現する。



龍口寺の現在の住所表示は藤沢市片瀬3丁目になる。少なくとも鎌倉時代からの古い土地なのだろう。一帯は今も地名として残る津、腰越、片瀬の3村が入り組み、境界論争が続く土地だったというが、江戸時代には「龍ノ口は片瀬村」で決着がついたのだという。ところが3村の境界となっていた龍口寺隣接の龍口明神社は、新鎌倉山へ遷座したため、元宮は藤沢市の中の飛び地として「鎌倉市津」のままだ。いかにも古さびた不合理さである。



このややこしい界隈は、龍口寺門前の交差点を観察するとさらにややこしくなる。藤沢の市街地を北から下って来た国道・藤沢町田線が、ここで不自然な鋭角カーブを描いて江ノ島方面に向かうのだ。そのカーブからはさらに2本の道路が鎌倉方面に延びている。近世以前の、大変な古さを秘めた道筋なのではないか。司馬遼太郎氏流に「文化庁が道路も文化財の対象にする気があれば」、ここは重要文化財に指定されるべき「辻」ではなかろうか。



大船からの湘南モノレールは、片瀬丘陵を縫って終着・湘南江ノ島駅に着く。途中、崖に張り付くようなアクロバテッィクな住宅を眺め、さらに駅ビルのテラスから大山に向かってどこまでも続く家並みを望むと、「住まい」に対する人間の飽くなき欲望を見る思いになる。それはごく当然のことであって、人は家を構え子を育て、満ち足りた生涯を送りたいと望むものだからだ。その意欲が街を造り、歴史を積み重ねて次代に繋ぐのだ。(2021.10.14)



















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