今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

322 伊万里(佐賀県)・・・古伊万里に蕭々として風渡る

2011-01-09 15:02:35 | 佐賀・長崎

IMARIはある時期、日本の街の名としては世界に最も流布した土地ではないだろうか。17世紀以降、有田で焼かれた陶磁器は、伊万里の津から長崎・出島を経てヨーロッパに運ばれ、Imari wareとして彼の地の富者たちを魅了した。それらは今も特別な敬意を込めて「古伊万里」と呼ばれる。私は今日、その伊万里にいる。師走の街は閑散として、かつての燦然とした街の記憶は、橋の欄干で酔っぱらう阿蘭陀人の姿に偲ぶしかない。

「ここは橋だらけの街です」と土地人は言った。島々に守られた深い入り江の伊万里湾に、伊万里川と有田川が注ぐ。河口の良港に恵まれた街は、おのずから多くの橋が必要だった。JRの駅から北へ延びる大通りがおそらくこの街のメインストリートなのだろう、巨大な古伊万里美人像に始まる駅前商店街を行くと、伊万里川に至る。そこに架かる橋が相生橋だ。橋のたもとでは、酒樽乗人物型注器という伊万里色絵像が迎えてくれる。

相生橋から下流の伊万里津大橋にかけて、白壁土蔵の商家が並んでいたという。有田で焼かれた磁器がこの津で船積みされ、オランダ人の航海術によってヨーロッパまで運ばれて行った、世界に冠たる磁器積出港として、活気に満ちた時代がここには確かにあった。しかしライバル景徳鎮が鎖国を解かれた後は、伊万里も陰ったに違いない。そして度重なる水害と河川改修により、さしもの白壁土蔵はほとんど姿を消し、街の味わいも消えた。

本町名店街と地図にある通りを歩いてみた。かつての賑わいを十分に察することができる、立派な構えの商家跡が並んでいる。有田や、さらに奥の波佐見から、陶磁器を満載した荷駄を引いて来た山中の窯元たちが、ここで大きな仕入れや散財をした名残りであろう。ただ残念なことは、それらの商家造りの多くが「跡」という状態にあることだ。古伊万里景気は今は遠く、他の地方都市同様、市民の足は郊外に移っているのだろう。

黒塗りの土蔵造りの商家跡で、NPOがバザーのような即売会を開催していた。空き店舗を借り、町おこしを試みているらしい。元気なおばさんが表まで出て来て説明してくれた。「この通りはずっとアーケードが続いていたんですけどねえ、でも商店の数が減ったでしょ、メンテナンスの費用が確保できなくなったのよ」と、撤去されたばかりだというアーケードを惜しむ風であった。

余談になるが、地方の商店街には共通した傾向がある。かつての中心商店街が寂れているというのは全国共通だが、そうした通りでしぶとく生き残っている商売に和菓子屋があることだ。そのほとんどが老舗らしい構えであることも似ている。唐津では松露饅頭を看板にし、伊万里では陶函に詰めた最中を数万円で売る店もあった。お茶が盛んな松江では、大きな和菓子屋さんがいくつもあった。和菓子の根強さには秘密があるのだろう。

伊万里市は人口5万8000人。かつてのIMARIの誇りは点在するモニュメントに留め、農業や造船業などとともに「上海まで30時間」という立地を武器に、海の物流に力を入れる港湾都市を目指しているらしい。

地名の「伊万里」は松浦衆の一門・伊万里氏に拠るようだが、その伊万里氏とは何者か、調べようも無い。いずれにせよ歴史と地勢の偶然が重なって磁器の代名詞となった「伊万里」は、華やかな古伊万里の色彩とともに歴史の中に封印されて行くのだろう。(2010.12.23)
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