月が出ていた。十四夜の月だった。月光文明のアラブ圏では、女性への最高の褒め言葉は「十四夜の月のように・・・」と例えることなのだそうで、確かに十五夜より美しさに深みがあるかもしれない。ここは芭蕉の故郷・伊賀上野。東京ではまだ宵の口だろうに、すでに夜更けたかのような仄暗い静寂の中、町屋の甍を白々と、十四夜の光りが包んでいる。350年ほど昔、若い芭蕉が眺めた同じ光を、私は浴びながら歩いている。
旅籠と呼んだ方がふさわしい街はずれの旅館に旅装を解き、暮れなずむ街の探検へと宿を出たのだ。10年ほど前、数時間だけ滞在したことがある「上野市」だが、駅から南下するバス道路が何倍にも拡幅され、記憶が繋がっていかない。そのうえ市名まで「伊賀市」に変更されていて、初めての街を歩く気分だ。「どうしてこんなに変える必要があったのだろう」と批判的に考えるのは余所者の感想で、市民には「変える」必然があったのだろう。
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月が昇る少し前のことである。城がある丘の麓の小学校で、子どもたちがサッカーに興じていた。時計台の針は6時25分を指しているのに、薄暮の練習は熱気をはらんでいる。校舎は木造で、城下町の風情に贅沢に溶け込んでいる。隣りの上野高等学校でも、グランドでは女子ソフトボール、体育館からはバスケットボールの練習音が響いて来る。明治期の洋風校舎が保存され、「横光利一ここに学ぶ」とあった。
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翌朝、城に登った。藤堂高虎の城である。築城の名手と伝わる高虎の縄張りを、これまでに津、丹波篠山、伊予今治と見る機会があった。私は城郭マニアではなく、強いていえば《街マニア》ということになろうが、あちこちの地方都市を歩いていると、どうしても立ち寄る城跡が多くなる。高虎の城はいずれもバランスがよく、だから人物も、調和のとれた能吏だったと連想される。彼が最も力を込めて築城した城が、この上野城なのだろう。
その名残りが、大阪城をもしのぐ日本一の高さの高石垣ということか。柵も何もないその石垣の先端に立つと、足元はほぼ垂直に濠に落ち込んで、城の持つ本来の機能を改めて認識させられる。そして視線を地平に移すと、「隠し国」とも呼ばれた盆地を、外界から隠す峰々が連続している。「伊賀」とは何か、といった思いが湧いて来たが、私には荷の重い問いであった。
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さて、芭蕉である。「俳聖」である。文学に限らず芸術の分野で「聖」の文字を冠せられるケースは、他に柿本人麻呂が「歌聖」、雪舟が「画聖」と呼ばれたりする程度ではなかったか。漱石は「文豪」止まりだ。「聖」とは何か。作品の達者さだけではその高みには就けない。作品が作風を超えて、人の心を震わせるからなのだろう。そしてその生き方、死に方にも関わりがあるのかもしれない。
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芭蕉が思慕してやまなかった故郷・伊賀上野に、子どもたちの元気な声が弾んでいるのはうれしい。芭蕉の生家や記念館、蓑虫庵などを訪ねたが、子どもたちの姿こそが若き日の松尾宗房を彷彿とさせてくれた。そして十四夜の月明かりに、俳聖が身近かに感じられたのだった。
そろそろ昼食をと考えていたところに友人からメールが届いた。「食事がまだならストークのハヤシライスがお薦めだ」。訪ね当てた店は開店前だったが、歩き疲れた私を哀れんで早めに開けてくれた。上野最古の洋食屋さんの味は、絶品であった。(2009.9.3-4)
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