大阪に「大阪城」という《地名》があるとは知らなかった。城の北西「京橋口」から入城しようとして、「中央区大阪城3」という路上標識に気づいた。かつての富士山測候所だって「静岡県富士宮市剣ケ峰」という《住所》があったのだから、日本の国土はすべからく地番が付いているのだろう。従って城も例外でないわけで、調べたら「大阪城」という住所には郵便番号もあった。それにしても、余りに「そのまま」の町名ではないか。
街に《センターライン》があるとすれば、現代大阪のそれはキタとミナミを結ぶ御堂筋であろう。しかし難波津の歴史をひもとけば、大阪本来のセンターラインは北から難波宮―四天王寺―住吉大社を結ぶ、北東―南西にわずかに傾いて延びるラインこそがそう呼ぶにふさわしい。大阪城はその延長上にあるし、城以前に建っていた石山本願寺も同一ラインにあったことになる。
他国者が勝手なことを言うようで恐縮だが、これを《難波の聖なるライン》と名付けよう。寺伝や社伝をそのまま信じるとすれば、5世紀の住之江に、大和の海の玄関口として住吉の神様が鎮斎し、6世紀末にはそこから坂を登った台地上に、聖徳太子が四天王寺を建立した。そして7世紀、大化の改新で揺れる大和朝廷が遷都して来て、大阪はわずかな期間とはいえ、この国の都になった。
大阪の、凄みに満ちた歴史を体感しようと、天満から歩き始めた。まずは天満宮にご挨拶し、日本一長い商店街なのだという天神橋筋のアーケード街を抜け、曾根崎通り(国道1号線)を歩いて造幣局の貨幣博物館に立ち寄り、寝屋川橋を渡って「大阪城3」にたどり着いた。
城については触れないが、用いられた石の巨大さは何度見ても驚かされる。桜門枡形の巨石は36畳敷き130トンというから、スフィンクスもびっくりだ。家康の覚え目出たさを求め、岡山から運んだという大名の心根の矮小さに比べ、運ばされた民衆のさぞや辛かったであろうことが私の驚きの大半を占めている。日傘を差した白人の女性が、興味深気に解説文を読んでいた。
城は素通りし、難波宮の宮跡を探す。戦後発掘され、確認されたことで、難波宮は幻でなくなった。法円坂一町目という標識が張られた門の中に、殺風景な原が広がっている。大極殿跡に基壇が復元されている他は、クスノキの並木とホームレスの青いテントがあるだけだ。しかし北を望むと、大阪城の天守閣がそびえていて、自分が今、大阪の聖なるラインに立っていることを知る。
宮跡を出たところで、おばさんに上本町駅までの道を尋ねると、「歩いて行くなんて、あんた、何を考えているの」といったようなことを大阪弁でまくしたてられた。これをもってこの日の「聖なるライン踏破作戦」は挫折した。ただ大阪城を北端に、四天王寺まで続く「上町台地」を背骨として、そのラインが住吉大社への「大坂」を下ることで形成されたという街の構造は分かった。
ところで城の住所であるが、江戸城は「千代田区千代田」の皇居であり、郵便番号は100-0001だ。名古屋城は「名古屋市本丸」「名古屋市二の丸」という。本籍地はどこにでも設定できるようだから、本籍が「大阪市中央区大坂城1」という人もいるのかもしれない。太閤が健在であったら、「そこはオレのウチだぞ」と口を尖らせるのではないか。(2009.9.3)
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