「みなとみらい」のランドマークタワー63階から見晴らすと、足下に横浜港の中心部が広がる。しかしその眺めは、港全体の一部でしかない。どこからどこまでが港であるかは港湾法で厳密に定められていて、横浜港は区域面積が7300ヘクタールもある。「もある」と言ってみても、それが世界の貿易港に比して大きいのか平凡な規模なのか、私に知識はない。しかしこの港が、日本第2の大都会を産み、育てて来たことは間違いない。
横浜は今年が開港150年とあって何かと賑やかだけれど、言い換えればわずか150年の歴史しかない新興の街だということでもある。それでも150年の時間は、例えば建造物に郷愁という彩りを染み込ませるには十分であるようだ。関内の中心部に建つ開港記念会館もそうした建物の一つで、文明開化の香りをいい具合に伝えている。ここで東京湾に関するシンポジウムを聴いたことがある。
その際に仕込んだ俄知識によると、横浜港は水深、潮流、風向、風力のどれをとっても天然の良港なのだが、ペリーに開港を迫られた徳川幕府は、異人たちをできるだけ江戸から遠ざけようと、当初合意の神奈川湊ではなく、その先の小さな漁村・横浜に目を付けたのだとか。「横浜も神奈川の内」とした幕府の強弁が、ただの寒村を今日の大都会に孵化させたのだという。
ついでながらその日の講演で、魚種の宝庫・東京湾は、近年、穴子の水揚げが激減していて、このままでは江戸前の危機だという指摘は切実だった。さらについでながら、イカとタコは海の塩分濃度に敏感に反応し、台風などの大雨によって湾内が水っぽくなると、イカ(だったかタコだったか)はとたんに姿を消し、逆に日照りが続いて塩分濃度が上がると、タコ(だったかイカだったか)が漁れなくなるのだという。海の話は面白い。
港とともに膨張して来た横浜は、今や大阪市を抜く人口360万人の大都会だ。しかし居留地から始まった横浜の歴史は、常に江戸と東京があっての街の拡大であったことを忘れてはならない。そのことを無視した勘違いが、この夏の「開国博」の大失敗であろう。
有料入場者を500万人と見積もって85億円の税金をつぎ込んだのに、実際は120万人しか来てくれなかったのだから悲惨だ。担当副市長は辞職したそうだが、閉幕直前に辞任した市長は、叱責を恐れて遁走したのだろう。われながらいささか品がないと感じながらも、こうやって批判しているのは、私も入場者の一人になってしまったことを恥じているからだ。観衆を軽んじた貧弱な展示は、思い出しても腹が立つ。
ここに横浜という街の欠陥があるのではないか。東京によって促された都市化の中で、独自の行政力は未だ脆弱であるという点だ。市民や議会は、それを監視する力も意欲も薄いのであろう。博覧会という見せ物で地力を見せようと発想したところに、膨張した街の浮ついた気分が潜んでいる。かつての革新市政のころの存在感は、街がきらびやかになって逆に薄れたように思える。
山下公園の中ほどに、海を見つめる少女がいた。ブロンズ像だからそこまでは分からないが、赤い靴を履いて「異人さんにつれられていっちゃった」女の子らしい。そのメランコリーな気分と海の爽快な響き合いが、横浜を「らしく」育てて来た。yes! Yokohamaは博覧会などなくたって、十分に魅力に満ちた街なのだ。(2009.9.11-12)
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