![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/b8/7226b7fce5062c5b9ee57706a6273c07.jpg)
瀬戸内海に架かる3本の本四架橋のうち、真ん中で香川県坂出市と岡山県倉敷市児島を結んでいるのが「瀬戸大橋」だ。道路の下に鉄道が走る2階建てということで、坂出市番の州にある架橋記念公園に出かけ、まじまじと見上げてみた。なるほど、ごっとんごっとんと線路の音を響かせて、2輛ほどの列車が遥か頭上を通過して行く。澄んだ海と空の接するところに重なる島々。この絵のような自然美を打ち砕いて居座る、人造の迫力美に圧倒された。
橋が開通した20年前、地元の喜びは大変なものだったろう。何しろ大久保甚之丞(正しくは言ベンに甚)という香川県議が、島伝いに橋を架けて海を渡るという、誰もが思いつかなかった構想をぶち上げて120年、半信半疑の夢が実現したのだから。国もどんどん資金を回したに違いない。コストを無視したお祭り気分が、豪華な記念館や100メートル超の展望タワーとなって、贅沢な記念公園を残した。
しかし20年も経てば興奮が冷めるのも当然で、記念館は閑散としていた。普段の私はしたこうしたハコモノには冷ややかな感想を抱く癖があって、入館者が少ないと「税金の無駄遣い」などと俗っぽい批判に傾きがちだ。しかしこの時はいささか様子が異なって、館全体が、橋梁土木といういかにも寡黙な風貌が似合いそうな工学技術者たちの、モノローグを封じ置く神聖な場のように感じられたのだ。
明るい光りが溢れていると、人の心は寛容になるものか、この日の私は見るものすべてを受け入れたい気分だった。だからタワーの100人乗り回転客室が、私一人を乗せて寒々と昇って行っても、それにケチは付けない。「霞がかかった見通しの利かない景色は、温暖な瀬戸内海ならではの風情でございます」と言い訳がましく流れる案内テープにも、「前日の雨のおかげか空は澄み渡り、絶景を独り占めしてもったいないほどで」と答えておいた。
私のいつもの精神ベクトルに乖離が生じたのは、「美」に対してもであった。巨大な橋脚や無骨な鋼材の幾何学模様が、この日はどうしたことか「美しく」見えるのだ。瀬戸内の自然美は文句なしに美しい景観ではあるけれど、そこに強引に割り込んだ人造物も美しいのだ。困ったことに「東山魁夷せとうち美術館」に立ち寄ってもこの感覚は尾を曵き、ラウンジの窓に切り取られた橋の風景の方が、画伯の作品よりも私を感嘆させた。
坂出の街を紹介してくれたのは柿本人麿さんだ。いや、お会いしたわけではなく、万葉集を通じて教えていただいた。彼は1300年ほど昔、今では埋め立てによって記念公園と陸続きになっている沙弥島という小さな島にやって来て、「石の中に死(みまか)れる人を視て」歌を詠んだ。「玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ」と讃岐讃歌で始まる長歌は、やがて横たわる死者の出現で暗転する。奇妙な胸騒ぎを覚える歌だ。
![](https://blog.canpan.info/h_kato/img/265/sakaide.jpg)
万葉集はこの長歌の後に2首の反歌を載せ、そして彼が「石見国に在りて臨死らむとする」時に詠んだ歌へと続く。人麿は何をしにここにやって来たのか。なぜ辞世の歌の前に沙弥島(狭岑島)が登場するのか。その疑問が、私に坂出という街を記憶させたのだった。梅原猛氏は『水底の歌』で、沙弥島は流人の島であり、人麿は流人として流されて来たのだと断定する。本当だろうか? タワーからその小さな島を見下ろしたものの、疑問は解けなかった。
岡山県から橋を渡って来たような、そんなふうに思わせる小学生の遠足に出会った。この子どもたちは巨大橋に何を感じただろうか。そしてこうした土木の時代が過ぎたこれから、どんな国を創る大人になって行くことだろうか。愛おしく眺めた。公園の裏の原っぱで、タネを蒔いている人たちがいた。瀬戸内海の地域おこしに取り組んでいるNPOが、春に咲かそうと菜の花のタネを蒔いているのだ。タネは、地方復権のタネであるかもしれない。(2009.11.13)
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