今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

295 善通寺(香川県)・・・讃岐路の空にこだます大師様

2010-09-03 11:33:10 | 香川・徳島

善通寺の誕生院をひと巡りして東院に戻り、お遍路さんの集団に巻き込まれて金堂にお参りし、五重塔を見上げて南大門を出ようとすると、学校帰りの小学生4人に出会った。黄色の帽子に赤いランドセルの、小学4、5年生とみた。ああ、お大師さんもこのころは、こんな具合にあたりを駆け回っていたのだろうと微笑ましく眺めた。1235年前にこの地に生まれた佐伯真魚は、後に弘法大師空海という日本史の巨人になったのである。

空海が60年の生涯で何を成したか、ここでゆっくり思い出しているゆとりはない。なにしろ朝、高松を出発した金比羅詣の帰路の身で、このあと丸亀で美術館と城を観て坂出で宿泊する讃岐駆け足旅行の途上なのだから。とはいえ大師信仰の聖地、75番札所・善通寺を素通りすることは許されないだろうと立ち寄ったのである。

年表を見ると、空海が生まれた宝亀5年(774年)は日本列島全域が飢饉に苦しんでいた。讃岐も例外ではなく、続日本紀には讃岐国に「賑給」したとの記事が頻出している。奈良時代末期の社会は、現代言われる閉塞感などとは桁外れの矛盾に満ちたものだったであろう。そうした時代にあって、聡明な頭脳と傑出した行動力に恵まれた真魚少年は、地方分限者の愛情をたっぷり受けて成長した。この時代環境が空海を育んだのだろうか。

もし空海が現代に生まれていたら、どういう人物になっているだろう。社会が遥かに複雑化し、また進路の選択肢が圧倒的に増大した現代においては、真魚青年は山野を経巡って仏道修行に邁進する余裕はないかもしれない。だから優秀な地方青年が目指すように都会へと進学し、現代のエリートコースを突き進むのだろう。

勝手な想像だが、研究の道より実務に進む性格のように思う。そして最終的には政治の世界に転身する。それも清廉で理想に耽る政治家ではなく、時にはきわどいスキャンダルにもまみれる、極めて現実的な政治の徒になったのではないか。おそらく、そのカリスマ性に太刀打ちできる人材は現代の政界には皆無であり、政治家・空海は遠からず、この国の宰相に登り詰めるに違いない。

そうでなければ唐に渡り、土着の神々を従えて高野山を営み、さらには教王護国寺の曼荼羅を造営した、恐ろしくも巨大なエネルギーが説明できない。それでも現代では、空海も宰相となって終わりだ。密教を打ち立て、人々を救い教え、後々国の宝となる書を残すこともないだろう。文明が進むということは、人間の天分の開花をむしろ制約する、つまらない社会へと複雑化して行くことなのかも知れない。空海は、やはり平安の世がふさわしい。

現代の善通寺の小学生は、カメラを構える私のじゃまをしてはならないと、腰を屈めて門を駆け抜ける可愛らしさであった。街は、人口3万4000人の規模には珍しく、アーケード街が複数延びている。参詣客相手の商売が賑わう時期があるのか、あるいは帝国陸軍以来の、軍都としての賑わいの名残りなのだろうか。

そろいの装束の遍路さんたちは、団体行動を崩さず次の札所に向かったようだ。八十八カ所巡りはハードスケジュールなのだろうけれど、いま少しゆっくりと、それぞれの門前街も見物したらいいのにと、私などは思う。駅に続く大通りに出ると、神社の森があり大学があり、市民会館と市役所があった。小さな美術館も建っていて、広々とした空が気持ちを晴らしてくれた。(2009.11.12)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 294 大王崎(三重県)・・・... | トップ | 296 群馬(群馬県)・・・上... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

香川・徳島」カテゴリの最新記事