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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大村彦太郎によって創業された京都の小間物・呉服問屋白木屋は1662年、江戸日本橋通りに進出し、以降京都の白木屋呉服店というブランドイメージをうまく使って江戸の庶民から大奥まで幅広い顧客を獲得している。

元白木屋大阪店のあった場所にある第二野村ビル



明治時代以降の白木屋は、百貨店として発展し、服装の洋装化の波にも乗り、他の百貨店に先駆けてエレベーターを店舗に導入している。

大阪には1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会への出品をきっかけに進出し、心斎橋2丁目に呉服店を開業している。

白木屋(第二野村ビル)前の堺筋



また、梅田の阪急百貨店は、1920年に神戸本線十三~神戸間を開業した際に、梅田駅構内にできた白木屋の店舗を後に引き継いだもので、白木屋は翌1921年(大正10年)に堺筋に9階建ての新ビルを建ててそちらに移転している。

この頃、市電の幹線が走る堺筋は、北から三越(高麗橋)、白木屋(備後町)、高島屋(長堀橋)、松坂屋(日本橋筋)の4店が並ぶ百貨店通りとなり、心斎橋のような古い商店街に代わって新しい大阪のメインストリートになっている。



1931年(昭和6年)の堺筋と備後町通り近辺の大阪地図を見ると、白木屋百貨店がちゃんと載っていて、南側には野村銀行、北側には山口銀行と書かれている。



野村銀行とは、1948年に大和銀行と行名変更し、2003年には合併によってりそな銀行となったが、いまでもこの場所に本店を構えている。

一方山口銀行とは、1933年に鴻池銀行、第三十四銀行と合併して三和銀行となり、今は三菱東京UFJ銀行となっているが、この場所には今も支店を構えている。



このころの大阪パノラマ地図を見つけたが、堺筋に面し白木屋を挟んで、野村銀行(右側)と山口銀行(左側)のビルもある当時の町並みを3次元で見ることができる。



現在旧白木屋百貨店のあった場所には、昭和48年9月という定礎碑がある第二野村ビルが建っている。

第二野村ビル(堺筋に飛び出したビル)と、りそな銀行本店(後方)



しかし、堺筋進出からわずか11年後の1932年(昭和7年)、白木屋は営業不振で大阪から撤退しているが、同年12月に東京日本橋の白木屋本店で火災が発生し死者14名を出している。


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松坂屋のHPによれば、織田信長の家臣であった伊藤祐道が、信長の没後30年近く経った1611年、名古屋に移り呉服小間物商「いとう屋」の看板を掲げたのが創業というので、400年近い歴史を誇る会社である。

北から見た旧松坂屋大阪店



江戸期に老舗といわれる呉服商であった白木屋、岩城升屋、三井越後屋(三越)の創業がそれぞれ、1662年、1672年、1673年というので、松坂屋は日本最古の呉服商かもしれない。

路地から見た旧松坂屋大阪店



1736年には、岩城升屋、三井越後屋と同じ「現金掛け値なし」という正札販売をはじめたことで商売が軌道に乗り、1768年には上野にあった老舗呉服店「松坂屋」を買収して屋号を「いとう松坂屋」と改め、江戸に進出している。

旧松坂屋大阪店



江戸店の屋号を「いとう松坂屋」としたのは、既に江戸市中に呉服店「松坂屋」の名前が知れ渡っていたためであろう。

大阪でも、1875年(明治8年)、四ツ橋北西の新町通にある老舗「ゑびす屋呉服店」を買収して、「 ゑびす屋いとう呉服店」 として開業している。

旧松坂屋大阪店正面



その後、全店舗で屋号を統一する事となった際、東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となったようである。

1910年(明治43年)には、名古屋本店の事情で大阪から一時撤退したが、1923年(大正12年)になってから堺筋の日本橋に、新店舗を建築して松坂屋大阪店を再開している。

旧松坂屋大阪店の前の歩道



しかし、松坂屋大阪店は堺筋の衰退によって1966年に天満橋へ移転、その天満橋店も2004年5月には閉店しているので、大阪は松坂屋にとって縁の薄い都市であったようである。

今も堺筋となんさん通りの交差点の南東角に建つ、旧松坂屋大阪店の記録を見ると1934年に完成とあるので、恐らく完成の1年前から大阪での営業を再開したのであろう。

南側から見た旧松坂屋大阪店



松坂屋大阪店は、高島屋東別館として今もクラシックな外観をそのまま残しているが、こういう歴史のある建物は、できるだけ永く保存して欲しいものである。


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新撰組が岩城升屋に到着して暫くすると、出直してきた不逞浪士5人が現れ、新撰組の姿を見るといきなり日本刀を抜いて切りかかったというので、彼らは相当腕に自信があったのであろう。

新撰組大坂屯所であった萬福寺の山門



このとき岩城升屋の店先で、新撰組と浪士合わせて9人が日本刀を抜いて激しく戦い、すぐに新撰組の若い隊員の一人が転んで完全に受身となった瞬間、浪士の一人が振り下ろす刀を、山南が自分の刀でとっさに払って隊員の命を救っている。

今の松屋町筋(新撰組が駆けてきた通り)



しかしこの受け太刀で、山南が使っていた刀が切っ先から33センチのところでポキリと折れ、スキを見つけた浪士が山南の左肩から左腕まで一太刀浴びせかけたので山南は重傷を負っている。

今の高麗橋(渡ってすぐ左が岩城升屋)



それでも新撰組の4人はひるまず戦い、結局浪士3人が即死、残る2人も負傷して逃亡しているが、新撰組は山南以外無傷であったというので、真剣勝負の新撰組は強かったらしい。

山南が負傷し、若い隊員2人には相手を即死させるだけの力は無かったと思われるので、浪士3人を切って即死させたのは土方だったのではなかろうか。

高麗橋が架かっている東横堀川



この事件の後から新撰組ナンバー2としての土方副長の立場は不動のものとなり、土方から隊員への厳しい統制が徹底するようになったようである。

山南が使っていた折れた刀は、土方が拓本を取って知人に送ったものが現存しているので、このストーリーにはかなりの信憑性があるが、細かい部分は私の創作である。

今の高麗橋筋(左が越後屋跡地)



一方、この事件まで新撰組ナンバー2であった山南敬助は、傷がもとで新撰組の中での居場所がなくなり、その思いが余って新撰組を脱走したという説があり、翌年には沖田総司の介錯で切腹している。

さて岩城升屋であるが、明治になってから岩城呉服店と改称して営業を続けていたが、1884年江戸期に越後屋を凌駕していた東京店が閉店、1886年(明治19年)には大阪高麗橋店に続き京都店も閉店し、岩城升屋は11代で店を畳んでいる。

左側が岩城升屋の跡地



大阪春秋33号の後藤賢一郎氏は、岩城呉服店が閉店したのは、三井のように政商になれなかったせいかと書いているが、大丸、高島屋などのように生き残った店もあるので岩城升屋の倒産の裏には他の要因があったのであろう。


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1863年3月に発足した壬生浪士隊は、9月になって幕府公認(京都守護職配下)の「新撰組」と改名し、近藤勇局長、山南敬助総長、土方歳三副長を頂点とする新しい組織となっている。

幕府の統制が緩んだ幕末には大坂の治安も悪化し、豪商の店には不逞浪人がゆすりたかりに頻繁に来ていたようで、岩城升屋、鴻池屋などは、店を浪士から守るためにその新撰組に何百両もの警護金を出していたようである。

新撰組大坂屯所のあった下寺町の現在



当時の新撰組大坂屯所は、生国魂神社から200メートル南、松屋町筋に面した下寺町の萬福寺で、本堂には隊士20名程が詰め、大阪の富豪から集めた潤沢な資金の集積所にもなっていたという。



ちなみにこの資金を使って、あの有名な新撰組の羽織を心斎橋の大丸で誂えたという言い伝えが残っている。

この萬福寺は、今も残っていて、恐らく新撰組の近藤勇、土方歳三などが見たであろう当時の外観をいまでも眺めることができるのが有難い。

萬福寺の外観



1864年1月、将軍家茂の警護のため新撰組が大阪屯所に滞在中、大口スポンサーの岩城升屋から不逞浪士数名が借金の強談に来たが、出直してくるよう頼むことができたので至急取締りをして欲しいと願い出てきた。

この日、新撰組幹部と隊員の多くは出払っており、山南総長(1833~1865年)、土方副長(1835~1869年)の二人の大幹部の他には若い隊員が2名しか残っていなかったという。

萬福寺の境内



そこで山南と土方の他に若い隊員を加えた4名が、万福寺から松屋町筋を北上し、岩城升屋までの3,5キロを急ぎ駆けつけている。

今の松屋町筋の4つ辻(奥が高麗橋)



万福寺の前の松屋町筋は、大川を渡る天神橋まで真っ直ぐ北に伸びていて、天神橋の手前200メートルのところにある4つ辻を西に折れると、高麗橋まで僅か150メートルである。


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大阪春秋33号の「大塩の乱に襲われた豪商 岩城升屋」という後藤賢一郎氏の記事によれば、1625年頃から近江国大津で升屋という米穀商を営んでいた岩城右衛門宗隆から三代目となる宗正が、1672年に大坂高麗橋に出て反物の軒店を開いたのが、岩城升屋のはじまりという。

西から見た今の高麗橋



当時の高麗橋は、江戸の日本橋と同じように大坂城から西へ向かう街道の基点となる場所で、今の梅田に相当する場所と思えば良いのかもしれない。

岩の文字を升形で囲むトレードマークで有名な升屋宗正の商法は、現金掛け値なし、反物切り売りという商法であったが、このスタイルは1673年、三井高利が江戸で開業した越後屋と同じなので、高利のほうが真似たのかも知れない。

1867年頃の高麗橋岩城升屋と越後屋



岩城升屋を真似た越後屋が江戸で繁盛したように、高麗橋の岩城升屋も大繁盛し、1678年に京都、1690年には江戸麹町に支店を出している。

一方、三井高利も、岩城升屋に対抗心を燃やしていたのか、翌1691年に高麗橋岩城升屋の隣に越後屋大阪店を開設している。

越後屋大阪店(三越)跡地の向こうが岩城升屋跡地



岩城升屋は、1708年に大火で高麗橋店が全焼しているが、すぐに復興を果たし、1718年には間口56メートルという巨大な新店舗が完成している。

この数字を現在の高麗橋1丁目の地図に当てはめると、高麗橋和幸ビル、豊田日生北浜ビルを含む通りで囲われた1ブロックすべてが入る広さである。



また江戸店も大奥や麹町近辺の大名旗本の御用達となり、1746年頃には間口65メートルの店となり、従業員は500名を超え(当時の越後屋は320名)岩城升屋は江戸でもトップの呉服商となっていたようである。

広重の版画にある岩城升屋江戸店



1806年の大坂地図にも、高麗橋と越後屋の三井マークとの間に、岩の文字を升形で囲った升屋のトレードマークが載っている。



1837年2月に起こった大塩平八郎の乱では、高麗橋通り周辺に軒を連ねていた鴻池屋、天王寺屋、平野屋、岩城升屋、越後屋等の豪商が大砲を打ち込まれて放火されている。

今の高麗橋の上



しかしすぐに再建されたようで、安政年間(1854~60年)船場地区に居住する奉公人は、岩城升屋が252人、越後屋が179人という記録があるので、当時も岩城升屋が大坂でも最大の呉服商だったようである。


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そごうが大阪で創業した翌年、1831年に飯田新七が京都烏丸松原でそごうと同じく古着を扱う「たかしまや」を創業している。

高島屋大阪店夜景



屋号は、飯田新七の養父儀兵衛が、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の出身であることから名づけられたようである。

1717年に伏見で創業した大丸に比べれば、100年以上も新しい店なので京都の人は、大丸さんと「さん」をつけるのに高島屋には「さん」がつかないというが本当であろうか。

大阪には創業から67年後の1898年(明治31年)心斎橋筋と三ツ寺町通りの交差点北東角に進出しているが、高島屋呉服店と書かれた店が1913年に発行された大阪地図に載っている。



1922年には、当時のメインロード長堀橋の南側、堺筋と鰻谷南通りの交差点南東角に鉄筋コンクリート地下1階、地上7階建の新店舗を開設している。

この店も当時の大阪地図に載っている



長堀橋の大阪高島屋は、大阪市中央公会堂の設計で有名な岡田信一郎の設計作品で、大阪の街並みの中でひときわ目立つ建物だった。

この建物は、高島屋が退去したあと大幅に増改築され、「アルテビル長堀橋」という名前で現存しているが、来月から解体されるという。



長堀橋店移転の10年後の1932年(昭和7年)高島屋大阪店は、南海難波駅ビル(地下2階、地上7階建)に入居し、しばらく長堀橋店との2店体制で営業しているが、難波店は日本初の冷暖房を装備した百貨店であったという。

江戸時代から大阪で営業している三越、大丸や、明治初期のそごう比べれば高島屋大阪店の歴史は浅く、そのハンディを克服するためか1938年に呉服店系としては異例の食堂経営に取り組み、大阪店に東洋一の大食堂を誕生させている。

現在の高島屋大阪店



南海難波のターミナルビルに出店し、さらに大食堂を作ったのは、1929年創業の阪急百貨店の成功を真似たのかもしれないが、1938年の大阪地図には南海高島屋という名前で載っている。



現在の登記上の高島屋本店は、大阪店のある南海難波駅ビルにあり、この店は店舗面積7万3千平米という巨艦店で、さらに増築部分が完成すると日本最大級の百貨店となるらしい。

1995年には横浜高島屋など子会社5社を吸収合併して百貨店業界で売上高日本一になっていたが、今年大丸と松坂屋が経営統合し、さらに来年4月には三越と伊勢丹の統合で一挙に3位に順位を下げることになるようである。


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1830年に十合伊兵衛が、坐摩神社近くに古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが「そごう」のはじまりという。

大丸とそごう



従って、古着屋というリサイクルショップから始まったそごうは、1691年に高麗橋に出店した越後屋呉服店や、1726年に大阪心斎橋に進出した大丸呉服店などの老舗に比べ格下からのスタートと言えるのかもしれない。

確かに1867年頃に出版された浪華名所独案内という地図(東を上にしている)には、坐摩宮と東西(南北)御堂との間の通りには、古手店多しとの書き込みがある。



1877年(明治10年)には大阪心斎橋筋に大和屋を移転し、十合呉服店と名付けているがこれが後のそごう心斎橋本店である。

1897年(明治30年)頃の十合呉服店の写真が残っているが、トレードマークは既に今のものと同じ織機の部品を図案化した「まるちきり」が使われている。



この年、三代目伊兵衛が店を合名会社化するに当たって創業以来の慣行であった「暖簾分け」制度の廃止を打ち出したことで店の主だった番頭たちが反乱を起こし新聞沙汰となったこともあったらしい。

1918年(大正7年)出版の地図にある十合呉服店は心斎橋筋に面している



十合呉服店は1899年(明治32年)に神戸支店を開いたのを始め、各地に店舗を拡張し、1918年(大正7年)には地上4階地下1階、エレベーター付きの心斎橋本店新店舗を完成させている。

1918年(大正7年)頃のそごう



さらに1935年(昭和10年)には村野藤吾の設計で大阪店が御堂筋とともに竣工しているが、この建物は大阪大空襲にもあまり被害を受けなかったようで、戦後6年間もアメリカ進駐軍に接収され米軍のPX(購買所)として使われていたという。

1938年(昭和13年)出版の地図にあるそごうは、御堂筋に面している(破線は地下鉄の通路らしい)



1957年(昭和32年)には東京地区初の店舗として国鉄有楽町駅前の読売会館にそごう東京店を開店し、翌年水島廣雄(1912~)が46歳という若さで副社長として日本興業銀行から移ってきている。

終戦直後のそごうと大丸



水島廣雄は1962年に社長就任し、ほどなく超ワンマン体制を敷いて全国各地に無茶な多店舗展開を行った結果、2000年にそごうグループは民事再生法の適用を申請して事実上倒産し、従業員3700人を解雇する悲惨な事態を引き起こしている。

その後、2003年にそごうと西武百貨店は、ミレニアムリテイリンググループとして再発足し、2005年秋には旧そごうの跡地に「そごう心斎橋本店」が同社のシンボル店として開店している。



創業以来176年の歴史を持つそごう(ミレニアムリテイリンググループ)は、2006年にセブン&アイ・ホールディングスとの間で株式交換を行い、今ではセブン&アイ・ホールディングスの完全子会社となっている。


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1806年に出版された摂津大坂地図によれば、高麗橋1丁目堺筋角に小さく三井のマークが描かれているが、この地点は2005年に閉店するまでの三越のあった場所である。



1837年の大塩平八郎の乱では、「大丸は義商なり」と焼き打ちを免れた大丸に対して、越後屋は幕府の御用商人であったせいか襲撃され全焼したという。

しかし、1867年頃に出版された浪華名所独案内という地図には、三井呉服店が描かれているので、すぐに再建されたのであろうが、明治になってからの1894年にも建て替えられたらしい。



浪華名所独案内には、高麗橋2丁目の三井ガーデンホテルが建つ場所に三井両替商の店舗が描かれているので、三井銀行大阪支店のルーツとなる場所であろう。

ちなみに三井銀行は、1936年三越の北側に新しい支店ビルを建てているが、そのビルは今も三井住友銀行大阪中央支店として立派に使われている。



現在の商号「三越」は、1904年合名会社三井呉服店から株式会社三越呉服店へ改称した際に使われ始めたというので、創業から334年の歴史を誇る同社が三越となってからまだ73年しか経っていない。

1913年の大阪地図を見ると、高麗橋1丁目にちゃんと三越呉服店の名前があり、1917年には新館が開店し、三越は旧館と合わせ地下1階、地上7階という大阪最大のルネッサンス式建物となっている。



1920年には東館が完成したことで、翌年から三越大阪店は西日本の百貨店としては初の下足預かり制度を廃止している。

しかし1937年に御堂筋が完成したことで、大阪のキタとミナミをつなぐメインロードは堺筋から御堂筋に変わり、三越に来る買い物客は、次第に減ってゆくのである。

1913年の地図には御堂筋は無く、堺筋と四ツ橋筋が電車道となっている



さらに1995年の阪神・淡路大震災によって三越大阪店は被災して大きなダメージを受け、2005年には1691年以来314年間も続いた大阪店の歴史を閉じている。

大阪から姿を消した三越は、大阪店ができて320年後となる2011年春、JR大阪駅の北側にできるビルに復活することになっているというので楽しみである。

駅ビル工事現場




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豪商三井家は、近江の守護六角氏の旧臣三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士を捨て、伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まるという。

三越大阪店の跡地は超高層マンションになる



三井高俊の四男として生まれた三井高利(1622~1695年)は、江戸で三井家を創業した長兄の高次に丁稚奉公し、番頭となるが、その商才を恐れた兄達に放逐され、一旦松坂に戻ってしばらく金融業を営んだらしい。

大丸の創業よりも44年も早い1673年、51歳となっていた三井高利は、現金掛値無し、反物切り売りの新商法を導入して、江戸本町一丁目に越後屋という屋号で間口2,7メートルの小さな呉服店を開業している。

堺筋をはさんだ西側から見た三越跡地



当時、代金は後日のツケ払い、売買は1反単位が当たり前であった呉服業界においては三越の商法は斬新で、顧客が現金支払いさえすれば、商品を必要な分だけ安価で販売したので、富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにしたという。

後に、高利は江戸の店を長男高平らに任せて京都に移り住み、仲買の仕事を専門にするようになったが、三越の繁栄ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や店員の引き抜き、商品不買運動などがあったらしい。

北側の高麗橋通から見た三越跡地



しかし高利は、将軍綱吉の側用人牧野成貞(1634~1712年)の推薦で幕府の御用商人となったため同業者からのいやがらせは止み、後には両替商もあわせて開業している。

綱吉から3千石から6万石の大名にまで抜擢された牧野成貞は、1681~1695年までの14年間側用人を勤め、その後は有名な柳沢吉保が引き継いでいるので、越後屋が幕府の御用商人となったのは1680年代後半くらいであろう。

この牧野成貞の子孫は、明治維新まで茨城県笠間藩主として続き、徳川幕府最後の大阪城代として笠間藩主牧野貞明が就任しているので大阪にも因縁のある大名家であった。

1936年に完成し今も使われている旧三井銀行大阪支店



高利は、1691年に大阪の高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設しているので、1726年に大阪心斎橋に進出した大丸よりも35年も早く大阪に店舗を構えたことになる。


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大丸は1717年、下村彦右衛門正啓が京都市伏見区京町に呉服店「大文字屋」を開業したのがはじまりで、大丸はこの年を創業としている。

今日の大丸



伏見での創業から9年を経た1726年には心斎橋に進出し、1728年名古屋店、1743年江戸(東京)店を開店しているが、明治末期の1910年の不況で東京、名古屋店は共に一旦閉鎖されている。

大丸心斎橋のプレート



1728年に名古屋店を開きたときに「大文字屋」を「大丸屋」と称したことが屋号を大丸とした始めらしいが、1837年に起こった大塩平八郎の乱では、「大丸は義商なり」と焼き打ちを免れたという。

幕末の1867年に書かれた大阪地図、浪華名所独案内にも心斎橋筋にも大丸呉服店の名前が見えるので、当時から目立つ店であったようである。



その後、大正初期の1912年に京都店が開店し、1913年には神戸店が開店したが、1920年に心斎橋店が失火により全焼したために建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で1922年に心斎橋筋に面した1期工事が完成している。

大丸の看板文字には3画の右から7,5,3のヒゲが出ている。



1933年(昭和8年)には、御堂筋に面した3期工事が完成しているが、大丸心斎橋店は、大正から昭和初期の建築様式を今も伝えるヴォーリズの作品として有名な建築物である。

イルミネーション



ちなみに隣の「そごう」は、1830年十合伊兵衛が古着屋「大和屋」を座摩神社の南隣で開業しているが、1877年に呉服商に商売替えし、心斎橋筋1丁目鰻谷角に進出、明治中期の1894年現在地に移転して十合呉服店として出発している。

イルミネーションの全景



大丸ではクジャクが象徴とされており、心斎橋店の心斎橋側入り口と京都店の四条通りに面した壁面にはレリーフが飾られ、系列スーパー「大丸ピーコック」の名称もクジャクに由来しているようである。

心斎橋正面玄関



大丸は、バブル崩壊ののち、奥田前日本経団連会長(トヨタ前会長)の実弟、奥田務氏が社長に就任して収益力を業界首位級に押し上げ、さらに今年3月には松坂屋との経営統合を決定している。


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1907年、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の設立に参画した、阪急グループの創業者小林一三(1873~1957年)は、なかなかのアイデアマンであった。

現在の阪急梅田駅をアクティ大阪から見る



客を誘致するのではなく、創り出すという新しい発想で、小林一三37歳の1910年には、阪急沿線に住宅地を開発して不動産分譲事業、1914年宝塚歌劇団を創設して女性や家族連れでも楽しめるエンタテインメント事業にも乗り出している。

1914年の地図に載っている梅田駅(線路がJRの上を通過している)



さらに鉄道乗客を作り出す一環として、小林一三が56歳となった1929年には、阪急梅田駅の敷地に日本初のターミナルデパートとなる阪急百貨店を創業している。

1936年の地図に載っている阪急百貨店(線路がJRの下を潜っている)



小林一三は、1937年に東宝映画を設立しているが、後に東宝の社長は、次男辰郎(松岡家の養子となり松岡姓)が継ぎ、現在では辰郎の長男である松岡功氏が会長を勤めている。

昔の地図にある阪急駅は阪急百貨店東側のコンコース部分にあった



小林と松岡家との縁は、1920年に開業する阪急神戸線の建設時に、当時「船成金」と呼ばれていた松岡汽船(後の商船三井タンカー管理)の松岡社長に資金援助を求めたことがきっかけのようである。

ちなみに松岡功氏の次男が、元テニスプレーヤーでスポーツキャスターの松岡修造である。

JRから阪急梅田駅への陸橋



阪急百貨店は、地上8階、地下2階という当時では群を抜いた規模を持ち、従来の高級百貨店の枠を出て、より多くの人々に親しまれる新しい百貨店を目指したという。

今の阪急百貨店



ちなみに心斎橋の大丸百貨店は、1922年から1期工事を始め、1933年に3期工事が完成しているので、全館オープンは阪急よりも若干遅いことになる。

1931年の地図に載っている大丸と十合(そごう)は、心斎橋筋に面していた



開業当初は、百貨店運営のノウハウが無かったために日本橋白木屋を招致し、その後に自社直営に切替えたようである。

また、百貨店が運営するレストラン事業としてライスカレー・ソーライス等を庶民に提供し、行楽に向かう人々へ弁当販売をするなど、今日のターミナルデパートの雛形となった存在であった。

阪急電鉄コンコース



その後、1947年に、阪急百貨店は阪急電鉄より分離独立し、株式会社阪急百貨店として梅田本店と全国に10の支店を展開しているので、阪急電鉄とは兄弟会社という関係にある。


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大阪の住宅地価格ランキングでは、阪神間の山の手を走る阪急神戸線沿線がトップ、次に阪急宝塚線沿線と箕面あたりと言われているので、阪急沿線の住民にはリッチな人が多いようである。



その住民が大阪市内に買い物に来るとなると、わざわざ地下鉄に乗り換えて心斎橋の大丸、そごうまで足を伸ばすのは面倒なので、駅から近い阪急百貨店に向かうのは自然なことなのであろう。

その阪急百貨店梅田本店は、建築後80年近くが経過したために、耐震性を高めた複合ビル(新梅田阪急ビル)として全面的に建て替えることが決定され、店舗の北側半分を残す形で建て替え工事が行われている。



2006年7月より南側部分の取り壊しが始まり、2012年春に工事完了とされているが、建て替え後は地上41階(高さ187メートル)、延べ床面積が25万2千平方メートルの巨大な建物となるようである。

阪急百貨店梅田本店は、新ビルの低層階部分(地上13階~地下2階)に再入居することで、営業面積が6万平方メートルから8万4千平方メートルへ拡大し、これによって日本最大級の百貨店になるらしい。



2011年には、すぐ隣のJR大阪駅北側に伊勢丹と統合した三越が、売場面積5万平方メートルで進出することが既に発表され、JR大阪駅南側の大丸梅田店も増床して売場面積が6万4千平方メートルに拡大するので、三社のサービス合戦が楽しみである。

三越の入る大阪駅ビルの建設現場



一方、阪急に統合された阪神電鉄の子会社である阪神百貨店は、1940年に阪神マートとして現在地に移転し、1963年に現在のビルが開業している。

阪神百貨店



阪神百貨店は、今年10月阪急百貨店と経営統合をして、阪急百貨店がグランドオープンする2012年にはビルの全面建替工事をスタートするという。

10月になれば、具体的な計画が発表されるのであろうが、先に南隣の新阪急ビル(1962年完成)を建替え、阪神百貨店を一時そのビルに移転してから現在の店舗を大型超高層ビルに建替するという案もあるらしい。

新阪急ビル



そのためには新阪急ビルを解体し、新「新阪急ビル」の建築を2012年までに完成させなければならないが、最終的には大阪梅田に巨大なデパートが4店も並立することになる。


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江戸幕府は、城の天守の高さに厳しい統制を敷き、幕府にとっての重要拠点となる城(江戸城、大阪城、姫路城など)以外5層の天守を許可しなかったので、豊臣時代に小出氏によって完成していた岸和田城には遡及適用されなかったようである。

戦後再建された天守は、本来の5層ではなく3層



ちなみに、歴代藩主が水戸家から出ていた親藩松平12万石の高松城も3層、譜代筆頭の井伊家35万石の彦根城も3層しかないので、岸和田城主は密かに自分の城を誇っていたに違いない。

二の丸の心技館



藩祖となる岡部長盛は、1590年家康が関東に移封されたとき、下総山崎藩1万2千石を与えられ、関ヶ原の戦いでは、上杉氏の南下に備えた守備で亀山藩3万2千石に加増されて丹波に移封してきている。



1615年、大坂夏の陣でも長盛は功績を挙げて福知山藩5万石に加増され、さらに1624年には西国を押さえる重要拠点である美濃大垣藩5万石へ移封されている。

二の丸の外側にある百軒堀



嫡男の岡部宣勝は、大垣、竜野、高槻城主を経て1640年に岸和田城主となっているが、以降明治維新までの230年間、13代に渡って岡部家が岸和田藩を治めている。

城の北側にある岸城神社



1871年の版籍奉還で多くの旧大名が新政府から距離を置く中、13代の岡部長職(ながもと1855~1925年)は、1875年に渡米してニューへブンズ大学、エール大学へ入学、大学卒業後には、イギリス公使館に勤務して臨時代理公使を務めるなど外交官となっている。

天守の前にある8陣の庭



その後外務次官、貴族院議員、東京府知事を経て第二次桂内閣の司法大臣を務め、旧藩主としては珍しく明治政府の要職を歴任している。

本丸周囲の石垣



岡部長職の長男、長景(1884年~1970年)は、外務省文化事業部長、内大臣秘書官長、宮内省式部次長、陸軍政務次官、貴族院議員、文部大臣などを歴任し、後に東京国立近代美術館館長にも就任している。

本丸内部の石垣



さらに岡部長職の三男、長挙(ながたか1894~1977年)は、朝日新聞社の創業者の村山龍平の娘婿となり、後に朝日新聞社長に就任しているので岸和田城主であった岡部家は、明治以降も各分野で活躍しているのである。


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南海岸和田駅から一つ和歌山側の駅が蛸地蔵駅で、そこから5,6分歩くと岸和田城である。



岸和田とは、岸という場所に攝津、河内、和泉の守護であった楠木正成の家臣、和田高家が1334年に築いた城があったので「岸の和田城」という言葉が縮まったことが地名の始まりらしい。

その当時の城は、現在の岸和田城から500メートル東側にあり、1583年に中村一氏が一時城主を務めている。

二の丸(左)と本丸(正面)



中村一氏が水口城主に転封後の1585年、小出秀政が入封して本格的な城砦建築が始まり、1597年には5重5階の天守を築いている。

別名猪伏山(いぶせやま)千亀利(ちきり)城と呼ばれる岸和田城は、6万石の大名の城としては面積、石垣の高さなど大規模な城で、天守閣の規模では32万石の岡山城に匹敵するという。



明治維新期に櫓・門など城郭施設を岡部家が破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していない。

本丸の入り口は櫓門1箇所だけ



現存する内堀石垣の下部には、城の防衛面から見ると弱点となる周堤帯(犬走りとも呼ぶ)があり、なぜこのような構造にされたかはわかっていないらしい。

本丸多門櫓



1827年、落雷のため5層の天守が焼失し、以来再建されなかったが、現在の天守は1954年3層で再建された模擬天守である。

小出秀政は、豊臣秀吉の叔父であったために、豊臣の大阪城を守る前線基地として大規模な岸和田城を作ることが許可されたのであろうが、大名の築城には厳しい届出制を敷いた江戸期には実現しなかった巨大な城となっている。

北西方向から見た本丸



小出秀政は、秀吉から片桐且元とともに秀頼の補佐役を依頼されていたので関ヶ原のときには大坂城にいて、出石6万石の大名となっていた嫡男吉政が西軍として行動している。

しかし弟の小出秀家が東軍に属して戦功をあげていたため、小出秀政は本領を安堵され吉政、吉英と岸和田で3代続き、吉英の代に元の出石に転封している。

北側から見た本丸(石垣が補修されている)



1619年には、譜代の松平(松井)康重が5万石で入封し、2代城主を務めているが、2代康映(やすてる)のときに播磨の山崎、その後石見の浜田に転封している。

本丸の東側は岸和田高校



譜代大名の松平(松井)康重の家系は、後に老中を輩出する重要な地位を占めているので、松平の姓を許されていた松井家は、徳川家に相当信頼されていたようである。


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1640年から岸和田城主となった岡部家の3代目岡部長泰(1650~1724年)が1703年に伏見稲荷を城内の三の丸に勧請し、岸和田藩主と領民が、三の丸稲荷神社に五穀豊穣を祈願した稲荷祭が「だんじり祭り」の起源というから、304年の歴史を誇る祭りである。



欅(けやき)で作られ大太鼓や鐘、笛を備えた「だんじり」は、岸和田旧市街地で22台もあるので、すべての「だんじり」が集結するポイントとなるカンカン場では、有料観覧席でひっきりなしに通過する「だんじり」を終日楽しむことができる。

だんじりの後方が有料観覧席



但し、屋根が無いので暑い上に、「だんじり」と観覧席の間には20~40メートルくらいの距離があるために臨場感には少し欠けることになる。

「だんじり」は、500人程度の曳き手が合図と同時に「ソリャ、ソリャ」の掛け声で全力疾走する勇壮な祭りで、山鉾を静かに曳く京都の祇園祭が「静」の祭りなら、「岸和田だんじり祭り」は「動」の祭りということになる。



基本的には、16から22歳程度までの若者が綱を曳くというが、今では結構若い小中学生も混じっているようで、祭り独特のヘアスタイルをした若い女の子が曳き手に多いのが目に付いた。



しかし欅(けやき)でできた「だんじり」には、女神が宿ると信じられているため、女性を「だんじり」に乗せることはないという。



祭礼第1日目の午前6時から各町の「だんじり」22台が一斉にカンカン場へ向かって繰り出し、午後1時から南海岸和田駅前商店街アーケードで『パレード』が行われている。



パレードの後には、午後5時まで曳き回しがあるが、このときにはカンカン場から岸和田駅前方向に200メートルくらいの所にある交差点で左右に「やりまわし」するので、駅前商店街アーケードの方向に進む「だんじり」は途切れてしまうことになる。



従って、3時以降に南海電鉄岸和田駅前や駅前商店街アーケードで待っていてもなかなか「だんじり」の通過を見ることができないので、「だんじり」を見たい人は、駅前商店街を真っ直ぐ海の方に進み、小門紙店と書かれた建物の辺りまで歩くと良い。



交差点での「やりまわし」や、風を切って疾走する「だんじり」を、すぐ近くから観覧できるので有料観覧席で見るよりもはるかに迫力のある祭りを体験できるのである。


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