イギリス外交官アーネスト・サトウ(1843~1929年)は、明治15年(1882年)まで日本で勤務、そのあとバンコク総領事、バンコク公使、ウルグアイやモロッコでの勤務を経て、明治28年(1895年)日清戦争後の東京にイギリス公使として再度赴任しています。
その後清国イギリス公使を務め、明治39年(1906年)45年間に渡る外交官生活に終止符を打って帰国、母国イギリスで23年間もの長い引退生活を送って亡くなっています。・・・カルガモの親子
そのサトウの著書にある1868年のパークス事件は前回紹介しましたが、徳富蘇峰も著書「近世日本国民史」にそれを書いていますのでカルガモのひな鳥と一緒に紹介しましょう。<・・・>がその引用・・・カルガモの翼鏡部
<(中略)道路狭隘、転折(Uターン)するの余地無ければ、パークス公使を始め後藤象二郎(土佐藩士・当時30歳)等も道路の混雑何事なるを知らず。中井弘(鹿児島藩士・29歳)は最初前導(先導)に在りて、はるかに後列の変を見やるに、一人の暴徒が列を衝き、すでに騎兵を斬りし体にて>・・・左のひな鳥がまだ短い翼を広げていますね。
<なお白刃を持って襲撃せんと進み来れば、(中井)あわやと驚き急に馬上から飛び降り、佩刀を抜きかざし、飛鳥の如く馳せ返り撃斥けんとするに、暴徒抵抗し、中井に立ち向かいて烈戦す>・・・中央のひな鳥も翼を広げています。
<中井と等しく真っ先に前導せし土肥真一郎、宇都宮靭負の両官吏はこの急変に狼狽し、中井の危機を援けんとはせず、(中略)駆け出して三条大橋の方に至る>・・・右のひな鳥の翼
行列の真っ先にいた土肥真一郎(宇和島藩士・当時30歳)と宇都宮靭負が本来の護衛者で、英国留学経験のある中井は外国事務局接待役であり、警護の役目では無かったのです。・・・ひな鳥達は、かなり寛いでいますね。
土肥真一郎、宇都宮靭負という要人警護のシークレットサービスが逃げてしまい、代わって外務省高官(中井)が真剣を抜いて戦い、暴漢を制圧したのです。これで命を救われたパークスが中井と後藤を激賞した理由が判ります。・・・1羽だけクローズアップしてみました。
ところで土肥真一郎とは、後に第七代大阪商工会議所の会頭を務めることになる土居通夫のことで、彼の伝記「土居通夫君伝」には、土居は田宮流剣法の免許皆伝だったとあるので、逃げた理由は何だったのでしょうか。・・・この2羽はとうとう熟睡モードに突入です。
参考文献:明治の元勲に最も頼られた名参謀 中井桜洲 屋敷茂雄著