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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1608年、筒井氏に代わって藤堂高虎(1556~1630年)が伊賀と伊勢22万石に移封され、その際に筒井氏の伊賀上野城を大幅に改築しています。



藤堂高虎は、豊臣方に向けた備えとして西側に堀と高い石垣を造り、新たな天守を建築しましたが、天守は完成直前1612年の暴風で倒壊、以降上野城に天守閣が建てられることはありませんでした。



現在の伊賀上野城天守閣は、昭和に入ってから地元出身の国会議員川崎克(1880~1949年)が先頭となって新築したものです。



江戸期に存在しなかった天守閣は、伊賀文化産業城と呼ばれ、日本100名城にも選ばれています。



江戸時代の藤堂氏は、筒井定次時代の本丸に城代屋敷を建て、当初は高虎の弟高清、その後7000石(後に5500石)の藤堂采女元則を城代として置き、藩主は江戸に近い津城を居城としています。

城代屋敷への石段



さて、時代は一挙に慶応4年(1868年)1月まで下り、鳥羽・伏見の戦いの際、伊賀城代の藤堂采女元施(もとひろ、1836~1877年)の活躍を書いた冊子「最後の伊賀城代」(著者:藤林明芳氏)を読んだので紹介しましょう。

上野城から見た伊賀盆地



当時、幕府軍として天王山麓の山崎に布陣していた藤堂采女元施の率いる藤堂勢750名は、淀川の東側3キロ先にある現職の老中、稲葉正邦(1834~1898年)の淀城が寝返り、撤退する幕府軍の入城を断っているのを見て仰天しています。



稲葉家10万石は、徳川家光の乳母、春日局の実子、稲葉正勝から始まる名門譜代大名で、以前このブログで紹介したことがあります。

上野城本丸西、高い石垣の上



当初、老中の居城淀城で体勢を立て直す予定の幕府軍は、仕方なく淀城下に火を放ち、淀川沿いに約4キロ下流にある橋本付近まで後退したのです。

本丸の北の石垣



この時点で幕府軍(1万5千)は、薩長軍(6千人、そのうち出動したのは1500人)の10倍、集結した橋本は、東に男山、西に淀川を控え、地の利も幕府側に優勢で、翌日の戦闘では勝利間違いないと思われていました。

石垣



しかし1月5日の夜更け、藤堂勢の陣営に錦旗を持った勅使、四条隆平(たかとし、後に元老院議官、男爵1842~1910年)が長州藩に護衛されて来訪し、幕府軍を砲撃するよう厳しく申し渡したのです。

つづく


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伊賀上野は、藤堂氏の城下町として知られていますが、藤堂氏の前の城主は大和を支配していた筒井順慶の養子、筒井定次(1562~1615年)です。

上野天神宮とある菅原神社



1584年、順慶の死により家督を相続した定次は、翌年大和から伊賀上野に移封(減封)されましたが、小牧・長久手の戦い、秀吉の四国征伐、九州征伐、1592年からの朝鮮出兵など、秀吉が行なった戦争の大半に従っています。

傾いた鳥居



上野城は、その筒井定次によって平楽寺の跡地の丘に築城されていますが、その地にあった鎮守社を城下に遷座したのが菅原神社とされています。

菅原神社の裏の鳥居



筒井定次は、関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川家康から一旦所領を安堵されましたが、1608年改易されているので、伊賀上野を支配した期間は僅か23年間だけでした。

楼門



ちなみに石田三成の家老として関が原で獅子奮迅の働きをした島左近(1540~1600年)は、筒井順慶の家臣でしたが、定次とは意見が合わず、筒井家を去っていますので、定次という人物の器量が判ります。

拝殿



1608年、藤堂高虎が筒井氏に代わって伊賀と伊勢22万石に移封されると、翌年には、早くも菅原神社を再興したと伝わっています。

神社の南側



この菅原神社には、毎年10月に挙行されるだんじり巡行で有名な上野天神祭があり、今から320年以上前の1682年に早くも天神祭礼倹約令が出されているので、当時から相当派手な祭りだったようです。

拝殿



現在の菅原神社の楼門(三重県指定文化財)は、1701年に着工された記録が残っているので、近所に住んでいた松尾芭蕉(1644~1694年)は見ていないようです。

楼門の内側



また、拝殿の前にある鐘楼も、楼門同様に1701年に着工された記録が残っていて、神社に鐘楼とはなかなか珍しい取り合わせです。



一旦南門から外に出て、境内の外側を回って見ると、東側に稲荷社があり、朱色に塗られた鳥居が綺麗でした。




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ちょとした用事で伊賀市までいくことになり、上本町から近鉄大阪線に乗って伊賀神戸駅で下り、伊賀鉄道に乗り換えて上野市駅に向かいます。

伊賀鉄道の電車



この伊賀鉄道は、近鉄から鉄道事業を2007年に引き継いだ新しい会社ですが、実は1917年から1926年までの間、伊賀鉄道という会社がこの地にあり、この路線はその旧伊賀鉄道によって1922年に開通しています。

くの一号



伊賀神戸駅から上野市駅までの大部分は伊賀盆地の田園地帯で、緑一色の田園風景を車窓から眺めながらの旅となりました。



さて、26分で上野市駅に到着ですが、三重県上野市は2004年に合併によって伊賀市に市名変更されているので、上野市という市名はもう存在していないのです。



伊賀といえば忍者の故郷として有名で、なかでも服部半蔵は徳川家康の配下として歴戦し、家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され、8000石を領したというので、大名に近い待遇だったようです。

観光地図の忍者



伊賀盆地には服部川という川があり、上野城主藤堂家には服部姓の上級武士もいたので、服部一族はもともとこの辺りの土豪だったのではないでしょうか。

伊賀盆地



駅前には、伊賀市が誇る超有名人、俳聖松尾芭蕉の銅像が建ち、歩いて10分くらいの場所に芭蕉の生家も残っています。



人口約10万人という伊賀市の中心部は、戦災を受けなかったためか、古い民家が残っていてなかなか情緒があり、この建物はイタリア料理店として使われているようです。



菅原神社の東側には、伊賀街道基点という標識と、石の道しるべが建っていましたが、その横にある薬局も素晴らしい古建築でした。



用事が終わって、上野歴史民俗博物館に立ち寄ってみると、懐かしい昭和に会える部屋が復元されていました。



かつて、日本の人々は、このような部屋で、ゆったりと暮らしていたことを思うと、現在の暮らしが余りにも便利になりすぎていることに驚かされます。


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大阪港の中突堤に至る防潮堤の内側、向って左側に明治天皇聖躅(せいちょく)、大阪築港事務所と刻まれた石碑が残されています。



当用漢字には無い「躅(ちょく)」という文字は、足跡という意味なので、明治天皇が大阪に行幸された際に立ち寄り、足跡を残された場所に建てられた石碑のようです。



NETで検索してヒットしたのが、平尾修一さんの「明治天皇聖躅(せいちょく)碑を訪ねて」でした。

築港事務所聖躅碑前の道路と咲洲トンネルの防潮壁(左)



その記事によれば、大阪に8回も行幸された明治天皇のご恩を忘れないよう、末永く後世に伝えようとの意図で、大正天皇御成婚25年(大正14年、1925年)の奉祝事業として大阪市内31個所に建てられ、84年後の今も21か所が残っているようです。

大阪城鉄筋門跡



私が最近見たのは、大阪城京橋口の東にある鉄筋(すじがね)門の外側にある大阪砲兵工廠跡の聖躅碑です。



次に大阪府知事公館の向かい側にある聖躅碑は、大阪英語学校跡地に建てられていました。



すぐ近くの建物の壁に、説明書があり、明治7年(1874年)にこの地に大阪英語学校(第三高等学校の前進)が建てられたとあるので、今から135年も前のことです。



最後が、リーガロイヤルホテル入口にある明治天皇聖躅碑で、大阪砂糖製造所跡とあったので、リーガロイヤルホテルは、明治時代の砂糖工場跡地に建っていることになるようです。



ところで話はそれますが、明治天皇の母親は、孝明天皇の妾、中山 慶子(1836~1907年)で、彼女の父親は権大納言・中山忠能(1809~1888年)です。

大阪城鉄筋門横の大阪砲兵工廠時代の建物



1895年日本に亡命していた孫文(1866~1925年)は、清朝政府からの国際手配から逃れるために東京で偽名を使っていますが、その日本名「中山 樵」は、中山忠能の孫(孝麿)にちなむものです。

大阪英語学校跡地前の大阪府知事公邸



東京で最初に宿泊した宿屋の手前にあった中山侯爵家の表札を偶然に見た孫文は、「中山」という姓と、山の中に住むきこりから「樵」をとっさに思いついたようで、以降も孫中山と名乗るようになっていますが、さすがの孫文も「中山」が明治天皇生母の実家とは気がつかなかったようです。


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大阪における陶磁器商のおこりは、肥前鍋島家の上屋敷に肥前物の伊万里焼が回漕され、それを商人が扱ったことに始まるといいます。

坐摩神社



その後尾張産の陶器、つまり瀬戸物を扱い始めたことにより陶磁器商は急成長を遂げ、西横堀問屋街が形成されています。



その後も瀬戸物の大商いは続き、1680年には江戸堀から四つ橋までの西横堀が「瀬戸物町」と呼ばれるようになり、今もその名残となる陶磁器商を数軒見ることができます。

四つ橋付近の西横堀跡



幕末から明治、大正にかけての瀬戸物町には、200以上の陶磁器商店が軒を並べ、近畿、四国、北陸地方にその販売網は広がっていたようです。

坐摩神社の境内のスイレン



藁を荷造材料として大量に使う西横堀せともの町の陶器商人は、江戸時代に火防の神として愛宕山将軍地蔵を守護神と仰ぎ、厚く信仰していたようです。

坐摩神社の境内のハス



その瀬戸物町の商人たちが、毎年夏に端物や見本品を一般の人々に安く提供したのが「せともの市」で、江戸時代初期から受け継がれてきたようです。



陶磁器商達は、1872年火防地蔵尊に代って靭南通一丁目に火防陶器神社を創建しましたが、1907年、市内電車敷設のために、坐摩神社の境内に移転したようです。

坐摩神社の境内のむくげ



しかし、1945年に戦災に遭ったために西横堀浜筋に再建されましたが、1971年阪神高速道路の敷地となったことで坐摩神社の境内に再び移転しています。



移転した陶器神社の扁額は、火防陶器神社の名にふさわしく燃えない陶器製で、野球の火消し役となる押さえのピッチャーに、ぜひ紹介したい神社なのです。



坐摩神社の境内では、「大阪せともの祭」が催され、ここでは器への感謝の気持ちを込めて、「茶碗供養」があるので有名です。



先週の23日、その「大阪せともの祭」が開催されていましたが、今日の坐摩神社はその屋台が片付けられて静かでした。



坐摩神社の神紋、サギにちなむサギソウは、丁度今が開花の季節なので展示がしばらく続きそうです。


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仕事を終えて高松駅に戻り、マリンライナーに乗って岡山に向かうと、ほどなく瀬戸大橋にさしかかります。



瀬戸大橋を渡る鉄道の距離は32,4キロもあり、海峡部分9,4キロにある6つの橋を総称して瀬戸大橋と呼ぶようです。

高知空港から伊丹空港までの途中に見えた瀬戸大橋(窓ガラスの色で青く見える)



明石海峡に架かる単独の吊り橋、明石海峡大橋は、長さ3、9キロなので、それを遥かに上回る世界に誇る巨大な海上大橋で、上下2段の道路鉄道併用橋です。

明石海峡大橋



マリンライナーから見えてくる南北に分かれた備讃瀬戸大橋は、与島と番の州との間の備讃瀬戸を横断する瀬戸大橋最大の橋梁で、両橋の中間に共有アンカレイジがある3径間連続補剛トラス吊橋です。

備讃瀬戸大橋



南備讃瀬戸大橋(全長1723m)は、最大支間長1100mで明石海峡大橋に次ぐ日本2位、北備讃瀬戸大橋(全長1611m)は990mで日本5位にランキングされています。



北備讃瀬戸大橋の下の海域は、瀬戸内海の主要航路で大型船の往来が激しいため,橋桁の高さは明石海峡大橋の高さと同じ海面から65mもあり,世界最大といわれる50万トン級の大型船が通過できる高さとされています。

海面は遥かに下にあり、空中を走っているような錯覚を覚える



3つ目が、与島橋(全長877m)ですが、この橋はゆるやかなカーブを描いていて、マリンライナーの最前部から見ると不思議な景色が広がっています。



続いて岩黒橋(全長792m)5つ目が櫃石島橋(全長792m)、6つ目が下津井瀬戸大橋(全長1447m)です。

遥か先に下津井瀬戸大橋が見える



この6つの橋(全長32,4キロ)を含めた香川県坂出と岡山県児島をわずか15分でマリンライナーは通過して、ほどなく岡山に到着です。

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仕事で久しぶりの高松出張があったので、新幹線で新大阪から岡山に向かい、そこで瀬戸大橋を通るマリンライナーに乗り継ぎました。



高松行きの快速電車「マリンライナー」は、児島から坂出までノンストップ約15分で瀬戸大橋を通過してしまうので、岡山県と香川県は意外と近いようです。

岡山駅の表示文字は、大きくて非常に判り易い



近代的なビルとなっている高松駅から、兵庫町のアーケード商店街まで歩き、昼の食事をとる饂飩屋を探しました。



しかし、さすがに讃岐うどんのメッカ高松、商店街にある昼時の饂飩屋さんは、どこも行列ができていました。

兵庫町商店街



それでも粘って探し回り、商店街から1本北側にある三越高松店前の路地にやっと何とか座れそうな饂飩屋をみつけて入りました。



店の表に簡単なメニューが出ていたので、きつねうどんの中サイズを注文してみると、出てきたドンブリ鉢にうどんが大量に入っているではありませんか。

はなまるうどんもありました



悪戦苦闘して何とか全部平らげましたが、高松の人でなければ小サイズで十分ではないかと思いました。

アーケード商店街にあるイベント広場



完食することに全力をあげていたので味の記憶は定かではないですが、とにかく讃岐うどんを堪能することはできました。



そこで腹ごなしに丸亀町通りのアーケードを散歩してみると、讃岐うどんの本場にはファーストフードの店が全く見当たりません。



高松では、ファーストフードとして饂飩に市民の絶大な支持があるので、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどは商売にならないと聞きました。



丸亀町通りを入った場所に、高松に本店を置く百十四銀行創業の地の石碑を見つけました。



この創業の地では今も百十四銀行高松支店が営業を続けているので、114年を遥かに越える131年という歴史を誇っています。


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さて、先日は長居植物園の蓮池のハスとアメリカフヨウを紹介しましたが、今日はそれ以外の花について紹介をしたいと思います。

蓮池



まず、バラ園のバラですが、真夏の暑さに近いこの時期に、未だ咲いている株がありましたので、まだまだバラを楽しめそうです。



次に果樹園に入ってみると、ザクロの実や梅の実がかなり大きくなっています。この実の収穫はどうなるのでしょうか。



果樹園に近い場所にあるデイゴや、アメリカデイゴの花は終わっていましたが、ヒシバデイゴの花を見ることができました。



次に大池の東側にある芝生広場に出ると、秋に美しい紅葉を見せてくれる中国原産のナンキンハゼの花を見ることができました。



ナンキンハゼは、7月頃に枝先に長い穂状の雄花の花序をつけますが、根元付近にある雌花はすでに結実していました。



大池の北側にはスイレンが咲いていましたが、ハスの花とくらべるとやはり地味ですね。



そのスイレン池で写真を撮っていると、近くにいたアマチュアカメラマンから、糸トンボがいますよと声を掛けられました。



よく見ると、胸部が緑色、腹部が青色のアオモンイトトンボのオスと、全身が褐色をしたメスが水草につかまって交尾をしているではありませんか。



イトトンボ亜目は、腹部が細くてよく曲がるため、交尾中の連結部分がハート型をつくるのが特徴ですが、このカップルのハートは少し扁平でした。



さて、イトトンボのハートを見てから蓮池に戻ると、開花したハスの花の下になにかくっついているものを見つけました。



蝉の抜け殻のようにも見えますが、水中からこのハスの茎を登ってきたのでしょうか。


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難波から本町まで御堂筋を歩いて通勤していると、いろいろな景色から季節の移ろいがよくわかります。

ビルのガラス掃除



まず、御堂筋のイチョウをじっと見てみると、ギンナンの実がかなり大きく成長していることに驚かされます。



シャネルのショップのマネキンは、季節を先取りして、もう秋のファッションに衣替えしていました。



シャネルの先にある難波神社では、氷室祭りがあったようで、当日には境内の中に所狭しと屋台が置かれていました。



氷室祭りには、毎年製氷会社から氷柱の奉納があり、参拝者にはかちわり氷が授与され、この氷を食べると夏負けしないそうです。



また難波神社に程近い坐摩(いかすり)神社では、恒例の「せともの祭」が開かれていて、ここには瀬戸物を売る屋台がでていました。



その屋台の先に、坐摩神社の神紋とされる鷺丸にちなんだ「サギソウ」の鉢植えが展示されていて、その中の一部が開花していました。



「サギソウ」は、ラン科の多年草で、唇弁が幅広く、その周辺が細かい糸状に裂ける様子がシラサギが翼を広げた姿に似ていることからそう呼ばれています。



花期になると茎が単立して高く伸び、時には50センチにも達し、先端近くに1輪から数輪の白い花をつけるのが特徴です。



開発による自生地の減少に加えて、盗掘があとを絶たないため、今では自生状態でみられる場所はきわめて限られ、準絶滅危惧種に指定されているようです。



こうして、御堂筋から程近い神社など寄り道しながらブラブラ歩き、工事中のセントレジスホテルの前で本来の通勤ルート、御堂筋に戻るのです。



今の季節の御堂筋徒歩通勤は、かなり汗をかくので着替えを持参しておかないと、朝から不快な気持ちを引きずることになります。


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今日、インドから中国揚子江(長江)流域を経てトカラ列島で見られるはずだった「皆既日食」(中国では長江大日食と呼ぶようです)は、多くの観測地で雨か曇りだったようですが、それに伴う部分日食を大阪でもチョットだけ見ることができました。



日本で見ることのできた「皆既日食」は、前回が1963年7月なので、46年間に1度あるかないかの珍しい天文現象なのです。

靱公園



今回、皆既日食の継続時間が今世紀最大となったのは、地球が太陽から遠い位置にいるために太陽が小さく見え、 たまたま月が地球に近い位置にいる関係で大きく見えることから、月が太陽を隠す時間が長くなったそうです。



大阪では11時5分頃に、太陽の82%が月に隠される部分日食だったので、カメラを持って曇り空の靱公園に出かけてみました。



靱公園には、先客が約100名はいたでしょうか、皆さん雲の上の太陽を真剣に見つめていましたが、残念ながら雲が厚くて太陽の輪郭が判りません。



食が最大となる11時頃には、靱公園の中がかなり暗くなり、夕方のような景色となっていました。



諦めずに空を見ていると、雲の切れ目から最大82%も欠けた太陽を一瞬見ることができましたが、すぐに厚い雲に隠れてしまい、なかなか観測できるタイミングがやってきません。



ところが、日食を楽しみに繰り出した人達の中に、雲の切れ間から欠けた太陽が姿を見せた瞬間、「アー」と大きな声を出す人がいましたので、そのときに空を見ればよいというコツをつかみました。



それからは、「アー」の声で見上げるようにしたので楽に観測できましたが、欠けた部分が次第に戻りはじめ、雲が薄くなってきたので、コンパクトデジカメのズームを最大にして撮ってみました。



次に大阪で見られる部分日食は、2012年5月の日食で、天気が良ければ太陽の94%が月で隠れる、いわゆる金環食を見ることができそうです。



その次が2020年6月21日、このときには約54%の部分日食なので、2012年や今回に比べると迫力不足は否めません


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長居植物園の入り口にある開花情報によれば、草木類の最初にハス、二番目にアメリカフヨウ、花木類の最初にはフヨウ、2番目にムクゲとありました。



ハスについては、昨日のブログで紹介したので、今日は長居植物園のアメリカフヨウとフヨウを紹介しましょう。

アメリカフヨウ



長居植物園の蓮池からハーブ園に向かう通路には、丁度アメリカフヨウの巨大な花が満開でした。



アメリカフヨウは、アオイ科ハイビスカス属に分類されているように花の姿がハイビスカスに実によく似ていますが、花弁が円盤状になっているのですぐに区別できます。



長居植物園のハーブ園には、ハイビスカスもあり、夏に似合う真っ赤な花をつけていました。



米国アラバマ州の原産で、7~9月頃にハイビスカスよりもやや大きい直径20cmにもなる花をつけ、中央から雄しべが突出している姿は、同属のハイビスカスと良く似ています。



花弁は、浅い皿状に広がって互いに重なるため、円盤のように見えるのが特徴で、葉は裂け目の少ない卵形です。



一方、フヨウ(芙蓉)は、アオイ科フヨウ属の落葉低木で、草本性のアメリカフヨウと区別する場合は、あえてモクフヨウと呼ばれています。

フヨウ



長居植物園のバラ園の外側にアメリカフヨウとフヨウを一緒に栽培しているポイントがあり、花がやや小さい低木のフヨウと、花が巨大な多年草アメリカフヨウはすぐに見分けることができます。

アメリカフヨウ



フヨウの原産地は中国で、7~10月始めにアメリカフヨウの半分くらいの直径10~15cm程度の花をつけ、花弁が重ならないのが特徴です。

アメリカフヨウ



フヨウと同属のムクゲも同時期に良く似た花をつけますが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、フヨウは横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていることで容易に区別できますが、今回はムクゲの花の写真を撮りそこねました。


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大阪市内にある長居植物園、蓮池については先月このブログで紹介しましたが、ハスの開花も進んでいるのではと思い、天気はあまり良くなかったですがチョット出かけてみました。



地下鉄長居駅から長居公園に出てみると、さすがに蒸し暑く、汗が噴出してきましたが、とりあえず東に向かって歩き、7,8分で長居植物園に到着しました。



入り口でチケットを買おうと思ってよく見ると、7月18日から8月26日まで、植物園と自然史博物館は無料と掲示してあります。



これは大阪市の「子供が元気、大阪が元気キャンペーン」に協力して実施されているそうで、天王寺動物園、天王寺公園、科学館、なにわの海の時空館も無料と書いてありました。



さて、正門から植物園にはいると、大勢の高齢アマチュアカメラマンが、望遠レンズのついたカメラを蓮池に向けていました。



高齢カメラマンの持っているカメラは、高級デジタル一眼レフカメラが多く、望遠レンズはかなり高価なので、今の日本の高齢者がかなり裕福であることが判ります。



今回は、とりあえず蓮池を左回りに一周してみましたが、すでに開花が終わり、蜂の巣のような花托だけになってしまっている株が多かったようです。



それでも、かなりのハスの花が満開となっていて、中にはまだ蕾もみることができました。



インド原産というハスは、蕾の段階ではピンク色をしていますが、開花が進むと白が強くなり、中心部分が黄金色になるようです。



古代インドのヒンドゥー教では、泥から生えて気高く咲く花や、大きく広がり水を弾く葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴とされていたそうです。



このイメージは仏教にも継承され、極楽浄土の象徴とされたため、蓮華をかたどった台座に仏像を乗せたり、厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしています。



また、死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があることから「一蓮托生」という言葉の語源になっているそうです。


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さて、通勤途中に立ち寄った靱公園の中は、緑が多くて木陰は結構涼しいですが、朝日の当たる場所はやはり暑いですね。

靱公園のヒメアカタテハ



靱公園バラ園の手前に朝日に照らされた紫の花があり、丁度ヒメアカタテハとアオスジアゲハがしきりに蜜を吸っていました。

アオスジアゲハ



ヒメアカタテハは、カメラを近づけてもしばらくじっとしていましたが、アオスジアゲハは少しもじっとしていてくれません。

ヒメアカタテハ



チョウの写真を撮ってから、バラ園に入り秋になると色づくバラの実がどうなっているのか探してみました。

バラ園



東側の小高くなった場所(以降土手とします)に上がると、原種に近い地味なバラが点在していますが、土手の上は滑りやすいので滑りにくい靴が必要でしょう。



最初に見つけたバラの実は、少し色づいていましたが、まだ殆どは青い実のままで、最近消毒したのでしょうか、白い薬剤のようなものが付いていました。



次に、北東部分の土手に真っ赤に熟した小さなバラの実を見つけることができ、その色の美しさにちょっと感動しました。



バラの実は、秋にならないと熟さないと思っていましたが、梅雨明け前の季節でも熟す株もあるようですね。



一旦バラ園に下りて、平地にある大輪のバラの株の中を探してみましたが、花が咲いた部分はすべて剪定されているので、バラの実を発見することができませんでした。

バラの実



そこで、南東側にある土手に登って見ると、バラの実が稔っている株を見つけることができました。



ちょっとみただけでは、小さなトマトのように見え、これをバラの実と判る人は少ないのではないでしょうか。



次の株を見ると、棘だらけの大きなバラの実を見つけました。



靱公園のバラの実は、やっと色付きはじめたばかりなので、これから秋まで永く楽しめるようですが、ひょっとすると野鳥に食べられてしまうかもしれませんね。


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7月も中旬を過ぎ、梅雨明けが近い大阪は毎日蒸し暑い日が続いていますが、実は朝の通勤散歩を未だ続けているのです。



四つ橋線難波駅を出て、湊町リバープレイスの前に出ると、道頓堀川に架かった吊り橋、浮庭橋が朝日に照らされてきれいに見えています。



深里橋を渡ると、広大な駐車場に総選挙の立候補者事務所がはやばやとできているではありませんか。



そのまま四つ橋筋を直進し、立花通りの入り口から通りを見ると、早朝のためか人通りがまったくありませんでした。



長堀通りに出ると、大阪市消防本部の建物が解体中でしたが、去年2008年3月から大阪ドームの西側にできた新庁舎(西消防署併設)に移転していたようです。



其の先を急ぐと、高層部の壁がタイル貼りとなっているINAX大阪ビルが、青空の下に直立していました。



早朝の四つ橋筋は、御堂筋と違って車も人も少なく気持ちの良い散歩コースで、大阪の都心とは思えないくらいに静かなのです。



花王大阪ビルの前に、立売堀川跡の小さな石碑が建っていましたが、それによれば1626年から1956年まで、330年という永い間ここに堀川があったようですが、今の大阪市民でそれを知る人はもう少数でしょう。



さて、オリンパスのショールームが見えてくると中央大通りとの交差点で、現在この北東角地にオリックスの本社ビルが工事中です。



さらに前に進むといよいよ本町通りとの交差点ですが、この交差点の北東角地にあるビルの外壁はミラーガラスでできています。



そのミラーに周囲のビルが映って、独特の景観を作っていますが、ミラーが西日を反射し過ぎると近所迷惑となるのではないか心配です。



本町通りとの交差点を過ぎるとじきに靱公園の入り口ですが、靱公園のことは明日のブログで紹介したいと思います。


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阪急電車六甲駅の山の手にある「ジークレフ六甲の丘」の前の勾配のキツイ道路を下り、「コスモハイツ六甲台」、「パレロワイヤル六甲台」の横を過ぎると厳島神社が見えてきます。



こんな高台に厳島神社が何故と思いながら境内に入ると、由緒を書いた石碑に治承4年(1180年)平清盛の創建とあるではありませんか。



そのころからここに鎮座しているとすれば、既に830年近い歴史があるので、この辺りは意外と歴史のある場所のようです。



さて、その拝殿の正面にある急な石段を下りて、西に向かって二つ目の路地を右折すると「ザ六甲アパートメンツ」(1983年完成)が見えてきます。



このマンションは、完成から既に26年が経過していますが、傾斜角60度の斜面に嵌め込まれたようなデザインに古さを感じないのが不思議です。



周囲から少し凹んで谷のようになった斜面にあるので、マンションの存在は目立ちませんが、住戸からの眺望は良さそうでした。



また巨大な建物を想像していたら、意外とこじんまりした集合住宅で、周囲の自然に溶け込み威圧感が無いのが特徴でしょう。



そのすぐ右隣が最近の安藤作品の特長を色濃く持った「パラマウント六甲」(1993年完成)です。



英語のパラマウント(paramount)とは、最高とか至上のという意味ですが、最上階の梁と柱のフレームが空間を切り取り、美術館のように見える集合住宅でした。



「パラマウント六甲」の向かって左側には、勾配のきつい階段がありましたが、その空間も芸術作品のようです。



この2つの建物は、安藤氏の代表的な集合住宅作品として意外と有名なようです。



近くに、安藤忠雄建築研究所の「六甲の集合住宅」4番目の建物が工事中で、もうじき完成と聞きましたが、今回の探訪では見つかりませんでした。


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