野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



阪急梅田駅から電車に乗って烏丸駅で下り、錦市場商店街を東に向かって散歩してみました。朝8時頃ですが、まだシャッターを下している店が多いですね。

しば漬で有名な打田さんは、もう開店準備が完了していました。

京野菜のかね松さんも、スタンバイできているようです。

三木鶏卵さんは、仕込みの真っ最中でした。

近新さんの店内では、入荷した魚の仕分けでごった返しています。京都の夏の魚、ハモの姿も見えました。

京がんも・生麩・湯葉の近喜商店さんも開店準備完了ですね。

酒屋の津之喜酒舗さんもスタンバイOKですが、早朝から売れるのでしょうか。

包丁の有次さんのシャッターには、「蕎麦打ち」と「包丁の研ぎ方」のノウハウが書かれていましたが、このノウハウは開店前に来た人だけが見ることができる特権です。

つづく



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先日、海士町にある漁港の夜景をご紹介しましたが、今回は漁港に面した集落(漁村)の夜景をご紹介しましょう。

月に照らされた漁港には、意外と明りの点いた家が少ないですね。

広場に面した集落は、ひっそりとしていて、人通りがまったくありません。

ユリの花の先に見えるのは、人の住んでいない廃屋です。

これも廃屋。

かつては賑わった集落のメインストリート。

その先に、1軒だけ雑貨屋さんが営業していました。

港に戻り、防波堤まで散歩してみると、月の下に漁火が見えていました。

人の姿の無い静かな漁村の夜景は、なかなか味わいがあります。



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海士御塩司所へ至る道の反対側は、天川の水へ至る道となっています。

そこで日本名水100選、日本疏水100選の両方に選ばれた天川の水まで散歩をしてみます。天川の水疏水が注ぎ込む保々見地区の稲田。

稲田の中に突き出た尾根の下には、天川の水が湧き出る場所があります。

地元で不動さんの水と呼ばれているのは、湧き出し口に不動尊の石像(左側)があるためでしょう。

日本名水100選、日本疏水100選に選定されたことを示す看板。

不動尊石像の右側にある石仏。手前の石碑の横には、享保十八年五月(1733年)の銘が刻まれているので、約280年前から使われている湧水であることが確実です。

古い不動尊(左)と比較的新しい地蔵尊像(右)、湧水の湧出口には、スイカが冷やしてありました。

天川の水をそのまま飲んでみたら、ミネラルウオーターには無い、かすかな甘いコクのようなものを感じました。

天川の水の右側は、清水寺へ続く石段があり、両側には石仏が置かれていました。

天川の水を水筒に入れて持ち帰り、大阪の戻る途中に飲んでみると、日本100名水に選ばれた訳が良くわかりました。



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隠岐の記事の連載中ですが、別府発大阪南港行きの「さんふらわあ こばると」に乗る機会があり、その航海中に見た明石海峡大橋(建設期間1986~1998年)が素晴らしかったので、ご紹介したいと思います。

「さんふらわあ」は、世界最長の吊り橋(建設費5千億円)の手前で大きく左に舵を取っています。海峡の西側から見た明石海峡大橋、主塔と主塔の間、中央支間は1991m。

朝日が眩い6時少し前、いよいよ明石海峡大橋にさしかかります。こちらは明石側の主塔。高さは海面から約298mもあります。

橋を潜る瞬間を見ようと、早朝にもかかわらず10人くらいの乗客が最上階デッキに出てきていました。

橋を潜る直前です。こちらは淡路島側の主塔。

明石海峡大橋の直下、「さんふらわ こばると」が意外な高速(時速40キロ)で航行していることがよく判りました。

通過したあとは、朝日に照らされた明石海峡大橋の東側を見ることになります。

橋の全体が見える位置まで来ると、「さんふらわあ」は、船尾を淡路島に向けるように左に大きく舵を切ります。

大きく左に舵を切ったので、明石海峡大橋は、この角度からしか見ることができなくなりました。

大阪南港から九州への旅は、近く連載スタートする予定です。



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今回は、菱浦港の直売センター(キンニャモニャ会館)でアワビ、サザエ、ニーナを調達、小型サザエとニーナは、釜ゆでにしておきます。

ニーナの貝殻を頂型、超大型、特大型、大型の順に手のひらに並べてみました。頂という表現は、文字通りMAXという意味で、中国では上海ガニのサイズ区別に使われています。

裏返すとこの通り。このニーナには、雌雄を見分ける方法があります。

その方法とは、ニーナの身を殻から外し、緑色をした方がメス、白い方がオスと言われています。

さて、調達したアワビの半分を刺身、残りをバター焼き(左側)に、サザエも殻から外して刺身(右側)として頂きました。

殻から外したサザエの残りは、全部まとめて米と一緒に炊き込み、お米と同じ分量のサザエが入った贅沢なご飯とします。

さらにニーナは、焼きそばの具としても活用しました。

勿論、サザエのツボヤキも美味しく頂きました。

ここまで見て食傷気味となった読者のため、料理以外の写真を1枚載せておきましょう。

 隠岐では、素朴な海の幸を味わいながら毎日を過ごしたのですが、読者の皆さんもいかがですか。



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昨日、隠岐の磯にいる魚たちを紹介しましたので、今日は魚以外のおとなしい仲間をご紹介しましょう。その前に水上と水中を同時に撮ってみたら、水中が実際よりも暗く写ってしまいました。

実際の磯は実に明るく、海藻の森が広がっています。

ツノを出して移動しているアワビもいますが、今はすべてが放流された個体なので、勝手に採ることはできません。

ニーナは、直径4センチ、高さ6センチくらいまで成長します。そのデカイやつは、後日ご紹介する予定です。

今回の旅行では、地元の漁師さんを応援するためアワビ、ニーナ、サザエを菱浦港の海産物販売所(キンニャモニャセンター)で調達しました。サザエ。

水中でサザエの殻に入ったヤドカリと遊んでいると、地球の重力と外の暑さを忘れてしまいます。

ヒトデ、イソギンチャク、ウニ

岩の窪みにウニが一杯いましたが、トゲとの格闘が面倒なので採るのは止めておきます。

2時間くらい水中で楽しんだ後、陸に上がると、水中の無重力に馴れた体がびっくりするくらい重く、立つことにも苦労するほどでした。テトラの上に棲息する無数のニーナ。

 地球に戻った宇宙飛行士も同じ感覚を味わうのでしょうね。 



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隠岐土産のひとつとして最近人気が出てきたものに、海士御塩司所製造の海士乃塩があります。今回海士町知々井(保々見)にある製塩所までぶらっと散歩してみることにしました。

保々見漁港の船着き場には、イカ釣り漁船が係留され、日本海にある漁港らしい風景が広がっています。

その保々見漁港の防波堤から見た保々見地区です。

防波堤の反対側、はるか先に見える緑屋根の建物が海士御塩司所のようです。そこで右の山沿いに延びる道をさらに先に進むことにします。

到着した海士御塩司所の入り口です。

海士御塩司所では、海水を枝条架で濃縮したあと薪で炊いて作っているとのこと。これが海水濃縮用の建物でしょう。

このハウスの中で仕上げの天日干しをしているようです。

これが完成した製品。今回は、お土産に8袋だけ調達しておきました。

すぐ前にある防波堤から見た海士御塩司所。右隣は岩牡蠣生産組合の建物。

この辺りは、保々見地区の民家からかなりの距離があるので、その生活排水による海水汚染の心配は、全く無いと思います。

 



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夕方、港に出てみると東から月が昇り、その姿が海面に反射して綺麗でしたので、高感度モードで1枚撮ってみました。画面がザラザラとして見えるのはそのせいです。

そこで三脚にカメラを固定して、低感度モードで撮ってみると、この通り、漁村の静かな夕暮れ写真となりました。

上の写真の右側に写っている岸壁を通り、正面の防波堤まで行く途中に撮った写真。

防波堤の上から港の内部を見ると、イカ釣り漁船が一杯停泊していました。

港は、防波堤の西方向に当たりますが、すっかり日が落ち、かすかに星が写っています。

さて、防波堤まで来た目的は、東の海から昇るこの月と島影を撮ることでした。

目的の写真が撮れたので港に戻り、恵比須神社越しに西の山を撮ってみました。

恵比須神社の後ろにある港。背後の山は月明りを受けてかすかに緑色に写っています。

月が高くなってきましたので、撮影はこれで終了ですが、写真を良く見ると、海面がまるで鏡のようになっていました。

見慣れた漁港の風景ですが、夜景を写真に撮ってみると、なかなか味わいがあります。



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隠岐の磯には、いろいろな小魚を見ることができますが、その動きが早く、またカメラを持った体が波に揺れるので、なかなかピントの合った写真を撮ることができません。

それでも何枚かピントの合った写真が撮れたのでご紹介しましょう。これは比較的おとなしいキヌバリ。体長は20センチくらいありした。

2年前に買った安価な水中カメラではこれが精いっぱいです。メジナの稚魚。

ピントが合っていませんが、大勢で水中を漂っているのは何でしょうか。来年にはちゃんとピントの合う水中カメラを調達したいものです。

どうやらコウイカの稚魚のようです。

体全体にまばらな小さいトゲがある魚。カワハギの仲間のようです。

磯の至る所にいるベラ。動きが早いので像が流れています。

中央やや下に小魚か小エビのような群れがいますが、小さすぎて良くわかりません。

ここにもカワハギの仲間がいましたが、うまく変身していて、底にある岩と見分けがつきませんでした。

隠岐の豊かな磯は、見あきることがありませんが、魚の写真を撮るには、海遊館のほうが100倍くらい楽ですね。



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隠岐、中ノ島の菱浦港での宿泊は、マリンポートホテル海士。そのフロントロビーにあるみやげ物コーナーです。

オーシャンビューのロビーラウンジ。折角のスペースなのに利用する人が殆んどいません。

オーシャンビューの客室は、ゆったりとしたリゾートホテルの広さです。

客室のベランダからは、光の柱が海面に突き刺さったような夕日が見えました。

夕食。これに揚げたての天麩羅と、熱い茶碗蒸し、味噌汁、ご飯が追加されます。

レストランの窓の外、連絡船いそかぜの姿を見ながら、早めの夕食をゆっくりと頂きました。

翌朝、8時頃、水中翼船レインボーが入港してきます。

朝食のメニューです。

入港したレインボーは、10分もすると隠岐の島町、西郷港に向けて出港してしまいますが、海の上に残った航跡には情緒がありますね。

 



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さて、境港から隠岐へ渡るために乗るのは、白い船体に赤い3本線が目立つ、隠岐汽船の「フェリーしらしま」です。

ターミナルビルから船の入り口までは、ブリッジがあり、雨の日でも濡れずに乗船できます。

後ろから見たフェリーしらしま。船首の赤い3本線は、途中から2本となり、船尾では1本線となっています。

フェリーは、定刻14時25分に岸壁を離れ、狭い境水道の中で大きくUターンします。

出港したフェリーは、暫くして境水道大橋に接近します。

そのあと島根半島を離れ、水平線の彼方、隠岐に向かって時速35キロで航行を続けます。

隠岐汽船伝統のファンネルマークは、赤い三本線でした。

航行を続けたフェリーは、いよいよ島前の内海に入ります。

17時15分、西ノ島別府港に到着、中ノ島、知夫里島に渡る人は、内航船いそかぜⅡに乗り換えです。

大阪を出てここまで約10時間。目的地、中ノ島の菱浦港まであとわずかです。



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さて、今年も隠岐への里帰りのため大阪から鳥取県境港駅までやってきました。

この長いボーディングブリッジを通って船に乗り込みますが、少し時間があったので正面の建物の中にある「船と港の展示室」に立ち寄ってみました。

隠岐汽船チケットカウンターのある1階から、エスカレーターで2階に上がると、そこが展示室です。奥が乗船ブリッジへの通路となっています。

内部には、境港の歴史がパネルで展示してあり、奥には、逆さになった日本地図が掲示されていました。

現在韓国が占領している島根県隠岐郡竹島は、日本の大陸棚の先にあり、竹島と韓国領鬱陵島との間には、何と水深2000m以上もの深い海溝が横たわっているのです。

海洋地政学的に見れば日本領ですが、戦後の一時期、強引に設定された李承晩ラインが竹島を韓国領としたため、今では多くの韓国人が韓国領土と考えているようです。さてこちらは船の展示スペースです。

船に興味のある人には、かなり見ごたえのある展示がしてありました。

帆船から汽船への変遷。

今から60年前に就航したユナイテッドステーツ(5万3千トン)のスピードは、時速66キロ、境港から隠岐まで73分。水中翼船レインボーより4分遅いだけという事実には驚きました。

それにしても、フェリーしらしまのスピード、時速35キロは、遅い。



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古くから「天神ノ森」と呼ばれていた紀州街道沿いの森林を開き、そこに道をつけたのが、堺の茶人、武野紹鷗(1502~1555年)で、それ以来この地は「紹鷗森」とも呼ばれるようになっています。

 

 

 

武野紹鷗の父、武田信久(1457~1539年)は、甲斐、若狭の武将、武田一族の出身でしたが、1485年頃に日明貿易の中心地となっていた堺に定住、そこで細川家、三好家の庇護を受けて軍事物資の調達、製造と日明貿易に乗り出し、莫大な資産を築いたようです。

 

 

 

その頃、武士の武田一族出身であることが、商売にさし障りがあったので武田から武野と改姓、その経済力を背景として子息の紹鴎を京都の有力者の元に留学させています。

 

 

 

1539年、信久が亡くなると京都にいた紹鴎は、家督を継ぐために堺に戻り、茶の湯をはじめとする京都の文化を堺の有力商人(会合衆)に紹介しています。紹鴎天満宮拝殿

 

 

 

紹鴎が堺で茶の湯を指導した絶頂期は、1539~1553年といわれ、紹鴎の茶の湯は、その根幹となる「一期一会の思想」とともに日本各地に広まっています。子安石

 

 

 

紹鴎は、その最晩年(1554~5年頃か)に大坂天神ノ森を切り開き、そこに隠遁して「わびの行」を実践していますが、それから30数年後、太閤殿下豊臣秀吉(1537~1598年)がその地を訪ね、千利休(1522~1591年)の立てた茶の湯を味わっています。太閤殿下の茶屋から天下茶屋と呼ばれるようになったといいます。

 

 

 

千利休の師は、武野紹鴎と言われていますが、紹鴎の「わび茶」の形成に利休の関与は無く、本来心静かに楽しむ茶の湯を利休は政治の道具として活用、紹鴎とは違う独自の茶風を打ち出しはじめています。現在の天下茶屋跡

 

 

 

紹鴎の武家風ではなく、町人的な茶風に違和感を持った秀吉は、1590年頃から利休を粗略に扱うようになりますが、秀吉に挑戦するかのように、独自の茶風を改めなかったことなどで最後に切腹を命じられたのです。

 

 

参考文献: 利休の師竹野紹鴎  武野宗延著



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大阪港からは、東の大阪市内から昇る朝日と、西の明石海峡大橋に沈む夕日を見ることができます。これは朝日

朝日は、日の丸のデザインに採用されていますが、その歴史について少し調べてみましたのでご紹介しましょう。

 西暦607年、遣隋使小野妹子が「日出ずる処の天子」という国書を持って隋「日没する処の天子」の煬帝を訪問しています。その頃から朝日は我が国を象徴するものと考えられていたのでしょう。生駒山からの朝日

その後701年、大宝律令が制定された頃には太陽をデザインした日の丸の原型が完成したようです。明石海峡大橋と夕日

1185年の源平合戦では、屋島の戦いで那須与一が平家の日の丸「赤地金丸」の扇を射落としています。源氏は「白地赤丸」の日の丸を使用していたようです。写真を見ると平家のデザインのほうが実際の色に近いですね。

話は一挙に幕末まで下り、日米和親条約締結があった1854年、幕府の老中阿部正弘は、源氏伝来の「白地赤丸」の日の丸を日本の船印と定めています。

1864年の禁門の変では、京都御所を守備していた一橋慶喜が、その日の丸を掲げて蛤御門で長州軍と戦い勝っています。

4年後の戊辰戦争では、両軍が日の丸を旗印に使っていますが、1870年(明治3年)、明治政府は太政官布告を出し、日本の商船、陸軍、海軍が掲揚する旗を「白地赤丸」の日の丸と定めています。

戦後(1945年)GHQは、日の丸の掲揚を禁止していますが、1949年にマッカーサー元帥が日の丸掲揚を認める声明を出しています。

 1999年、国旗国歌法が公布され、800年以上前に源氏が使った日の丸が正式に国旗として定められたのです。



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清涼寺の山門(仁王門)は、1776年(235年前)の再建で、当時の流行であった禅宗様式が強く出ている特長があります。

  

 

本堂は、1701年に綱吉の母、桂昌院の発願で諸大名と大阪の住友吉左衛門が援助し、2年後に再建が成っています。

  

 

本堂の右手にある阿弥陀堂は、前身の棲霞寺名残の堂とも言われ、幕末の1863年に再建された比較的新しい建物です。

  

 

仁王門の左手にある多宝塔は、1703年に建立されたと伝わっているので本堂とほぼ同時期の建築物です。

  

 

鐘楼の鐘は、応仁の乱が終わった7年後、1484年のもので、寄進者の中に、足利義政、日野富子、足利義尚の名前があるようです。

  

 

 

本堂の後ろにある弁天堂は、樹木に邪魔されてよく見えませんが、江戸時代末期の建築とされています。

 

 

 

本堂の裏には方丈に続く長い廊下がありますが、方丈は享保年間(1716~1735年)の造営と伝わっています。

 

 

 

仁王門の右手にある経蔵は、江戸中期の建築とされています。

 

 

 

さて、清涼寺本堂の左手にある嵯峨薬師寺は、独立した寺院で、寺伝によれば清涼寺よりも古い819年の創建だそうです。

 

 

 

明治時代までは大覚寺の下にあり、嵯峨御所御寺務所が置かれていましたが、明治時代以後は大覚寺を離れ、現在は浄土宗知恩院派に属していると公式HPにありました。

 

参考文献:古寺巡礼 京都 清涼寺 瀬戸内寂聴、鵜飼光順著



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