清涼寺の山門(仁王門)は、1776年(235年前)の再建で、当時の流行であった禅宗様式が強く出ている特長があります。
本堂は、1701年に綱吉の母、桂昌院の発願で諸大名と大阪の住友吉左衛門が援助し、2年後に再建が成っています。
本堂の右手にある阿弥陀堂は、前身の棲霞寺名残の堂とも言われ、幕末の1863年に再建された比較的新しい建物です。
仁王門の左手にある多宝塔は、1703年に建立されたと伝わっているので本堂とほぼ同時期の建築物です。
鐘楼の鐘は、応仁の乱が終わった7年後、1484年のもので、寄進者の中に、足利義政、日野富子、足利義尚の名前があるようです。
本堂の後ろにある弁天堂は、樹木に邪魔されてよく見えませんが、江戸時代末期の建築とされています。
本堂の裏には方丈に続く長い廊下がありますが、方丈は享保年間(1716~1735年)の造営と伝わっています。
仁王門の右手にある経蔵は、江戸中期の建築とされています。
さて、清涼寺本堂の左手にある嵯峨薬師寺は、独立した寺院で、寺伝によれば清涼寺よりも古い819年の創建だそうです。
明治時代までは大覚寺の下にあり、嵯峨御所御寺務所が置かれていましたが、明治時代以後は大覚寺を離れ、現在は浄土宗知恩院派に属していると公式HPにありました。
参考文献:古寺巡礼 京都 清涼寺 瀬戸内寂聴、鵜飼光順著