野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



この日、グランフロント大阪をJR大阪駅から展望してから、大阪中央郵便局の跡を訪ねてみることにしました。

大阪駅西の横断歩道を渡ると、いつのまにやら中央郵便局跡はこんな状況になっていました。

敷地内にあるこの箱の中には、解体された大阪中央郵便局の建物の一部が残されているようです。今後この敷地に建てられるビルにそっくり取りこまれるのではないでしょうか。

西梅田スクエアと命名された敷地の西側も、広い空間となっていました。

大阪駅前に林立する高層ビル群のため、早朝の日当たりは良く無いようです。

広い敷地は、イベント広場として活用されるようです。

敷地の西側から東方向を見ると、イベントステージのようなものが置かれていました。

この日は晴天でしたが、駅前の高層ビルに囲まれた広場は日陰となっていました。

敷地の東側がJR大阪駅の正面となっています。歴史的建築物として保存運動もあった大阪中央郵便局の跡地の現状でした。



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大阪生まれの武田麟太郎(1904〜1946年)は、織田作之助(1913〜1947年)の三高の先輩に当たり、彼に大きな影響を与えた小説家です。織田作之助は、武田を「現代作家中もっとも大阪的な勁さをもつ作家で、このひとの聡明は、西鶴のそれに似ている」と書いています。・・・武田麟太郎が自慢していた大阪、そのJR大阪駅北側の景観

昭和9年、当時30歳だったその武田麟太郎に「大阪をおもふ」という随筆があり、その中に彼の大阪論があったので、JR大阪駅ビル周辺の風景と一緒に紹介しましょう。・・・4月26日にまちびらきが決定したグランフロント大阪

<京都、奈良、宝塚乃至和歌山の如き、近畿の町や景勝の地も結局は、大阪人の眼からは、大阪人のためにのみ存在している一つの郊外であり、遊歩場にすぎないのである。>と武田は大阪を自慢しています。・・・左大阪駅ビル、中央が梅田スカイビル

<もちろん郊外だからといって、そこの自然風物を愛でるというものではない。--私は概して大阪人にはこの気質が薄いとしている。 >・・・グランフロント大阪の東側

大阪人が<どこに行っても心惹かれ、その歓びに全心的に敏感であるのは、人工的なもののようである。 >ということで、今回はビルの写真を掲載しました。・・・法善寺から近い難波パークスの壁

<それは気候の変化が目立たず、その方の事に鈍くなっている故もあろうし、早くから近代都市として拓け、資本主義の中心地となっているので、心は常に人間の力の大きさを感じているせいであろう。 >・・・日本一高いビルとなるあべのハルカス

<私は上京した当座、東京の人々が花見花見と大騒ぎをし、今年はお花見に行けなかったよ、とその事を何だか落ちぶれた証拠のように言って歎いたりしているのを聞いて奇異な感を抱いたのであった。 >・・・JR大阪駅ビルと天空の農園

<嵐山でも吉野山でも桜の名所は大阪付近にも多いが、あんな風な騒ぎかたをしないのは、やはり自然風物に関心が少ないからであろう。 >というよりも、ビルに囲まれた都市の方が心地良いと感じる人が多いのでしょう。・・・JR大阪駅西側のビル

<その代わりに、いわゆるおめでた、公けに慶賀すべき事情があった場合には、町中が引っくり返ったようになる。(中略) >阪神ファンを筆頭に大阪人のノリの良さは有名です。・・・天空の農園の日時計

<大阪全体が酔っぱらって浮き浮きと沸き立つのであるが、これはそんなに遊び好きであるのと同時に、一方、そうした陽気さが導き出すところの景気直し、貨幣の活発な動きと流れとを大阪人はちゃんと予想してかかっているのを忘れてはならぬ。>

参考文献:武田麟太郎全集

 



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織田作之助の小説、夫婦善哉は、貧しい天婦羅屋の娘、蝶子が曽根崎新地のお茶屋におちょぼ(芸者の下地ツ子)となり、持ち前の陽気好きの気性が環境に染まって芸者になったとこから始まります。・・・法善寺境内

一方、安化粧品問屋の息子で妻子のある柳吉は、蝶子の馴染みとなったことで実家を勘当され、蝶子と一緒に生活を始めますが、ぼんぼん育ちのためか全く生活力の無い人物でした。・・・水掛け不動

二人はさんざん苦労した挙句、最後に柳吉の父親の葬式という展開となります。その最後の部分に法善寺の夫婦善哉が出てくるので紹介しましょう。・・・法善寺の提灯

 

<十日経ち、柳吉はひょっこり「サロン蝶柳」(注:主人公蝶子と柳吉が始めた店)に戻ってきた。行方を晦ましたには作戦や、養子(注:柳吉の父親の始めた問屋を継ぐこととなった柳吉の妹婿)に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親父が死ねば当然遺産の分け前に与らねば損や、そう思うて、わざと(注:柳吉の父親の)葬式にも呼ばなかったと言った。>・・・水掛け不動参拝者の行列

 

<蝶子は本当だと思った。柳吉は、「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」(注:柳吉には軽い吃音障害がある)と蝶子を誘った。>・・・今もある夫婦善哉

 

<法善寺境内の「めおとぜんざい」に行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当たっているところに古びたお多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下がっているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。>・・・夫婦善哉の内部

 

<おまけに、ぜんざいを注文すると、女夫(めおと)の意味で一人に二杯ずつ持ってきた。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来るか知ってるか、知らんやろ」>・・・夫婦善哉800円

 

<「こら昔なんとか大夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)入っているように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」>(注:明治16年竹本琴太夫が創業)・・・おたふく人形

 

<蝶子は「一人より女夫(めおと)の方が良えいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座布団が尻にかくれるくらいであった。>・・・おたふく人形拡大

経営者は変わったようですが、昭和14年(1939年)に発表した織田作之助の小説にあるぜんざい屋が今も大阪に残っているのは素晴らしいと思います。



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昨日、第32回大阪国際女子マラソンがありました。・・・地下鉄昭和町駅の東側で待ち構えていると、トップで来たのは福士選手。残念ながらこの直後に後方のガメラシュミルコに抜かれ2位という結果でした。しかし日本人最高の2時間24分21秒。大変よく頑張りました。

ウクライナのガメラシュミルコ選手です。このあと福士選手を抜き1位でゴールイン。タイムは2時間23分58秒。大会記録は、野口みずきの2時間21分18秒なので遠く及びませんでした。

昭和町駅東側は、ゴールまで残り4kmの地点です。そこに3位で来たのは小崎まり選手。この後抜かれて4位に終わりました。タイムは2時間26分41秒立派なもんです。

小崎まり選手に少し遅れて来たのは渡邊裕子選手。このあと小崎を抜いて3位でフィニッシュしています。タイムは2時間25分56秒と堂々たるもの。

おなじみの渋井陽子選手も来ました。渋井の順位は8位。タイムは2時間32分41秒でした。

渋井の走りを見た後、長居競技場の入り口に移動して、後続選手の様子を見てみました。

長居で最初に見たのは9位の林田詩緒里選手。タイムは2時間39分36秒。8位の渋井選手とは7分近い差があったようですが、ゼッケン番号500番台ではトップでした。

10位の大内選手です。タイムは2時間39分39秒。

11位は渡邊と同じエディオンの皿田選手。タイムは2時間42分4秒。ラストスパートに入っています。

 ちょっと外出するだけで、こうしたイベントを無料で楽しめる、大阪市民は恵まれていますね。

 



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「大阪発見」という織田作之助(1913〜1947年)の随筆に作之助が見ていた戦前の法善寺のことが描かれていました。現在の法善寺とは違うその法善寺を紹介しましょう。・・・戎橋通り側からの入り口

大阪を知らない人から最も大阪的なところを案内してくれといわれると、僕(織田作之助)は法善寺に連れて行く。(中略)・・・千日前からの入り口

法善寺の性格をひとことで説明するのは難しい。つまりはややこしいお寺なのである。そしてまた「ややこしい」という大阪言葉を説明するのも、非常にややこしい。だから法善寺の性格ほど説明の困難なものはない。(中略)・・・戎橋側の法善寺横丁

表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいはわれわれが法善寺の魔法のマントに吸い込まれたその瞬間の錯覚であるかも知れない。(中略)ともあれややこしい錯覚である。・・・千日前側の法善寺横丁

境内の奥に進むと、一層ややこしい。ここはまるで神仏のデパートである。信仰の流行地帯である。迷信の温床である。たとえば観世音がある。歓喜天がある。弁財天がある。稲荷大名神がある。弘法大師もあれば不動明王もある。何でも来いである。

ここへ来ればたいての信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけである。どこにどれがあるのか、何を拝んだら、何に効くのか、われわれにはわからない。

しかし、彼女たちは知っている。彼女たち—すなわちこの界隈で働く女たち(中略)彼女たちは、だだ願掛けの文句を拝むだけでは、満足出来ない。信心には形式がいる。そこで、たとえば不動明王の尊像に水をかける。何十年来一日も欠かさず水をそそがれた不動明王の体からは蒼い苔がふき出している。

水をかけ終わると、やがて彼女たちはおみくじをひく。あっ凶だ。しかし心配はいらぬ。石づくりの狐が一匹居る。口に隙間がある。凶のおみくじをひいたときには、その隙間へおみくじを縛り付けて置く。すると、まんまと凶を転じて吉とすることができる。・・・金毘羅天王

 

「どうか吉にしたっとくなはれ」祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。そこでほっと一安心して、さて「めおとぜんざい」でも、食べまひょか。・・・今もある夫婦善哉の店

織田作之助の文章のリズムを堪能して頂けましたでしょうか。

参考文献:織田作之助全集から



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通天閣の命名者、藤沢南岳(1842~1920年)の孫で小説家として知られる藤沢桓夫(たけお、恒夫は誤記)に「私の大阪」という随筆があります。・・・南岳の勧善歌碑のある高津宮神社

その随筆集に大阪市内の精華小学校・集英小学校・愛日小学校・桃園小学校・愛珠幼稚園などの命名もした祖父についての話があるので、歌碑のある高津宮神社と一緒に紹介しましょう。・・・高津宮拝殿

南岳は、父藤沢東畡が大阪で開いた漢学塾「泊園書院」を明治6年(1873年)に再興した当代随一の学匠で、その学徳を慕って全国から学生が集まったといいます。・・・勧善歌碑は手水舎の後にあります。

また南岳は、明治天皇の侍講や東大主任教授への就任を要請されていますが、これを固辞して大阪に留まった人物です。・・・巨大な勧善歌碑です。

南岳の三男麟之助は、南岳と仲の良かった医師、三崎厚斉の養子となって三崎麟之助と名乗り、大坂医学校を出て軍医となった人で、小倉にあった第12師団(軍医部長は森鴎外)に勤務しています。・・・裏側を見ると先子南岳云々・・・大正壬戌(11年)二月二日 男 元謹誌、宣哲拝書とありました。元とは長男の元造(藤沢黄鵠)のこと、宣哲とは越智宣哲のことでしょう。

森鴎外(1862~1922年)の小倉日記(明治33年3月15日)に「風寒し(中略)たまたま大阪の老儒藤沢南岳来たりて小間物屋の楼上に宿れり、すなわち往いて謁す。白頭清癯(せいく、やせていること)、風貌瀟洒(しょうしゃ、すっきりしてあか抜けていること)なり。(中略)明旦大宰府に赴きて、云々」とあります。高津宮縁切坂の鳥居

小倉に赴任して2年目だった1900年(明治33年)の森鴎外(38歳)は、津和野藩医の嫡男として生まれ、幼い頃から論語や孟子を学び藩校養老館で四書五経を復読していた関係から、たまたま小倉に宿を取った当代随一の学匠、南岳(58歳)と面談してみたかったのでしょう。・・・高津宮は意外な高台にありました。

それから21日後の小倉日記に、「緒方正清の書(手紙)によりて、はじめて部下の少年軍医、三崎麟之助の藤沢南岳の子なるを知る」と鴎外は書いていますので、南岳と面談した際には部下がその息子という事実を知らなかったことになります。道明寺天満宮〆柱の文字も南岳の書

藤沢桓夫は、この小倉日記の記述から南岳は、「息子を宜しく」などと鴎外に頼まなかったことが判ると書いています。・・・天下茶屋公園にある明治天皇碑の文字も南岳の書

三崎麟之助は、軍医を辞めてから後に大阪で医院を開業しますが、終生「森閣下」に可愛がられたことが自慢だったとか。藤沢南岳の子であることを知った鴎外から特に可愛いがられたのでしょうね。

参考文献:私の大阪 藤沢桓夫著



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坂田三吉所縁の通天閣を訪ねるため、地下鉄動物園前駅で下り、ジャンジャン横町を歩いてみました。

大阪市内でも将棋、囲碁が楽しめる店が激減しましたが、この横町にはまだ残っていました。

この将棋クラブは、屋号が「王将」です。

突き当たりを左に曲がると、新世界です。そこを前に進み、づぼらやの前で右に曲がると通天閣です。

新世界のづぼらやのフグ看板と通天閣は、今では大阪を代表する景観となりました。

この辺りは、飲食店看板の洪水となっています。

飲食店はまだ続きます。

通天閣が近づいてきました。

通天閣の真下にも「王将」の文字がありました。ご存じの餃子の王将でした。

 



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大正14年(1925年)、東京に対抗する意識が強かった関西財界は、関根金次郎名人よりも棋力があった坂田三吉(1870〜1946年)を名人にかつぎ、将棋名人が東西に並立する異常事態となっています。・・・演歌「王将」に出てくる通天閣の前には「大阪王将」の巨大な看板がありました。

その結果、東京の日本将棋連盟は坂田に絶縁状を送る事態となり、坂田も眼病を患っていたことから、以後16年間東京のトッププロ棋士と坂田の対戦機会が無かったといいます。・・・大阪王将のある通天閣本通前から通天閣まで歩いてみましょう。

坂田の二女(静江)の談話では、その間の坂田は家で将棋の駒をまったく手にしなかったそうです。・・・通天閣の足が見えてきました。その下に将棋の駒のようなものが小さく写っています。

昭和10年、関根名人は、実力名人制度を提唱して名人決定リーグ戦(2年間坂田抜き)がスタート、昭和12年に木村義雄(32歳、1905〜1986年)が初代実力名人となっています。・・・将棋の駒は王将でした。

昭和13年、将棋好きの菊池寛(1888〜1948年)は坂田の復帰に奔走、名人位を返上して日本将棋連盟と和解した坂田(68歳)は、30〜40代のトッププロ棋士8名が参加する第二回実力名人挑戦者決定リーグ戦に段位無で出場しています。・・・王将と通天閣です。

この時の棋譜を見た永世十段中原誠の談話は「理論的にやる将棋は、序盤からきちんとやるんですけど、坂田先生は序盤は少々悪くてもいい。その代り中盤、終盤に挽回するという将棋です」。 坂田自身も「私は序盤の作戦を知らない。序盤の損得について自信が無い。が一旦変化となれば、誰にも負けない」と語っています。・・・王将の駒の下に何か書いてあります。

リーグ戦の終わった昭和14年、満70歳直前となっていた坂田は7勝8敗で名人位挑戦者資格を獲得できませんでした。 しかし菊池寛は、文芸春秋(昭和15年8月)に「坂田が今十年若かったら、木村名人を向こうにまわして、壮快なる名人位争奪戦をやるのはきっと坂田であったろう」と書いています。・・・駒の下の石碑には「王将坂田三吉は堺市に生まれ・・・」と正確ですが、「妻小春」は「妻コユウ」の間違いでしょう。

16年間もトッププロ棋士と対戦機会が無かった70歳の高齢棋士が、20〜35歳も若い8名の棋士とリーグ戦を戦い、ほぼ互角の成績を残した事実。現在のプロ棋士の談話では、そんな人物が勝つことは信じられないそうですが、坂田三吉がいかに凄かったかという証でしょう。・・・今の大阪で王将と言えば「餃子の王将」でしょう。通天閣の下にもちゃんとありましたよ。

坂田三吉は、このリーグ戦後に将棋界から引退、昭和21年(1946年)にライバルの関根金次郎を追うようにひっそりと亡くなっています。・・・最後に通天閣

参考文献:9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝 岡本嗣郎著



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明治41年(1908年)、大阪朝日新聞社は、大阪市民に絶大な人気があった坂田三吉(1870〜1946年)を顧問として迎え、大卒初任給と同じ月給30円を支給(現在の20万円くらいか)していますが、金銭感覚に乏しい坂田はすぐに散財して家計はいつも苦しかったようです。・・・坂田三吉記念室のある舳松人権歴史館の内部を紹介しましょう。

坂田の女房の実名は小春ではなく「コユウ」と言い、子供を抱えたコユウは、「あの手この手の思案を胸に やぶれ長屋で今年も暮れた 愚痴も言わずに女房の小春 つくる笑顔がいじらしい」というような生易しい状況では無かったようです。・・・坂田三吉記念室の入り口。戸籍では写真のように阪田三(土の下に口)と表示しますが、本人は坂の文字を書いたというのでここでは坂田三吉とします。

当時、坂田一家は、大国町の西、願泉寺の裏にあった長屋に住み、生活苦に追い込まれたコユウが子供を連れて関西本線で自殺未遂を図ったこともあったとか。・・・展示

しかし、この自殺未遂をきっかけに、坂田は一段と真剣に将棋に取り組むようになり、実力を上げたようです。・・・坂田三吉名の将棋段位認定書

1908年、坂田三吉(当時は六段)を顧問とした大阪朝日新聞社は、当時最強といわれていた関根八段を大阪に呼んで坂田対関根戦を企画、坂田はこの勝負に2勝1敗(当時は段位差によるハンディ戦)と勝ち越しています。・・・馬は坂田の揮亳。

大正2年(1913年)に七段となった坂田は、関根八段と対戦するためにはじめて上京しています。「明日は東京へ出て行くからは なにがなんでも勝たねばならぬ 空に灯がつく通天閣に おれの闘志がまた燃える」坂田の心境は、この通りだったのでしょう。・・・1913年頃、坂田一家が住んでいた場所に近い願泉寺は、地下鉄大国町交差点から西に300mくらいでしょう。

第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が完成したのは、1912年(明治45年)、完成から僅か2年後のことでした。・・・願泉寺の門

東京での関根との対戦は、結局三吉の3勝2敗となり、坂田は大正4年(1915年)に最高位八段の免許を受けています。 当時八段の保持者は、関根と坂田を含めて実質3名、坂田は名実ともに日本最強の棋士の一人となったのです。・・・坂田一家は願泉寺の裏の長屋に住んでいたとか。現在は大国町北公園。ここから中央の道路を150m進むと旧国鉄関西本線

大正6年の対関根戦も三吉が4勝2敗と勝ち越しますが、その直後から坂田の眼病が悪化、将棋を指せない状況となり、大正10年(1921年)に関根が名人位を継いでいます。・・・現在はJR関西本線の高架となっています。生活苦だった坂田の妻コユウが鉄道自殺を考えたのはここだったのかも。

つづく

参考文献:9四歩の謎 孤高の棋士・阪田三吉伝 岡本嗣郎著



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演歌「王将」は、西條八十が作詞、村田英雄の歌で1961年に150万枚(最終的には300万枚)という大ヒットを記録、今も中高年に絶大な人気がある歌です。・・・突然ですが坂田三吉の生誕地に近い駅がこの湊駅です。

西條八十は、芝居や映画に登場する坂田三吉(北村秀司作の戯曲の中の人物)をイメージして作詞したようで、歌詞の内容と現実の坂田とはかなり食い違っています。・・・南海電車の堺駅から和歌山寄りに一つ目が湊駅です。

現実の坂田は、将棋盤に向かう際に羽織袴の正装、けっして膝を崩すことが無く、無口無言、駒は音を立てず静かに盤に置いたという謹厳実直な人物だったようです。・・・駅前の地図の中央上に坂田三吉顕彰碑とあります。

そこで、坂田三吉(1870〜1946年)の実像を岡本嗣郎氏の著書「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」から紹介したいと思います。・・・駅から坂田三吉所縁の地に行く途中、旧紀州街道を横断します。

村田英雄の歌には「吹けば飛ぶような将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え 生まれ浪花の八百八橋 月も知っているおいらの意気地」とありますが、坂田は、現在の堺市協和町、旧舳松(へのまつ)村で生まれています。・・・さらに阪堺電車の踏切を越えます。

明治3年(1870年)に舳松村の貧しい草履表づくり職人の家に生まれ、まともに小学校に行かなかった坂田は、読み書きができませんでしたが、将棋だけは強い少年でした。このあたりは海に近く標高1.5m、津波危険地域です。

舳松人権歴史館、坂田三吉記念室には、坂田が書き残した馬の文字があります。記念室には戸籍通り阪田 三(土の下に口)と表記されていますが、ここでは通称の坂田三吉とします。・・・第二阪和国道の高架が見えてきます。

馬年生まれの坂田は馬が好きで、また得意とした将棋の角が成ると馬となることから、馬の文字だけは書けたようです。・・・右の茶色のビルが舳松人権歴史館です。

明治時代までの将棋指しは、賭け将棋で賞金を稼ぐ遊び人だったといい、将棋の棋士が社会的に確立するのは大正から昭和に入ってからと岡本嗣郎さんの著書にありました。・・・舳松人権歴史館の表示。

坂田は、明治27年頃に大阪・堺で無敵と呼ばれるほど腕を上げていましたが、東京の関根金次郎(1868〜1946年、後の名人)と対戦して敗れています。

つづく

参考文献:9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝 岡本嗣郎著



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大通寺からさらに東に歩くと、長浜八幡宮の鳥居が見えてきます。

鳥居の先の長い石畳は、突きあたりで左に曲がり、その先に舞殿、拝殿、本殿と続いています。

長浜八幡宮は、延久元年(1069年)、源義家が後三条天皇の勅願を奉じて石清水八幡宮から分祀したものと言われていまので、その歴史は何と944年にもなります。その先、二の鳥居の先が舞殿

小谷城主浅井氏の時代(1525~1570年頃)には、社領3000石、堂塔伽藍73を数えてこともあったとか。八坂神社と同じようにここでも拝殿の前に舞殿を配置してありました。

しかし、元亀天正の時代(1570~1590年頃)には、兵火で殆んど焼失してしまったそうです。拝殿とその背後の本殿

長浜城主となった羽柴秀吉が天正2年(1574年)に社領を寄進、長浜八幡宮の再興が始まっています。すぐ隣にある舎那院は、明治維新の神仏分離令で八幡宮から分離された寺院です。

さて、そこからさらに南に散歩を続けると、徳勝寺の表示と、その横に浅井家菩提寺と読める石碑が立っていました。

徳勝寺は1518年に浅井亮政が小谷城下に移して浅井家の菩提寺とし、羽柴秀吉によって長浜城に移転されています。先に進むと、浅井長政公菩提所徳勝寺と大きな表示があります。

関ヶ原の戦いの6年後の1606年、長浜城主となった内藤信成が城の外の朝日町に移転、1672年には井伊直孝によって現在地に移転されたとありました。徳勝寺の墓地に入ると小谷城主浅井久政、亮政、長政の墓石がありました。

少し散歩するだけで歴史上の有名人に所縁のあるスポットを発見できる長浜は歴史マニアには嬉しい町でした。



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長浜市には、長浜別院が二つあります。その一つは西本願寺長浜別院。そこへは黒壁ガラス館から北国街道を200m北に歩き、交差点を左に曲がります。

その北国街道交差点から100m西側にある交差点に立つと、北側に門が見えてきます。

ここが西本願寺長浜別院です。

本堂は古く、あまり手入れがされていないように見えます。正面に座っている老人から「写真を撮るなら、東の別院の方が立派ですよ」と教えて貰いました。

そこで西別院から300m東に向かうと、東本願寺系の長浜別院大通寺があります。この台所門は、1606年に元長浜城の大手門を移設したものと伝わる長浜市指定文化財です。

台所門の東側にある重層の山門は、1808年に起工されたものです。

江戸時代初期、長浜城内にあった大通寺は1649年に現在地に移転、この立派な山門は1812年頃にほぼ完成、上棟式は1839年、細部の彫刻がすべて完成したのが1840年とか。

本堂」(阿弥陀堂、重要文化財)は、伏見城にあった建物を家康が東本願寺教如に贈り、ここに移築されたと伝わっています。

本堂前から見た広い境内。本堂の向こうには、広間付玄関(重要文化財)が少し見えています。

京都山科と同じように長浜にも本願寺別院が二つあるとは知りませんでした。

つづく



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先日、大阪駅から新快速電車に乗って、終点長浜まで行ってみました。この時期だけの景観ですが、琵琶湖西に積雪した山系が見えます。

近江八幡の少し手前まで来ると、積雪した山までの距離が少し遠くなります。しかし、大阪から1時間足らずで見ることができる景色としては、素晴らしいと思います。

安土駅を過ぎると、琵琶湖側に低い山が見えてきます。織田信長が安土城を築城していた山です。

安土城跡を過ぎると、再び平野が広がります。ここから琵琶湖西岸は遠く、山も霞んで良く見えません。

彦根、米原を過ぎ、長浜の手前まで来ると電車のルートが琵琶湖に接近し、急に水平線が見えてきます。

進行方向の右手には、伊吹山1377mの姿も見ることができました。

終点長浜で下り、長浜を散歩してみることにします。駅前から繁華街への道。

駅前通りを左に折れると、旧北国街道に出ます。

北国街道を北に進むと交差点の角に有名な黒壁スクエアがありました。まだ寒いので観光客は少なかったようです。

もうじき長浜盆梅展が始まります。そうなったらこの通りも賑わうのでしょうね。

つづく



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1月の3週目、ヨドバシカメラ8階の「うおまん」で同窓会がありました。久しぶりに梅田に出てみましたのでその風景を紹介しましょう。・・・JR大阪駅中央改札を出て左方向に歩くと、「ヨドバシカメラ方向へは通り抜けできません。エスカレーターをお上がり下さい」の表示が・・・。

そこで表示の案内(左下)に従ってエスカレーターを上がりました。

エスカレーターを上がった広場では、ヨドバシカメラ方向への案内表示を見つけることができません。

そこで右の通路を阪急梅田駅方向に歩くと、やっとヨドバシカメラへの横断歩道が見えました。将来計画されているようですが、この階からヨドバシへの陸橋を早く整備して欲しいものです。・・・左にはこの春にグランドオープンするグランフロント大阪(旧大阪駅北ヤード)が見えています。

下りて信号待ちするのが面倒だったので、そのまま阪急梅田方向に進むことにしました。このヨドバシカメラの裏側駐車場にも超高層ビルの建築が始まるとか。梅田のビル建設はまだまだ続きそうです。

阪急梅田駅からJR大阪駅に至る歩道橋の終点です。・・・グランドオープンした阪急百貨店が良く見えます。

今回は、ここから地下に下り、地下通路を通ってヨドバシカメラに入ることにします。JR大阪駅整備工事完成でエスカレーターが利用できるようになり移動が楽になりました。

12時半頃にヨドバシカメラ8階飲食店街に到着、どの店も凄い混雑ぶりで、通路は順番待ちの行列だらけでした。・・・同窓会会場「うおまん」

うおまんは、ヨドバシカメラ8階西側にあり、大阪駅からグランフロント大阪への連絡通路工事の状況が良く見えました。

同窓会は、みなよく飲んで昔話に花が咲き、あっという間の3時間でした。

 



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この時期、大阪市南部では二上山の背後から朝日が昇るのを見ることができます。・・・この日の上空は見事な快晴でしたが、地平線の付近に雲が・・・。

国立天文台のデーターによれば、大阪市の日の出方位角は、真北から116度。・・・港の向こうにフタコブラクダの背のような二上山があり、その背後から日の出が見えるはずでしたが・・・・。

しかし、諦めずに撮影に通うと、二上山の上に雲が無い日も巡ってきます。・・・二上山雌岳山頂(474m)から昇ったばかりの朝日です。

天気が良ければ3~4日後くらいに、左の雄岳山頂(517m)から昇る朝日を見ることができそうです。・・・奈良県側からは、二上山の背後に沈む夕日が有名ですね。

大阪から見た二上山の背後から昇る朝日、ワイドでも写しておきました。右の高い山は葛城山(959m)、その右の低い部分が水越峠、その右の最も高い山が金剛山(1125m)です。

太陽は、あっという間に二上山雌岳頂上から離れてゆきます。・・・このとき偶然に水鳥が二羽、太陽の前を通過しました。

住吉区と住之江区の一部に限定されますが、大阪市内でも(真北から116度の位置に二上山が見えるポイントなら)二上山からの朝日を見ることができます。

太陽のすぐ上にベールのような巻雲が見えています。・・・今の時期なら、神戸六甲アイランドと灘区に住む人も二上山から昇る朝日を見ることができそうです。

上昇した太陽が半分だけ巻雲の中に姿を隠してしまいました。左にフタコブラクダのような二上山のシルエットがまだ見えています。

 日の出の太陽は、次第に北寄りに位置を移動してゆき、春分の日には真北から90度(この日の角度から26度北寄り)のポイントとなります。



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