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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大本営参謀本部の参謀(国家公務員)が対中国とソ連戦争重視から反転し、米軍反攻に切り替えたのは昭和18年の後半、参謀本部に情報参謀が配置されたのも昭和18年後半、参謀本部が米軍との戦いを想定していなかったことを咲洲の霧の写真と一緒に紹介しましょう。

開戦から間もない昭和17年、現地の状況が判らない東京の参謀本部作戦課は、ガリ版白地図しかないニューギニアに上陸した20万人の日本軍将兵に対し、ニューギニア脊梁山脈(4,000から5,000m)を越える無謀な作戦を命令、18万人が死亡し生還者はわずか2万人という惨憺たる結果を招いています。参謀達は、その失敗を現地の日本軍の精神力不足と切り捨てたのです。

太平洋で米軍がどう上陸し、戦闘し、陸海空軍をどう連携させていたか、地形や気象をどう克服してきたか、参謀本部がその分析をスタートさせたのはガダルカナルでの敗北(昭和18年2月)以降、それまで米軍情報の分析は無く、開戦後いち早く占領した南方諸島やニューギニア等はガリ版の白地図しか無かったのです。(当時 大本営情報参謀だった堀栄三氏の報告)

昭和18年11月16日、大本営海軍部は、ブーゲンビル島沖海軍航空作戦の戦果を、戦艦3、航空母艦14、巡洋艦9、駆逐艦1を撃沈、戦艦2、航空母艦5、巡洋艦3、駆逐艦6を撃破と発表、しかし大本営には敵の損害を確認する機能が無く、帰還した航空兵からの自主申告をそのまま累計したたけのものでした。

 

大戦果を事実と受け止めたラバウルの陸軍(第八方面軍)は、太平洋の米国艦隊はほぼ全滅したと考え、「いまこそ戦機なり、直ちにブーゲンビル島タロキナに上陸した米海兵師団を撃滅せよ」との作戦を発動しています。

ブーゲンビル島も深いジャングルと2000メートル級の山が連なる険しい地形でしたが、日本軍にまともな地図は無く、米国艦隊が全滅し補給を失った米海兵師団くらい陸軍が簡単に撃滅できるとはずと考えていたのでしょう。

ところが大本営海軍部の発表は事実では無く、米艦隊の損害は軽微だったためにブーゲンビル島の米海兵師団撃滅を目指した日本軍は、激しい空襲を受け、また移動途中の熱帯の密林で飢餓と病気に苦しみ、死傷1万3千人(参加者の80%)という壊滅的な損害を出しています。東京にいて現地状況が判らない参謀(エリート国家公務員)は、この失敗も現地日本軍の敢闘精神不足と認識したのです。

太平洋戦争では、戦場からかけ離れた東京にいる国家公務員から出される命令で、多くの日本人将兵(国民)が無駄に命を落としたのです。

終戦後、在日米軍がアメリカ政府に出した「日本陸海軍の情報部について」という報告書には、「航空偵察の失敗が確度の高い大量の情報を逃がす結果となった」、「陸海軍の円滑な連絡が欠けていた」、「情報関係ポストに人材がいなかった」、「精神主義が情報活動を阻害した」と陸海軍という中央官僚組織の問題点がありのままに書かれています。

東京の中央官僚組織にいる公務員は、今でもこの米軍の指摘をしっかりと受けとめる必要があるあるのではないでしょうか。

参考文献:大本営参謀の情報戦記 堀栄三著



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昨日に続き、伊丹市昆虫館の蝶の写真と一緒に西南の役での西郷隆盛の武士としての心情を紹介しましょう。<・・・>が中公新書「武士と世間」からの引用です。 <支配身分である武士には、その身分に伴う厳しい倫理が必要であり、それがないと支配身分としての威厳が保てないという事情があった>

<武士が命を捨てるのは、義理あるいは義務としての主君への忠誠心のためではなく、武士として生まれた自分の「名」自体を惜しむ意識からである>、これが西南の役での薩摩軍の心境だったのでしょう。

<その意味で彼らの行動は、現代の我々の考える忠誠心とは少し違う。これは誇り高い武士の身分意識そのものだったのである>武士として生まれた自分の「名」を惜しむ意識は、私学校党にもあったのです。

<中世から江戸時代まで名のある武士の数は、それほど多いわけではない。武士としての行動は、武士社会の中では明らかであり、卑怯な行動を取ればすぐに悪い評判が立ち、末代に知られることになるという意識があった>

<そういう社会の中で武士は、自らの名を惜しむことを心理的に強く要請され、そのような倫理観を内面的なものにまで高めていったと推測される>

<しかし個々の武士は、自らの内面的な倫理観だけでそういう精神性を持ちえたのではない。「厳しい武士の世間の目」があったからである>

<強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが、最も「世間」に左右されていたのである。もし「世間の思惑」に背いた場合には、死ぬことよりも苦しい立場に身を置くことになる>

<世間の非難、嘲笑は言うまでもなく、自分の親や子供までが武士社会から爪弾きされる。先祖の名前は傷つき、家は断絶することになる。そういう事態に至る前に、いさぎよく果てれば恥をかくことにはならなかった。いさぎよい死は、汚名挽回の最後のチャンスだった>西南の役の薩摩軍は、最後まで「いさぎよい死」を求めて戦っていた。さすがの西郷でもその中止を求めることができなかった。

山県有朋が西郷へ送った手紙に<君は自分だけが余生をまっとうすることに耐えられなくなり、そのこと(挙兵)の間違いを百も承知の上で、ついに(私学校党)壮士たちの上に奉られることになった>とあるのが、まさに西郷の武士としての心情を山県が理解していた証拠でしょう。

山県は<だが、すでにここまできてしまっては言っても益の無いこと。どうして君は早く自らの手で自らを図る(自決する)ことをしなかったのか。交戦以来、すでに数か月を経て、両軍の死傷者は日に数百をかぞえ、骨肉相殺戮し、朋友相食んでいる>と、西郷に武士としての名誉ある行動を促すのです。

参考文献:武士と世間  なぜ死に急ぐのか 山本博文著



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西南の役での政府軍総攻撃の前日(明治10年9月23日) 山県有朋は西郷隆盛の心境に思いを馳せた手紙を送っています。そこでツマベニチョウの写真と一緒に当時の西郷の心境を考察してみたいと思います。

山県の手紙には、現代人にはもはや想像することすら難しい、江戸時代末期の武士としての共感があります。当時の武士の心境は「武士と世間」という本に詳しく紹介されていました。 <・・・>が同書の引用です。

<かつて新渡戸稲造は、武士道こそが日本の道徳意識の基礎になっているという結論に達し、この着想は名著「武士道」に結実して広く欧米に紹介された>と同書は、はじまり

<しかし、残念ながら新渡戸の「武士道」は、武士道の理想的な側面を語っているだけだから(サムライはなぜ、これほど強い精神性を持てたのか)という疑問には答えることができない>

<武士の姿を描くだけでは、この疑問に答えることはできないであろう。その武士の行動を成り立たせた社会のありかたの考察が不可欠になる>と進みます。

<日本においては、現在でも我々の行動を監視し、束縛する「世間」の存在が重要である(中略)武士にこそ「世間」が最も大きな重圧としてのしかかっていた。武士には名があるからである>ここで世間というキーワードが登場

<武士が武士の「世間」に背を向ければ、武士社会全体からの厳しい制裁があった。この「武士の世間」こそが我が国の道徳意識を考える上で重要なのである>幼いころから世間を意識するよう徹底的に仕込まれたのが武士だったということ。

<武士にとって最も名誉なことは、戦陣で手柄を上げることだが、それに劣らず賞讃されたのは討ち死にすることであった>・・・翅の周囲に黒い模様のあるのがツマベニチョウの♀。これ以外はすべて♂の写真です。

<武士は死を恐れると思われることを最も嫌い、進んで死地に赴くものであった。そのような覚悟は幼少時からの教育によって、子供の頃からできていた。むしろ年を取った者よりも純真な分、死の覚悟はいさぎよかった>明治10年の私学校党のメンバーもまさにそうだったのでしょう。

<その実例としては(元禄期の)吉良邸討ち入り事件(1702年)があり、当時の諸藩から幕府へ助命嘆願の動きもあったが、彼らが死を覚悟していたことは、さまざまな史料から証明できる>赤穂浪士の名前が今も世間で高く評価されていることを思い出さされました。

つづく

参考文献:武士と世間  なぜ死に急ぐのか 山本博文著



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空中に静止したオオゴマダラです。翅にピントが合っているので顔がぼやけてしまいました。

飛んでいるのか、ちょっと微妙なナミアゲハ

滑空中のスジクロカバマダラ

比較的空中静止写真が撮りやすいオオゴマダラ

これもオオゴマダラですが、顔にピントが合っていません。

空中に静止するモンシロチョウ

ツマベニチョウは動きが非常に早く、空中停止写真を撮ることができませんでした。

ブーゲンビリアの前で一瞬空中停止したかのように見えましたが。

やっと空中停止したツマベニチョウを撮ることができました。この蝶は翅の外側が地味なので、翅の内側が見えた一瞬を捉えてみました。



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大阪南港咲洲から見る朝日は、だいたい港大橋の向こうから昇ります。しかし夏至の前後のわずかな期間だけ港大橋が低くなった左側からの朝日を見ることができます。・・・正面やや左、照明塔の左側の雲の中から朝日が見えてきました。

少しズーミングした咲洲の日の出です。この日は地平線上に雲があり、また咲洲の東には阪神高速や大阪中心部のビルもあるので地平線からの日の出ではありません。

もっとズームアップしてみましょう。このビルは、なんばHatchから道頓堀川を挟んで北西にあるエルザグレース堀江タワー(高さ136m)でしょう。ここからの直線距離をマピオンのキョリ測機能で測定すると7.8kmでした。

少し引くと見えてくる左のクレーンが建っているビルは、厚生年金会館跡地に建築中のザ・サンクタスタワー。完成すると高さ189mという高いタワーマンションになります。ここまでの直線距離は8.3kmでした。

建築中のザ・サンクタスタワーの手前にあるやや低いタワーマンションは、ヴィークタワー南堀江(高さ118.9m)でしょう。二つのタワー間の距離は1.4kmありますが、殆んどくっついて見えていますね。・・・朝日は次第に高度を上げ、上空の雲の中に入ってゆきました。

南港咲洲からの朝日をワイドでも見てみましょう。右のビルはNTTドコモ大阪南港ビル。屋上のアンテナの高さは、地上から200mもあります。

ややズーミング、左に弁天町の超高層ビル3本、右手前のオチョコ形のビルが国際フェリーターミナルビル。

朝日が上空の雲の中に入ると、雲の隙間から光芒が大阪市中心部に射しこんできました。

梅雨の中休みの朝、咲洲から久しぶりの朝日を見ることができました。・・・ワイドで見た咲洲の朝はこんな風景でした。



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伊丹市昆虫館では交尾しているツマベニチョウを見ることもあります。ツマベニチョウの性別は、翅の色で見分けができます。そこで翅を覗くと、ブーゲンビリアにつかまって翅の外側を見せているのが♂、♂の翅に包まれて空中でぶら下がっているのが♀でした。

二つの触覚を直線状に揃え、自分と♀の体重を必死で支えている♂の健気な姿を見てやってください。

こちらではリュウキュウアサギマダラが交尾中でした。このペアも♂が上、♀が下なのでしょうが、この♀は不安なのか自分で体重を支えていました。

ツマムラサキマダラの交尾。葉につかまって翅の外側を見せているのが♂、ドッキングしたまま空中にぶら下がっているのが♀。ツマムラサキマダラは、交尾中の翅の重なりが浅いようです。

以上三種類の蝶の交尾を見ましたが、いずれも♂が上で翅を外側にしてドッキング。♀は♂の翅の内側に抱かれ、その体重は♂に委ねられているという状況でした。ツマムラサキマダラの目。

コノハチョウは、おとなしい蝶で指先にも止まってくれました。

折角なのでコノハチョウの目も拡大してみましょう。

ツマムラサキマダラの目。

空中に静止したオオゴマダラを偶然撮影することができましたが、飛んでいる蝶を静止した姿で撮るのはかなり難しいことが判りました。

しかし、折角なので何度かチャレンジしてみました。次回のブログで紹介したいと思います。

つづく



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久しぶりに蝶の写真が撮りたくなったので、有給休暇を取って伊丹市立昆虫館に行ってきました。

長距離を旅することで知られているアサギマダラは伊丹市昆虫館では少数派でした。

伊丹市昆虫館の近くで採集し、ここで繁殖させているというジャコウアゲハ

八重山諸島産というツマベニチョウの褄は、紅というよりオレンジ色ですね。

伊丹市昆虫館近くで採集され、ここで繁殖しているツマグロヒョウモンのメス。オスには褄の黒が無く全体がオレンジ色です。

ジャコウアゲハでしょうか。

コノハチョウ。枯れた木の葉にそっくりなおとなしい蝶でした。

コノハチョウの翅の内側は、意外と派手な模様をしています。

伊丹市昆虫館で最も元気な蝶はナミアゲハ(揚羽蝶)でしょう。

つづく



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今年の夏至は6月21日(土曜日)、大阪の日の出時刻は4時44分、太陽は(真北から)60.3度の位置から昇ります。その前日、コスモスクエア駅前シーサードコスモ遊歩道まで1年で最も北寄りの日の出を見に行ってきました。・・・下の写真に薄い太陽が写っています。・・・折角なので過去に紹介した日の出写真も古いものから順に紹介しましょう。(2010年6月15日の朝日)

この日は少し靄があり、生駒山は見えません。太陽は、咲洲トンネルの大阪港中央突にある堤換気塔のすぐ右側から昇ってきました。・・・(2010年7月5日の朝日)

拡大するとこんな具合。この付近の生駒山は低い場所なので太陽の真下は恐らく雲でしょう。そのすぐ右側にある工事中のビルは、厚生年金会館跡地のタワーマンション(大阪ひびきの街・ザ・サンクタスタワー、53階、高さ189.55m)です。来年の3月末には入居開始だそうです。・・・(2011年7月15日の朝日)

ワイドにして、天保山の海遊館、大観覧車との位置関係も見てみましょう。・・・(2012年5月24日の朝日)

さらにワイドにしてシーサードコスモ遊歩道と朝日。ここは朝早くから散歩する人をよく見かけますが、日の出直後なので誰も通りませんね。・・・(2012年6月13日の朝日)

夢洲のコンテナ埠頭。この先に統合型リゾート(カジノのこと)の計画が持ち上がっています。シンガポールと同じように(外国人以外の日本人には)1万円の入場料を徴収すれば、殆んどの賭博依存症の人に縁の無い場所となるのではないでしょうか。・・・(2012年7月1日の朝日)

これから梅雨の本番を迎えますので、こうして日の出を見る機会は少なくなると思います。・・・(2013年6月9日の朝日)

この日は靄があったので、ホワイトバランスを変えてみると低い太陽が満月のように見えました。太陽の出る位置は、これから次第に右側(南)に移動してゆきます。・・・(2013年6月18日の朝日)

朝日がこの位置まで昇ると、大阪港を出入りする船が動き始めます。

 



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所用で大阪空港(伊丹)から高知まで行くことになりました。乗ったのは、かつて故障が続出していたボンバルディアDHC8-Q400です。…高知空港着陸後の写真

伊丹を離陸して雲の中に入りましたが、鳴門の大毛島上空で雲の切れ間がありました。中央の橋は、淡路鳴門自動車道の小鳴門橋、その下の白い仕切りはボートレース鳴門でしょう。

飛行機は、鳴門から高知に向けて四国山脈上空を通過してゆきます。この辺りだけ雲が少なく山が良く見えました。

到着した高知龍馬空港の屋上です。飛行機の写真を撮る際に右側のネットフェンスが何とも邪魔でした。

所用を済ませ、出発ロビーで待っていると、JAL福岡行きが離陸してゆきます。機体番号JA002Cを検索すると、1999年に登録したサーブ社の340B(乗客定員33-37名)という飛行機でした。巡航速度522km/hというのでゼロ戦並みですね。

さて帰りの大阪便は、ウイングレットの無いボーイング737-500型機。乗客定員120名、巡航速度はマッハ0.745(時速800km/hくらい)というジェット機です。西に大きな積乱雲が見えていました。

飛行機は、徳島県阿南市、那賀川河口沖で左に旋回します。

しばらくすると、左に鳴門海峡大橋、中央に淡路島が見えてきました。

飛行機は、沼島(中央)の沖から生駒山をかすめて大阪市上空へ、大阪城を左に見ながら無事伊丹に着陸しました。



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鹿児島旅行最後の記事は、薩摩軍が全滅する前夜(明治10年9月23日)、城山であったドラマチックなある出来事を、咲くやこの花館の花と一緒に紹介しましょう。

海軍軍楽隊沿革史には 「明治維新の大忠臣であり、陸軍建設の恩人である前陸軍大将近衛都督兼参議の要職にあった西郷隆盛に対し、敬意を表し武士道の礼儀を尽くした最後の惜別の奏楽をおこなった」 とあります。

軍楽隊は 「鹿児島に回航していた軍艦から(総攻撃前夜の)戦場に招致して奏楽せしめ、官軍本営は山県有朋参軍を始め諸将兵士、之を聞いて(涙で濡れた)戎衣(軍服)の袖を絞った」 と記録されています。

演奏したのは海軍軍楽隊だったので海軍最高司令官、川村純義参軍(旧薩摩藩士)が東京から呼び寄せたのかも知れません。

かつて山県有朋は、兵部省の公金を奇兵隊時代の部下で当時(山県の推薦で)御用商人となっていた山城屋和助に密かに貸し付けていましたが、山城屋和助が相場に失敗、返済不能となり自決したことで窮地に立ったことがありました。そのとき山県の政治生命を救ったのが西郷だったのです。山県は、その恩人に向かって総攻撃を命じる立場にいたのです。

参謀本部陸軍部「征西戦記稿」には、総攻撃の前夜「夜間は特に整(静)粛を主とすべし」という命令が(山県参軍から)出ていて 「この夜、海軍軍楽隊をして楽を大明神山に奏せしめ又、煙火戯(花火)を演」 じたことが記録されています。

海軍省の「征西征討志」には、明治10年9月20日輸送船「高雄丸」が鹿児島に入港、乗員名簿の中に初代海軍軍楽隊長中村(旧姓長倉)祐庸以下、海軍軍楽隊員33名が含まれていたことが記録されています。

総攻撃の前夜、海軍軍楽隊員33名は西郷隆盛らが立て籠もる城山(岩崎谷)を望む高台(大明神山)に登り、月明かりの中で薩軍と西郷へ惜別の演奏を行ったのです。

演奏した曲名は記録されていませんが、明治10年前後に海軍軍楽隊が演奏していた曲は、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」(1867年)、ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」(1747年)、ショパン作曲ピアノソナタ第2番「葬送行進曲付」(1839年)などがあるので、そのどれか又は全部が演奏されたのでしょう。

武士道の礼儀を尽くしたオーケストラ演奏を聴いた薩摩軍の村田新八(3年間の欧米視察経験者)から、直後に返礼のアコーデオン演奏があったとも言われています。

参考文献:西郷隆盛惜別譜 横田 庄一郎著



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ミヤマキリシマを見るために、霧島国立公園にあるえびの(前は蝦野と書いていたようです)高原まで行ってきました。えびの高原の標高は1200m、寒いのではと思っていましたが、この日は暑く予想は見事に外れました。

エビノエコミュージアムセンター駐車場からほど近い「つつじヶ丘」から韓国岳方向の展望です。

良く見ると、山肌が所々ピンク色に染まっています。そこがミヤマキリシマの咲いている場所でした。

折角なので、近くにある硫黄山(標高1310m)にも登ってみました。

正面が韓国岳(標高1700m)、左が硫黄山への登山道

硫黄山の山頂は、荒涼としていました。

ミヤマキリシマは、山頂付近にあった岩の割れ目にも根を張って、綺麗な花を咲かせています。かなり生命力の強い植物のようですね。

硫黄山山頂からは、カルデラ湖の不動池(直径200m、標高1228m)が良く見えます。この先には、まだ二つのカルデラ湖(六観音大池と白紫池)がありますが、時間が無かったので行けませんでした。

硫黄山の山頂に咲く、ミヤマキリシマの大きな株と韓国岳です。

 



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霧島神宮の公式HPによれば、6世紀に高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが神社の始まりとされますが、実際は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社のようです。・・・霧島神宮社殿全景

平安時代(927年頃)の延喜式神名帳には「名神大社」が226社313座もありますが、日向国、大隅国、薩摩国の3国には「大社」が無く、霧島神社の社格も「小社」と記されています。・・・祭神

火山の麓という立地のため社殿がたびたび炎上、950年頃には現在の高千穂河原(古宮址)に遷されますが、後に噴火の巻き添えで炎上、1484年に島津家11代島津忠昌(1463~1508年)が再建したのが現在の地だったとか。

歴代島津家当主の尊崇はあつく、16代島津義久(1533~1611年)は、1578年耳川の戦いに臨む途中に参拝して、九州最大の戦国大名であった豊後の大友氏に大勝、また九州北上にあたっても1585年に重臣を遣わすなど、島津氏の重要事の決定に際してはここで神慮を仰いでいたようです。・・・手水舎

その霧島神社も霧島連山の噴火(最近では新燃岳が有名)で社殿が炎上、現在の社殿は島津家21代島津吉貴(1675~1747年)が1715年に再建したものです。・・・勅使殿

その島津吉貴は、長男の継豊が徳川吉宗の養女竹姫と再婚するときに大反対していますが、竹姫(浄岸院)は後に孫に当たる島津重豪の養育に携わり、お蔭で重豪は将軍徳川家斉の岳父という地位を得る幸運をつかんでいます。・・・西長庁と大杉

また、吉貴はそれまでの加治木島津家、垂水島津家に加え、自分の息子達に越前家(家祖は四男忠紀)、今和泉島津家(家祖は七男忠卿)という分家を作り、本家に後継者がいない場合には4分家から藩主を出す徳川家(御三家と御三卿)と似た体制を作った人物でした。・・・手水舎のすぐ右が勅使殿、その奥の斜め屋根が登廊下、その奥に拝殿

島津家当主の厚い尊崇をうけてきた霧島神社は、明治維新後に制定された太政官布告で明治七年に「霧島神宮」と社号を改定、最も格の高い官幣大社とされています。明治政府の中にいた薩摩藩出身者の郷土愛からでしょうね。・・・新神楽殿への通路

皇室の先祖、高千穂の嶺に降臨した天孫ニニギノミコト、ニニギの子ヒコホホデミノミコト、ニニギの孫ウガヤフキアエズノミコト、ニニギのひ孫カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)を祀る神社であるため、昭和天皇が二度にわたって参拝に訪れています。・・・新神楽殿



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昨日に続き、西南の役で政府軍が最後の総攻撃をする前日、山県有朋(1838~1922年)が城山に籠城する西郷隆盛(1828~1877年)に宛てた手紙の続きを咲くやこの花館の花と一緒に紹介しましょう。<・・・>が山県の手紙の引用、(・・・)はROSSの補足

<ああ、君はどれほど深い悲しみを心の底に秘めているのだろうか。有朋は君を良く知っているがゆえに、君のために悲しむ。だが、すでにここまできてしまっては、言っても益の無いことだ>

<どうして君は早く自らの手で自らを図ること(自決)をしなかったのか。交戦以来、すでに数か月を経て、両軍の死傷者は日に数百をかぞえ、骨肉相殺戮し、朋友相食んでいる>

<人情の忍ぶべからざるところを忍ぶとはいえ、(鹿児島県出身の肉親同士が敵味方となって戦う)この戦いよりひどいものはあるまい。そして兵士の心情を問えば、互いにほんの少しの恨みも持っているわけではない>

<官軍の兵は仕事として、薩摩軍は西郷のためにという以外に何の理由もない。数県の兵士を率いて天下の大軍(政府軍)に抵抗し、数旬の激戦に挫折してなおたゆまないことで、君の威名が実のあるものであることは十分に示された>

<いまさら何を望んでだだ(城山の陣地を)守り、まだ健闘しようとするのであろうか。論者は必ず言うであろう。西郷は事のならぬことを知ったが、自らの余生を長引かせるために多数の死傷者を作りだすことを迷わなかったと>

<有朋はもちろん、そうではないことを知っているがゆえに、君のためにこれを痛惜せずにはいられぬ。頼む、君は早く自らの命を絶ち、一つはこの挙が君の素志ではなかったことを証明し、一つは相互の死傷者をこれ以上増やさぬよう図ってほしい>

<君がそうすれば、兵もとどまるに違いない。今日、天下の君に対する毀誉は極端なものがある。国憲の存在するところ、自然のなりゆきとはいいながら、君の心事を知っている者も、決して有朋一人ではない>

<どうして公論が他年に定まることを考えないのか。旧友として、有朋は切に君にこれを願い、望まずにはいられない。どうか、少しでも有朋の心情の苦しさを察してくれ。涙をふるってこれを書く> 此の手紙が届いた翌日、西郷は最後の突撃をして負傷、別府晋介の介錯で自決しています。

西郷は、陸軍大将の自分が最強薩摩軍団1万3000人を率いても政府軍には勝てないという事実を身を持って示し、全国武士階級の反政府活動を沈静化させようとしたのではないでしょうか。

「 濡れ衣を ほさんともせず 子供ら(私学校生徒)の なすがまにまに 果てし君かな 」勝海舟が西郷の死を知って詠んだ和歌を紹介して終わります。

参考文献:維新・西南戦争 編纂 旧参謀本部 監修 桑田忠親、山岡荘八



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1877年(明治10年)9月23日、薩摩軍に対する政府軍総攻撃の前日、参軍(実質の最高司令官)山県有朋中将(1838~1922年)は、城山に戻る薩摩方の軍使に西郷隆盛大将(1828~1877年)に宛てた手紙を持たせています。山県の考えた西南戦争の原因が記述されていますので咲くやこの花館の花と一緒に紹介しましょう。<・・・>が山県の手紙の引用、口語調に変換、(・・・)はROSSの補足・・・咲くやこの花館のある鶴見緑地公園の噴水

<世間では「西郷がその盟主だ」「西郷はその巨魁だ」といったものであるが(中略)ひそかに有朋の見る所では、これも(不平士族たちの)やむを得ざる勢いによるもので、決して君の素志でないことは良く判っている>・・・咲くやこの花館の外にあるアガヴェ・フェロクスの花(数十年に一度だけ咲き、咲き終わると枯れるそうです)

<もしも君がはじめから(反政府の)異図を持っていても、何でこのような行動に出る必要があったのだろうか。いま薩摩軍が公布しているものを見れば、一,二の官吏の罪を問おうとする、たったそれだけのことではないか>・・・アガヴェ・フェロクス

 

<これが果して旗を揚げる好機と言えようか。君の老練、君の明識がこれしきのことを理解しないはずはない。にもかかわらず、ここまできたということ自体が、君のあずかり知らぬところであったことを裏付けている>・・・アガヴェ・フェロクス

<天下不良の徒は、西郷が山林(大隅半島根占)に姿を消したことをひそかに奇貨とし、機に乗じて巧言をもって朝廷の政務をそしり、西郷が義兵を鹿児島に挙げ、人民の苦しみを救おうとすれば、天下はみなこれになびき応ずるのは必然と挑発した>・・・アガヴェ・フェロクス

<そういうことがじわじわ浸透してゆき、大勢の口から言われるようになってはどうすることもできず、ついに西郷を今日の姿にしてしまった(中略)しかし有朋だけはこれに同意しない。君にその志があったなら、単騎で輦下(天皇のもと)にいたり、従容として利害のすべてを上言するのに、何の妨げがあっただろう>・・・外部庭園の花

<君が数年に渡って育てた壮士達(私学校党)は、初めから時勢の真相をしっかり把握して、道理の大道を踏み行う識見を欠いていた。だからよからぬ教唆に慷慨したり、自分が容れられなければ憂鬱になり、不平や怨嗟は一変して悲憤の殺気となり、君の名望を持ってしてもなお制御できないほどになった>・・・外部庭園の花

<彼らは、暴挙の名分を問えば「西郷のためにするのだ」と答え、その義を聞けば、また「西郷のためにするのだ」と繰り返す。そして君は自分だけが余生をまっとうすることに耐えられなくなり、そのことの間違いを百も承知の上で、ついに壮士たちの上に奉られることになったのではないか>・・・外部庭園の花

<そうだとすれば、今日の事について、君は最初から自分の生命を壮士に与えようとしたにほかならず、だからこそ人生の毀誉を度外視し、天下後世の議論にもあえて省みようとはしなかったのだ>・・・外部庭園の花とモンシロチョウ

つづく

参考文献:維新・西南戦争 編纂 旧参謀本部 監修 桑田忠親、山岡荘八



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維新後の明治新政府は、「廃藩置県」「徴兵令」「廃刀令」「断髪令」を断行、その結果、プライドと職場を奪われた士族の怒りが爆発し、佐賀の乱、肥後の神風連の乱、福岡の秋月の乱などが発生しています。・・・鹿児島の南洲神社拝殿

武士達の怒りを憂慮した西郷隆盛は、国交の申し入れを拒否した朝鮮(李王朝)に対して、自らを派遣することを閣議決定しています。海外派遣中の三条実美や大久保利通たちが日本を留守にしている間のできごとでした。・・・神社の隣が墓地

しかし、急遽帰国した大久保は、西郷の朝鮮派遣に強く反対、西郷の狙い(武士で構成した日本軍が欧米列強より先に韓国を征服する征韓論)は直前に取り消され、西郷は明治6年12月、鹿児島に下野しています。・・・西郷隆盛の墓

西郷の下野と行動を共にしたメンバーが西南戦争の薩摩軍幹部の桐野利秋達で、彼らは鹿児島に私学校をつくり、士族の若者たちに学問と軍事両方の教練を開始しています。・・・少年烈士の墓

大久保は、薩摩士族が陸軍大将のまま帰郷した西郷を担いで反乱を起こすのではないかと心配し、鹿児島にある政府の弾薬庫から弾薬を大阪へ移転することを指示、また西郷の状況を視察せよと鹿児島出身の警察官約20名を送り込んでいます。・・・西郷の左が桐野利秋の墓

弾薬庫から密かに弾薬が運び出されるのを見た私学校党は、政府側の兆発と見て弾薬庫を襲撃、このとき大隅半島の根占で第一報を受けた西郷は、「チョシモタ」との一言を発したまま声を失ったといいます。・・・西郷墓地から見える桜島

続いて私学校党が政府から送りこまれた警察官を捕えて拷問にかけると「西郷をシサツ(視察)に来た」と白状、西郷を刺殺(暗殺)する計画があったとして(直前の弾薬庫襲撃が正当化され)、政府を問責する大義名分を手に入れたのです。・・・小倉知周は東郷平八郎の実兄

西郷の心情としては、挑発に乗って激昂する若者(私学校生徒)を政府に引き渡すことは出来ず、私学校党に担がれる形で兵を動かす決心をしたのでしょう。・・・日向佐土原藩主の三男、島津啓次郎の墓

鹿児島を出る西郷は「今般、政府に尋問の筋これあり(中略)多数の随行とともに出立するので、人民が動揺いたさざるよう一層のご保護を依頼する」という宣言文を持った伝令を先発させていて、進軍先の陸軍は陸軍最高司令官の自分に帰順するであろうと楽観的に考えていたようです。・・・墓地の向こうが南洲神社

ところが政府側は、「この進軍に大義は無く、如何に西郷大将であっても、一私人が大軍を率いて上京するがごときは、国法の断じて許さざるところ」として陸軍に抗戦を指示、熊本鎮台の将兵も熊本城に籠城したことで西郷の意図に齟齬が生じるのです。・・・西南戦争勃発時の鹿児島県令で終戦直後死罪となった大山綱良の墓

参考文献:西南戦争 最強薩摩軍団崩壊の軌跡



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