JR嵯峨野線の花園駅からほど近い法金剛院は、1130年に鳥羽天皇(1103〜1156)の中宮、待賢門院 藤原璋子(たまこ、1101〜1145年)によって白河法皇の菩提を弔うために創建されています。その法金剛院と待賢門院璋子の生涯を角田文衛氏の著書から紹介しましょう。 法金剛院の表門
璋子の父親、権大納言藤原公実(1053〜1107年)は、4代前の先祖の公季が藤原北家、師輔の11男という傍流で、代々中納言か大納言までしか出世できない家系でした。 二尊院にある三条家の墓誌に始祖公季、5代公実の名前が刻まれています
璋子は、7歳で父親と死別していますが、幼いころから美しい姫だったせいで、白河法皇(1053~1129年)と寵愛する女性(祇園女御)の養女となっています。 法金剛院の鐘楼
平安時代、美しい姫のことを「かぐや姫」と呼んでいたそうですが、璋子は52歳年長の白河法皇のまさにかぐや姫だったと角田文衛氏は書いています。
白河法皇は、璋子が年頃となった頃、結婚相手として摂関家の嫡男、藤原忠通との縁談を持ちかけますが、璋子の素行に噂があったため忠通の父親の忠実が固辞したようです。法金剛院のスイレン
当時、天皇家に入内できるのは、摂関家の女性に限られていたのですが、忠実に断られた白河法皇は1117年、孫の鳥羽天皇(数え年15歳)のもとへ璋子(数え年17歳)の入内を強行しています。 法金剛院の庫裡
摂関家の当主、忠実が固辞した理由は、璋子が法皇と男女の関係にあり、また、院に出入りする若者とも関係していた乱行の人だったからと角田文衛氏は書いています。
性に奔放な璋子(17歳)と白河法皇(65歳)は、入内の後も逢瀬を重ね、法皇の子を宿した璋子は、1119年に顕仁親王(後の崇徳天皇)を生んでいます。法金剛院の本堂(奥)
角田文衛氏は、当時の貴族達の日記を精読して璋子が妊娠した日を特定、その当日、璋子が白河法皇の御殿に滞在していたことを突き止めています。 ヤマボウシ
当時の璋子は、満年齢14歳(数え年15歳)の少年だった鳥羽天皇を男性とは認めていなかったということでしょうが、平安女性の大胆で奔放な行動に驚かされます。
参考文献:待賢門院璋子の生涯 角田文衛著