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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1991年に開業したホテルアジュール竹芝は、東京都職員共済組合の総合保健施設を藤田観光のワシントンホテルが運営受託しているようです。

最上階、21階のフフレンチレストラン「ベイサイド」のカウンター

ランチタイムならワンプレートランチが1500円とありましたので、早速案内してもらいました。

このレストランは、海側に広い窓があるのが特長です。中央、清掃工場の煙突の左側に7棟並んだタワーは、約4キロ先の江東区東雲の超高層マンション群でしょう。

これがワンプレートランチ

窓正面、船が接岸しているのは晴海ふ頭公園、その向こう緑の場所は「ゆりかもめ」市場駅のある新豊洲、そのさらに向こうが有明コロシアムのある有明でしょう。

窓の左側は、中央に2008年完成の57階建超高層マンション、THE TOKYO TOWERS S棟、N棟(高さ193m)。総床面積が38万平米、総戸数は2794戸というビッグスケールです。

窓の右側には、フジテレビを中心とする台場のビル群が見えています。

右端をぎりぎりまで覗くと、レインボーブリッジの全景を見ることができました。

この時点でも、コインロッカーのレシートを紛失したことに気が付いていないのでした。

 



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先日、劇団四季のミュージカル「ライオンキング」を見るために東京に行ってきました。四季劇場に近い浜松町でJRを下り、コインロッカーに荷物を預けます。

このコインロッカーは、荷物を入れた後に出てくる紙切れ(レシート)を無くすと、後で荷物が取り出せない(実に不親切な?)システムとなっていました。

この日の東京は暑く、レシートを入れたポケットの中のハンカチを何度も取り出し、頻繁に汗を拭いたのが、不幸の始まりでした。四季劇場に向かって少し歩き、浜松町駅方向を振り返ると東京タワーが

昼近かったので、食事の場所を探し、新交通システム「ゆりかもめ」の高架下を潜ります。

その先にあったのは、竹芝ふ頭の東京ヴァンティアンクルーズ船着き場。ここから小笠原諸島へ向けて船が出ているようです。

竹芝ふ頭のボードウオークの正面は、中央区豊海町にある水産会社の冷凍倉庫街です。

竹芝ふ頭の右には、レインボーブリッジが、その手前にはクルーズ船が見え、客が続々と乗船しています。

ボードウオークの右側、中央の高層ビルは、インターコンチネンタル東京ベイホテル。なかなかの景観ですね。

竹芝ふ頭から最も近いホテル、アジュール竹芝。あまりにも暑いので、とにかく涼しい場所に避難することにしました。

コインロッカーの紙切れ(レシート)は、既に行方不明となっていましたが、その深刻な事態にまだ気づいていなかったのです。



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海遊館のエビ・カニ展のポスターに出ているトラフ(虎班)カラッパは、成長すると甲長8cm、甲幅12cm、東京湾から九州までの水深30~60mの砂底に棲息するカニで、愛嬌のある目をしています。

同じ水槽に入っているヤマトカラッパは、甲長9cm、甲幅13cmと少し大きく、東京湾から九州までの水深50~2000mの砂底に棲息するカニで、目つきがキツく水槽の中でも堂々としていましたね。

 

こちらはカニの仲間では最大となるタカアシガニの目ですが、4つもあるように見えます。

モンハナシャコ

白く巨大なヒゲを持つゴシキエビは、体長50cmくらいまで成長する食用のエビだそうです。

クリーナーシュリンプの1種、アカシマシラヒゲエビ

 タツノオトシゴは、魚の仲間でしたがかわいい系なので一緒に紹介しておきます。

これも可愛い系代表として紹介したいウミガメ。ちょこちょこ動いているのでなかなかピントが合いません。

クロアワビの稚貝は、1年半でやっと3cm、貝長が15cmを超えるには7~8年かかるようなので、アワビの生育は遅いですね。

海遊館には、面白い生き物がいっぱいでした。



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後白河法皇が崩御して15年を経た1207年、治天の君となった後鳥羽上皇(28歳)は、法然の弟子に寵愛する宮中の女性が犯されたとして法然(75歳)を土佐(実際は讃岐)に、高弟の親鸞(35歳)を越後に流罪にしています。  一心寺の山門

 

九条兼実(1149〜1207年)の尽力で、法然がやっと京都に戻れたのはその死の前年でしたが、法然に流罪を命じた後鳥羽上皇自身が、14年後(承久の変で)隠岐に配流されるのは、因果応報ということでしょう。一心寺のジャガランタの花

 

さて、法然没後(1212年)から1596年頃までの384年間、一心寺の前身「荒陵の新別所」は、歴史の舞台からその姿を消しています。ジャガランタの落花

  

法然は、特定の寺院を創らなかったことで知られていますが、没後半世紀を経た頃、一心寺の前身となる堂「源空庵」が誕生したのではないかと「一心寺風雲覚え書き」は書いています。

 

 その証拠に、1294年頃とされる一遍上人絵伝の四天王寺絵図に「源空庵」のような堂が描かれており、また1530年頃に書かれた土佐光成の日想観図像にも、当時この地にあった寺のことが書かれているのです。

 

しかし、四天王寺付近は、1332年の北条方対後醍醐天皇方との戦い、1338~58年頃の南北朝の争乱、1467~77年の応仁の乱、1577年の石山合戦、1614~15年大坂冬夏の陣など、幾度も激しい戦いの舞台となり、寺の伽藍や記録文書などはその都度焼失してしまったのではないでしょうか。



1596年、家康と親しかったという三河の僧侶「本誉存牟上人」がこの地にあった荒れ寺を一心寺として再興しています。 納骨堂

 

その一心寺では、江戸末期以降に納骨された遺骨で明治20年に「骨仏」を造り、以降10年ごとに新しい仏像を造って、納骨堂に納めていることで知られています。

 

また一心寺は、江戸時代中期以降から盛んとなった「法然上人二十五霊場」巡りの第七番札所として、今も多くの信者を集めているのです。このジャガランタの花は、一見の価値があります。

 

参考文献:一心寺風雲覚え書き 一心寺編



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四天王寺西門からほど近い一心寺は、法然の草庵「荒陵の新別所」(源空庵)が置かれてから既に816年が経過している古い寺院です。 山門とジャガランタ

 

ある読者の方から、その境内にあるジャガランタを紹介して頂きましたので、出勤前に寄り道して見たジャガランタと一緒に、一心寺の歴史を紹介しましょう。



さて一心寺ゆかりの法然(43歳、1133〜1212年)は、1175年に専修念仏の浄土宗をひらき、法然のもとには、後に浄土真宗の宗祖となる親鸞(1173〜1262年)らが入門しています。



鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた後白河法皇(1127〜1192年)は、二人の孫の中からより活発だった(年少の尊成親王4歳、1180〜1239年)を1183年に皇位につけています。後鳥羽天皇



その2年後(1185年)、四天王寺の別当(トップ)、慈円(1155〜1225年)が、浄土宗の宗祖、法然(53歳)を四天王寺に招いています。



招かれた法然は、四天王寺西門外に、日想観を修する場所としての「荒陵の新別所」(源空庵)を結んだといい、それが 一心寺の前身だったとされています。 本堂



日想観を修すとは、夕日を見ながら、西方にあるという極楽浄土を心静かに想像する修行のことで、西に開けた台地にあるこの土地は、その修行にピッタリだったのでしょう。崖の上が一心寺の日想観(会館)



今も一心寺の横は急な坂となっていて、当時は1kmくらい西にある今宮戎神社(漁業の神)辺りから先は海原だったようです。



1186年に摂政となった、九条兼実(1149〜1207年)は慈円の実兄で、深く法然に帰依したことが知られ、後に法然のもとで出家しています。 朝日に照らされた ジャガランタは、極楽浄土の花のようです。



1189年、後白河法皇は、四天王寺参詣の際に法然の「源空庵」を訪れ、6歳年下の法然と共に日想観を修し、その3年後に崩御しています。

参考文献:一心寺風雲覚え書き 一心寺



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白河法皇の崩御の後、鳥羽上皇(32歳)は、1134年に摂関家藤原忠実の娘、泰子(40歳、高陽院)を皇后に柵立して摂関家を味方につけ、璋子(たまこ34歳、待賢門院)に代わって藤原得子(18歳、美福門院)を寵愛しはじめています。

 

 

 

1139年、鳥羽上皇は、若い得子が産んだ生後三ヶ月の体仁(なりひと)親王を強引に立太子させ、2年後の1141年に崇徳天皇(23歳)に譲位を迫り、体仁(3歳、近衛天皇)が即位しています。  鳥羽の近衛天皇陵

 

 

 

 崇徳天皇の譲位で権勢を失った璋子は、自ら創建した法金剛院において1142年に落飾し、その3年後の1145年、45歳で崩じ、法金剛院のすぐ北にある五位山に遺言通り土葬されています。

  

 

 璋子をよく知っていた西行は、その翌年(西行29歳)都を離れて陸奥へ旅立っていますが、璋子の死という無常を見て、第二の出家をしようと思ったのではないかという説があります。

 

 

  
さて、五位山にある璋子の山陵は、327年後の1469年に盗掘にあっていますが、法金剛院の衆徒がさらに掘り下げると法華経を書いた薄い銅板が納められた銅製の箱を発見したといいます。

 

 

  
埋葬時の記録によれば、その銅箱の下に石櫃があり、その中に待賢門院璋子の棺が納められているので、璋子の棺は無事だったようです。

 待賢門院璋子の没後10年、近衛天皇が17歳の若さで夭折し、璋子の生んだ雅仁親王(29歳)が後白河天皇として即位しています。

 

藤原北家の傍流、権大納言の娘だった璋子は、崇徳天皇と後白河天皇、二人の天皇の生母(国母)となり、一族(閑院流藤原氏)は、摂関家に次ぐ名門貴族(清華家)にのし上がるのです。

璋子の死から11年を経た1156年、璋子が生んだ兄弟、崇徳上皇(38歳)方と後白河天皇(30歳)方が激突する「保元の乱」をきっかけとし、日本の歴史は武士の時代へと方向を変えています。

 

 
一人の女性(璋子)が、天皇中心の貴族支配を終わらせ、武家の支配へと日本の歴史を変えたことになるのですが、璋子の存在の大きさに驚かされます。

 

参考文献:待賢門院璋子の生涯 角田文衛著



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昨日の記事の続きですが角田文衛氏は、その著書「待賢門院璋子の生涯」の中で璋子((たまこ、1101〜1145年)は、娘のころから同時に二人の男性を愛せる女性であったと書いています。待賢門院璋子が創建した法金剛院のアジサイ

 

さて、入内当時、鳥羽天皇に肌をゆるさなかった璋子ですが、天皇の成長とともに男性として天皇を愛しはじめています。 法金剛院のアジサイ

 

璋子は、1122年頃まで二人(祖父の白河法皇69歳、孫の鳥羽天皇20歳)と関係を続けていたようで、同年に誕生した皇女は、どちらの子供であったのかよく判っていません。 法金剛院のヤマボウシ

 

1123年、余命の短くなった法皇(70歳)は、自分と璋子との間にできた顕仁親王(5歳)を皇太子に立て、鳥羽天皇(21歳)が即日譲位して上皇に、顕仁親王が天皇(崇徳天皇)となっています。法金剛院の待賢門院の歌碑

 

翌1124年、璋子は24歳の若さで女院(待賢門院)となりますが、この頃の鳥羽上皇と、白河法皇との関係は極めて円満だったといいます。法金剛院のハナショウブ

 

その証拠として、1125年から4年も続して法皇と上皇が仲良く熊野詣にでかけていることが挙げられます。 法金剛院の池

待賢門院となった璋子は、その4回の熊野詣にすべて同行、その後上皇と7回、その他2回、計13回も熊野詣に出かけているので彼女は体力に相当自信があったようです。法金剛院のハナショウブ

 

その後、鳥羽上皇と璋子の間には、1124年皇子、1125年皇子、1126年皇女、1127年皇子(後白河天皇)、1129年皇子と次々と5人の子供が生まれ、この頃の璋子と天皇の夫婦仲はすこぶる良かったようです。法金剛院のアジサイ

 

しかし、1129年に白河法皇(77歳)が崩御、10年余続いた璋子の人生の絶頂期が終わり、秋風が吹き始めるのです。現在の白河天皇陵

参考文献:待賢門院璋子の生涯 角田文衛著



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JR嵯峨野線の花園駅からほど近い法金剛院は、1130年に鳥羽天皇(1103〜1156)の中宮、待賢門院 藤原璋子(たまこ、1101〜1145年)によって白河法皇の菩提を弔うために創建されています。その法金剛院と待賢門院璋子の生涯を角田文衛氏の著書から紹介しましょう。 法金剛院の表門

璋子の父親、権大納言藤原公実(1053〜1107年)は、4代前の先祖の公季が藤原北家、師輔の11男という傍流で、代々中納言か大納言までしか出世できない家系でした。 二尊院にある三条家の墓誌に始祖公季、5代公実の名前が刻まれています

 

璋子は、7歳で父親と死別していますが、幼いころから美しい姫だったせいで、白河法皇(1053~1129年)と寵愛する女性(祇園女御)の養女となっています。  法金剛院の鐘楼

平安時代、美しい姫のことを「かぐや姫」と呼んでいたそうですが、璋子は52歳年長の白河法皇のまさにかぐや姫だったと角田文衛氏は書いています。  

 白河法皇は、璋子が年頃となった頃、結婚相手として摂関家の嫡男、藤原忠通との縁談を持ちかけますが、璋子の素行に噂があったため忠通の父親の忠実が固辞したようです。法金剛院のスイレン

 

当時、天皇家に入内できるのは、摂関家の女性に限られていたのですが、忠実に断られた白河法皇は1117年、孫の鳥羽天皇(数え年15歳)のもとへ璋子(数え年17歳)の入内を強行しています。 法金剛院の庫裡

  

摂関家の当主、忠実が固辞した理由は、璋子が法皇と男女の関係にあり、また、院に出入りする若者とも関係していた乱行の人だったからと角田文衛氏は書いています。  

性に奔放な璋子(17歳)と白河法皇(65歳)は、入内の後も逢瀬を重ね、法皇の子を宿した璋子は、1119年に顕仁親王(後の崇徳天皇)を生んでいます。法金剛院の本堂(奥) 

 

角田文衛氏は、当時の貴族達の日記を精読して璋子が妊娠した日を特定、その当日、璋子が白河法皇の御殿に滞在していたことを突き止めています。 ヤマボウシ

 

当時の璋子は、満年齢14歳(数え年15歳)の少年だった鳥羽天皇を男性とは認めていなかったということでしょうが、平安女性の大胆で奔放な行動に驚かされます。

参考文献:待賢門院璋子の生涯 角田文衛著



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藤原道長(966〜1028年)の時代には、藤原摂関家が日本の政治を支配していましたが、摂関家を外戚としない後三条天皇(1034〜1073年)が1068年に即位、弱体化した皇室の経済基盤の強化を図り、40歳で貞仁親王(白河天皇)に譲位して、翌年崩御しています。鳥羽離宮にある白河法皇と鳥羽法皇の院政地を示す石碑

 

20歳の若さで即位した白河天皇(1053〜1129年)は、父に続いて天皇親政を貫き、父親の強化した経済基盤を背景に77歳で崩御するまで「賀茂川の水、双六の賽、山法師以外は意のまま」だったようです。白河天皇が造営した巨大な鳥羽離宮跡(その経済基盤の大きさに驚かされます)

白河天皇と中宮(皇后と同じ)、賢子(1057〜1084年)との間には、媞子内親王(郁芳門院、1076〜1096年)、令子内親王(1078〜1114年)、善仁親王(堀河天皇)が生まれますが、妻の賢子は1084年に28歳で崩御、上醍醐の円光院に遺骨が納められています。上醍醐陵の宮内庁標識

1086年、白河天皇は退位して上皇となり、堀河天皇(1079〜1107年)が8歳で即位しますが、2年後に最愛の媞子内親王が死去、ショックを受けた上皇は出家し、以降法皇と呼ばれるようになっています 上醍醐陵の石碑

1098年、白河法皇は、母方の従妹、藤原苡子(1076〜1103年)を堀河天皇(20歳)に入内させ、彼女は宗仁親王(鳥羽天皇、1103〜1156年)を生みますが、1107年に堀河天皇が29歳の若さで崩御するのです。

 

息子を失った白河法皇は、急遽、孫の後鳥羽天皇(5歳)を即位させ、藤原苡子の姪、璋子(1101〜1145年)を自らの養女とし、1117年に鳥羽天皇の中宮として入内させています。 鳥羽離宮の地にある鳥羽天皇陵

 

 

 

この璋子は、崇徳天皇、後白河天皇を生み、実にドラマチックな人生を歩むのですが、それは明日からのブログで紹介したいと思います。法金剛院の裏山にある鳥羽天皇皇后璋子の御陵

 

 

藤原宗忠(1062~1141年)は、白河法皇を「威四海に満ち天下帰服す。幼主三代の政を取り、斎王六人の親となる。桓武天皇より絶えて例なし(中略)男女の殊寵多く、天下の品秩破る」と、伝統と秩序を破壊したと糾弾しています。鳥羽離宮の地にある白河天皇陵

 

 

 

白河法皇は、摂関家以外の娘を天皇(自らの子や孫)に入内させて摂関家のパワーを削ぎ、父親の強化した経済基盤と共に政権基盤をも盤石としたのです 鳥羽天皇が譲位した近衛天皇陵(鳥羽離宮の地にある)

 

参考文献:白河法皇 美川 圭 著



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梅雨の休日、あじさいを見に生駒山にでかけようと、ケーブル駅まで来ると、山の上は厚い雲が覆っていました。

それでも雨は降っていなかったので、1918年(山上駅までは1929年)に開通したケーブルカーに乗って生駒山上駅に到着すると、ご覧の通り、生駒駅から350円払って雲の中に入ってきたようです。

山上駅から少し歩いた生駒山上には、在版テレビ局の送信アンテナが林立しています。これは霧が晴れた後に撮ったNHKのアンテナ。

説明看板によれば、この放送アンテナの高さは、海抜687,6m。つまり東京スカイツリー(634m)よりも50m以上高い。生駒山があるので大阪には放送用の高いタワーは不要ということでしょう。

生駒遊園地は、散歩するだけなら無料で中に入れます。アンテナの建っている正面の山は、四条畷市の飯盛山でしょうか。

今から82年前の1929年に開業したという生駒山上遊園地の内部です。乗り物フリーパスは、大人3000円、子供2700円とか。

さて、生駒山上からの帰りも350円払ってケーブルカーを利用しました。この駅も1929年の開業時から82年も使われているようです。

児童文学者、庄野英二(1915~1993年)のエッセー「帝塚山風物誌」の中に、夏休みに生駒山上の別荘で勉強したという話がありましたが、その別荘地は廃墟となっているようです。ケーブルカーの内部

ケーブルカーの交差ポイント。右側の車両(登り)のケーブル(線路の中央)を、左側の車両がひっぱりながら下りるという構造なのでしょう。

 のんびりとしたウグイスの鳴き声が飛び交う生駒山上まで、往復700円は安いと思いました。



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昨日の記事からの続きとなりますが、6月18日のぬかた園地のアジサイは、まだ1~2分咲きくらいでしょうか。

エゾアジサイは、小型のガクアジサイでした。

北米原産のアナベルは、まだ黄色ですが、これから白く変身するのでしょう。

これも小型のガクアジサイ

白から薄い紫色になり、さらに濃い紫から青へと変わるのかも。

白いガクアジサイは、これから色付くのでしょう。

よく見るとクモが。

ニッコウキスゲ(別名ゼンテイカ)の花がちょうど咲いていました。

これはヤマザクラの実

あじさい園の中のハイキングコースには、大量のヤマザクラの実が地面に落ちていました。



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生駒山山頂からほど近い、大阪府民の森「ぬかた園地」にある2万5千株のあじさいの開花状況が気になったので、生駒駅からケーブルカーで生駒山上まで出かけてみました。大阪難波からたった50分の距離ですが、山上はすごい霧。

その霧の中を、大阪府みどり公社の看板を見ながら先に進みます。

途中にある分かれ道を左に進むと暗峠へ、右が目指すあじさい園で、この先は急こう配の下り坂となっていました。

生駒山上駅から20分くらい山道を下ると、整備されたハイキングコースに出ます。

あじさい園の手前には、ヤマボウシの白い花が満開で、周辺にはモンシロチョウが沢山飛んできていました。

さて、肝心のアジサイですが、1~2分咲きくらいでしょうか。

見頃は、月末から7月上旬くらいではないかと思います。

それでも色付きはじめた株をいくつか撮っておきました。これが一番色が濃くなっていた株。

これからもっとピンク色が鮮やかになるのでしょう。

折角出かけたので、明日も続いて「ぬかた園地あじさい園」の写真をご紹介したいと思います。



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地下鉄朝潮橋駅のすぐ西にある八幡屋公園(今は八幡屋スポーツパークセンター)は、大正12年開園、面積は12,4ha、公園の中には大阪プール、大阪市立中央体育館という巨大な施設があることで知られています。大阪プールの入り口

 

 

 

 公園の芝生の先にある大阪市立中央体育館は、延面積が約4万3千㎡、収容人員が1万人、メインアリーナは、バスケットボール・バレーボール・テニスコートが4面が取れるという巨大な体育館です。

 

 

 

また、この体育館は、建物全体が土で覆われ、そこに植物が植えられた小山となっていて、螺旋状の遊歩道を歩きながら頂上まで登ることができるのです。登る途中、大阪プールの屋根がよく見えます。

 

 

 

この体育館の小山の上には、南米原産の植物ジャガランタが16本植えられていて、毎年6月中旬頃に開花し、6月末頃に薄紫色の花が満開となるようです。今の時期はこの程度。

 

 

ジャガランタの花のクローズアップ。

 

 

 

頂上近くから、ユニバーサルスタジオのホテル群を展望すると、手前にあるアジサイが満開となっていました。

 

 

 

こちらは、天保山大橋と大観覧車が見えるので大阪港の方向でしょう。周囲にある建物の屋上が見えているので、この地点(体育館の屋根)がかなりの高さであることが判ります。

 

 

 

港大橋の赤いアーチは、細いビルに殆ど隠れています。そのビルの左下には、走行中の地下鉄電車が写っていました。この辺りの地下鉄中央線は、地上の高架を走行しています。

 

 

 

大阪プールの屋根の先には、地下鉄弁天町前の3棟の超高層ビルが見えていますが、この芝生の下に体育館のアリーナがあるとは、ちょっと想像できません。

 

 



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昨年4月にオープンした堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター(愛称J-GREEN堺)まで来たので、ついでにシャープ堺工場まで散歩してみることにしました。J-GREEN堺のサイクリングロード

そのためには、このゲートから一旦外に出ることになります。

左前方に見えるのは、堺浜シーサイドステージの建物でしょう。

右側には、入江を挟んでシャープ堺工場が見えています。

以前、堺浜シーサイドステージの中にあった大型ホームセンター、「ホームズ」は撤退、建物の解体工事が終わりかけていました。

そのホームズ跡地前からJ-GREEN堺方向を見てみました。フットサルフィールドの屋根が目立っていますね。

これは、新日鉄堺製鉄所製鋼工場で使っていた転炉溶鋼鍋の実物で、一度に180トンの溶けた鉄が入ったそうです。この辺りは、かつて新日鉄堺製鉄所の敷地だったようです。

転炉溶鋼鍋の前の遊歩道をさらに進むと、だんだんシャープの工場が近くなります。シャープ堺工場の太陽電池パネルの生産能力1GW/年(1軒4KWとして一般家庭25万戸分)に対し、現在の生産量は160MW/年、生産能力のたった6%とか。

太陽電池を新築ビルへ設置することを義務付ければ、性能向上とコストの大幅削減が可能となるのではないでしょうか。などと考えながら、シャープ堺工場正門の 右に小さく見えるバス停まで歩き、1時間に2本間隔で出発するバスを待って地下鉄住之江公園まで戻ることにしました。

朝4時半から、休みながら歩いた歩数計カウンターは、2万5千歩、1日のウオーキング量としてはまあまあでしょう。



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2010年4月にオープンした堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンター(以下愛称のJ-GREEN堺とします)に、地下鉄住之江公園から出ている路線バスを使って行ってきました。住之江公園駅前

大阪護国神社の向かい側から出る南海バスは、土日だけJ-GREEN堺に直行しますが、平日は匠町(シャープ堺工場前)行きに乗って堺浜北で下り、少し歩くことになります。場内MAP

J-GREEN堺の土地は、大和川河口の左岸先端部に当たり、対岸はニュートラム南港口駅のある住之江区南港南1丁目です。 人工芝のサッカーフィールド

ここには、もともと大阪ガスの工場がありましたが、堺市が固定資産税免除する条件で、J-GREEN堺に土地を20年間無償貸与したといい、同社の貢献は大きいものがあります。 天然芝のサッカーフィールド

毛馬桜之宮公園(32ha)よりも広い、35haもあるJ-GREEN堺には、3000席の観客席が有る天然芝のサッカーメインフィールドが1面(下の写真)、別に天然芝のサッカーフィールド(上の写真)が4面もあります。

また、人工芝のサッカーフィールドは、何と9面(うち2面に照明有)もあるので、サッカーグランドの合計数は14、ここで同時に28チーム、308人が同時にサッカーの試合ができるのです。 人工芝フィールド

さらに屋根の有る人工芝のフットサルフィールドが3面、屋外フットサルフィールドが5面、計8面のフットサルグランドもあります。屋内のフィールド

また、中央部でアメリカンフットボールもできる1周400mのトラックコースまで整備されているのです。

ほかにもサイクリングコース(2,2キロ)、ウォーキングコース(2,4キロ)などが配備されていて、ワールドカップに出場する日本代表チームの練習場としてこれ以上の場所は無いと思うので、これから楽しみです レストランもあるクラブハウス棟



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