野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



清平路を人にぶつからないように歩きながら、路上に雑多に陳列された商品を踏まないように気を配りつつ上下九路まで戻る。

清平路の狭い通り



上下九路には日本語で書かれた「食は広州にあり」という看板で有名な広州酒家の本店があるはずであったが、清平路を抜け出すべく精神を集中していたので、広州酒家本店をつい見逃してしまった。

清平路よりも清潔な上下九路の賑わい


後日見つけた広州酒家本店(労働節というメーデーの5月1日を祝う看板が掲示されている)



西から歩いた上下九路の東端は南北に走る幹線道路人民路で終わり、そこからさらに東側は大阪日本橋のような電気や機械の材料店が並ぶ通りであった。

人民路


そういえば大阪の日本橋も戎橋通りや黒門市場と近いところにあったようなので、その偶然に驚いたが、歴史的には当然こちらが大先輩なのであろう。

元の広州城城壁の址である人民路から東のこの辺りは旧市街地のためか、道路が曲がりくねっており、花屋通り、インテリア用品通り、看板屋通り、ガラス屋通り、金物屋通り等色々な専門的な職種がまとまって店を出している。

花屋


そこを歩くうちに私の自慢の動物的な方向感覚が失われて、めったに無いことであるが久しぶりにどこにいるのか判らなくなってしまった。

途中、しゃれたデザインの洗面台を売っている店を何軒も見たが、広州では分厚い透明ガラスを使った家具や洗面台などの製品が格安で手に入るのがうらやましい。

さんざん歩いた後で、海珠広場という地下鉄の駅を見つけ、自分のいる場所がやっと判った。

地下鉄海珠広場駅の入口(3万5千㎡もあるが、アヘン戦争時代には珠江の中の島であった)



そこからタクシーで7元支払って文徳路という書画を扱う店が並んだ通りまで行くことにする。

海珠広場のランドマークホテル(4つ星クラス)手前は1959年建立された広州開放記念碑


夜にライトアップされた海珠公園前の珠江にかかる長さ180mの海珠橋(1929年建設)


文徳路には道の両側に書画、額縁、文具を売る店が何軒もあったが、後で調べるとなんと300軒もあるらしい。

途中、孫中山文献館という孫文にゆかりの図書館もあったので写真を撮っておく。



文徳路の画廊を数軒ざっと覗いたが、中国絵画が中心でお金を出してまで買いたいような魅力的な作品は無かったように思う。

よく考えると10時から3時間も歩きっぱなしで、足も棒状態であった。




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上下九路の南に入り口が少し判り難い通りがあり、そこが広州の台所、大阪の黒門市場のような清平路(チンピンルー)である。

清平市場と書かれた看板


清平路は近代的な上下九路と違って、100年くらい時代を遡ったような古色蒼然とした狭い路地の続く通りである。

アヘン戦争時代の広州みたいな通り



最初その入り口がわからなくて、別の通りから清平路の真中辺りに出てしまったが、ここは広州の人の胃袋に入る新鮮な材料、つまり4つ足ではテーブル以外、空を飛ぶものは飛行機以外のすべてが揃う場所である。

乾物屋の店番。路上で大きなサルノコシカケだけを売っている



例えば、すぐ目についたのが、子豚、子犬と子猫、かめ、さそり、さるの腰掛け、ひとで、タツノオトシゴ、雑多な乾物、小鳥、金魚、水草等である。




特に、日本では絶対見かけることの無い無数の新鮮な生きたサソリをポリバケツに入れて販売しており、それを男女が箸で大小のサイズに選別している光景はここならではのものであろう。

どうも姿が海老に似ているので、海老のような味がするのではないかと想像できる。

さそり屋の店先



小サソリのピリカラ炒めや、小サソリの掻揚げなどの料理を考えると案外いけるのかも知れないが、大サソリとなるとどうであろう。

野生の亀も売っている(中には貴重な絶滅種も含まれているかも)



実は後日薬膳スープを飲んだ時に、今まで味わったことの無い妙な匂いを感じたが、その正体がこのサソリであった。

スープの後に出てくるスープの素となった煮物の中に、大きなサソリが幾つも入っていたのには正直吃驚した。

その経験からサソリは決して美味いものではないと断言できる。

犬屋と猫屋



犬や猫に関して言えば、以前は本当にすべて食材として使われていたようであるが、いまでは一部ペットとしても販売されていると聞いた。

事務所の女性に聞くと犬や猫は蛇と一緒にスープにして食べると美味しいとのことであったが、日本ではちょっと信じられない話である。

この清平路の上下九路に近い通りは、金魚屋が多かったが、水草を道路の上に広げて販売しており、その上狭い道路の真中に運搬用のオートバイを置いているので人が渋滞して歩き難くて仕方が無い。

金魚屋




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マンションを出て物乞いの老婆のいる歩道橋を渡り、梅花路を地下鉄楊箕(ヤンジー)駅まで歩く。

両側の街路樹が大きく育って道路を覆い、緑のトンネルを作っている梅花路は広州を代表する綺麗な通りである。

梅花路


駅の自動販売機に4元を入れて丸いプラスチックのキップを買い、そのキップ(アメリカの地下鉄ではトークンと言っていた)を自動改札機にかざしてピッと鳴って開くバーを通る。

プラットホームに入ってきた冷房完備の快適な地下鉄に乗って黄沙駅で下車。

地下鉄


駅から大同路という下町通りを北に5分くらい歩き、第十甫路と書いてある所から東に入ると、その先が広州ガイドに必ず登場する繁華街、上下九路(シャンシャーチュールー)である。

雑然とした黄沙駅の出口


ここ広州で心斎橋に匹敵するのが北京路とすれば、そこより少し庶民的な街として大阪で言えば天神橋筋商店街のような場所であろうか。

この上下九路にも華南独特の騎楼建築が立ち並び、1階の歩道の上にせり出した2階があるために雨の日でも濡れずにショッピングや飲食ができるのが良い。

上下九路の騎楼建築



又、上下九路の長さは北京路の3倍くらいあり、騎楼建築も北京路よりはるかに整然と建てられているので雨の多い時期には上下九路の方がショッピングには便利である。

上下九路の西の端には1880年創業の陶陶居という点心で有名な広州料理店がある。

上下九路の通り(両側は騎楼建築の商店街)


陶陶居の看板の文字は清朝末期の学者にして思想家、さらには科挙で選ばれて清朝の高級官僚となった広州人、康有為という人の筆によるものである。 

康有為の性格そのものを表す豪快かつ繊細でバランスの良い書体で書かれたこの店のロゴは素晴らしい。

科挙の試験では、答案を美しい楷書で書くことが求められ、悪筆では絶対に合格しなかったということなので、試験に合格した進士は全員見事な漢字を書くことができるのである。



逆に言えばどんな優れた人物でも綺麗な楷書が書けなければ、合格できないという矛盾を含んだ試験であったが、何しろ日本の十倍の人口の中から選抜される以上、優れた人物も十倍いるわけで、代わりはいくらでもいるのであろう。

陶陶居のエントランスは高級感があり、朝から飲茶の朝食を摂るお客でかなり混雑していた。

その隣には陶陶居の菓子や、月餅(中国まんじゅう)のテークアウト専門の店があり、商品がきれいにレイアウトされている。

上下九路には婦人服や靴、カバンなどのファッション関係の店が多く、北京路よりも格安な店が多いようであった。

上下九路の広場(江沢民が訪問した時の巨大な写真が掲示されている)




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ここ北京路の道路の一部には上を透明アクリル版で覆った遺跡の発掘場所の展示があり、現在の道路面から50cm下に明時代、その下に元、宋、唐時代の道路が存在しているのを見ることができて面白い。



北京路千年古道遺跡という表示があったが、大都市広州のど真ん中にある繁華街にこのような遺跡が展示されているのが中国らしい。

後から知ったのであるが実はこのあたりは紀元前の秦から続く広州城の丁度中心部で、北京路のすぐ北からは秦時代とその後に続く前漢南越時代の宮殿の遺跡が発掘されている。

今となっては不可能であろうが、この北京路を一度全部掘ってみたら歴史的な大発見があるのかも知れない。

北京路



家内が広州に遊びに来た時に広州百貨店に入り、インテリア用品売場で中国らしいデザインのガラスのコップとインテリアグッズを買って帰ったことがある。

高級百貨店の商品だったので、現地の人には高価なグラスであったろうが日本人にとってはリーズナブルな値段であった。

広州百貨店の南側には北京路から入る狭い路地がいくつもあり、路地の両側は間口1mくらいのあやしげな小さな店がひしめき合っている。

北京路の裏通り


その狭い路地を人とぶつかりながら歩いて見ると、海外有名ブランドのコピー商品を売っている店があちこちにある。

又、昼時であったせいか若い女性店員が店頭で店番しながら弁当を食べている姿を至る所で見かけたが、異様な光景であった。

彼女達が食べている弁当は固い華南米に脂っこい骨付き肉の煮物をぶっかけた丼もので、大体5元(70円)くらい。

弁当


これは広州市内のどこでも普段目にする食事風景である。


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朝9時半ガーデンホテル前の友誼商店で両替し広州一の繁華街、丁度大阪の心斎橋のような北京路商店街へ出かける。

北京路の入口


毎日35万人の買物客が繰り出すという北京路商店街には街路樹はあってもアーケードは無く中国南方地方特有の騎楼建築が続く通りがあった。

騎楼建築


騎楼建築とは建物の2階から上の部分が歩道の上にまでセリだし、1階の歩道部分は上の建物の真下となっているために日差しの強い昼間は日陰となり、雨の日には濡れずに通行できるという建築様式である。

従って北京路では、雨の日でも道路の向こう側に渡る時以外は傘をささずにショッピングができる。

北京路には500の店舗があると言われているが、新大新と広州百貨店という2つのデパートに入ってみた。


北京路の入り口にある新大新は売場が狭く商品も高級品が少なく庶民的なデパートであった。

一方北京路の中央にある広州百貨店は北京路に面した旧館とその裏に増築した超高層の新館がある巨大デパートであった。

広州百貨の新館


ここには海外ブランド物の売場も多く、高級品がところ狭しと陳列され、大阪で言うと大丸のような存在を思わせる。

広州百貨店の入口(広百百貨と書かれている)



「広百」(グアンバイ)と呼ばれ広州では超有名なデパートであるが、旧館の建物はかなり古く、途中覗いたトイレにはなんと大の間仕切りが腰までしかない。


立ち上がると隣が丸見えという構造に吃驚した。



実は一度この手のトイレの中で用を足している現地の人を間近に見たことがある。

外から間仕切り越しに見るとしゃがんだ人間の背中と後頭部しか見えず、顔が見えない造りになっているのである。

従って一応最低限のプライバシーは保ちながら、しゃがんで用を足すことができるのである。

しかし終わった後で一旦立ち上がるとその瞬間からプライバシーは曝け出されるという日本人にとってはかなり悲惨な状況が待っているのである。

トイレにずらっと並んで用を足しているしゃがんだ人間の行列は、中日の文化の違いを決定づける強烈な印象であった。

広州百貨店の新館トイレはちゃんとプライバシーに配慮した仕切りがあったので、日本人の皆さんは新館の方を利用されるのがよろしかろうと思う。

北京路には無印良品(日本のパクリ?)という店もあります。







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広州市の北東に1956年に完成した華南植物園は、敷地面積315万㎡という広大な面積を有する中国最大規模の植物園である。

この植物園までは市内からタクシーで28元(360円)、15分で到着である。

入場料10元を払い中に入る。

植物園に入って吃驚したのは暑い広州ならではの気配りか、園内の主要な通りの両側には大木の見事な並木道があり、所謂緑のトンネルの中を歩けるようになっていることである。



この緑のトンネルは区画毎に木の種類を変えて配置されており、飽きることが無かった。

勿論外人さんも来ています。



園内には5000種類以上の熱帯、亜熱帯の植物が栽培されているというが、確かに300万㎡という面積は広大である。

朝の9時過ぎから12時まで3時間ほどの散策であったが、植物園の中を吹く風は結構さわやかであった。

お勧めポイントは入り口から入って左のエリアに集中している。

そこには大王椰子の並木道があり、その奥に広大な池がある。



池には幹の下の部分が急に太くなっている杉が水の中から直立している。



こんな樹木は日本では見たことが無い。

その先に熱帯植物温室、薬草園、蘭園、シダ園、ソテツ園と配置されているが、中でも蘭園が見事であった。

薬用植物園の看板

 


植物の種類が多いのは確かであるが、開園以来50年の歴史しかないので、私の大好きな古樹銘木にはお目にかかれなかった。



広州で銘木を見ようと思えば、やはり140年という長い歴史のある沙面租界が一番であろう。



12時になって植物園を出ると、前の道路にちゃんとタクシーが何台か客待ちしていて広州市内まで28元で連れ行ってくれた。


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蘭圃の入り口にあるバナナの葉をレリーフした見事な月亮門



トイレですっきりして園内を見学すると、ここには見たこともない面白い熱帯の植物が一杯あり興味が尽きない。



日本では観葉植物として1鉢づつ販売されている植物が、露地に群生している光景は異次元体験のようである。

蘭圃という言葉からわかるように公園の中ほどに蘭の鉢植えを育てる温室があったが、日本にある大型ホームセンターのガーデニング売り場くらいの展示スペースしかない。



公園全体の広さから見るとこの温室のスペースはほんの一部でしかないので、この公園を蘭圃と呼ぶのはいかがなものかと思う。

冬の蘭圃の温室の前で


この蘭圃は奥行きがあっても敷地の幅が意外に狭く、すぐそばにメイン道路があるために閑静な公園とはいかず、車の騒音でせっかくの雰囲気が台無しになっている。

急に雨が降ってきたので、蘭圃の中にある東屋の軒先で雨宿りしようとすると、そこには女性の先客がいて、石に腰掛けて弁当を食べている。

広州では昼時に買い物に行くと、女性従業員が店先で弁当を食べている光景を良くみかけるので外国人は少し気まずい思いをすることになる。

多分、日本に比べて遥かに多い従業員のために、わざわざ休憩室や食堂などという無駄というか贅沢なスペースはどの店にも無いのであろう。



園内を周遊した最後に飲みすぎた鉄観音茶を出すために再度トイレに入ると、わずかの間にトイレは非常にきれいに清掃されていた。

13億の人口を誇る中国ではこういう場所の清掃も人海戦術で実施するため、いつも清潔である。


それから半年後の冬のシーズンに今度は夫婦で蘭圃に出かけたが、落ち葉が多くて花も少なく閑散としている。


そこで夏とは別の茶芸店に入り、今度は屋外のテラスで家内と二人で中国茶を楽しんだ。

亜熱帯の植物が繁った庭を眺めながら、茶芸員の立ててくれる鉄観音茶を頂き、広州らしいゆったりとした時間を過ごす。



鉄観音茶は美味かったが、涼しい亜熱帯はどうも居心地が悪い。

やはり広州蘭圃には冬よりも暑い夏が良く似合うと思った。


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蘭圃の中の蘭



蘭圃の入り口


タクシーを捕まえて運転手に蘭圃(ランプー)と言い、念のために漢字で書いたメモを渡す。

途中何度もタクシー運転手に場所の確認をされたが、後で蘭圃を蘭園(ランユアン)と書いて渡していたことに気が付いた。

運転手がおかしいと思ったはずであった。

面積が4万㎡もある蘭圃は1950年に開業して以来、小平、朱徳、葉剣英等中国首脳、ニクソン大統領等の外国VIPも訪れている。

蘭圃の庭


中には明鏡閣、惜陰軒、路亭、国香館という4軒の茶芸館があり、有料で中国茶を楽しむことができる。

雨が降りそうであったが、入場料20元を支払い、茶店のうちチケット売り場で指定された惜陰軒へ入る。

入場券を見せると、いかにも田舎から出てきたという顔の女の子が席に案内してくれてメニューを持ってくる。


言葉が理解できないので良くわからないが、女の子が薦めるウーロン茶が188元から、鉄観音茶が80元からといろいろある。


高いとは思ったが、ここまできて引き下がれないので88元の鉄観音茶を頼むことにした。

女の子が準備に戻った合い間にメニューを良く見ると、25元から40元くらいの安い緑茶やジャスミン茶もあるではないか。

蘭圃の庭2


いかにも田舎から出てきたという顔を信用したこちらが悪いので仕方がない。

女性の顔とメニューはじっくりと検討する必要があると教えて貰った授業料と考え、また遣唐使でお世話になった時の恩返しと思い諦めることにする。

惜陰軒のお茶席は冷房の効いていない暗い室内と、少しは涼しそうな明るい屋外の両方にあり、どちらに座るか少し迷ったが、雨が降りそうだったので室内の席を選んだ。

惜陰軒の中


室内は冷房が無いので蒸し暑く、今の季節にはあまり居心地の良い場所ではないのに、座るだけで入場料20元とはぼったくりもいいとこである。

注文を聞いてくれた女の子がすぐに戻ってきて、見事な慣れた手つきでお茶を入れ始めた。



日本の茶道とは異なる中国茶道で、茶の葉を入れた小さい急須の中をお湯で満たし、蓋をした急須の上からお湯をかけて外から温めている。

急須の中の最初のお茶は、さかずきくらいの小さな湯のみを洗うだけで捨ててしまった。

それを流れるような手つきでやるお手前は、見事なものである。

その後、この動作を繰り返すこと5回、元を取ろうと思って小さな湯のみに15杯も頑張って飲んだら腹が痛くなってきた。



女の子に謝、謝と拙い中国語で言い、惜陰軒を出てトイレを探すと、ちょっと離れた木陰にひっそりとしたトイレがあった。

中は思った以上に清潔であったが思ったとおりに紙が無い。

中国のトイレは一流ホテルを除きレストランや観光地でも殆ど紙を置いていないので、携帯用テッシュは必需品である。


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ホワイトスワンホテルを出てすぐの沙面公園を散歩し、テニスコートが6面もある場所を見つけた。



コートサーフェスは日本では人工芝仕様が多くなっているが、ここはまだハード仕様である。

コートの前にはクラブハウスもあり、中にはレストランもあったが、このテニスクラブは1877年、明治10年にオープンしたという歴史のあるクラブであった。

コート代1時間50元(750円)と表示してあり、日本に比べるとかなり安いのでいつかホワイトスワンに泊まってここでテニスをやりたいものである。

丁度12時となったので又ホワイトスワンに戻り、ホテルの外側にデリコーナーを見つけたのでそこのカウンターで昼食とする。

デリの外のベンチ


デリの中は清潔でチキンサンドが13元、コーヒーが12元、デザートのショートケーキが12元と日本人にはリーズナブルな値段であったが、中国人にとっては相当に高価なので地元の人は絶対に利用しないと思う。

デリの室内は強烈に冷房されていたので、食事を摂るカウンターの窓は外側全体が結露し、窓に大雨が吹き付けたかのようである。

食事の後、黄沙駅まで戻ろうと思ったが外の湿度を考えて歩くのを止め、ホワイトスワンから初乗り7元のタクシーを利用することにした。

そのタクシーに乗って地下鉄駅まで行く途中、沙面の向かい側に漢方薬を扱う大きな商店街を見かけた。

漢方薬ビル


日本には無い珍しい場所なので、タクシーを降りて200mくらい続くその商店街を見て周ったが、ありとあらゆる漢方薬の材料、さるのこしかけ、タツノオトシゴ、木の根、動物のアキレス腱、なまこの干物、ヒトデ、虫の幼虫の干物、得体の知れない諸々の材料が独特の悪臭を発して陳列されている。

その中でも吃驚したのは、長さ20cmくらいある巨大ムカデを干物にして50匹くらいまとめて紐で縛って束にしたものがあったことである。



それにしてもこのムカデは何の薬に使うのであろうか。

従業員らしき若い女性がムカデや動物の干物等の悪臭が漂う路上で、平気で昼の弁当を食べているのが信じられない。

先ほどの近代的なホワイトスワンから数百メートルしか離れていない場所に近代から非常にかけ離れた世界があるのが面白い。


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広州市街地を流れる珠江が北から急に東に向きを変えるポイントに、かつて英仏の租界であった沙面という歴史的な場所がある。


休日に沙面に最も近い地下鉄の駅、黄沙駅まで行き、そこからブラリ歩いて向かうことにした。

駅の周囲は未だ区画整理中で雑然としており、歩道と車道の境目が曖昧で段差が多く、車椅子で移動する人のことは全く考慮されていない。

広州で「バリアフリー」という言葉を聞くのは一体いつのことなのであろうか。

駅前にあるバスターミナルの前から広い車道(六二三路)を横断する地下道の入り口を見つけ、50mくらいある地下道を抜けると沙面の堀の前であった。

堀の前から見た沙面


沙面と広州市街地を隔てる堀にかかった橋を渡ると、神戸の旧居留地の建物と良く似た古い建物が大規模にズラと並び、郷愁をかきたてる。

時代の雰囲気を伝える建築群と亜熱帯の古樹銘木を眺めながら、ゆっくりと散歩するのは至福のひと時である。

最近は観光客のために急ピッチで洋館の改修が実施されているようで、新しいコーヒーショップやレストランがいくつもオープンしていた。

建物の多くは1860年頃から1940年頃までに建設されていて、その建設年と最初の持ち主の名前が石のプレートに記入されて掲示されている。



各国の領事館とか大会社、当時の金持ちの個人邸などが今も昔の雰囲気をそのまま残し存在しており、異次元世界に入り込んだようで、不思議な感覚である。

またこの地域一帯は街路樹が皆見事な大木に育っており、その大木にそれぞれ樹齢300年とか200年とかの表示が掲示されている。

樹齢が100年を超えるガジュマルの大木は枝から伸びる気根が幹に複雑に絡み付き老木ならではの重厚な風格を醸し出している。



その外人居留地街の最も奥、珠江の川岸に目当ての中国最高級のホテルといわれているホワイトスワンホテル、正式名「白天鵞(バイティアンエ)賓館(ビングアン)」があった。



このホテルはかつて中国最高とランクされた超高級クラスのホテルであるが、1泊1万円程度から宿泊でき、日本やアメリカの超高級ホテルに比べれば非常に格安である。

しかし工場労働者の月収が1万円程度の中国では庶民には縁のないホテルなのである。

何度か宿泊したホワイトスワンであるが、ホテルロビーの広い窓からは珠江をはさんで対岸の美しい街が見渡せて広州で最も景色の美しい場所ではないかと思う。



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トイレですっきりして別棟のレンガ造りの古い民家に入ると、「西関民俗館」という掲示がしてある。




床が石張り、壁は灰色のレンガ、天井は2階まで吹き抜けという、暑い広州で冷房無しでも快適に暮らせるように工夫した豪邸であった。

その中に古い民具の展示や写真の展示があり、小規模ではあるが昔の裕福な広州人の暮らしぶりが想像できて興味深い。

それにしても夏の暑さを考えると、大富豪でなくても冷房設備の有る現代に生きている我々は幸せである。

私の場合、在宅中は寝ているときも含めて3月下旬から11月上旬の8か月間というもの冷房を入れっぱなしで生活している。

室温調整の意味もあるが、蒸し暑い広州では湿度をいつも低くしておくかかないと部屋の中にある背広にカビが生えてしまうのである。

出口に図書が展示即売されていたので、広州十三行という本を29元で買っておく。

100元札の裏側(英文を含めて5種類の言語で中国人民銀行と書かれている)


こういうローカルな歴史本は日本では絶対入手できないので有難いが、中国語で書かれているので読むのは大変である。

50元札の裏側(チベットのポタラ宮)


出口を外に出ると茘湾湖公園に沿う茘文路の両側に骨董品屋がずらりと軒を並べた骨董品街となっている。

20元札の裏(桂林)


古い陶磁器や民具、古銭、古時計などが道の両側にある店に所狭しと並べられ、どれも値札が付いていないので、交渉によって値段が決まるのであろう。

10元札裏


こういうタイプの10元札もたまにあります


中国語での交渉を考えると面倒なので、店先をさっと覗くだけにしてその骨董品街を後にしたが、外国人や素人の骨董マニアの来るような場所では無さそうである。

5元札裏


ガラクタや偽物も多いのであろうが、歴史のある広州なので探せば掘り出し物も数多くあるのではなかろうか。

1元札(=10角)と2角札(広州で受け取るお札は大抵このくらい汚い)


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地下鉄「長寿路」駅から西に古い市街地を15分くらい歩き、茘湾湖公園の傍にある茘湾博物館、別名西関民俗館に行ってきた。

雰囲気のある市街地


このあたりは昔、城壁で囲まれた広州城内に入る西の関門があった場所なので西関と称されるのであろう。

入り口の女性に入場料5元を払い中に入ると、岩に根をからみつけた古木や池がある狭いながらも美しい庭に出る。

その庭に面した3階建ての洋館が茘湾博物館で、元は富豪の屋敷であった建物が今は1階が陶磁器の展示場、2階が土産物売り場、3階が民俗資料と歴史資料の展示場となっている。

茘湾博物館の看板


博物館としては小規模で、そのせいか日本で買った観光ガイドブックにも載っていない。

1階の奥にトイレがあったのでそこで用を足したが、広州の博物館には必ず清潔に保たれた水洗トイレがあるのが嬉しい。


しかし例によってトイレットペーパーは置いていないのである。

文芸春秋の記事「中国がトイレ紙を使い果たす日」によると、歴史的に食べることは重要視してきたが、排泄については無視してきた中国の地方では自宅トイレの普及率が40%に満たないという。

今でも人口13億を越える中国人の多くは自宅トイレの無い生活をしているのにトイレットペーパーなどは論外ということになるのであろうか。

ここ中国ではちゃんと仕切りのある水洗トイレがあるだけ増しと考え、外出時には必ず紙を忘れないようにして自己防衛するしかないのである。

下の写真は比較的清潔な天河城ショッピングセンターのトイレ(中国式大便器にはキンカクシが無いが、手前の扉側を向いてしゃがむのが正解。奥のカゴは使用済みのペーパー入れ)



それにしても13億人以上の中国人が日本人と同じようにトイレットペーパーや紙を使うようになると、世界の森林資源はたちまち枯渇するということになるのかも知れない。


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広州の地下鉄には農講所(ノンジャンスオ)という駅があり、駅の階段を上がるとそこが農講所の旧跡であった。



この農講所とは、正しくは農民運動講習所といい、1200年代からあった儒教の学舎を利用して1924年に革命運動の指導者育成のために設置された講習所である。

1926年には33歳の毛沢東が所長、28歳の周恩来が教員を務めていたという中国共産党にとっての聖地のような所である。

当時の毛沢東所長


周恩来は蒋介石校長の下での黄埔軍官学校政治部主任を辞めて、ここ農民運動講習所に移り、毛沢東校長の下で教師となったのである。

黄埔主任当時の周恩来


その毛沢東であるが今も中国の紙幣100元、50元、20元、10元、5元札すべてに彼の肖像が描かれており、中国を代表する人物としての評価は揺ぎ無いようである。

広州で流通する毛沢東紙幣は殆どが薄汚れており、日本の紙幣のような綺麗なものにはなかなかお目にかかれない。

お札を触った後には必ず良く手を洗うという日本人留学生もいるくらいである。

100元札(中国人には日本人にとっての1万円札くらいの価値があり、偽札が非常に多く流通している。一度見た偽札では札の左にある透かしの毛沢東の毛髪が白髪であった)



毛沢東の主治医の李 志綏氏が書いた「毛沢東の私生活」という本には、仰天する生活を送っていた毛の素顔が詳細に記録されている。

又、張 戎(チャン ユン)氏は最近出版した「マオー誰も知らなかった毛沢東」で、毛沢東による大躍進政策と文化大革命の結果、中国人7000万人が亡くなったと記述している。

小平は毛沢東の死後、彼の功罪について功を7割、罪を3割と評価した。

日中戦争後、中国共産党軍を率いて混乱する中国を統一した功績は、罪の3分を差し引いても余りがあるということか。

50元札(この札も偽札が多く出回っている)



李 志綏氏によれば毛沢東自身が湖南省の農民出身であるが故に、知識人や都市の資産家に対する偏見や対抗意識を非常に根強く持っていたらしい。

そのために文化大革命においては有識者や金持ちであるという理由だけで紅衛兵による攻撃の対象とされたのである。

文化大革命時の中国については張 戎(チャン ユン)氏のベストセラー「ワイルドスワン」に詳しく記述されている。

一方、毛沢東自身は晩年非常な汗かきであったためか、農民のような肉体労働が大嫌いであったらしい。

20元札(半端な金額であるが、意外と多く流通している)



また李 志綏氏によれば、毛沢東は非常に冷酷な一面を持っており、例えば核戦争となって中国人が3億人くらい死んでも、中国は人口が多いのでどうということは無いと真顔で発言したこともあったという。

さらに、毛沢東が贈り物を受け取るのに気を遣うなと発言したために、今も中国共産党の幹部は贈り物が大好きで、汚職の根絶は事実上不可能に近いほどの広がりを見せている。

10元札(10元札は非常に多く流通しているためか、触りたくないような汚い札が殆どである。これほど綺麗な10元札はなかなか手に入らない)



李 志綏氏の本には、毛沢東が60歳を過ぎても毎晩党員の若い女性を集めてダンスパーティを開き、その後で気に入った女性を何人もベッドに連れ込んでいたと書かれている。

共産主義の教祖も日本の新興宗教オウム真理教の教祖とよく似た行動をしていたのである。

5元札(これほど綺麗な5元札は珍しい)



また毛沢東は近代医学に不信感を持っており、周恩来がガンにかかった時に手術を受けることを許可しなかったために、毛沢東より若い周恩来は早死してしまったという記述もあった。

歯を磨くという習慣の無い農民の生活を改めようとしなかったために、虫歯だらけであったとか、とにかく近代的な生活に背を向ける姿勢を死ぬまで改めなかったようである。

中国は毛沢東が長生きしたために、近代化のために必要な時間をただ空費したのであった。


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タクシーの運転手に三元里人民抗英国闘争記念館と書いたメモを見せると、三元里抗英記念碑のある公園の前で停車してしまった。

そこで地図を見せて記念館の場所を指差して再度走ってもらったが、運転手も行ったことが無いみたいで、慎重に周りを探しながら走ってようやく抗英国闘争記念館に到着することができた。


もともと三元里にあった農民が信仰する廟をそのまま使ったこの記念館は、今では訪れる人も少なく、観光的にはマイナーな存在なのかも知れない。

その記念館の中に広州城の模型があり、当時の広州城壁の配置と、三元里が広州城城壁の外側真北に位置していることがよくわかって興味深い。


1841年の第一次アヘン戦争当時、圧倒的な近代兵器を有するイギリス軍に広州守備の清朝正規軍は戦闘意欲の無いままに完全に撃退され、広州はイギリス軍に略奪の限りを尽くされたのであった。

その清朝正規軍が戦わなかった広州で、城外の農民が決起して市民を虐殺するイギリス軍に挑み、局地的ではあるが勝利したのがこの三元里である。

そのときの状況は陳舜臣氏の小説「アヘン戦争」に詳しく記述されている。

1841年5月30日、三元里農民2万人が平英団と称し、三星旗を立てて農具を武器にゴフ少将率いるマドラス37歩兵団1000名を包囲し、あわや殲滅の直前までいったと言われている。

三星旗を持った農民


清朝の余保純という官僚が、急遽イギリス側の要請を受けて平英団と交渉し、結果的には包囲は解かれることになったが、とにかくこの三元里では農民がイギリス軍に勝ったのである。

その勝利を記念する記念館ということでわざわざ訪ねて来たのであるが、入場料2元という安さが物語るように展示品には大したものは無かった。

ただ展示室として使われているレンガ造りの古い農民廟が実に中国的で雰囲気が良く珍しかった。


その後で今の三元里村を歩いて見た。

当時は広州城外の寒村であったようであるが、今では広州の他の市街地と少しも変わらない特徴の無い雑然とした商店が続く場所であった。


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中国では、洪水、旱魃などの大きな天災はすべて海神の祟りとされ、歴代皇帝はその再来が無いようにとの願いを込めて天災の後には必ずこの南海神廟に寄進をしている。

その寄進の記録が石碑として南海神廟の中の回廊に多数残っているが、この石碑の数が災害の多さを物語っているとも言えるのである。


また石碑の数の多さは林の如し、ということで南方碑林とも呼ばれている。

15、6世紀の明朝のものが多いが、それらは屋根のある回廊の中にに建てられていたせいか風化もせず、今でもハッキリと文字を読み取ることができるのが素晴らしい。

本殿の礼亭


礼亭のすぐ前、向かって右には明朝の洪武帝が14世紀1370年に寄進した高さ2メートルくらいの石碑がある。

その対称の左側には18世紀初頭の1703年、清朝の康熙帝が寄進した万里波澄(どこまでも海の波が澄み切って穏やかであるように)という石碑があり文字は康熙帝自らが筆を取ったものである。

その文字は中国史上最大の領土を誇った清朝の皇帝らしい伸びやかな字体である。



この2つの石碑の建設には333年の時代の差があるのであるが、今では見事なバランスで配置されている。

この南海神廟の極彩色に塗られた南海神の鎮座する礼亭の奥にもうひとつ建物(奥の院)があった。

そのご本尊は予想通り女性で、二人の侍女にかしずかれた明順夫人と書いてある。


結局、霊験あらたな南海神も奥方の明順夫人にすべてコントロールされているということなのかもしれない。

境内の門を西側に出ると「浴日亭」という優雅な名前の建物が広い空き地の向こうの小高い丘の上にあった。

丘の周りには馬やらくだ、人物の石碑が苔むして何体も建っていたが、一体いつの時代のものなのであろうか。



昔の人はここから珠江に沈む夕日を浴びながらゆったりとした時間を過ごしたのであろうが、今では周囲を金網で囲った東屋の中に石碑が建っているだけである。

今は周りの樹木が大きく育って見晴らしはあまり良くなかったが、昔は日当たりも良く、珠江を見晴らす展望台としてさぞ見事な眺めであったのであろう。

それにしても「浴日亭」とは文字だけで、日当たりが良く眺めの良い場所を連想できる素晴らしいネーミングではないか。

しずかに昔を偲ぶのには最高の場所であったが、観光客が全く見当たらないのは何故であろうか。


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