野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



ある情報将校の記録の著者、塚本誠氏は、昭和18年に東京憲兵隊本部から宇都宮憲兵隊長(憲兵中佐)に転勤、19年にはビルマ方面軍憲兵隊長、昭和20年1月には台湾方面軍司令部付、6月に憲兵大佐、7月末に東京に転勤、8月11日付で東京憲兵隊司令部憲兵参謀となり、東京で終戦前後の混乱を目撃しています。・・・鶴見緑地の咲くやこの花館には、ハイビスカスだけの温室があり、花の少ない季節にも見事な花を咲かせていますのであわせて紹介しましょう。

 終戦の前日8月14日、陸軍第27飛行団(埼玉県児玉基地)の特攻雷撃機36機が出撃しようとした際、濃霧のために出撃が一時中止となっていました。(映画日本の一番長い日では、全機出撃となっています)

ところがその数時間後に玉音放送があり、それを聞いた特攻隊員は、君側の奸が企んだものとして飛行団長に戦争継続を強く主張、塚本氏と陸士同期だった陸軍第27飛行団長野中俊雄大佐は、若い飛行将校数名に東京憲兵隊司令部の塚本憲兵大佐のところにいって、事情を聞いてくるように指示しています。

塚本憲兵大佐が若手の飛行将校達に「終戦は、天皇陛下自らの御裁断であった」と説いたところ、一同は納得しておとなしく帰隊したといいます。

その後しばらく陸軍機の飛行が許されていましたが、8月24日をもってすべて飛行停止となり、児玉基地の飛行将兵は思い出のために、お名残飛行を許可して欲しいと野中大佐に請願、彼らの気持ちが判る野中大佐はそれを一旦許可しています。

しかし、なんとなく胸騒ぎがした野中大佐が飛行場に行ってみると、36機全機が魚雷を装備し、プロペラは回転をはじめ、飛行機は離陸寸前だったといいます。

野中大佐は、すぐ「発動機停止、魚雷下せ」と命じ、「どうしても行くなら、俺を殺して行け」と絶叫したところ、特攻隊員達は意外なほどおとなしく大佐の命に従ったといいます。

 終戦から9日後の米軍は、日本軍が完全に投降したものとして攻撃を想定することなく相模湾の沖合に艦隊を終結中で、野中大佐の制止があと数分遅れていたら、魚雷を抱いた特攻機36機が米艦隊に突入、終戦の歴史が大きく変わっていたことは間違いないでしょう。これはクマガイソウです。

参考文献:ある情報将校の記録 塚本誠著

 



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昨日の記事からの続きです。さて、<幸い内務大臣の後藤新平さん(66歳)からも信頼され、自分(正力松太郎、38歳)としてもこの人ならと思って働いているうちに(中略)難波大介が摂政宮を狙撃した虎の門事件(大正12年)で内閣総辞職となり、後藤新平さんがおやめになり、私も官途を離れることになった>

<その頃、読売新聞社は不振を極めていたが、ひとつその建て直しをやってみないかという話が私(正力)に持ち込まれた。よしやってみようと決心し、いろいろ準備していると、株主から正力は官僚としては人物かもしれぬが、新聞経営者としては不安があるとされ、最初に話を持ち込んだ筋からも、「金の出所もないことだから手を引いたらどうか」という話がきた>

<私は一度やる、と決めた以上はやり通す主義である。考えた末に後藤新平子爵を訪ねて援助をお願いした。「いくらぐらい要るのか」とのおたずねに、「十万円」(今なら 2億円くらいか)と申し上げると、「よし、わかった」と即答された>

後藤子爵は、<自分が金を出すことは誰にも言ってはいけないよ」と念を押された。私(正力)は、「実は同志の者に、今日ここへあがる前、後藤さんに頼みに行くといってきた手前、それはどうでしょうか」というと、>

<後藤子爵は、「帰ったら、後藤には断られた。つまらぬ奴で頼りにならんといえばよい」こういわれて、二,三日たつかたたぬかのうちに令息がお使いで十万円を届けて下さった>

<読売新聞が今日の状態となったのはまったく後藤子爵あってのこと(中略)後日、後藤子爵の令息に、「あの金はどうしてできたのですか」と聞いたら「父はあの翌日、上京して家を担保に金をつくったのです」と打ち明けられた>

<後藤さんから戴いた色紙に、「人の世話になるな。人の世話はせよ。人の報いを求めるな」というのがある(中略)以上が正力さんから聞いた読売再建当時の話である>と塚本氏は書き残しています。

後輩のため自分の屋敷を売ってでも世話をしようとした人物がいたことが、読売新聞の再建と読売新聞の発展に繋がったという裏話でした。

参考文献:ある情報将校の記録 塚本誠



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昭和16年8月塚本誠憲兵少佐(38歳)は、東京憲兵隊本部特高第二課長として東京に転勤していますが、上海での上司だった影佐少将に東京で信頼できる人物として岡部長二氏を紹介されています。・・・鶴見緑地のオカメザクラ

面会した岡部氏は、<「塚本さん、憲兵の人達がいろいろの人を訪問されますが、要路の人も、私としても、これを、ムゲに断るわけにはゆかず、会うには会いますが、実は困っていますよ」>といい・・・カワヅザクラ

<「今後は(憲兵本部特高課長の)あなたご自身でお会いなさい。それでなければ本当の話は聞けませんよ。私の昵懇の方には御紹介しましょう」と率直な忠言があった>・・・咲くやこの花館の花

<失礼とは思ったが、お言葉に甘えて「どんな方を御紹介願えますか」と問うと、松平康昌(侯爵、内大臣秘書官長)、池田成彬(枢密顧問官)、高島菊次郎(王子製紙社長)、正力松太郎(読売新聞社長)ら数人の名前を走り書きされて、「いろいろ御協力しましょう」といってくれた>・・・咲くやこの花館のサボテン

この岡部長二氏は、越前松平家の家老の家系の出身で、福井で松平春嶽の祭りがあるときには松平侯爵と岡部氏が殿上に坐り、その階下に岡田啓介海軍大将(元福井藩士)が着席する関係だったようです。

<岡部氏に連れられて、ある日の夕方、正力氏に新聞社で初めて会った。正力さんの前身は内務官僚(東大法科出身)で、長いこと警視庁官房主事をやり、「鬼官房主事」として有名だった>

面会した正力社長(56歳)は塚本憲兵少佐に、<関東大震災の翌日、山本権兵衛内閣が誕生して、私(38歳)は官房主事から警務部長になった>

<これで政治関係から離れて本来の警察畑が歩けると思っていたら、内務大臣の後藤新平さん(66歳)から政党関係の仕事は従来通り正力にやってもらいたいとのお話があった>

<後藤さんという人はよく知らないので辞退したかったが、たってとのことだったので、これまでの仕事もあわせてやることとなった>と正力松太郎氏との面会談がはじまります。

つづく

参考文献:ある情報将校の記録 塚本誠著



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モザイクへの途中、神戸情報文化ビル前にあったエルビスプレスリーの銅像は、東京原宿の「ロックンロール・ミュージアム」から2009年8月に移設されたものだそうです。

下の写真の右側が神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール、4月19日にオープンすると大勢の家族連れで賑わうのではないでしょうか。・・・アンパンマン原作者のやなせたかし氏の出身地、高知県香美町には、1996年にオープンした「やなせたかし記念館」(通称:高知 アンパンマンミュージアム)があります。

その後アンパンマンをテーマとしたミュージアムとショッピングモールとの複合施設「アンパンマンこどもミュージアム&モール」が横浜(みなとみらい21内)に2007年オープン、さらに2010年名古屋(ナガシマスパーランド内)、続いて2011年仙台にオープンしています。・・・その手前を右に曲がると、レトロな煉瓦倉庫と運河沿いの遊歩道。

モザイクガーデン(遊園地)跡地に、4月19日にオープンする神戸アンパンマンこどもミュージアム&モールは、全国4番目の施設となります。・・・運河沿いのボードウオーク。左側に少し見えているのが神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール

神戸アンパンマンこどもミュージアム&モールへの入館には入場料が必要です。・・・ボードウオークの反対側を見ると、中央やや右に神戸情報文化ビル、その手前右側にはマンション。

その館内モールには、アンパンマンランチのレストランがあり、アンパンマンの絵が描かれたコロッケやアンパンマン肉まん、アンパンマンファミリーのベビーカステラなどの販売もあり、ファンの子供たちには嬉しい施設となりそうです。・・・ボードウオークとアンパンマンミュージアム前の観覧車

また、ジャムおじさんのパン工場では、アンパンマンなど色々なキャラクターのパンを販売するとか。・・・アンパンマンミュージアムと観覧車

さらに館内のアンパンマンヘアサロンでは、アンパンマン、バイキンマン、ドキンちゃんの椅子に座って実際に散髪してもらえるようです。散髪がきらいな子供もここでは機嫌よくしてもらえるのではないでしょうか。・・・対岸は神戸ポートアイランド

名古屋アンパンマンこどもミュージアム&モールではアンパンマンのショーがあるそうですが、ここでも期待できそうですね。・・・この日、モザイクモールの対岸、メリケンパークオリエンタルホテル前の岸壁に、クルーズ船が停泊していました。

ロイヤルカリビアンクルーズの子会社、アザマラクラブクルーズのクルーズ船 アザマラジャーニーAZAMARA JOURNEY(全長180m 幅25m総トン数30277トン 9層デッキ乗客定員 694人 乗組員数390人 エンジン18600KWディーゼル 2000年竣工)です。

大阪市民としては残念ですが、クルーズ船の年間寄港回数で大阪港は神戸に負けているようですね。

 



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先日JR神戸駅で下り、神戸ハーバーランドを散歩してみました。このJR神戸駅とハーバーランドの間には通行量の多い国道2号線と阪神高速が通り、地上から徒歩でアクセスすることができません。

そこで神戸駅前にあるエスカレーターで地下に下ります。地下街を先に進むと、神戸ハーバーランドセンタービルに繋がっています。

ハーバーランドセンタービル地下の巨大な吹き抜け空間は、がらんとしていましたが、来月下旬には賑わうのではないでしょうか。

エスカレーターで地上に出ると、道路の向かい側が1992年から昨年3月まで営業していた阪急百貨店神戸店の建物で、現在大型商業施設「umie」(ウミエ)が改修工事中です。

先日、「ハーバーランドダイヤニッセイビル商業棟」は、隣接の「モザイク」と一体の大型商業施設 「umie(ウミエ)」として、4月18日(木)にオープンすると発表されています。・・・umieの看板も完成していました。

このumieは、イオンモールの商業施設となり、「H&M(エイチ&エム)」、米Gap Inc.グループの「Old Navy(オールド ネイビー)」、スペインの「Desigual(デシグアル)」など、関西初進出13店舗、神戸初が40店舗とか。

umieは、乳幼児連れの30代ファミリー層をメーンターゲットとし、ノースモール・サウスモール3階4階部分に連絡通路を増設、またモザイク運河沿い遊歩道整備や託児所・授乳室新設、照明のLED化も実施すると発表されています。

モザイク運河沿い遊歩道から見たumie・・・このumieは、専門店225店舗のほか、9スクリーンの映画館が設置されるので、近くのマンション住民にとっては有難い施設となるようです。

「umie」の前、ゆるやかにカーブする道路を先に進んでみましょう。

モザイク(左)の隣には、umieオープンの翌4月19日、「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」(右)がオープンする予定とか。

つづく



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昨日に続き、司馬遼太郎氏が絶賛した塚本誠氏の著書の中から隠れた昭和史の一部と、咲くやこの花館の高山植物を紹介しましょう。

塚本憲兵大尉は、参謀本部が上海で情報分析を委託している一橋大学卒の吉田東祐と名乗る人物を紹介され、彼の情報分析を読んで非常に教えられたと書いています。・・・原種のチューリップ

吉田東祐の分析には、中国の抗日運動の推進力は、労働者農民ではなく都会の民族資本であること、従って反共派の蒋介石も国民感情に沿って容共抗日政策を取らざるを得ないこと、蒋介石は日本が圧力を弱めれば、反共に戻るが、圧力を強めてゆけば共産党に接近して全民族的抗日戦争となることが強調されていたといいます。当時、こうした冷静な分析をした日本人は、殆んどいなかったようです。・・・カリフォルニアフクシア

吉田東祐のレポートは、東京の参謀本部へ送られ、塚本憲兵大尉も全国憲兵会議で「抗日と国共(蒋介石の国民党と毛沢東の共産党)合作、抗日戦線の統一と国防政府の樹立」(統一された中国は手ごわい)という報告をしています。・・・チシマルリオダマキ

しかし、当時の政府や軍首脳には、日清戦争で破った中国人は弱く日本軍の一撃ですぐ降参する、日露戦争にも勝った日本軍は強いという先入観念があり、客観的な情報を受け入れる状況になかったのです。・・・高山植物

昭和12年8月、日本海軍の軍人2名が殺害されたことから上海事変が勃発、当初は上海の居留民保護という名目の派兵でしたが、中国軍は弱いと予想して、はやる陸軍は、南京さらに武漢まで進み、本格的な日中戦争となっています。・・・エゾスカシユリ

このとき政府と陸軍中央は、停戦命令を無視して進撃を続ける現地の派遣軍幹部を処罰することなく見過ごし、翌年「国民政府(蒋介石)を相手にせず」という近衛首相声明を出したことで戦争は泥沼化、陸軍も多くの将兵の犠牲で勝ち取った占領地からの撤退を断固拒否したため、戦争は昭和20年まで続き、日本人300万人が犠牲となるのです。・・・クマガイウソウ

上海にいた一人の憲兵将校は、抗日統一戦線(全中国)相手の戦争となるのを避けるべきであると上海事変の勃発前から主張していたのですが、東京では全く考慮されなかったのです。・・・プリムラ・ビアリ

尖閣列島問題が騒がれる今、当時と同じ轍を踏まないよう、政府や国民は冷静に対処しなければなりません。

参考文献:ある情報将校の記録 塚本誠著



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司馬遼太郎氏は、戦前上海で活躍した憲兵将校の書いた「ある情報将校の記録」という本を随筆の中で絶賛していました。そこでその憲兵将校の誕生までと、先日見た鶴見緑地のメジロを紹介しましょう。

著者の塚本誠氏は、1903年(明治36年)9月生まれ、父親の塚本芳郎は、1905年(明治38年)1月の日露戦争黒溝台会戦で青森歩兵第五連隊第二大隊長として46歳で戦死しています。

この塚本芳郎氏は、坂の上の雲の主人公として有名な秋山好古と陸軍士官学校の同期生(1879年卒、旧3期)だったとか。

誠氏は、小学校卒業後、府立四中に進み、さらに1917年(大正6年、14歳になる直前)9月陸軍幼年学校予科入学、引き続き1920年(大正9年)4月に陸軍中央幼年学校本科に入校、父親と同じ軍人の道を歩むこととなります。

1921年(大正10年、幼年学校二年生、18歳)の冬に兵科(歩兵、騎兵、砲兵)志願の日が来る直前、「塚本芳郎 遺児 誠」と書いた半紙を持って教育総監秋山大将の私邸を訪問しています。

秋山大将から「軍人の一生は連綿不断の戦闘である。自分は、その時その時の自己の職務に全身を打ちこんで、一歩一歩階段を昇ってきたのである」と言われ、兵科志願の相談が切りだせなかったとか。

当時の幼年学校生は、休日に先輩を訪問して教えを受ける伝統があり、元帥や大将でもその私邸で気軽に面会してくれたようです。

結局、塚本誠氏は歩兵科に進み、宇都宮の14師団に配属され、大正11年10月陸軍士官学校本科(36期)、大正13年7月卒業と同時に見習士官、同年10月(21歳)に少尉に任官しています。

塚本氏は、昭和2年10月中尉任官(24歳)、昭和7年の年末には憲兵将校となり岡山に赴任、昭和9年憲兵司令部付として東京へ転任、昭和10年5月(31歳)には憲兵大尉として上海駐在となり、激化する民衆の抗日運動を冷静に見つめるようになるのです。しかし中国から遠く離れた東京では、国民党と共産党が対立する中国を軽視していたのです。

つづく

参考文献:ある情報将校の記録 塚本誠著



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谷崎潤一郎(1886〜1965年)は、東京で生まれ一高から東大へ、また東京で作家としてデビューしてますが、1923年の関東大震災をきっかけに関西に移住し、作品を精力的に発表しながら1942年まで関西に滞在しています。・・・シュードボンバックスの花

小説「細雪」の中で谷崎は、東京にしばらく滞在していた雪子(三女)が三月に芦屋の家に戻ってきて、東京でのことを語らせているので、その内容と咲くやこの花館の中の花を紹介しましょう。<   >が引用部分・・・熱帯スイレン

雪子<「温いわなあ、こっちは。さっき芦屋の駅に下りた時にやっぱり東京と違うなあと思うたわ」  「もう関西はお水取りが始まっているさかいにな」  「そない違うかしらん」>・・・ヒスイカズラ

<「えらい違いやわ。第一空気の肌触りが、こない柔らかいことあれへん。何せ名物のからっ風がひどうて、  」>(中略)谷崎は、阪神間の空気の肌触りが東京よりも柔らかいと感じていたのでしょう。・・・黄色い椿キンカチャの蕾

次女(幸子)の夫<「僕は去年渋谷(長女鶴子の家)で厄介になった時にそう思うたが、子供いうもん(鶴子の子)は何でああ早う土地の言葉を覚えるねんやろう。>・・・熱帯スイレン

<「あのときは十一月やよってにまだ東京へ行って二三箇月しか立ってえへんのに、本家の子供たちはもうちゃんと東京弁使うてるねんが。それも小さい子供ほど上手やねんで」「もう姉ちゃん(鶴子)の年になったら、あかんやろうなあ」と幸子が云った>・・・カリアンドラ・ハエマトケファラ(ボリビア原産)

<「そらあかん。第一姉ちゃんには覚えようという気イないねんもん。この間もバスの中で大阪弁で話しかけるさかいに、ほかのお客がみんな姉ちゃんの顔見るのんで難儀したけど、姉ちゃんいうたらああゆうところはえらい心臓やねんな>・・・ペトレア・ウォルビリス(パープルリース・中央アメリカ原産)

<顔見られても平気で話しているねんわ。そしたら、それ聞いて、『大阪弁も悪くないもんだね』と云うてる人もあったけど」>・・・ブラジリアンローズの蕾(中央~熱帯アメリカ)

<「年増の女はみんな心臓や。僕の知ってる北の芸者で、これはもう四十以上の老妓やねんけど、東京へ行って電車に乗ったら、わざと大阪弁で『降りまっせえ』と大きな声で云うてやりまんねん、そしたらきっと停めてくれはります云う女があるねんが」>・・・バウヒニア・プルプレア(ムラサキモクワンジュ・東南アジア原産)

谷崎は、東京で大阪弁で会話する際の微妙な心理をうまく描いています。



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谷崎潤一郎の小説「細雪」から、今から75年前に芦屋に住む裕福な家族が京都で花見を楽しむ姿と、京都府立植物園の春の花を続いて紹介しましょう。<  >内が小説の引用です。

平安神宮神苑の紅枝垂桜を見て、<彼女(三姉妹)たちは、ああ、これでよかった、これで今年もこの花の満開に行き合わせたと思って、何がなしにほっとすると同時に、来年の春もまたこの花を見られますようにと願うのであるが、>・・・

<(次女)幸子一人は、来年自分が再びこの花の下に立つ頃には、恐らく(三女)雪子はもう嫁に行っているのではあるまいか、花の盛りは廻って来るけれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思い、自分としては淋しいけれども、雪子のためにはどうぞそうあってくれますようにと願う>(中略)

<その夕、貞之助(幸子の夫)と幸子とは、二人だけ残ってもう一晩京都に泊った。夫婦は明くる日、幸子の父が全盛時代に高尾の寺の境内に建立した不動院という尼寺があるのを訪ね、院主の老尼と父の思い出話などをして閑静な半日を暮らしたが、>・・・

<ここは紅葉の名所なので、今は新緑にも早く、わずかに庭前の筧の傍にある花梨の蕾が一つ綻びかけているのを、いかにも尼寺のものらしく眺めなどをしながら、山の清水の美味なのに舌鼓を打ちつつコップに何杯もお代わりを所望したりして、二十丁の坂路を明るいうちに下った>

<帰りに御室の仁和寺の前を通ったので、まだ厚咲きの桜には間があることが分かっていたけれども、せめて枝の下にでも休息して木の芽田楽をたべるだけでもと、幸子は貞之助を促して境内に入ったが、>・・・

<ぐずぐずしていて日が暮れると、またもう一晩泊りたくなることが、毎度の経験で知れているので、嵯峨にも、八瀬大原にも、清水にも、方々に心を残しながら、七条駅に駈け付けたのはその日の五時少し過ぎであった>

古い暖簾を誇る蒔岡家も父親が亡くなり、四人姉妹の三女雪子がなかなか良縁に恵まれず、四女妙子に至っては家柄の劣るカメラマンとの恋愛や、バーテンダーの子供を身ごもってしまうという展開となるのです。

大正から昭和初期までの大阪や阪神間に住む中流家庭の様子や当時の女性達の気持が細かく描かれていて、実に興味深い作品でした。

 

 



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夕日で有名な大阪港ですが、美しい朝日も眺めることができます。

また、朝日は、海(大阪港)、橋(なみはや大橋)、ビル(あべのハルカス)、山(生駒山系)と一緒に写すことができます。

この日、雲ひとつない快晴の生駒山系稜線から昇る朝日をクローズアップしてみました。これだけクリアに晴れる日は珍しいと思いますが、大阪港の朝日の紹介でした。

さて、同じ日の大阪港の入り口大関門です。今度は夕日を狙ってみました。朝に比べると空気の透明度が下がっているようです。

大阪港に入港するコンテナ船。この後、夕日は下にある厚い雲の中に隠れてしまいました。

暫くすると、帯状となっていた雲の下から夕日の下半分が見えはじめました。

帯状の雲の下から姿を現した夕日は、海面近くにある黄砂の層?に隠れてしまいそうです。夕日がその濃度を示すインジケーターのようです。

少しワイドで見てみましょう。海面上の黄砂が無ければ明石海峡大橋が見えるはずですが、この日は無理のようです。

黄砂の濃度インジケーター、もう一度どうぞ。

 



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一昨日に続き、谷崎潤一郎の小説「細雪」から昭和初期の中流家族が京都平安神宮で花見を楽しむ姿を紹介しましょう。< >が小説に出てくる部分です。・・・京都府立植物園の観覧温室は、いつも見事な花で一杯です。

<あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、>・・・アロエの花

 平安神宮のHP(4月を華麗に彩るのは有名な「八重紅枝垂桜」です。開花時期は、桜前線に遅れること1週間程度で、4月上旬となることが多く、4月15日の例祭にはまるで奉祝するかのように見ごろを迎えます)と今も紅枝垂を誇っています。

 HP(八重咲きなので開花から2週間も見ごろが続きます。咲き始め、満開、散り際と、それぞれに風情がありますが、5分から7分咲きのころに紅の色が最も濃くなります)

 HP(枝垂れ桜のうえに、色は紅色、花は八重ですから、その艶やかさは群を抜いています。 文豪、谷崎潤一郎も『細雪』のなかで、「忽ち夕空にひろがっている紅の雲」を「一年待ち続けた」という情緒豊かな表現で著しています)とありました。

 細雪の中からその部分をもっと詳しく紹介すると、<もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、>・・・

 <今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と感歎の声を放った>

 <この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである>

情緒豊かな表現を得意とした、谷崎潤一郎の文章力、ここに極まれりということでしょう。・・・ホウガンノキの砲丸のような実

 小説「細雪」は、この花見の後に阪神大水害が襲ってくる展開となるので、このときの花見は、今から75年前となる1938年(昭和13年)であることが明らかです。

つづく



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先日、春の夕陽ウィークイベントでコスモタワー展望台に上がり、夕陽の沈む直前までの閑な時間を使って大阪市内を写真に撮ってみました。・・・この日は珍しく黄砂がなく晴天でした。

大阪市内中心部のビル群と生駒山、この写真から大阪中心部が意外と海に近いことが判ります。

JR大阪駅周辺の超高層ビル群です。

中央が生駒山の最高部642m、右があべのハルカス300mです。中央やや左、ニトリの緑の看板の先に通天閣も何とか写っています。

堂々としたあべのハルカスを拡大してみましょう。他のビルが貧弱に見えますね。

大和川が流れ出る谷間です。右は二上山。元日、コスモタワーから初日の出を見ると、この二上山の右側から太陽が昇ります。

尼崎市と北摂の山々です。尼崎市北部の山がこれだけクリアに見える日は少ないと思います。中央下、右から左は淀川の流れ。

千里から箕面の山々。左に千里中央駅上のタワーマンションが見えています。

 

こちらはパナソニック尼崎工場とその北側の山。



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鶴見緑地の桜を紹介しましたので、谷崎潤一郎の小説「細雪」の中から京都の花見に出かける三姉妹と、京都府立植物園の椿と一緒に細雪の一部を紹介しましょう。・・・<  >が細雪の引用文です。

 <今年も幸子たちは、四月の中旬の土曜日から日曜日にかけて出かけた。(中略)あくる日の朝は、まず廣沢の池のほとりへ(中略)大沢の池の堤の上へもちょっと上がって見て、大覚寺、清涼寺、天龍寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂にきた>

 細雪に登場するこの幸子とは、谷崎の三度目の妻となる松子がモデルとなっているようです。また平安時代に作られた廣沢の池は、遍照寺と共に廃れてましたが、明治時代に修復され、昭和初期にはもう桜の名所となっていたようです。

 <幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰めを開いたが、今年は十三詣りで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ>

 大悲閣千光寺は、渡月橋から約1kmあまり上流へ行った所にあり、境内にある大悲閣は、大堰川の切り立った岩肌に建つ観音堂で、嵐峡の絶景を眺める事ができることで知られています。

 

橋の袂の三軒家は、渡月橋の北詰めにあった茶店、十三詣りとは、数え年で13歳になった男女が、健康を願い3月13日、4月13日、5月13日に参詣する習わし、その法輪寺は嵯峨虚空蔵の通称で知られています。

 <そして再び渡月橋を渡り、天龍寺の北の竹藪の中の径(こみち)を、(中略)野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入り口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った>・・・野の宮は、天龍寺の北にある野宮神社、厭離庵は二尊院の門から北東に200mくらいの場所にある尼寺です。

 <それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三たび渡月橋の北詰にきて一休みした後、タキシーを拾って平安神宮に戻った>

 愛宕山鉄道は、1929年から1944年までの間、嵐山駅から清滝駅までを運行していた普通鉄道で、清涼寺前(釈迦堂駅)から乗れば嵯峨西駅の次ぎが嵐山駅でした。

つづく



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鶴見緑地公園には、3月中旬に開花する早咲きの桜(オカメザクラとカワヅザクラ)があり、満開と聞いたので行ってきました。・・・この日、桜にメジロが鈴なりでした。

このくらいまで近づいても、メジロたちは夢中で桜の蜜を吸い続け、逃げる気配がありません。

満開の桜の中、朝日を浴びたメジロの後ろ姿をどうぞ。

めまぐるしく動きまわり、少しもじっとしてしていないメジロですが、デジタルカメラのお陰でその停止した姿をしっかり撮影することができるようになりました。

下向きに咲いている桜の蜜を吸うため、こういう姿勢となることが多いようです。このメジロは、左右の足の握りが逆となっていました。腹の白い羽毛が暖かそうですね。

桜とウグイス色のメジロ、左下にも一羽写っています。

次の枝に飛び渡る寸前のメジロ。大阪城梅林にもメジロはいますが、鶴見緑地公園のほうが数は多いようです。

上の枝を掴んでいるため体は上向きなのに、首だけ裏返っているメジロ

メジロが次の枝に飛び移る瞬間まで捉えることができました。カメラの進化のお陰でこうした写真が素人でも簡単に撮れるようになりました。



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昨日に続いてシーサイドコスモ遊歩道からの夕陽を見に行ってきました。また日没後の空の透明度が良ければ、最近話題のパンスターズ彗星が見えるかも知れません。

明石海峡に雲は無いようですが、水平線近くに薄い黄砂の層が見えています。これでは2等星の明るさしかない彗星はちょっと無理かも知れません。

この日の夕陽は、上がいびつな形をしていました。

日没のポイントは、毎日少しずつ北に移動するため、明石海峡の水平線に沈むのは、この春最後です。

日没となりました。昨日よりも雲が少なく、これなら彗星を観測できそうです。

やや暗くなってきた午後6時50分頃、大阪港のレーダー塔(中央右側の塔)の上に何か見えてきました。・・・灯台とレーダー塔の間、塔の4倍の高さに、目を凝らすとやっと見える淡い点が彗星でしょう。

パンスターズ彗星は、午後7時頃になると少しはっきりとしてきました。それでも相当地味な彗星ですね。

彗星は、右下に向かって次第に高度を下げてゆきます。撮影条件は、f6.3、ISO800、露出5秒

これ以上明瞭に撮影するには自動追尾装置かコンポジット撮影処理が必要です。

パンスターズ彗星は、このあとさらに高度が下がり、光が薄くなってしまいました。これからしばらく観測できそうですが、黄砂の飛来があれば厳しいでしょうね。

 



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