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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



戦艦「大和」は、1937年11月呉海軍工廠で極秘裏に起工され、当時の最先端技術を集大成して4年後の1941年12月完成した世界最大の戦艦である。



大和に採用された当時の最新技術とは、建造技術面では科学的生産管理システム、ブロック工法、先行艤装工法、軍事パーツの技術面では、精密光学測距儀、球状艦首、蜂の巣装甲煙突、VH装甲鋼板などである。

大和の建造技術は、造船産業に応用された外、ビルの建築工法にも使われ、軍事部品の製造技術は、カメラ、特殊鋼、鋳物製品に応用され、戦後日本の工業技術の発展にかなり貢献したといわれている。



海軍の虎の子兵器としての戦艦「大和」は、1942年5月、ミッドウェー作戦に参加しているが、後方にいたため赤城以下の空母機動部隊を見殺しにして一旦日本に引き上げている。

その後1943年12月、基地としていたトラック島西方で米潜水艦「スケート」の攻撃を受け、3番砲塔右舷に魚雷が1本命中、機械室と火薬庫に想定外の浸水があったという。

3番砲塔の後ろにある飛行機



大和は巨艦のため被雷に気づかない者もいて乗員は不沈戦艦への信頼を強めたというが、実際には1本の魚雷でかなり大きなダメージがあったようで、再度日本に寄航して極秘のもとに大規模な補修をしている。

大和が実戦で主砲を発射したのは、開戦後2年半も経った1944年6月のマリアナ沖海戦に出撃したときで、米軍攻撃隊に向けて三式焼霰弾27発を発射した記録が残っているが、大した損害を与えた訳ではなかったようである。



日本海軍軍令部は、シンボル大和を失うことを回避するために、敵弾の届かない遠くから撃つように指示していたので、大和の主砲の命中精度は極端に悪かったという。

手前から2つ目のオレンジ色が三式弾



その大和は、1943年10月レイテ沖海戦に参加し、サマール島沖にて米護衛空母艦隊と交戦、46センチ主砲弾104発はすべて外れたが、15センチ副砲だけが駆逐艦ジョンストンに命中、軽巡「矢矧」以下が近くから止めを刺して撃沈している。



日露戦争の日本海海戦で、バルチック艦隊に接近戦を挑んで大勝した日本海軍は、いつしか硬直した官僚組織となっていたために、大和の主砲は、残念ながら確実に命中する距離での海戦で一度も活用されなかったのである。

大和に乗っていた海軍官僚、栗田長官も、レイテ湾の入り口まで来ているが、突入することで大和を失う責任を取ることを避けて引き返している。



史上最強の戦艦と言われた大和を温存することなく、明治の日本海軍のように兵器として緒戦から目一杯運用しておけば、3千人の乗員を乗せての特攻攻撃は無く、戦局も違った展開となっていたのではなかろうか。


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