野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



河内長野駅からバスに乗って20分で到着する観心寺には、2年前の6月に一度来たことがあります。



その際のことは以前ブログで紹介しましたが、秋の紅葉を楽しむために2回目の訪問をしてみました。

鎮守堂(重文)



今回は、霊宝館の中で国宝と重要文化財に指定されている文書2点の特別展示と、恩賜講堂の内部が公開されていました。

恩賜講堂



この恩賜講堂は、1928年(昭和3年)昭和天皇即位時に京都御苑に新築され饗宴に使われた会場を、大礼の後に解体しここに移築したものです。

牛滝堂の屋根



移築工事は、1929年11月~翌年5月、南河内地方の青年団などの奉仕により、牛車や人力で河内長野駅から観心寺までの急な山道を運ばれ、再建築されたと伝わっています。

牛滝堂



講堂の内部は通常非公開ですが、この日は特別に公開され、色彩の施された天井や、真珠のブローチようにも見えるシャンデリアが当時の豪華な即位大礼会場の様子を伝えていました。



さて、観心寺の金堂は、大阪府下最古の金堂建造物で国宝とされていますが、1984年に徹底した大修理がされたためか、今では新築された建物のようでした。



金堂の右手にある三重塔を建て掛けのままの堂とした建掛堂(重文)を南側から見てみると、萱葺きの屋根が見事です。

建掛堂



観心寺には楠木正成の首塚があることで知られていますが、金剛山の中腹の千早城から程近い場所にも、正成の首塚と伝わる墓地があります。

開山堂



楠木正成の首塚の右には後醍醐天皇(1288~1339年)の寵妃で、後村上天皇(1328~1368年)の生母、新待賢門院(阿野廉子1301~1359年)の墓所があります。

弁天堂



阿野廉子(三位の局)は、後醍醐天皇の隠岐配流に同行し、隠岐西ノ島にはその在所跡が伝わっていることは8月のブログで紹介しました

観心寺の境内



先日、吉野の後醍醐天皇の御陵に参拝しましたので、開山堂の左手にある後醍醐天皇の皇子、後村上天皇の御陵にも久しぶりに参拝しておきました。

本坊の門とモミジ



京都にある古刹の紅葉も見事ですが、大阪南部にある観心寺の紅葉もそれに引けをとらないくらい素晴らしいものでした。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今年は大阪、京都の紅葉名所をいくつか訪ねたので、公平を期して奈良の名所にも紅葉狩りに出かけてみることにしました。

紅葉と正暦寺の本堂



JR奈良駅から今の季節だけ運行している直行バスで30分、奈良の中心部から12キロ近く離れた場所にある正暦寺(しょうりゃくじ)は、両側から山が迫った深い谷沿いにありました。

客殿の門



西暦992年、一条天皇の勅命を受けて創建され、創建当初は、堂塔・伽藍を中心に86もの坊が建ち並び、威容を誇っていたといいます。

客殿の中庭



ところが、平安末期の1180年、平重衡の南都焼き討ちの際、正暦寺も焼かれて廃墟と化しているので、平家に反逆する興福寺の一味とみなされていたようです。



鎌倉時代に入った1218年、興福寺の信円僧正が再興し金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社および別院などが整備されています。



応仁の乱などで一時衰えた時期もあったようですが、江戸時代初期には本堂、三重塔など多くの堂塔伽藍がまだ建ち並んでいたようです。

鐘楼



しかし、1629年の火災によって堂塔伽藍が焼失、江戸中期以降には真言宗仁和寺の末寺となっています。

土蔵



さらに明治の廃仏毀釈によって正暦寺の荒廃は一挙に進み、延々と続く石垣だけが往時を物語っています。



現在、菩提山真言宗の本山となっている正暦寺には、福寿院客殿(重文)があり、この座敷から見る庭の紅葉は一見の価値があると思います。



そこから川に沿って奥に進むと高い石段があり、その上に小さな本堂と鐘楼、土蔵などの建物がありました。

本堂



正暦寺には、菩提仙川の清流の清水を用いて、初めて清酒が醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の石碑が建っています。



今から千年以上前、奥深い奈良の山中に正暦寺という大伽藍があったとは、迂闊にも知りませんでした。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




御堂筋の本町と淀屋橋間には御堂筋完成50周年記念碑があり、今の季節だけ記念碑の背景にあるイチョウの黄葉がきれいです。



記念碑には1937年(昭和12年)に御堂筋が完成したとあるので、樹齢10年前後の若木を植えたとすれば、今では樹齢80年くらいでしょうか。

巨大な株



さて、心斎橋から始めた散歩は南御堂の前まで来てしまいましたが、イチョウの株が急に若くなるので、この辺りには御堂筋完成当時のイチョウは少ないようです。



中央大通りとの交差点を超えた場所にある若いイチョウは、枝がシンメトリーに広がり、形の美しい株に成長しています。



さて、本町交差点から北御堂前までの御堂筋にも比較的若いイチョウが多かったので一挙に瓦町まで足を進めることとしました。



その先、淡路町交差点辺りには御堂筋の完成当時からあると思われる古い株が多く、華やかな景色を見せてくれています。



道修町まで来ると、急に若い株が多くなりますが、歩道に置かれた彫刻とイチョウが眼を楽しませてくれます。



高麗橋3丁目交差点の彫刻も、背景のイチョウとのコントラストが面白い味を出しています。



こちらは、日本生命本部前のイチョウを背景とした彫刻作品ですが、この辺りから淀屋橋までのイチョウは殆ど若い株となっています。



さて、淀屋橋を渡って大阪市庁舎前まで来ると、来月から始まるOSAKA光のルネサンスの会場設営が殆ど完成していました。



府立中之島図書館前にある桜も、御堂筋のイチョウに負けじとばかりに、見事な紅葉を見せてくれています。



御堂筋の近くに勤務するサラリーマンは、昼休みにイチョウの黄葉を楽しめるメリットがあるのです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




御堂筋にあるイチョウの黄葉も、見頃を迎えてきたようなので会社の昼休みに心斎橋OPAの前から中之島まで急いで散歩してみました。



OPAの向かい側に聳え立つ大丸北館前のイチョウは、日当たりのよい交差点付近の株が一番黄葉が進み、交差点から離れるほど葉の緑が残っているのが判ります。



そのために大丸北館の御堂筋側入り口の前にある2本のイチョウは、黄色と黄緑にはっきると色分けされていました。



長堀通りを越えてルイ・ビトンの前まで来ると、やはり交差点に近いイチョウの黄葉が最も鮮やかです。



ベネトンの前まで来ると、御堂筋の中でも最大級のイチョウの株があり、やはり黄葉のピークを迎えているようでした。



ベネトン前から北側300mは、御堂筋の中でもイチョウの古株が多い場所となっていて、太陽の光が黄色く見えるほどでした。



その先の南船場3丁目まで来ると、御堂筋がイチョウの黄葉で覆われて、まるで森の中にいるような錯覚を覚えるほどです。



御堂筋ダイビル前にも御堂筋が完成した時期に植樹されたようなイチョウの古樹があります。



今年は、東側の建物が解体されていて春、夏、秋と太陽の光を一杯に受けたせいか特に鮮やかに黄葉していました。



しかし、このビル工事現場も鉄骨がかなり立ち上がってきたので、来年は今年のように見事な黄葉を見せてくれるのか疑問です。



このイチョウの黄葉は、もうじき吹き始める季節風で一挙に落葉してしまうのです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




京都府立植物園の北山門にある噴水の先に、秋になると紅葉(黄葉)する樹木をいくつか見ることができます。

なからぎの池のイロハモミジ



まず眼につくのは若い柿の木で、実はありませんでしたが葉が橙色に染まってきていました。



その横にあるシナアブラギリ(支那油桐)の大きな葉も緑から黄色く変色中です。



道を挟んだ向かい側にあるカツラ(桂)の巨木の枝についた円い葉も黄葉していましたが、若いカツラの葉は赤く紅葉するようです。



その先にあるカラコギカエデ(鹿子木楓)は、山地の湿地に生える珍しいカエデですが、赤く紅葉しはじめています。



カラコギカエデから道を隔てた先にトウカエデ(唐楓)の巨木があり、こちらは紅葉が始まったばかりでまだ黄色でしたが、これから徐々に赤くなるようです。



噴水池から西側に少し歩き、なからぎの森まで行くと、オオモミジの黄色い紅葉を見るとことができます。



京都府立植物園の外、北山通りの向かい側にはモミジバフウ(紅葉楓)の若い株があり、こちらも紅葉が始まったようです。



遠くから見るとイチョウと良く似た黄葉を見せるユリノキ(百合の木)は、Tシャツを連想する葉の形をしています。



京都府立植物園には、モミジよりも早く黄葉の盛りを迎えるイチョウの株が多く、その風景を写真に残す人達が一心不乱にカメラを構えていました。



やはり人間の姿が入らない写真は、面白くないようですね。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




なからぎの池と聞いてすぐに場所がわかる人は京都通でしょうが、その池のある京都府立植物園に行ってきました。

なからぎの池



今から85年前の1924年に開園したこの京都府立植物園には、大小四つの池に囲まれた、なからぎ(半木)の森と呼ばれる場所があります。



古くは、流れ木の森ともいわれ、下鴨の地に残された山城盆地の植生を知ることのできる園内唯一の自然林だそうです。



ここではニレ科の落葉樹であるエノキ、ムクノキ、ケヤキの古木やシロダモ、カゴノキ、シイ、カシ類の常緑樹が混生する森の特徴が見られます。



京都府立植物園として整備される以前から此の地にあったと思われる古樹の前にあるモミジの葉は、ベールのように見えます。



森の広さは約5千5百平方メートル、この地域の鎮守で西陣織の神を祀った半木(なからぎ)神社の小さな社が置かれています。



この森のモミジと静寂は、世界文化遺産に登録された京都の古寺にまさるとも劣らないものがあると思います。



その森の中にある「なからぎの池」の周りには特にモミジが多く、今の時期になると紅葉が池に映えて美しい姿を見せてくれるのです。



日当たりの良い池の方に枝を伸ばしたモミジは、太陽の光をしっかりと受けているせいか真っ赤に紅葉していました。



一方、森の中にあるモミジは、周囲の高木によって日の光が遮られているせいか、赤くなる前の黄色をしていました。



しかし先端部分から徐々に赤く色づいてきているので、これからもっと紅葉が進むのではないかと思います。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




延命寺の蓮池から上に続く遊歩道は、両側がモミジで覆われていますが、日当たりの悪い場所にあるモミジの紅葉は始まったばかりのようです。

密集しているモミジ林



かなり急勾配の道をしばらく進むと、両側にあるモミジの色が黄色くなり、尾根の頂上にでます。



そこから下を見るとイロハモミジの深い森があり、これからさらに紅葉が進むのではないかと思います。



中にはかなり赤くなった株もあり、延命寺では緑から黄色、赤へと変色する紅葉のプロセスを一挙に楽しむことができました。



諸行無常に繋がるこうしたイロハモミジの紅葉は、万葉集の時代から日本人の琴線に触れる何かがあるのではないかと思います。



延命寺は、西暦810年~824年頃に空海が地蔵の石仏を刻んで本尊としたのが始まりとされています。



さらに1639年、浄厳(1639~1702年)が伽羅山延命寺と寺号を改めて中興しています。

浄厳の墓地



1677年には、御室仁和寺の末寺となって薬樹山延命寺に寺号を改め、本尊も如意輪観音に改められています。



尾根道を伝って蓮池に下りる途中に小さなお堂がありました。




延命寺の前山を開き、現在のような楓樹林にしたのは覚城和尚と由緒書にありましたが、このモミジの株数は大阪府内でも屈指ではないでしょうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夕照もみじの苔むした幹は根元で左右に分かれ、古い幹の途中から比較的若い幹が枝分かれしています。

右側の若い枝



樹齢の古さの割りには、意外と小さくまとまっていて巨木というイメージはなく、むしろ横にある若いモミジが見事な枝ぶりでした。

若いモミジの下は駐車場



しかし苔むした根元を見ると、相当古い株であることが判り、枝分かれした幹についた葉も少なかったので、樹勢はかなり弱っているようでした。



下の駐車場に下り、夕照もみじを見てみると、横にある若いモミジの勢いに負けています。



駐車場から右手にある高台には鳥居が見え、その周囲にある紅葉が見事でした。



もう一度、夕照もみじのある場所に戻り、そこから上の高台に出ると、広い蓮池があり、中央に石塔、岸に鳥居が置かれています。



この日は風が無かったので、蓮池の表面が鏡のようになって石塔と紅葉を映していました。



つづく


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




京都の紅葉を紹介してきましたが、今回は大阪南部にある紅葉の名所を探して紅葉狩りに出かけてみました。

延命寺蓮池のモミジ



中でも河内長野市にある延命寺は、紅葉の名所として知られ、境内にある「夕照(ゆうばえ)もみじ」は古樹として有名です。

夕照もみじ



南海電車の美加の台駅で降り、40系統のバスに乗って10分、延命寺口で下りようとすると運転手から「延命寺に一番近いバス停は神が丘口ですよ」と知らされました。

夕照もみじの幹と枝



その神が丘口で下り、延命寺左折500mと書かれた看板に従って坂を下り、谷沿いに歩くこと15分で延命寺の前に到着です。



弘法大師が地蔵菩薩を刻んで安置したのが起源と伝えられる延命寺の山門には、大きな「不許辛酒肉入界内」と小さな「楠氏一門和田正遠之菩提所」の石碑があります。



山門から境内に入って右手にある石段を上がり、宝物館西側の狭い空地に目指す「夕照もみじ」がありました。



大阪府指定天然記念物の夕照もみじの樹齢は、800~1000年、樹高 9m、幹回り 5m、枝張り13×17mとか。



つづく


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神護寺から清滝川沿いに歩いて30分の場所にある高山寺は、774年、桓武天皇の父親、光仁天皇(709~782年)の勅願で建立されたと伝わっていて、平安時代には神護寺の別院とされていました。

境内から表門を見る



高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の僧、明恵(1173~1232年)で、9歳で生家を離れ、神護寺の上覚(1147~1226年)のもとで仏門に入ったとされています。

開山堂(内部に重文の明恵上人坐像)



明恵は、後鳥羽上皇(1180~1239年)から栂尾の地を与えられ、1206年「日出先照高山之寺」の額を下賜されているので、この時を高山寺の創立とする見方もあるようです。

開山堂の上にある明恵上人御廟



実際に訪ねてみた高山寺は、東西が深い谷となった清滝川右岸の斜面にあり、北側も山が迫っている意外と暗い場所でした。



「日出先照高山」とは、「華厳経」の中で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂」という意味で、最初に光り輝く寺院であれとの意が込められているようですが、実際の高山寺は日の当たり難い場所にありました。



1230年に作成された高山寺境内の絵図(重文、神護寺蔵)によると、当時の高山寺には、大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などがあり、このうち「経蔵」と呼ばれた鎌倉時代(1224年)の建物が「石水院」(国宝)として現存しています。

石水院の土塀



その石水院は、もともと金堂の後方に建っていましたが、明治時代(1889年)に今の場所に移築されたようです。

石水院の門



石水院から開山堂に至る道の両側に残る石垣は、諸堂や塔頭が林立していた往時を偲ばせていますが、今では高い樹木に覆われる暗い境内となっていました。

高い樹木に覆われた金堂(重文1634年仁和寺から移築)の周囲も暗い



金堂を拝観してから石水院右手の細い山道を下りると、周囲に落ち葉が厚く積もり、しっとりとした東屋がありました。



東屋を過ぎるとすぐに裏門があり、これから高山寺に入山する観光客の行列ができていました。



ユネスコの世界文化遺産(古都京都の文化財)の一つに登録されている高山寺、その紅葉も日本が世界に誇れる文化遺産だと思います。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神護寺の下にある高雄橋から清滝川の左岸を上流に向かって歩くこと10分、西明寺の前に架かる指月橋の前に出ます。

西明寺の紅葉



西明寺の寺伝によれば、今から約1180年前に空海の高弟、智泉大徳が神護寺の別院として創建したと伝わっています。

本堂の紅葉



その後荒廃しましたが、約830年前に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられ、鎌倉時代(1290年)に神護寺から独立したようです。



その後の兵火によって堂塔は焼亡しましたが、1602年に明忍律師により再興されています。

古い石塔



橋を渡り、清滝川の右岸にある山道を上ると、川岸に古い石塔があり、その先を進むと小さな表門(1700年)が見えてきます。



狭い境内にある本堂は、1700年に桂昌院(徳川綱吉の母)の寄進により再建されたもので、堂内に釈迦如来像ほかの仏像を安置しています。



本堂の左方に建つ客殿は、本堂より古く、江戸時代前期に移築されたもので、以前は食堂(僧侶の生活や戒律の道場)として使用されていたようです。

鐘楼



客殿の前にある池には、モミジの落ち葉が浮かび、山寺の秋を演出していました。



西明寺は谷の斜面にあるせいか日当たりが悪いようで、表門の前の庭一面に苔が生え、中からキノコが顔を出していました。



拝観のあと、茶店に置いてあった熟柿を注文してみました。



この柿は、輸送が難しいのかスーパーなどではあまり見かけませんが、広州でよく食べていたマンゴーや、ドリアンよりも味は上だと思いました。



これからも毎年1回はこうした紅葉狩りを楽しみたいものです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私の手元に、日本史研究会編集の「豊臣秀吉と京都」という本があります。



それによれば、1625年に廃城となった伏見城は、現在の大坂城に匹敵する規模があり、城郭の直径が1キロ近い巨大な城だったようです。



また大坂城の外堀から西の惣構(東横堀川)までの距離が1000mに対し、伏見城外堀から西の惣構までの距離は1400m、伏見は当時の大坂に勝るとも劣らない巨大な都市だったことが判ります。



この惣構えの中に豊臣、徳川期の大名屋敷があり、その大名の名前が地名として現存しているのが伏見の特長です。



例えば桃山町金森出雲とは、1585年に秀吉(1537~1598年)から飛騨1国(3万3千石)を与えられた金森出雲守長近(1524~1608年)の屋敷があった場所で、金森は1594年に秀吉のお伽衆を務めているので伏見城から近い場所に屋敷を賜ったのでしょう。



現在、伏見桃山城運動公園にある伏見城天守閣は、近鉄グループ遊園地のシンボルとして1964年に建てられた模擬の城で、秀吉の伏見城本丸から内堀を隔てた二の丸北側にある御花畑山荘(長束正家、近江水口12万石、1563~1600年の屋敷)跡です。



二の丸北側には、長束正家のほかに浅野長政(甲斐22万石、1547~1611年)と前田玄以(亀山5万石、1539~1602年)の屋敷、二の丸西に石田三成(佐和山19万石、1560~1600年)、二の丸南に増田長盛(大和郡山20万石、1545~1615年)の屋敷が配置されていました。

明治天皇陵への参道



この屋敷の配置を見ると、秀吉が5奉行をいかに信頼していたのかが良くわかりますが、このうち最大の石高を得ていた浅野長政だけが関ヶ原で徳川方につき、後に広島43万石の大名となっています。

明治天皇陵



現在の伏見桃山城運動公園駐車場の東側が二の丸、その先に内堀と本丸があったようですが、現在は宮内庁が管理する明治天皇御陵として立ち入り禁止となっていて、その規模が良くわかりません。

桓武天皇陵



伏見桃山城運動公園の北西には桓武天皇陵がありますが、これは明治になって整備されたもので、元の御陵は伏見城築城時に破壊された可能性が高いようです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




京と大坂に近く、淀川の水運が活用できる伏見城は、豊臣秀吉の隠居後の居城として1592年に造られたものが最初で、指月山伏見城と呼ばれています。

明治天皇陵のある高台(桃山)から宇治川方面を望む



しかし僅か4年後の1596年(慶長元年7月)、直下型の巨大地震で倒壊したため、木幡山(現在の明治天皇伏見桃山陵付近)に新たに築城され、こちらは木幡山伏見城と呼ばれています。

明治天皇伏見桃山陵



1598年、秀吉がそこで亡くなると、伏見城にいた豊臣秀頼(1593~1615年)は大坂城に移り、徳川家康が代わって伏見城に入っています。

豊臣時代末期と現代を重ねた地図、本丸の南に明治天皇陵がある(豊臣秀吉と京都より)



1600年、関ヶ原の戦いの直前、伏見城(鳥居元忠が守備)が石田方に攻められ落城、その際に建物の大半が焼失しています。

長束正家邸の跡地に立てられた新しい伏見城の門



このとき鳥居以下の家臣団が自刃した床板は、京都市にある複数の寺の天井板として再利用されており、血天井として今も有名です。

宝泉院の血天井



関ヶ原の翌年、伏見城は再建されて再び家康の居城となり、1603年に家康はここで征夷大将軍の宣下を受けていますので、「伏見幕府」が開かれたことになります。

長束正家邸の跡地に立てられた新しい伏見城の天守



秀吉が6年間、家康が関ヶ原の前後9年間に渡って過ごした伏見城と伏見は、その15年間、日本の首府だったのです。



当時の伏見城下には、有力大名の屋敷が集まり、現在も当時の大名にちなむ町名が数多く残っていることで知られています。



しかし、1615年の大坂夏の陣の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、1625年に廃城となり建造物などは各地に転用・移築されています。

伏見城の門を移設した御香宮神社の表門



城の石垣の大部分は、淀川を下って大坂城まで運ばれたようで、運ぶ途中に落下した石が明治時代の淀川改修時に引き上げられ、毛馬の残念石として現存しています。



また領知を大幅に減封された毛利氏の報復攻撃を防ぐためか櫓、城門など多くの施設が福山城(広島県福山市)に移されますが、この心配は242年後に現実となるのです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




802年、清麻呂の子息弘世、真綱の兄弟は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼、この講演が終わると、最澄は有力者だった和気氏の推薦で唐に渡っています。



最澄は、唐から805年に帰朝して高雄山寺に入り、わが国最初の灌頂壇を開いていますので、今から1200年以上も前のことになります。



一方、空海も最澄とともに入唐し、809年に京都に戻ることが許されると高雄山寺に招かれ、この寺で空海と最澄の親交と、天台宗と真言宗の交流があったようです。



812年、最澄は大日如来の灌頂を授けて欲しいと空海に伝え、空海から金剛界灌頂と胎蔵灌頂を高雄山寺で授けられています。



その4年後、空海は高野山を修禅の道場とし、また東寺の造営を任されたために神護寺を離れたようです。



824年、河内にあった神願寺(和気清麻呂の創建)と高雄山寺が合併、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)とし、真言宗の寺院となっています。



その神護寺は、994年と1149年の二度の火災で全山壊滅の状態となっていましたが、1168年文覚(1139~1203年)が源頼朝と後白河法皇の援助で再興を果たしています。



しかし、天文年間(1532~55)には、兵火によって建物のすべてを焼失、戦国の混乱が納まった1600年に徳川家康に窮状を訴え、やっと旧来の寺領が返還されたようです。



1615年には、京都所司代板倉勝重が奉行となって神護寺の再興が着手され、江戸時代中期には堂宇7、支院9、僧坊15を数えるまでになっていました。



ところが、明治維新後の廃仏毀釈により寺域は分割解体され、支院と15坊は焼失、昭和になってやっと金堂や多宝塔などが再建されたようです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神護寺は、781年に和気清麻呂(733~799年)によってこの地に建立された和気氏の私寺、高雄山寺が始まりというので、1228年の歴史を持つ寺院です。

清滝川沿いの紅葉



清麻呂が亡くなると、高雄山中にその墳墓が祀られ、それ以後、和気氏の菩提寺として子息の弘世、真綱兄弟によって伽藍の整備が進んだようです。

書院前の紅葉



さて、昨日の記事からの続きですが、明王堂前から奥に向かって左手に見えるのが五大堂(1623年建築)です。



五大堂と向かい合うように建っている毘沙門堂(1623年)は、現在の金堂が建つ前の金堂として使われていて本尊の薬師如来像もここに安置されていたそうです。



毘沙門堂の奥にある住宅風の仏堂が江戸時代初期に細川忠興(1563~1646年)が造営したと伝わる大師堂(重文)で、空海の住房であった「納涼房」を復興したものといわれています。



大師堂の前から右手にある石段を上った高台に建つのが1934年に建てられた本瓦葺きの金堂です。



金堂の前から下の五大堂、毘沙門堂の屋根が良く見えますが、その屋根にかかる紅葉が見事です。



この金堂の背後にそそりたつ山の頂上には、鎌倉時代に神護寺を再興した文覚上人の墓があるそうです。

金堂横の紅葉



さて、金堂の左手にある山道を登ると、途中に紅葉に囲まれた金堂の側面が見えるポイントがあり、そこからの景色はなかなかのものでした。



その山道を登り詰めると多宝塔のある狭い高台があり、そこから金堂の屋根と屋根にかかる紅葉を見ることができます。



この多宝塔は、金堂と同様、1934年に建てられたもので、内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像が安置されているそうです。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ