京と大坂に近く、淀川の水運が活用できる伏見城は、豊臣秀吉の隠居後の居城として1592年に造られたものが最初で、指月山伏見城と呼ばれています。
明治天皇陵のある高台(桃山)から宇治川方面を望む
しかし僅か4年後の1596年(慶長元年7月)、直下型の巨大地震で倒壊したため、木幡山(現在の明治天皇伏見桃山陵付近)に新たに築城され、こちらは木幡山伏見城と呼ばれています。
明治天皇伏見桃山陵
1598年、秀吉がそこで亡くなると、伏見城にいた豊臣秀頼(1593~1615年)は大坂城に移り、徳川家康が代わって伏見城に入っています。
豊臣時代末期と現代を重ねた地図、本丸の南に明治天皇陵がある(豊臣秀吉と京都より)
1600年、関ヶ原の戦いの直前、伏見城(鳥居元忠が守備)が石田方に攻められ落城、その際に建物の大半が焼失しています。
長束正家邸の跡地に立てられた新しい伏見城の門
このとき鳥居以下の家臣団が自刃した床板は、京都市にある複数の寺の天井板として再利用されており、血天井として今も有名です。
宝泉院の血天井
関ヶ原の翌年、伏見城は再建されて再び家康の居城となり、1603年に家康はここで征夷大将軍の宣下を受けていますので、「伏見幕府」が開かれたことになります。
長束正家邸の跡地に立てられた新しい伏見城の天守
秀吉が6年間、家康が関ヶ原の前後9年間に渡って過ごした伏見城と伏見は、その15年間、日本の首府だったのです。
当時の伏見城下には、有力大名の屋敷が集まり、現在も当時の大名にちなむ町名が数多く残っていることで知られています。
しかし、1615年の大坂夏の陣の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、1625年に廃城となり建造物などは各地に転用・移築されています。
伏見城の門を移設した御香宮神社の表門
城の石垣の大部分は、淀川を下って大坂城まで運ばれたようで、運ぶ途中に落下した石が明治時代の淀川改修時に引き上げられ、毛馬の残念石として現存しています。
また領知を大幅に減封された毛利氏の報復攻撃を防ぐためか櫓、城門など多くの施設が福山城(広島県福山市)に移されますが、この心配は242年後に現実となるのです。
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