大阪中之島公園の朝の光景と、中之島公園にある木村長門守重成表忠碑に刻まれた小林佐兵衛のことを紹介しましょう。明治維新後、近代都市を作りあげてゆく過程で「公共」の担い手不足に直面した大阪府は、「任侠の者」を都市公共事業の担い手として利用しています。・・・淀屋橋からの夜明け
その「任侠の者」を代表する人物の名前が今も中之島の東洋陶磁器美術館東側にある「長門守木村重成表忠碑」にその名前が残っている小林佐兵衛(1830~1917年)です。・・・中之島公園の夜明け
1873年(明治6年)渡辺昇大阪府権知事は、「任侠の者」4名を市中(東西南北)各組消防頭取に任命、北大組頭取が小林佐兵衛で、この頃の小林は(44歳、数え年)既に大阪を代表する大親分だったようです。・・・石碑を囲む玉垣の隙間右下に小林佐兵衛と西村捨三の名前が見えています。
西南戦争前年の1876年(明治9年)、渡辺昇大阪府権知事は、大阪市を4区に分け、各区に「大阪市街辻々塵芥捨場」の清掃請負者を置きますが、第四大区(北大区)の頭取が小林佐兵衛で、小林は、大阪市中の橋(184か所)全部の清掃も一手に引き受けています。・・・名前の拡大
1882年(明治15年)小林は、安治川口の浅瀬浚渫工事を落札、大阪府に工事保証人として届けたのは、消防頭取兼建築請負者の吉備吉兵衛と浅野治助、彼らも小林と同業の「任侠の者」だったようです。・・・中之島公園バラ園から見た中央公会堂方向、街路樹の中に木村重成の石碑が写っています。
その安治川口浚渫工事の際、川底にあった大坂城築城時の巨石が引き上げられ、それが14年後に「長門守木村重成表忠碑」として使われたのでしょう。・・・土佐堀川にいたカワウの群れ
1891年(明治24年)、鹿島組(現在の鹿島建設)が和歌山県紀ノ川で鉄道敷設工事を開始するに当たり、地元の妨害を押さえるため依頼を受けた小林佐兵衛が協力、小林に鹿島から600円の謝礼が支払われています。・・・朝日を受けた三井ビルにザ・北浜タワーの影が写っていました。
ところで大阪地元の土木請負業者と言えば1892年(明治25年)に創業した大林組の大林芳五郎(1864~1916年)が有名ですが、明治前半の大阪には、大林よりも先輩の小林という有力者がいたのです。・・・中之島公会堂
大林組も鹿島と同じように「任侠の者」の妨害を抑えるために小林の協力を受けていたようで、高野山の小林佐兵衛墓所には、大林芳五郎の名前が刻まれた柱が四隅に置かれています。・・・中之島の北を流れる堂島川
つづく
参考文献:それぞれの明治維新 任侠の社会史 原田敬一著