大阪夏の陣で落城した大坂城は、初め家康の外孫松平忠明に与えられるが、1619年に幕府直轄領(天領)に編入され、翌1620年から徳川秀忠によって再建が始められ、1629年に完成している。
現在の大阪城天守閣
10年がかりで再建された徳川氏の大坂城は、豊臣氏の大坂城の石垣と堀を徹底して破壊して、全体に数メートルの盛り土をした上、さらに高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれてしまったという。
幕府直轄の徳川大坂城の城主は、徳川将軍家の歴代将軍自身であり、大身の譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、小身の譜代大名から選ばれる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当したらしい。
外堀
幕末の1868年(慶応4年)1月に起こった鳥羽伏見の戦いの時の大阪城代(最後の城代)は、8万石の笠間藩主(茨城県笠間市)牧野貞明である。
重要文化財の1番櫓
牧野貞明の先祖となる牧野康成は、徳川家康に先祖代々仕えた譜代の家臣ではなく、家康が桶狭間の合戦後に、三河を平定して行く過程で征服された家臣であった。
家康の家臣となった牧野康成は、多くの合戦に参加し家康が関東に入国した後、上野国勢多郡大胡で2万石の大名になっている。
大阪城の搦手となる玉造口へのスロープ
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して、真田昌幸が守る信濃上田城攻めに参加し、秀忠軍が関が原に間に合わなかった原因を作ったとして蟄居を命じられているが、どうやら秀忠遅参の責任を自ら被ったようである。
そのせいか牧野康成の嫡子牧野忠成が、大坂夏の陣で戦果を挙げたとして2万石から一挙に越後国長岡藩7万4千石を与えられている。
玉造門
宗家としての牧野家は、幕末まで長岡を領し、戊辰戦争時の家老であった河井継之助の活躍は、司馬遼太郎の小説にも書かれて有名である。
秀忠は、家康の死後に牧野康成の庶子であった牧野成儀も2千石の旗本に取り立てているので、関が原遅参の罪を被った牧野康成は、秀忠から相当に高く評価されていたようである。
玉造口の解説
笠間藩の初代、牧野成貞(1634~1712年)は、秀忠から旗本に登用された牧野成儀の庶子、つまり庶子家の庶子であった。
3代将軍徳川家光の4男、綱吉(1646~1709年)が部屋住みの時代、牧野成貞が、旗本の本家から分家して、8歳年下の綱吉に200俵の側衆として仕えたのが旗本の庶子であった牧野家発展の起源となっている。
玉造口の内側
主人として仕えた綱吉が、館林藩主(25万石)になり、1680年には34歳で5代将軍となるに至って、家老職に就いていた42歳の牧野成貞は出世街道を驀進することになる。
内堀を渡る本丸桜門へのスロープ(南面)
ちなみに後に綱吉の側用人となる柳沢吉保(1658~1714年)は、館林藩主綱吉の小姓からスタートし、綱吉が将軍職に就いたときには弱冠22歳であった。
牧野成貞は、館林藩家老(3千石)、将軍側衆(1万1千石)、将軍側用人(7万3千石)、隠居後には越後の宗家である牧野家(7万4千石)を凌ぐ8万石にまで出世している。
内堀東面の高い石垣
一方、牧野成貞の父、牧野成儀の嫡男が相続した旗本本家の牧野家は、後に断絶しているので人生はわからないものである。
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