今回は、如意輪寺から吉野の花見をスタートさせたので、如意輪寺と吉野の桜の歴史を紹介したいと思います。バス停からすぐの場所にある如意輪寺の裏門
吉野山に現在3万本あるという桜景観は、1300年前に役小角が蔵王権現の姿を桜の木に刻み、蔵王堂に祀った(桜が神木となった)ことに始まるとされています。蔵王堂
1100年以上前の905年、古今和歌集に、紀友則の「み吉野の 山べに咲ける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれる」の和歌が収められているので、このころ吉野の桜は京都貴族にも良く知られていたようです。如意輪寺
800年前には西行(1118~1190年)がこの地に移り住み、60首もの桜の和歌を残しています。如意輪寺本堂
700年前の亀山天皇(1249~1305年)は、当時嵐山と呼ばれていた吉野のような桜の名所を都に造りたいと願い、現在の京都嵐山の桜の景観が完成したといいます。
南朝を建てた後醍醐天皇(1288~1339年)は、吉野の桜を見て「雲井の桜」の歌を詠み、その御陵は今も吉野の如意輪寺に残っています。
432年前の1579年、大阪平野の豪商、末吉勘兵衛が1万本の桜を吉野に献木、このとき吉野の桜は数を一挙に増やしたようです。
楠正行とその家臣143名が如意輪寺に遺髪を埋めた髻塚
15年後の1594年、豊臣秀吉は、太閤となった記念に徳川家康、前田利家、伊達正宗など総勢5千人もの共を引き連れ、盛大な吉野の花見をしていますので、末吉の寄進した桜が見頃を迎えていたのかもしれません。
後村上天皇に仕え、楠正行の戦死を知って尼となった女官「弁内侍」の至情塚
秀吉は、亡くなる5か月前の1598年の春にも「醍醐の花見」をしているので、かなり桜が好きだったのではないでしょうか。如意輪寺の山門
吉野に多いヤマザクラの寿命は、100~120年、一目千本という桜を維持するための植樹寄進が1300年間も連綿と続いていたことに驚かされます。中千本と如意輪寺
つづく
「さくら百科」から「吉野山の桜」森本幸裕著