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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京都を代表する寺院として世界文化遺産に登録されている醍醐寺の国宝建築物5棟のうち2棟は、女人堂前からの山道を1時間も登った標高450m近い山上にあります。 

 

 

この山上(上醍醐)が、876年に聖宝が創建した本来の醍醐寺で、どれも狭い山の斜面に建っているので建物全体を写真に撮るのは至難の業です。1089年に建立された清瀧宮拝殿(国宝)

 

 

聖宝がこの山中に堂宇を建てたのは、山岳修験者によって開かれた奈良から石山寺に続く山越道がこの山中を通っていたからといいます。 

 

 

最初(876年頃)に建立されたのは准胝堂ですが、何度も火災で焼失、昭和46年に再建された建物も2008年の落雷でまたもや焼失、現在その姿はありません。すぐ下にある清瀧宮本殿(重文) 

 

 

薬師堂(国宝)は、907年に建立(1121~1124年に再建)されて以来、上醍醐の他の建物が焼失する中で、現在まで奇跡的に残った建物で、狭い尾根の上にありました。 

 

 

五大堂は、上醍醐の創建当時からあったようですが何度も焼失し、昭和になって再建されています。この建物だけが開けた場所にあったので、正面から撮影できました。 

 

 

如意輪堂(重文)は、上醍醐の最も高い位置(標高450m)にあり、落雷などによって何度も焼失再建が繰り返されていますが1606~1608年に完成した懸け造りの建物です。

 

 

 

開山堂(重文)は、911年頃に創建され1605年に焼失、如意輪堂と同じ1606~1608年に再建されています。  

 

 

開山堂のすぐ下にある上醍醐陵には、白河天皇(1053~1129年)の皇后だった藤原賢子(1057~1084年)、その娘で堀河天皇の皇后となった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王、三人の母子が仲良く眠っています。 

 

 

それにしても標高450mもある険しい山中にこれだけの伽藍があるとは、この地が山岳信仰のパワースポットとして信じられてきたのではないでしょうか。

 

参考文献:醍醐寺 佐和隆研著



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ゴールデンウイークに入り、長居植物園の牡丹が咲いたと聞いたので、早速でかけてみました。牡丹園の全景

わざわざ京都や奈良の観光名所に行かなくても、大阪市内にある植物園で立派な牡丹の花を観賞できるようです。

長居植物園では、紫、ピンク、赤、白、黄色など、色とりどりの牡丹が期待通り満開でした。

この時期には、近鉄電車に乗って遠い長谷寺まで牡丹を見にゆくことが多いのですが、これなら長居で十分でしょう。

長居植物園の牡丹園は、日当たりが良いいせいか、開花の時期が長谷寺よりも少し早いようです。

遠くの芝生を背景にした牡丹の写真が撮れるのも長居植物園ならではでしょう。

牡丹園を取り囲む新緑も魅力があります。

豪華な八重咲きの品種

日陰にひっそりと咲く牡丹も魅力がありますね。

 長居植物園の牡丹は、この数日が見頃だと思います。



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 二条城のシダレザクラと共に二条城の歴史を紹介しましょう。二条城は、1601年に普請が着手され1603年に二の丸御殿が完成、家康が征夷大将軍を受領するために上洛した際には、その宿舎として使われています。 

 

 

1605年には、征夷大将軍を秀忠に譲るために家康と秀忠が一緒に二の丸御殿に入り、翌年には二の丸に天守閣が完成、1611年ここで家康と豊臣秀頼の対面が実現しています。 

 

 

1614年、家康は、二条城黒書院から諸大名に対して大坂への布陣を命じ、翌年の大坂夏の陣でも家康はここから出陣、勝利の後に凱旋してきています。 

 

 

1623年には、秀忠が大御所となって家光が征夷大将軍宣下を受けたことで、二条城大広間で盛大な宴会があったといいます。 

 

 

翌1624年には、家光による本丸・天守閣の工事が始まり、二条城は規模が拡大されていますが、このとき家康の天守閣は解体され淀城に移築されています。 

 

 

1626年には本丸に天守閣が完成、しかし124年後の1750年、落雷によって焼失し、現在は天守台が残っているだけとなっています。 

 

 

1625年には秀忠と家光が二条城に入り、秀吉の聚楽第への天皇行幸に対抗するデモンストレーションとして後水尾天皇を二条城に招き、5日間も待しています。

 

 

 

翌1626年には、二条城城代が置かれていますが、徳川幕藩体制が盤石となった1699年には廃止され、御番頭2名が置かれるだけになっています。 

 

 

1633年、家光は二条城の本丸に御殿の増築を命じ、翌1634年には30万7千人という大軍勢を率いて二条城に入った時点で、徳川家に対抗できる大名勢力は皆無となっていました。 

 

 

それ以降、将軍の二条城入城の必要性は無くなりますが、229年後の1863年、徳川幕府が弱体化したために14代徳川家茂の二条城入城があるのです。

参考文献:二条城にはふたつ天守閣あり 永井太一郎著



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あべのキューズモールの記事の続きですが、あべのキューズモールの北隣りには、地元地権者のショッピングゾーン「ViaあべのWalk」があり、1階にあるエスカレーターの吹き抜け部からよく見えています。

 

そのエスカレーターで2階に上がると、道を挟んだ向かいに工事中の近鉄超高層ビルが良く見えます。

 

3階から2階の北東方向を見たところ。陸橋は北側の工事中ビルを通り、JR天王寺、近鉄百貨店と繋がるようです。

 

3階にあるスカイコートと呼ばれる広場です。

 

3階のスカイコートから2階のアーバンアベニューを見下ろしたところ。2階の奥がSHIBUYA109、3階の「甘党まえだ」の奥にはABCクラフトの広い売り場がありました。

 

3階の共用通路の上には天窓があるので、ショッピングモールの雰囲気は明るくて気持ちが良かったですね。

 

広い吹き抜け空間に通路用の橋を架けるデザインは、最近の大型モールでよく見かけます。

 

あべのキューズモールの中には、このような休憩用の椅子が置かれています。休憩椅子の設置も大型店では最近よく見るようになりましたね。

 

あべのキューズモールの中核店舗イトーヨーカドーは、モールの南側部分地下1階と1、2階に入居しているので、地下鉄天王寺駅よりも谷町線阿倍野駅からのほうが便利です。モールの南側にある入り口。

 



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2009年より工事中だった天王寺の大型ショッピングモール「あべのキューズモール」がいよいよ今日グランドオープンしました。地下鉄天王寺駅からの連絡通路

 

 

ウイキペディアによれば、延べ面積約18万㎡、商業施設面積約7万㎡、店舗数約250という巨大なショッピングセンターです。地下鉄と連絡している地下1階のウエルカムコート。

 

 

ソフトオープン期間中に、ちょっとだけ中を覗いてきましたので、その建物をご紹介しましょう。JR天王寺駅から道路のハス向かいに通じていた陸橋は、現在工事中で渡ることができません。

 

 

そこで近鉄百貨店側に渡って陸橋を下り、狭い仮設歩道を南側に歩くのですが、この歩道は自転車がひっきりなしに通行していて歩き難い通路でした。

 

 

仮設歩道を少し歩いた最初の信号を横断すると「あべのキューズモール」の1階部分に到着です。

 

 

そこからみた「あべのキューズモール」の東側、将来は先にある建物を撤去し、道路として使用されるのではないでしょうか。

 

 

六本木ヒルズの地下鉄エントランスとよく似た円形吹き抜け部にあるエスカレーターで2階に上がります。

 

 

2階にはオープンエアーのアーバンアベニューと呼ばれる広い通路があり、そこを直進して右の入り口を入れば、大阪初出店のSHIBUYA109ゾーンです。右はクリスピークリームドナッツを買う人の行列。

 

 

2階店舗前から現在工事中の陸橋方向を見た写真。陸橋が完成すればJR天王寺駅、近鉄百貨店と連絡できるのでかなり混雑しそうです。

 

 

つづく



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今年の造幣局通り抜けも終わりましたが、そこに東京荒川堤から移植したサトザクラをいくつも見ることができます。

 

 

  

荒川堤のサトザクラは、1885年(明治18年)の豪雨で決壊した荒川堤に、清水謙吾(後に江北村村長)がサトザクラの苗木を植たことに始まるようです。 

 

 

地元の有力者だった清水は、当時人気の高かったソメイヨシノを敢えて避け、江戸時代270年を通じ、大名家で大切に育てられていたサトザクラを選んでいます。

 

 

  

維新の混乱で失われてゆく大名屋敷のサトザクラを当時収集していたのが清水の友人の植木屋、高木孫右衛門でした。 

 

 

清水は、高木の持っていたサトザクラすべて、何と78品種、3225本もの苗木を荒川堤に植えたといいます。 

 

 

清水と高木の熱意が無ければ、気の遠くなるような年月をかけて大名屋敷で品種改良された日本固有のサトザクラが消滅していた可能性があるのです。 

 

 

荒川堤のサトザクラは、清水謙吾の弟子の舩津静作が引き継ぎ、さらに舩津の弟子の三好学がその保存と研究を引き継いでいます。関山

  

 

 

 しかし、清水が苗を植えてから41年後、1927年(昭和2年)に荒川堤改修工事が始まり、そこにあったサクラの成木633本が伐採され、荒川堤の衰退がはじまっています。

 

 

また戦後、荒川堤のサクラは薪として伐採され、1954年(昭和29年)に名勝指定が取り消されますが、それ以前に大阪造幣局に持ち込まれた苗が、今もその華麗な姿を見せてくれているようです。関山

 

 

参考文献:さくら百科(永田洋、浅田信行、石川晶生、中村輝子編)



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最近読んだ本の中に、サトザクラの歴史のことが書いてあったので、今年見た大阪造幣局の桜の写真と一緒にその内容をご紹介しましょう。 今年の花(サトザクラ)の妹背

 

 

 

桜は、もともと変異性の強い植物で、古くから自然木の中に突然変異の八重咲き株があったと考えられています。  

 

 

それが初めて記録されたのは、奈良から京都の一条院(987~1011年)に八重桜が献上されたときに女官が詠んだ和歌の中で、1000年も前のことです。 

 

 

 

鎌倉時代に入り、政治の中心が関東に移ったことがきっかけとなって、伊豆半島に自生していたオオシマザクラが関西に持ち込まれ、人の手によってヤマザクラなどと交雑されて新しい品種が出現しています。 

オオシマザクラ 

 

 

その交雑種の中には、遅桜、八重紅桜、赤芽八重桜、海棠桜、普賢象など、現在のサトザクラを代表する品種もあったようです。  

 

 

鎖国をしていた江戸時代になると園芸史上まれにみる植物の品種改良が進み、園芸専門書まで発行され、桜に関する多くの記述も残されています。  

 

 

また寛永年間(17世紀半ば)以降、参勤交代によって諸国から自慢の桜が競って江戸の大名屋敷に持ち込まれるようになったといいます。  

 

 

大名の江戸屋敷が、珍しい桜のコンク-ル会場のようになったせいで桜の交雑が一層進み、サトザクラの品種が一挙に増加したようです。  

 

 

また接ぎ木の技術が急速に進み、1818年に刊行された「草木育種」には、現在と遜色のない技法が詳しく記述され、これによって桜の繁殖がさらに加速しています。  

 

 

しかし、明治維新とともに大名屋敷のサトザクラは消滅、その一部が荒川堤で保存され、なんとか今日まで伝わったようです。

 

参考文献:さくら百科(永田洋、浅田信行、石川晶生、中村輝子編)

 

撮影日4月17日



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弘川寺の西行桜と共に、河内を代表する桜の名所として、四天王寺大学にある700本のソメイヨシノがあります。

 

 さて、四天王寺大学公式HPからその沿革を見ると、今から1418年も前の西暦593年に聖徳太子が四天王寺敬田院を創設したときから始まるとあるので、日本最古の歴史を誇る教育機関でしょう。

四天王寺の西門

 

近代的な学校となったのは1922年、四天王寺の境内に四天王寺学園(天王寺高等女学校。現在の四天王寺高等学校・中学校)が創設されてからです。 

1967年には、四天王寺女子大学が聖徳太子陵(下の写真の右端)を望む、羽曳野市の羽曳が丘に開設されていますので、現在のソメイヨシノもこの時に植樹されたものでしょう。 


人間の寿命に似ているといわれるソメイヨシノの若木も既に44年が過ぎ、壮年期を迎えているようです。


1981年、四天王寺女子大学は、男女共学の四天王寺国際仏教大学と改称、さらに2008年には四天王寺大学に名称変更しています。


 甲子園球場4倍以上の広さがあるというキャンパスは、良く手入れされた緑であふれていて、近隣の住民にも開放されているようです。 

 
 

中でも正門を入ってすぐのところにあるロックガーデンが、素晴らしい景観を見せてくれていました。

四天王寺大学のサクラは、河内を代表する桜だと思います。(写真は、4月13日撮影)



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先日の日曜日、京都二条城のサクラを見物してきましたので、その一部をご紹介しましょう。普通の観光コースは、唐門を潜って二の丸御殿に向かうのですが、唐門の前を直進し、サトザクラが植えられている桜園を目指します。

花に芳香のあるタキニオイ(瀧匂)が満開でした。

花弁が大輪で一重のタイハク(太白)は、日本で絶滅したとされていましたが、江戸時代ヨーロッパに渡った株が1930年英国で見つかり、1932年に里帰りした数奇な運命をたどっています。

イチヨウ(一葉)は、江戸の大名屋敷にあったサトザクラ。明治維新後の混乱で消滅しかけていましたが、明治18年、荒川堤に移され保存されていたといいます。(後日詳細を書きます)

平野神社境内に原木があるというタオヤメ(手弱女)も満開です。

これも大名屋敷から荒川堤に移されて残った純白八重のアマヤドリ(雨宿)。さて南中仕切り門を通り、梅林に沿ってさらに西に向かいます。

二条城の内堀と外堀に挟まれた西側庭園まで来てみると、ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)の並木道となっていました。これほど巨大なシダレザクラの並木道はちょっと他では見ることができません。

ヤエベニシダレのクローズアップ。

帰る途中、唐門の内側に入ってみると、大阪造幣局のものよりも遥かに大きな、ゴショミクリマガエシ(御所御車返し)の株が太陽を一杯に受けて光っていました。

さすが世界文化遺産に登録されている二条城、京都の花見の名所として外せないということが良くわかりました。

4月17日(日曜日)撮影



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京都の遅咲きのサクラと言えば、仁和寺のオムロザクラ(御室桜)が有名です。仁和寺山門の内側

サクラ越しに五重塔を眺めることができる、これが仁和寺の素晴らしいところでしょう。

純白で大輪のオムロザクラのクローズアップ。

五重塔の周辺には、ミツバツツジが満開でした。

ミツバツツジのクローズアップ

五重塔の近くには、ヤマザクラが多いようです。

ヤマザクラの花弁は、オムロザクラよりも小さく、縁がなめらかにカーブする特徴があるようです。

ヤマザクラとミツバツツジの競演

オムロザクラのパノラマ

この日、仁和寺の入り口には「3分咲き」とありましたが、もうそろそろ満開ではないでしょうか。

4月17日撮影



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「さくら百科」の中にあった森本幸裕さんの「吉野山の桜」という論文を、昨日に続きご紹介しましょう。吉水神社の一目千本と呼ばれる展望台

江戸時代に入った1684年、松尾芭蕉が吉野山に入り、吉野桜の印象を見事な俳句に残しています。一目千本のメインは、中千本のヤマザクラ

1713年には、養生訓でお馴染みの貝原益軒が吉野の案内書「和州芳野山勝景図」を出版しています。南朝の皇居だった吉水神社のシダレザクラ

1772年には本居宣長が吉野を訪ね、桜の見事さを書き残していますが、それから100年後、明治維新の廃仏毀釈で吉野桜の多くは伐採されたといいます。東南院のシダレザクラ

1871年、吉野の林業家、土倉庄三郎(1840~1917年)が私費を出して吉野山の桜の伐採を止めさせ、また日露戦争戦勝記念行事がきっかけとなって桜の植樹(中千本)が再び始まっています。蔵王堂の南口、かつて南大門があったといいます。

1916年には吉野山保勝会が発足、全国から桜の献木を受ける活動が始まり、順調に植樹が進んだようで、1924年には国の史跡名勝の指定を受けています。蔵王堂

しかし、戦中戦後の混乱の中、吉野山にスギヒノキの植林が進み、吉野桜が危機に瀕したこともあったようです。蔵王堂にある南朝皇居跡

奈良県は、1993~2004年まで桜保護対策事業を実施していますが、日露戦争直後に植えられた株は、かなり老衰しているようです。参道の休憩所

2004年、吉野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたことで、吉野のサクラ保全に拍車がかかったようです。

世界広しといえども1300年前から続く桜の景勝地は、他に例を見ないのではないでしょうか。



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今回は、如意輪寺から吉野の花見をスタートさせたので、如意輪寺と吉野の桜の歴史を紹介したいと思います。バス停からすぐの場所にある如意輪寺の裏門

 

 

吉野山に現在3万本あるという桜景観は、1300年前に役小角が蔵王権現の姿を桜の木に刻み、蔵王堂に祀った(桜が神木となった)ことに始まるとされています。蔵王堂

 

 

 

1100年以上前の905年、古今和歌集に、紀友則の「み吉野の 山べに咲ける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれる」の和歌が収められているので、このころ吉野の桜は京都貴族にも良く知られていたようです。如意輪寺

 

 

 

800年前には西行(1118~1190年)がこの地に移り住み、60首もの桜の和歌を残しています。如意輪寺本堂

 

  

700年前の亀山天皇(1249~1305年)は、当時嵐山と呼ばれていた吉野のような桜の名所を都に造りたいと願い、現在の京都嵐山の桜の景観が完成したといいます。 

 

 

南朝を建てた後醍醐天皇(1288~1339年)は、吉野の桜を見て「雲井の桜」の歌を詠み、その御陵は今も吉野の如意輪寺に残っています。

 

 

432年前の1579年、大阪平野の豪商、末吉勘兵衛が1万本の桜を吉野に献木、このとき吉野の桜は数を一挙に増やしたようです。

楠正行とその家臣143名が如意輪寺に遺髪を埋めた髻塚

 

 

15年後の1594年、豊臣秀吉は、太閤となった記念に徳川家康、前田利家、伊達正宗など総勢5千人もの共を引き連れ、盛大な吉野の花見をしていますので、末吉の寄進した桜が見頃を迎えていたのかもしれません。

後村上天皇に仕え、楠正行の戦死を知って尼となった女官「弁内侍」の至情塚 

 

 

秀吉は、亡くなる5か月前の1598年の春にも「醍醐の花見」をしているので、かなり桜が好きだったのではないでしょうか。如意輪寺の山門

 

 

吉野に多いヤマザクラの寿命は、100~120年、一目千本という桜を維持するための植樹寄進が1300年間も連綿と続いていたことに驚かされます。中千本と如意輪寺

 

 

つづく

 

「さくら百科」から「吉野山の桜」森本幸裕著



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京都御苑のシダレザクラ、大和吉野のヤマザクラ、摂津大阪造幣局のサトザクラとくれば、河内国の代表は弘川寺のサクラではないでしょうか。

 

 

高貴寺から河内平野を望む葛城山麓をテクテク歩いて1時間、サクラの花に囲まれた弘川寺に到着しました。

西行法師(1118〜1190年以下西行とします)が、桜の花の下で亡くなった場所を探していた似雲(1673~1753年)は、1732年、弘川寺で西行の墓を発見、終生西行の顕彰に尽くしたといいます。本堂前のシダレザクラ

 

その弘川寺は、役小角によって665年に創建されたと伝えられ、676年には天武天皇から山寺号が与えられている古い歴史を誇っています。本堂

 

 812年には空海(774~835年)によって中興され、1188年には空寂が後鳥羽天皇(1180〜1239年)の病気平癒を祈願した記録があるといいます。  西行堂



1189年、その空寂を慕って西行が弘川寺を訪れ、滞在わずか1年、翌年の春にこの地で没していますが、1732年に似雲によって発見されるまでの542年間、訪れる人もあまり無かったようです。西行古墳

 

西行の和歌は、同時代の後鳥羽院や、室町時代の宗祇(1421~1502年)、江戸時代の芭蕉(1644〜1694年)などにも絶賛されていましたが、弘川寺に墓地があることはいつしか忘れ去られていたようです。

 

弘川寺は、1463年に畠山政長と畠山義就の家督争いによる兵火によって焼失、その後300年近く衰退していたようですが、似雲による西行堂建立(1744年)から寺勢を盛り返したようです。 桜山のシダレザクラ

似雲は、西行の墓地のある裏山に西行への供花としてヤマザクラを植樹していますが、270年後の現在、1500本もあるサクラが見事に成長しているのです。

「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃」と詠んだ西行法師が、弘川寺の桜の下で亡くなっていたことを知らない人も多いのではないでしょうか。

参考文献:弘川寺の四季



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近鉄富田林駅から終点の平石集落までバスに乗り、すこし登ると大阪府の史跡、高貴寺があります。

高貴寺は、文武天皇(在位697〜707年)の勅願で役行者によって創建されたと伝わっているので、今から1300年以上も前に創建されています。 山門

河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、この辺りの山に香花(こうげ)という花が絶えなかったので、当初は香花寺と称したようです。 学寮

その後、812年頃に空海(774~835年)が来住し、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称していますので、それからでも1200年が経過しています。

南北朝時代の1331年、北朝軍による兵火で焼失し、翌年に金堂が再建、寺門六坊が復興しましたが次第に衰微したようです。臥龍桜と書かれた本堂前のシダレサクラ

金堂前 にある石造灯籠には、1395年(応永2年)の銘があるそうですが、この写真の左右の灯篭がそれでしょうか。

それから445年を経た1776年、高名な碩学だった慈雲(1718〜1805年)が入山し、大和郡山藩主柳沢保光(1753〜1817年)の支援を受けて堂舎を整備したといいます。 講堂の屋根、右は金

現在、堂舎として、金堂、講堂、開山堂、学寮があり、奥院には弘法大師御影堂、慈雲の墓、柳沢保光(尭山)の遺髪碑などがあるようです。講堂の前のサクラ

境内の桜の大木は、ソメイヨシノのようでした。

高貴寺のすぐ北にある岩船神社は、もと高貴寺の鎮守社でしたが、明治の神仏分離で離れたと寺の由緒書きにありました。

南河内には、意外と古い歴史を誇る寺院が今もひっそりと残っていることに驚かされます。 

参考文献:由緒書「高貴寺境内」から



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吉水神社、蔵王堂からロープウエイ駅へ至る門前町は、みやげ物店と飲食店が景観を遮断していて、満開の桜をゆっくり楽しめる場所がなかなかありません。

しかし、やっと下千本の桜を見ながら弁当を食べることができる休憩所を見つけました。下千本には、ソメイヨシノの株が多いようです。

ちょうど満開のヤマザクラの寿命は、100~120年といわれ、ソメイヨシノ(寿命80~100年)よりも樹高がはるかに高くなるようです。

また、周囲に樹木のない日当たりのよい場所では、数百年という長寿のヤマザクラ(一本桜)が日本各地に存在しています。

スギやヒノキなど植林の日陰は、ヤマザクラの寿命を縮めてしまうようです。ヤマザクラは、赤みの強い葉が花よりも先に出るのが特徴です。

ヤマザクラは、老木となると、この葉が目立たなくなり、満開時に樹冠一面が雪をかぶったように花が咲くようになるといいます。

さて、桜を十分堪能できたので、ロープウエイと並行する登山道を下り、吉野駅を目指します。

登山道を下りる途中、東の山を見ると、日当たりが良くなるように伐採された山の斜面に若いヤマザクラが植林されていました。

吉野発12時4分の近鉄特急に乗って大阪に戻りましたが、吉野の花見には早朝に行って昼に帰る、このルートがお勧めです。



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