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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



バリ島最終日の午後、時間があったのでリッツから車で1時間くらい走り、バリ島南東部サヌール地区にある部屋数390室というバリハイアットホテルを訪ねてみた。



空港から15分という便利な場所にあるハイアットは、ホテル棟に挟まれた広大な庭園が有名で、ホテル主催のガーデンツアーがあるほどである。



このホテルは、サヌールの街に近く、またホテルの周囲にも多くの店があるので、バリ島にある5つ星ホテルの中では比較的利便性の良い場所にある。



客室はリニューアルされているようであるが、かなり古いホテルで白人利用者の比率が高く、日本人比率1,2割と言われているのでハイアットに泊まれば海外に来たという雰囲気を味わえそうである。

ロビー



トイレに入って見ると、リッツやインターコンチとは見劣りする殺風景なトイレで、トイレブースは膝から下が外から見えるアメリカ式である。

しかし、大きく成長した巨大な熱帯の樹木が生い茂り、椰子の木にリスが飛び跳ねている庭園で1日のんびり過ごすとリゾート気分は満喫できそうである。



プールは、タイルが緑色をしているため、水が汚れているように見えてしまう難点があるが、スタイル抜群の白人女性が大勢ねそべっている光景はリゾートらしくて素晴らしい。



ホテルの東側が海となっており、浜にはペイントされたレジャーボートとその間に白いパラソルとソファーが置かれ、ゲストは日がな一日海を眺めて過ごすこともできそうである。



このホテルは、クラブルームでも1泊2人合わせて2万円チョットという格安料金なので、長期間の休暇が取れる白人に人気があるのではなかろうか。

ちなみにリッツのクラブルームは4万4千円以上、インターコンチネンタルのクラブルームは3万7千円以上という。



バリハイアットでは、早朝のビーチで日の出を眺めることができる一方、西向きのリッツとインターコンチでは夕日がインド洋に沈む景色が楽しめる。


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今回の旅行の目的の1つは、バリ島ウブドにロングステイしているテニス友達のFさんと合うことであった。

Fさん宅前の庭



前日に電話で連絡がついたFさんご夫妻は、わざわざマイカーを運転してリッツまで迎えにきてくれたので、その車でFさんがお住まいになっているウブドに向けてのドライブである。

途中にあるフォーシーズンズホテルで休憩



リッツのあるジンバラン地区から山の中にある芸術の街ウブドまでは、車で90分くらいかかり、かなりの道のりがあった。

Fさん宅前の駐車場



途中、片側2車線以上ある立派な道路もあったが、30分も走ると片側1車線で追い越しもままならない狭い道が延々と続いている。

Fさん宅のゲート



ウブドは、標高が600メートルある山の中の街というので、かなりの急勾配の道を想像していたら、意外とだらだらとした緩い勾配の道の連続であった。

プール越しのFさん宅



Fさんの話では、ウブドは標高が高いので朝晩毛布が欲しいくらいに冷え込むこともあるという。

また、ウブドにはロングステイしている日本人が多く、そのコミュニティの中でお互いが趣味を楽しむマイペースの生活をしているらしい。

菜園



Fさんの住宅は、1階がリビングダイニングキッチンとバストイレ、2階が寝室という瀟洒なビラであった。



住宅のすぐ傍には、同じ敷地にある他の2軒のビラと共同で使う綺麗なプールまであり、Fさんは毎朝そのプールで泳いでいるというので羨ましい。



プール横の敷地は、谷に落ち込んでいたが、谷とプールとの間の区画にはFさんの家庭菜園があり、そこで野菜作りをされていた。



家庭菜園の向こうには、ウブドを代表するライステラスと椰子畑が見えるので、菜園で野菜を作りながらリゾート気分が味わえる場所であった。



Fさん宅でマンゴスチン、ランプータン、パパイヤとマンゴージュースをご馳走になったが、完熟したフルーツはどれも新鮮で素晴らしい味であった。



最後にお土産のマンゴーまで頂き、Fさんの友人「ワヤン」君が運転するホンダシビックでジンバランまで送って貰うという、何から何までFさんにお世話になりっぱなしの一日であった。



Fさん、本当にお世話になりました。

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プタヌ川渓谷とライステラスが同時に眺めることのできるマヤウブドリゾート&スパは、ホテル棟客室が48室、ビラ棟60棟というウブド地区最大級の大型ホテルである。



駐車場から続く敷地を歩くとハス池があり、その真中の通路を通って階段を上ったあずまやがホテルロビーとなっている。



コンセルジュの日本人女性に、部屋を見せて欲しいと頼むと、気持ちよくホテル棟とビラ棟の客室を見せてくれた。

ビラ棟



ロビーから長い廊下を歩いいてホテル棟の客室に入ると、クイーンサイズのベッドが置かれた広い部屋がある。



バストイレは少し狭かったが、インターネットで予約すれば1泊236ドル(2万7千円朝食付き)くらいなのでビラ棟に較べれば安く泊まれ、高台にあるのでベランダからライステラスを眺めることができる。



渓谷ビューのビラ棟は、プール付きの部屋を見せて貰ったが、1泊381ドル(4万4千円朝食付き)、アマンダリホテルと較べればかなり安い設定である。



茅葺天井のビラ棟の中は、独特の草の匂いを嫌う人もいるというが、私にはどうということもない懐かしい匂いであった。



浴槽はアルミ製で、昼間であればバスタブの横に開いた窓から渓谷を見ながらゆっくり入浴できそうであった。



渓谷を眺めながら入るプライベートプールはかなり狭く、泳ぐというよりも水に浸かってノンビリ寛ぐという使い方をするのであろう。



ビラ棟からホテル棟まで歩いて帰る途中でホテルのパブリックプールを見たが、バリ特有のインフィニティエッジのプールは綺麗である。



眺望とプライバシーという面からはビラ棟が良いのであろうが、ホテルのパブリック施設への利便性や、セキュリティ面ではホテル棟の客室のほうが良さそうである。

ホテル棟からビラ棟への道



マヤウブドホテルのHPを見ると、3泊以上予約すれば空港まで無料送迎してもらえるので、地理不案内な客には有難いホテルである。


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信綱の死後、名門佐々木氏の力を恐れた北条氏は、大国である近江国を信綱の四人の息子に分割して継がせることとし、この時に北条義時の娘を母親とする3男の佐々木泰綱(1213~1276年)が宗家佐々木六角氏の祖となり、4男の佐々木氏信が分家の佐々木京極氏の祖となっている。

湖東平野



長男と次男が冷遇されたのは、母親が北条氏の出ではなかったためで、3男の泰綱の泰の文字は、叔父の北条泰時の「泰」、4男の佐々木氏信の氏は、従兄弟の北条時氏(1203~1230年)の「氏」を貰ったものであろう。

金剛輪寺のモミジ



有力守護である佐々木氏は当時、京都の館が六角東洞院と京極高辻に館を持っており、泰綱が六角、氏信が京極の館を相続したので六角と京極と分けて呼ばれるようになったという。

金剛輪寺のモミジ



1288年、祈祷で元軍を破った功績があったとして金剛輪寺に本堂を再興した佐々木六角頼綱は、泰綱の子息である。

金剛輪寺のモミジ



室町以降、南近江を領した六角氏は、近江の覇権をめぐって北近江の京極氏と、また応仁の乱では西軍に属して幕府とも対立したがしぶとく生き延び、戦国時代に六角定頼(1495~1552年)が登場する。

西明寺のモミジ



定頼は足利将軍家の準管領となり、観音寺城(安土城の東側にある山城)を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した人物である。

百済寺のモミジ



しかし後を継いだ六角義賢(承禎)は、1566年に浅井長政と戦って敗れたことで六角氏の勢力は陰りを見せはじめ、1568年には織田信長にも敗れて領地を失っている。

西明寺のモミジ



一方、信綱の4男であった氏信の京極氏の系統からは、足利尊氏の盟友として室町幕府の重鎮となった佐々木道誉(1296~1373年)が出ている。


西明寺のモミジ



京極氏は、佐々木道誉(高氏)の活躍で守護大名四職の一つとして繁栄したが、応仁の乱の後は家督争いにより衰退している。

西明寺のモミジ



しかし、佐々木道誉の孫に尼子氏の祖となる尼子高久が出て、そのひ孫の経久は、山陰を中心に勢力拡大に励み、孫の尼子晴久の時代には山陰八ヶ国を領する大大名にまでになっている。

西明寺の落ち葉



京極本家は京極高次、高知兄弟が戦国時代をかろうじて生き延び、両京極家ともに鎌倉以来の名門外様大名として徳川時代を生き延びて明治維新を迎え、華族に列せられている。


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湖東三山の紹介の中に出てきた佐々木氏は、宇多天皇(867~931年)から5代目となる源成頼(10世紀末~11世紀)が近江蒲生郡佐々木庄に下向、近江鉄道八日市駅近くの小脇に住んだ孫の経方以降、佐々木氏を名乗った事から始まるとされる。



平安期の1156年、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、佐々木秀義(1112~1184年)は天皇方の源義朝に属し勝利するが、1159年平治の乱で敗れ相模の渋谷重国のもとに落ち延びている。

百済寺の庭



1180年、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、秀義の子である定綱、経高、盛綱、高綱の4兄弟は頼朝軍に加わり平家と転戦、数々の武功を上げている。

金剛輪寺



佐々木秀義と渋谷重国の娘との間には、5男義清が生まれ、義清は後に出雲守に補任されているが、義清の次男泰清の子孫から隠岐守護の隠岐氏、出雲守護の塩谷氏が出ている。



1184年、平家攻撃における4男高綱と梶原景季の宇治川の先陣争いは有名で、兄弟は鎌倉幕府の成立後に本拠地近江を含めて17ヶ国もの守護へと補せられているので、佐々木軍が結束すれば執権の北条氏と十分対抗できる力があったようである。

百済寺の紅葉



1221年に後鳥羽上皇と幕府が争う承久の乱が起こると、宗家の定綱(1142~1205年)の長男広綱(1170頃~1221年)を始め一門の多くは上皇方へ味方して幕府と敵対しているので勝算があったのであろう。

しかし、執権北条義時の娘婿となっていた定綱の4男信綱(1181~1242年)は、幕府方義時の長男で従兄弟となる北条泰時(1183~1242年)に着き、佐々木氏一門の結束はならなかったようである。

百済寺の紅葉



佐々木信綱は、宇治川を挟んで対する官軍を攻め、北条泰時の長男時氏(1203~1230年)の援軍と共に急流の宇治川を渡り、この渡河が幕府軍勝利のきっかけとなっている。

佐々木信綱は、37年前に叔父高綱が果たした同じ宇治川で、佐々木氏として二人目の先陣を果たし、幕府軍勝利のきっかけと子孫の繁栄をつかんだのである。

百済寺



これにより乱の大勢は決し、官軍に属した長兄広綱は斬首となり、翌年信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江の地頭職、その後1232年に近江守となっている。

西明寺の南天



乱の後に程なく亡くなった北条義時のあと執権職となった北条泰時は、承久の乱の戦いでの戦友で従兄弟となる佐々木信綱を優遇したようで、信綱は佐々木氏の総領となって京都に近い大国近江全土を領有したのである。


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湖東三山の一番北に位置する西明寺は、寺伝によれば834年、三修上人の創建というので、1170年の歴史を有する寺院である。



「西明寺」の寺号は、三修上人が今の西明寺のある山の中の池から西に向けて紫の光がさし、薬師如来の像が現われたので、その姿を刻んで祀ったことからという。



836年には仁明天皇の勅願寺となり諸堂が建築され、現存する本堂と三重塔は、鎌倉時代初期の本格的な建築であり、この頃にはかなりの規模を有していたものと思われる。



1571年、比叡山延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、西明寺も焼き討ちされている。



しかし、山門近くの房舎を激しく燃やして全山焼失のように見せかけ、かなり奥に位置する本堂や三重塔を守ったと伝えられている。



恐らく、同じ配置であった金剛輪寺も同様にして本堂を守ったのであろう。



湖東三山の他の2寺と同様、総門は西方浄土に向いた西に面し、総門のすぐ左側には不断桜という秋に咲く珍しい桜の古木があり紅葉の季節なのに満開であった。



参道をさらに進むと左側に、蓬莱庭という池泉鑑賞式の庭園をもつ本坊があり、ここにも不断桜が植えられていて、これも小さな花が満開であった。



また、庭園の入り口には、緑、黄色、赤と色が変化するモミジの古木があり、色のコントラストが美しい。



さらに長い石段を上った先には、杮葺きの二天門があるが、この門には1407年建立の墨書が残っていて、重要文化財に指定されている。



本堂は、天台仏堂の代表作として国宝第一号に指定され、さらに本堂の南側に建つ三重塔も鎌倉時代中期~後期の建築とされる古いもので国宝に指定されている。



先日旅行したバリ島ウブドの熱帯雨林も綺麗であったが、日本の紅葉のほうが上であると今回つくづく思った。

本堂(観光客の視線の先は3重塔)



それにしても晩秋の湖東三山は、晴れていたかと思うとすぐ雨という実に不安定な天候で、カメラの感度を上げて撮ったらざらついた画像となってしまった。


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百済寺の北に位置する金剛輪寺は、奈良時代の僧行基(668~749年)の開創と伝えられていて、行基のことは以前久米田池の開削のことで紹介したことがある。

 

行基がこの地に寺を建立したのは、東大寺大仏造営の勧進事業の直前、737年から741年頃のこととされているので、金剛輪寺は建立以来1260年以上の歴史を有していることとなる。



創建から100年以上を経た851年頃、天台宗の高僧・慈覚大師、円仁によって再興されたと伝えられ、金剛輪寺では円仁を中興の祖としているという。



またこの地区は、かつて秦川村と呼ばれていたことから、湖東を開墾に来た渡来系氏族である秦氏と関係があるとみられている。



1183年には、源義経が木曽義仲追討に際して金剛輪寺に武運必勝を祈願して太刀を寄進しているので当時も湖東を代表する大寺院であったようである。



鎌倉幕府を震撼させた元寇の際には、近江守護の佐々木頼綱が元軍降伏の祈祷をあげ、元軍が大敗したお礼にと1288年に荒れた本堂を再興したという。



今も本堂内にある須弥壇の金具に弘安11年(1288年)の銘が残り、築後719年を経た本堂は国宝に指定されている。



1573年、織田信長の兵火で百済寺が全焼したときに金剛輪寺も被害を受けているが、現存の本堂、三重塔は寺僧の懸命の尽力で焼失をまぬがれたらしい。



聖観音という大きな提灯がある黒門から参道に入り、少し歩いた左側が金剛輪寺の本坊明寿院である。



明寿院の中には桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式庭園があり、各種のモミジがさまざまな色に紅葉していて綺麗である。



明寿院から両側に小さな地蔵の置かれた参道を数百メートル上った地点に重要文化財の二天門、国宝の本堂、重要文化財の三重塔がある。

本堂前のモミジ



二天門は、建築様式から室町時代末期(16世紀初頭)の建築と推定され、元来は2階建て門だったが、近世に2階部分が取り払われたようである。



三重塔は、本堂の北側の一段高い場所に建っていて、寺伝では1246年の建立というが、様式的には南北朝時代~室町時代の建築とみられ、現在の塔は1975年~1978年に復元されたものである。



それにしても晩秋の湖東三山は、晴れていたかと思うとすぐ雨という実に不安定な天候であったので、折角撮った写真が醜いものとなってしまった。


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だいぶ寒くなってきた秋の休日、近江鉄道八日市駅からバスに乗り換え、紅葉で有名な湖東三山を百済寺、金剛輪寺、西明寺の順に巡ってみた。

八日市駅



琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する百済寺は、606年聖徳太子の建立というので1400年以上の歴史を誇る古い寺院で、かつては湖東三山最大規模の寺院であったようである。



百済寺の寺伝によれば、湖東の開発に従事していた渡来系氏族が、仏教伝来(6世紀中期)後かなり早い時期に800キロ西方にある故国の方向に沈む夕日を望む高台であるこの地に氏寺を開創したという。



平安時代には、比叡山延暦寺の勢力下に入って、天台宗の寺院となり、中世以降もかなりの規模をもっていたようであるが、室町末期の1498年と1503年の兵火で焼失している。

仁王門



焼失後すぐに再建されたことは、1565年から布教のために京都に滞在していた宣教師ルイス・フロイスが百済寺を訪問した記録が残っているので明らかであるという。

本堂



ルイス・フロイスが「地上の天国千坊」と書いた百済寺の僧坊跡は、今も参道の両側に延々とある300以上の区画によってそれと判るが、当時ここで暮らしていた僧の数は数千人を下らなかったようである。



1573年、百済寺の坊と本堂は、織田信長の焼き討ちで焼け、本堂、仏像、寺宝、記録類なども殆ど焼失している。



織田信長は、近江の守護であった佐々木六角氏と近江屈指の宗教勢力であった百済寺を焼き討ちして近江を占領、百済寺にあった無数の石垣を14キロ西の安土まで運び、6年後の1579年には安土城が完成するのである。



門を入り参道を進むと本坊の喜見院があり、中には喜見望郷庭という西に湖東平野から琵琶湖、比叡山を望む庭園がある。



喜見院から長い石段を上ったところに仁王門、さらに上ったところに本堂があり、その裏手となる旧本堂の南には五重塔が建っていたようである。



重要文化財に指定されている檜皮葺きの本堂は、江戸時代初期である1650年の再興で、中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築である。



それにしても晩秋の湖東三山は、晴れていたかと思うとすぐ雨という実に不安定な天候なのでテブレした失敗写真が一杯出てしまった。


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ウブドの街から車で10分くらい離れたアユン川の渓谷沿い、フォーシーズンズサヤンからさらに車で5分くらい走った場所にあるホテルがアマンダリで、入り口に小さく「amandari」と看板が出ている。

エントランス



シンガポールに本拠を置くアマングループが、1989年に開業したホテルの客室は、すべてビラタイプ、32室だけというので、フォーシーズンよりも小さな隠れ家ホテルである。

レストラン



32室の客室に対して、200名を超えるスタッフが常駐し、ゲストを贅沢な思いにさせるというが、フォーシーズンズのロビーラウンジのような広いパブリックな場所が見当たらない。



インフィニティエッジのメインプールも、ホテルの規模に合わせてこじんまりとしていたが、すべての客室にプライベートプールがあるので、ここで泳ぐゲストは少ないのであろう。



日本人の女性従業員に客室を1棟見せてもらったが、バリの村落をコンセプトに作られた茅葺き屋根の客室は、オープンから18年が経過しているのに古さを感じさせないメンテナンスがされていた。



ビラ棟は、谷側以外の3方が高い塀でかこまれていて、ビラの中庭から入った部屋のインテリアは、バリの高雅さと、優雅に安らげる空間を目指したという。



部屋の真ん中にはクイーンサイズのベッドが置いてあったが、部屋が広いのでベッドの周囲に広い空間があり、4人が座れるテーブルの上にウエルカムフルーツが置いてある。



大理石でできたバスタブは、屋外露天風呂タイプとなっているので、夜は星を眺めながらの入浴ができそうであった。



しかし、浴室の横にある木製カウンターの洗面台は、少し古くなっていたので、この部分はリノベーションが必要であろう。



部屋の窓から見えるアユン川の対岸は、日本では見られない熱帯雨林で、客室の谷側にあるプラーベートプールの前面すべてが森という絶景である。



但し、この部屋は税サービス込みで1泊1090USドル、かなり高価なレートなので、気軽に泊まるというわけにはゆかない。


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ウブドの郊外にあるフォーシーズンリゾート・アト・サヤン(フォーシーズンズサヤン)の入り口には、小さな看板があるだけだったので、それを見逃した我々は最初通り過ぎてしまった。



つまり、フォーシーズンズサヤンとはわざと目立たないように建てられた「隠れ家」というコンセプトに徹したホテルなのである。

両側が竹林となっているアプローチ道路



狭くて長いアプローチ道路を進むとセキュリティゲートがあり、ガードマンの厳重なチェックの後でかなりの急勾配の下り坂を駐車場まで進み、広い駐車場に車を止める。

駐車場からのブリッジ



そこから熱帯植物の花が咲き乱れる急な道を下ると、突然谷に架かった木橋が出現するのである。



そこを渡ると360度のパノラマ視界が広がる直径4、50メートルもあろうかと思われる円形のハス池の上に出る。



バリ島ウブドまでやってきて、屋上に巨大な水盤を乗せたダイナミックなデザインのホテルに出あってビックリしたが、どことなく安藤忠雄氏の作品と似ていると思った。



小魚が泳ぐハス池の正面は、アユン川が流れる渓谷となっていて涼しげな椰子が生い茂った熱帯雨林である。



ハス池から階段を下りると、視界が360度開いたオープンエアーの円形ロビーである。



そのロビーにあるバーでビンタンビールを注文し、渓谷越しの熱帯雨林を見ながら、ゆったりとしたひと時をすごした。



ホテルの客室は、テラス・スイート13室、サヤン・スイート5室で計18室、ほかにビラ棟が28棟合計46という静かな小規模ホテルで、そのためかホテルのゲストには全く出会わなかった。

ロビー奥の清潔なトイレ



渓谷の斜面に点在しているビラタイプの客室を見学させてくれるというので、ロビーから電動カートで移動する。

ビラ入り口



道路から下がった敷地にあるビラは、1ベッドルーム、ガーデンビューの部屋で、外にはプライベートプールが付いていた。



ゲストはこの部屋に泊まり、川のせせらぎを聞きながら渓谷を渡る風に吹かれて一日をゆったりと過ごすのである。



宿泊料は、リバーフロントより安い850米ドル、これほど「贅沢の極み」という言葉がピッタリする場所は、なかなか無いのではなかろうか。




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ウブドは、1930年代に移り住んできた欧米の芸術家の影響を受け、絵画、木彫り、石彫り、銀細工など「芸術のメッカ」として知られるようになったバリ島山中の村である。

ウブドの交差点



ヒンズー教の影響を受けた絵画や彫刻は、バリ島独特のエキゾチックなものが多く、今も世界中から多くの人々を引き付けている。



また伝統音楽や舞踊なども盛んに行われており、ウブドはバリ島における芸術・芸能の中心地として、疲れた人々の心を癒す場所として世界に広く知られている村である。

有名なライステラスの風景



バリ島南部のリゾート地区からウブドまでは、タクシーで1時間程度の距離であるが、ウブドにはメーター制のタクシーが走っていないので、日帰りであればタクシーを貸切にしてウブド内で待っていてもらう人が多いという。

クタからウブドへの道にはバイクが多い



ウブドに宿泊して、片道だけ車を使う場合であれば、ウブドのホテルで車をチャーターするか、中心街に多い白タクを利用することとなる。



いつのまにか増えてしまった白タク業界が、メーター制タクシー業者をバリ島有数の観光地となったウブドで営業させない実力を持ってしまったようである。

ウブドの周囲は、標高600メートルの高原となっていて、そこを川が並行していくつも流れているために渓谷がいたるところにあり、川越しに対岸の雄大な熱帯雨林を眺めることができる。



高級なホテルは、その渓谷の標高差を巧みに使い、プライバシーに配慮したレイアウトとなっているので、1泊10万円の部屋代を苦も無く払える金持ちに隠れ家として利用されているようである。



また渓谷の斜面には、かつて日本各地でも見られた棚田(ライステラス)が標高線に沿って細かく作られていて、日本農業のルーツはこの辺りにあるのではなかろうか。



又、川から離れた平地では、稲田が遠くの椰子の森まで広がり、地上のグリーンと空のブルーのコントラストが美しい。



ウブドの中心部は、絵画や彫刻のショップやカフェなど観光客用の店が軒を連ねているが、一歩路地に入り込むと、人々は昔ながらのヒンズー教に密着した生活をしているようである。

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往時の財界人には、中之島図書館(1904年、1922年増築)を寄贈した住友友純、大阪市中央公会堂(1918年)を100万円で寄付した岩本栄之助、豊郷小学校(1937年)を60万円で寄付した丸紅専務の古川鉄次郎など私財を投じて公共建築を造った人が多くいる。

大阪市中央公会堂



三休橋筋にある綿業倶楽部ビル(1931年完成)も、当時の東洋紡績専務、岡常夫氏の遺族から贈られた100万円と関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当か)を基にして建設されている。

現在の綿業倶楽部ビル



当時、渡辺節建築事務所にいた村野藤吾が設計を担当した綿業倶楽部ビルは、1945年の大空襲を受けているが、窓ガラスに耐火ガラスを使用していたためか無傷であったという。

綿業倶楽部ビルの入り口



民間の建物でありながら、最先端の設備の導入がなされ、贅沢な造作になっているのは、1920年代末期の大阪綿業各社の業績が良かったせいかも知れない。

夜の綿業倶楽部ビル



当時の日本を代表する施設として国際会議場としても利用され、1932年にはリットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。

夜の綿業会館ビルの入り口(街灯はガス灯)



この綿業会館ビルの前の三休橋筋は、北向き一方通行の車道の一部が歩道として改修されたために歩行者が歩き安い街路となっている。

歩道



さらにその歩道には、大阪ガスと「うずの会(代表:堺屋太一氏)」から寄贈された暖かそうな炎の光を放つガス灯13基が設置されている。

ガス灯と綿業会館ビル



工業デザイナー喜多俊之氏がデザインしたガス灯は、2年後の歩道整備完了までに合計57基が設置されることとなっているので、これからが楽しみである。



本町から三休橋筋を北上して栴檀木橋までの間には、明治、大正、昭和初期の名建築が戦災やバブル崩壊にも耐えて今も多く残っているのが奇跡のようである。


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江戸時代の初期、1625年に開削された長堀川の川幅は、平均38メートルもあったというが、1964年に埋め立てられて現在の長堀通りとなっている。

長堀通りと交差する三休橋筋(正面)



江戸時代、長堀川に架けられた橋は、当初丸太を組合せた上に板を敷いた粗末な橋であったために、橋を破損する恐れのある荷車等は引いて渡る事を禁止し、橋の袂で荷解きして手で運んだらしい。

今の長堀通



そのために、明暦年間(1655~58年頃)に架けられていた長堀橋・中橋・心斎橋の三橋から人通りを分散させて三つの橋を休める新しい橋を架けることとし、その橋を三休橋と名づけたという。

1905年の大阪地図にある長堀川の橋



さらに明治後期の1908年、医師の藤中泰によって藤中橋が中橋と長堀橋との間に架けられている。

1924年に発行された大阪パノラマ地図にある旧長堀川と橋



三休橋は、心斎橋から2筋東側にあり、その三休橋筋をまっすぐ北上すると本町通り、土佐堀通りを横断して栴檀木橋から中之島中央公会堂につき当たる。

中央公会堂



三休橋筋は、1905年の地図にある通り心斎橋筋と同じ狭い道路であったが、御堂筋と堺筋の中間にある道路であったために、1929年に拡張されて今の広さとなったという。

三休橋筋



本町から北側は栴檀木橋筋とも呼ばれていたこともあったらしいが、長い名前が嫌われたのかいつしか三休橋筋と呼ばれるようになったらしい。

栴檀木橋越しの中央公会堂



三休橋筋と本町通りの交差点北東角には、大手商社丸紅大阪本社ビルがあり、この辺りは戦前、戦後を通じて日本を代表する繊維会社街があり、丸紅のすぐ北側には重要文化財に指定されている綿業倶楽部ビル(1931年完成)が今も当時のまま残っている。

1936年に発行された大阪地図にある綿業クラブ



現在、本町通りから北側の三休橋筋の歩道拡張改修工事が進んでいて、これに合わせて街路樹のトウカエデはすべて抜かれ、約1キロの区間が栴檀木橋にちなむセンダンの木に植え換えられるという。

三休橋筋のトウカエデ




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リッツカールトンバリから空港に行く途中、必ず大きなリゾートホテルの横を通るが、そこがインターコンチネンタルホテルバリ(インターコンチ)である。

エントランスロビー



インターコンチは空港に近く、このホテルのクラブルームの宿泊客は、入国審査をホテル係員が代行してくれるので空港のラウンジで待てば入国できるサービスがあるという。

ロビー



またバリ島の中心街クタにも近いのでリッツよりも足の便が良いホテルである。

プール



ホテル敷地面積38ヘクタール、418室もあるうちのスタンダードルームは42平米と、リッツの48平米よりも若干狭いが、日本のシティホテルに較べればゆったりとしている。

中庭



ホテルエントランスは、リッツと違って客を圧倒するようなオープンエアーの巨大空間で、ロビーに近いトイレに入ると、リッツよりも少しグレードは落ちるが、清潔なトイレであった。

石張りのトイレ



2階にあるエントランスロビーから庭に下りてみると、広い庭の両側が4階建てガーデンビューの客室棟である。



77ヘクタールもあるリッツの広大な庭に較べると38ヘクタールは狭いが、日本やハワイのリゾートホテルの規模からすればインターコンチの庭は広大である。



エントランス手前の庭には池があり、その先には椰子の木に囲まれたプール、さらにその先がビーチに続くという配置となっていた。



プールとビーチの間にはテント張りの小さなバレがあり、白人の女性が裸でうつぶせになって気持ちよさそうにマッサージを受けているのが丸見えである。

このホテルには、断崖の上のリッツと違って敷地内に500メートルも続く白砂のプライベートビーチがある。



しかしインド洋は波が荒いせいかビーチで泳ぐ人や遊ぶ人は少なく、その代わりにプールの周りには大勢の白人が寝そべっていた。



日本人客が6割というリッツとくらべると、インターコンチは白人の割合が多いようであったが、リッツよりも少しだけ安く、空港からも近いホテルなので長期のバカンスを楽しむ客が多いのかも知れない。


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ブルガリリゾートのデザインは、イタリアのアントニオ・チッテリオが手掛け、使用されている家具やファブリックなども全てがオリジナルで、アメニティやバスローブ・ハンガー・ミネラルウォーターにいたるまでBVLGARI製という。

カートに乗ったカップル



このホテルの特長は、59室すべてが戸建てのビラタイプの部屋となっていて、1ベッドルームの一番安い部屋で宿泊料金が1440米ドル(17万円、税金サービス料込み)、最高ランクの部屋は1泊が6000ドル(70万円)というので凄い価格設定である。

レストラン



レセプション棟は、敷地の中で最も高い海抜150メートルの位置にあり、そこから海に向かって広がる急な斜面にへばりつくようにビラ棟が点在しているので、ホテル内では急傾斜の道路を電動カートを使って移動するようになっている。



折角来たのでボーイに頼んでショップまでカートで連れて行って貰ったが、急傾斜の道を猛スピードで下るカートはまるでジェットコースターのようである。



ショップ前の広場で下ろして貰い、2軒の店に入ってみるとアートショップは普通のみやげ物と変わらないし、ブルガリショップの方は高価な宝飾品がほんの少し置いてあるだけで、香水や石鹸などは置いてなかった。

ショップ前



また有名なブルガリリゾートオリジナルウオッチは、丁度品切れであったが、欠品が出るほど沢山売れているのであろうか。

ショップ棟



敷地内には2軒のレストラン、オーシャンフロントのスパ、バーがあるというが、いずれもバリ島の中では一番高価な店となっているようで、カップルでスパを受けると最低でも10万円はかかるようである。

レストラン前の庭



インフィニティエッジのメインプールは、海との距離が近いのでプールとインド洋との境界が綺麗にHPに載っているが、ちらっと見ただけで写真は撮らなかった。

ビラ棟



確かに一度は見ておいて損は無いかも知れないが、バリ島の中心部クタからタクシーで40分以上、ウブドからは2時間ほどかかるので、宿泊客は気軽に外出するというわけにはゆかない。



ビラ棟に滞在し、終日ホテルの敷地内でひっそりとバカンスを楽しむ、隠れ家のような使い方をするカップルには最高のホテルであろうが、我々庶民には無縁のホテルであった。




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