野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



相国寺の法堂の東北、宗務本所の隣に創建600年記念事業の一環として,1984年に建てられた承天閣美術館の入り口がある。



しかし、600年という歴史のスパンがすごい!

宗務本所



現在、開基「足利義満」600年忌の記念事業として増改築にかかっており、来年5月全館オープンの予定であるが、一部が新装オープンしているというので訪ねてみた。



入り口から承天閣美術館に至る通路から見える庭園は、相国寺裏方丈庭園と呼ばれる京都を代表する京都市指定名勝である。



承天閣美術館の西側はまだ工事中であるが、改装工事が終わった東側の展示室は新築同様の素晴らしい美術館になっていた。

この美術館の特長は入り口に下足場所があり、そこで靴を脱いでふかふかの絨毯を歩いて鑑賞できるようになっていることである。



この絨毯が実に心地よく、自宅に戻ったようなリラックスした気分で館内を歩くことができるので、京都を歩きつかれた観光客の足には有り難い場所である。

又、ロビーにはソファーが置いてあるので美術館を鑑賞した後で、相国寺裏方丈庭園を見ながらゆっくりと寛げるようになっているので観光客には優しい美術館である。



ショップには伊藤若冲の作品をプリントした手ぬぐい、書類ホルダー、土佐光起のマウスパッドなどがあり、いずれもここでしか手に入らない品物なので、外人さんへのお土産にはもってこいであろう。



ちなみに伊藤若冲の「若冲」の号は、禅の師であった、相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号で、若冲から寄進された多くの作品が今も承天閣美術館には所蔵されているようである。

若冲の鶏図



館内のトイレは今回改装されたようで、最近オープンした国立国際美術館にも無かったウオッシュレットまで完備している。



有名観光地に和風トイレしかないのでは、外人や足の悪い人、高齢者にとってやさしい観光都市とは言えないというのが私の持論であるが、その点ではこの承天閣美術館のトイレは満点であった。


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臨済宗相国寺派大本山の相国寺は京都御所の北、同志社大学と同志社女子大学の間の路地をさらに北に入ったところにある。

京阪電鉄の終点、出町柳から今出川通りを西に約1km歩くと北に同志社女子大、南に御所の今出川御門が見えて来る。



その御門の前の信号をまっすぐ北に入ると、「万年山相国承天禅寺」の総門が見えてくる。



本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石で、足利将軍家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。

参道



相国寺は五山文学の中心地でもあり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身で、現在観光名所として著名な鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣は、相国寺の付属寺院「塔頭」である。

最盛期には東は寺町通りから西の大宮通りまで1500m、南は一条通りから北の上御霊神社との境までの1000mが相国寺の寺域であったらしい。



室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを1382年に発願し着工され10年後の1392年竣工しているが、2年後には火災で全焼、さらに足利義満没後の1425年にも再度全焼している。

鐘楼



応仁元年1467年には応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失し、1551年には管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて、4回目の焼失があったという。

1584年、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進め、現存する重要文化財の法堂(はっとう)はこの時期に建立されている。



相国寺の場所が市街地の中心にあるせいか、京都市中で火災がおこるたびに類焼が続き、1620年と1788年の火災では法堂以外のほとんどの堂宇を焼失したという。

法堂



応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、かつての土台だけが残っており、現存する法堂以外の伽藍は19世紀はじめの文化年間の再建である。


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京都四条通の祇園商店街の中に、関東風天ぷらと銘打った天周という間口の狭い店がある。



1年に数回テレビ取材がある人気店で、客席はカウンター15席と5人掛けのテーブル席の合計20席。

昼頃、天周に到着すると、路地のようになった場所に行列ができていたが、行列は意外とスイスイ店内に案内されて行く。



我々もじきに店内の待合椅子に案内されたが、4種類の天丼だけしかメニューに無いので客の回転が速いのであろう。

少し待って、天ぷら鍋の前のカクンター席に案内されたので、掻き揚げ丼と穴子丼を注文する。

カウンター席に座って見ていると、板前さんがネタの穴子にコロモを付けて大鍋で揚げる動作を繰り返していたが、その流れるような手つきはまさに職人の技である。

入り口から続く天周の路地



てんぷら鍋は2種類あり、ガスの炎を見ると職人の左が高温、右が低温の鍋となっている。

名物の掻き揚げは、さいの目に切ったサツマイモ等の野菜の入ったネタを、お椀に入れてかき混ぜ、低温の鍋に移してじっくりと時間をかけて揚げ、途中その上にエビを乗せたり、裏返したりで手の休む暇が無い。

一度低温で揚がった掻き揚げは、高温の鍋でカリッとキツネ色になるまで再び揚げられて、そのあと少し冷ましてから大きな丼に入れて出してくれる。

掻き揚げの大きさは丼からはみ出すくらいデカく、厚さが3cmもあるのでビックリするが、天ツユが半分だけかかっている。



このツユの染みこみ具合が良く、ツユに水アメを加えることで粘り気が増し、天ぷらにゆっくりとなじんでいくようである。

掻き揚げのツユがかかっていない半分にはテーブルに載っている抹茶塩やカレー塩をお好みでつけていただくことになる。

店頭のメニュー(この日掻き揚げは売り切れ)



低温、高温の鍋で2度揚げされたせいか、ゴマ油の質が良いのか、コロモに秘訣があるのか職人の技か、とにかくカリッと揚げられていて美味い。

兵庫県高砂産という穴子もサクサク、すっきり、切れ味よく揚がっていて、それが3本も載って1000円とは、場所が京都の祇園であることを思えばかなりリーズナブルである。



席に座る前に頼んでおけば、カリッと揚げられた「てんかす」を無料で分けて貰えることは、あまり知られていないようである。


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裏山の小高い丘にある夕佳亭(せっかてい) と呼ばれる茶室は、明治初年に焼失したため、現在の建物は明治7年に再建されたもので、平成9年にも解体修理が行われている。



ワビとサビの凝縮された茶室、夕佳亭の三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられているという。



足利時代以前、この地には西園寺(藤原)公経によって1224年に「西園寺」が建立され、さらに西園寺家の山荘もあり、公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。

現在の鹿苑寺の案内図



西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。

この地にあった西園寺も次第に荒れ果てていったが、西園寺建立の173年後となる1397年、足利義満が西園寺を譲り受け、荒れた山荘を改築と新築によって一新している。

茶室のような売店



義満が邸宅とした「北山殿」の規模は御所に匹敵し、義満はここで一切の政務を行ったというので、当時の室町幕府は鹿苑寺のあるこの地にあったということになる。

その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、この北山殿にあって亡くなるまで政務を見たらしい。

裏の丘から見る金閣



義満の死後、遺言通り夢想国師を開山(初代の住職)とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字を取り、鹿苑寺と名付けられている。

義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、鹿苑寺と名付けられたが、1467年から10年間続いた応仁の乱の時に西軍の陣となったため建築物の多くが焼失している。



鹿苑寺金閣は戦前から国宝に指定されていたが、1950年、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失している。

等持院にある義満の木造



現存する金閣は1955年に再建されたが、終戦直後の再建であったためか次第に金箔が色褪せしてきたので金箔の貼り直しが行われ、1987年10月、金閣は新たに甦っている。



入り口の右手にある大書院は江戸中期の建築で伊藤若冲の障壁画で知られていたが、保存上の問題から現在は相国寺の承天閣美術館に移管されている。


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ある秋の平日、京都駅から金閣寺行きのバスに乗り、7条通から西大路通を北上して9時少し過ぎに金閣寺道のバス停に到着した。

到着した金閣寺道から西に少し歩くと、警備員がいる金閣寺の入り口、黒門が見えてくる。



その入り口から総門を潜り、山門の手前の拝観チケット売り場までは見事な庭があり、未だ紅葉していないモミジの葉が美しい。



しかし公開時間の9時を少し回っただけなのに、早くも外人や修学旅行等の団体拝観客が大勢行列していたのにはビックリした。



さすがに1994年に「ユネスコ世界文化遺産」に登録された京都を代表する寺院、鹿苑寺金閣である。

庫裏



築地塀の山門を入ったところで拝観券代わりに渡された家内安全の御札を見せて境内に入ると、すぐに金閣を水面に映す池が目に飛び込んでくる。



この鏡湖池(きょうこち)の周りは池泉回遊式庭園となっていて国の特別史跡、特別名勝に指定されている。



鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、当時寄進した大名にちなむ畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配され、これこそ金閣と共に日本が誇る世界文化遺産、日本庭園の中の日本庭園である。

早朝から観光にやってきた多くの外国人の皆さん興奮気味で、ビューティフルを連発している。



通称「金閣寺」と呼ばれる由来となった金閣 は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する。

金閣は初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。



初層は寝殿造風、二層は住宅風武家造、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し3様式が見事に調和している。

柔らかな曲線を描く屋根は、サワラの木の薄い板を何枚も重ねた「こけら葺き」で上には鳳凰が飾られている。



この屋根は2003年春に葺き替えられてからまだ日が浅いせいか非常に美しい。


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大阪国際美術館で小川信治の個展「干渉する世界」と1990年以降のヨーロッパ、アメリカの絵画展「エッセンシャルペインティング」をやっていたので、ある秋の休日にでかけて行った。

小川の個展の入場料は420円であったが、同時開催の「エッセンシャルペインティング」のチケット代840円を支払えば両方の展示を鑑賞できるという。



1959年山口県で生まれた小川信治は、1983年三重大学教育学部美術科を卒業している。

精緻な描写力で一貫して、見慣れた情景を改変して、私たちが普段見ているものとは別の世界の可能性を探ってきた画家と紹介されていたので、どういう作品を見せて貰えるのか興味深々の展示会である。

展示会場へ下りるエスカレーター



作品が展示されている国立国際美術館地下2階に入ると、一瞬モノクロ写真の展示会場に入り込んだのかと錯覚してしまった。

しかし作品に近づいて良く見ると、すべてが鉛筆で精密に描かれた、写真と見紛うような小川信治作品であった。

人物や建物などを二つ並べて描き込「PERFECT WORLD」シリーズ。

ピサ2



一つの風景が層状に組み換えられて別の風景を作り上げる「干渉世界」など、油彩・鉛筆画・映像の三つのメディアで、小川の作品は展開してきたという。

モアレの風景



ダ・ヴィンチやフェルメールといった西洋古典絵画からイメージの中心となる人物を抜き去って描き直した「WITHOUT YOU」シリーズ。

牛乳を注ぐ女




フェルメールのオリジナル



ラス・メニーナス



ベラスケスのオリジナル



今回の個展では、「WITHOUT YOU」シリーズから新作「モアレの風景」まで、約50点の作品を通して、複数の世界が互いに干渉するモアレとしての「多世界」を展示しているというが、小川の精緻な描写力は見事で一見の価値がある。


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独立行政法人国立美術館は東京に東京国立近代美術館、国立西洋美術館、国立新美術館の3館、京都に京都国立近代美術館、大阪に国立国際美術館と合計5館の美術館を保有、運営している。



国立国際美術館は、大阪万国博の時に使われた美術館を活用し1977年、国内外の現代美術を中心とした作品を収集・保管・展示し、関連する調査研究及び事業を行うことを目的として開館したという。

その美術館が30余年を経過して、施設が老朽化してきたため中之島に完全地下型の美術館が新築され、今から2年前に移転している。



地下鉄四つ橋線の肥後橋駅から土佐堀通りを西に向かい、土佐堀川に架かる筑前橋を北に渡るとそこが国立国際美術館であった。



美術館の敷地は楕円形の外観がユニークな大阪市立科学館の北東側にあり、美術館の本体が地下に建設されているので地上には奇妙な形に曲げられたステンレス鋼材とガラスでできた狭いエントランスしかないのでチョット迷ってしまう。



建物は、竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージした外観デザインとしたとHPにあるが、この地上部分を見て竹のイメージが全く湧いてこなかったのは私だけであろうか。

エントランスロビーのガラス天井から関電本社ビルが見える



人と美術との交流を生み出すパブリック・ゾーンを設け、より快適な鑑賞の場を提供できるよう工夫したとHPに書かれている通り、エスカレーターで下りた地下1階には、やたらに広いエントランスホールを挟んでミュージアムショップとレストランがあった。



しかし、ミュージアムショップも独立行政法人(公務員)による武士の商法で運営しているせいか、魅力のある商品は少なく接客もぎこちない。

地下1階の受付でチケットを求め、地下2階と地下3階にある展示室までエスカレーターで下りるのであるが、エスカレーターのある空間は吹き抜けとなっているので上空にあるガラスとステンレスの骨組アートを眺めることができる。



地下2階の常設展の入り口手前にあるトイレに入ったら、ガラストップの洗面台は豪華であったが、便器にウオッシュレットが付いていない。



高い入場料を取る新しい国立美術館であればこそ、ウオッシュレットくらいはぜひ設置して頂きたいものである。


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翌朝はウエルネスパークの中の五色町体験実習館「浜千鳥」で18名同時に朝食を摂ることになり、炊きたて「ごはん」と焼き魚、佃煮の朝ご飯を頂く。



朝ご飯が済んで到着したテニスコートは、「浜千鳥」から車で5分ほど降りた場所にあり、オムニコートが6面、 コートサイドには休憩室、女子更衣室、男女便所のクラブハウスが完備している。



お揃いのユニホーム姿で記念撮影をした後、18人がABC3チームに分かれていよいよメインイベントのテニス試合のスタートである。

実はここだけの話であるが、私はテニスは好きなのに勝ちたいという意欲があまり無く、体力を消耗する強いサーブは打ちたくないのである。



しかし、それではダブルスのパートナーに申し訳ないので、今回は不本意ながら真剣にサーブを打つことにした。

真剣と言っても大したサーブを打った訳ではないのに、4ゲーム先取の試合結果は3勝1敗とパートナーのお陰で出来過ぎの成績であった。

「浜千鳥」に戻って風呂で汗を流し、レストランで生ビールと大きな煮アナゴが2本乗ったあなご丼の昼ごはんを頂きながらABCチームの成績発表を聞き流す。

浜千鳥前の展望



すると私のAチームがダントツの1位という思わぬ事態となっていたので、戸惑いながらも賞品の玉ねぎを頂戴した。



帰路に立ち寄った「たこせんべいの里」は各種せんべいの試食ができる上、奥には無料コーヒーサーバーと休憩コーナーが有るので買い物をしなくても、ここでゆっくりと休憩ができる穴場であった。



「たこせんべいの里」を出て津名港の南海淡路ラインのフェリー乗り場に乗船時間の20分前に到着すると、すでに駐車場は車で一杯である。



乗用車80台という積載量があるフェリーは、満車状態であったせいか最後の車が乗るまでかなりの時間がかかり、定時から15分遅れての出航となった。



泉佐野港~津名港間を一日10往復、90分で結ぶ南海淡路ラインフェリー「せんしゅう」は全長85m、幅14,5m、総トン数2000トン、旅客定員228名という大型船である。



船の航海速力18,5ノット、エンジンは出力8千馬力もあり 、機関の制御装置を機関監視室で遠隔制御することのできる最新の機関室無人化船らしい。



泉佐野港入港直前に、関空連絡橋の下を通過したが、橋げたとマストがあわや衝突というくらいに接近しスリル満点であった。


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途中で見た花桟敷のコスモス



夜はウエルネスパークの中の五色温泉でテニスの汗を流し、のんびりと寛いだ後でBBQ(バーベキュー)テラスで夕食である。

写真の左がGOGOドームの屋根、中央が洋らん温室、右が温泉とBBQテラス



BBQの後、ロッジに戻って宴会となったが、酒に弱い私は密かに宴会を抜け出し、早めに別棟ロッジの奥の部屋で寝床に入った。



静かなロッジを一人占領して幸せな眠りに就こうとすると、突然女性軍が私のロッジに乱入し、目を覚まして宴会に戻れと執拗に迫って来るではないか。



に襲われた時のように死んだふり、いや寝たふりを続けるに限ると、狸寝入りを続け、やっと女性軍の虎口を脱することができたのである。

ロッジには風呂もある



私以外の男性は全員夜中まで女性軍につきあい、酒が無くなるまで寝させて貰えなかったらしいが、全く女性軍のパワーは恐るべしである。

ウエルネスパークの中の洋らん温室



今回、テニス合宿の男性参加者11名の年齢は68歳から51歳まで、平均年齢は58歳というベテラン集団であったが、夜は女性に牛耳られていたようである。

女性軍7名の平均年齢は敢えて伏せておくが、夫婦が3組参加していたので、大体想像して頂けるのではなかろうか。

温室内部



それにしても女性軍はなぜあれほど元気なのであろうか。

やっと静かになった深夜、隣に寝ている男性メンバーの一人がオーイ! オーイ!と2回大声で呼ぶので、もう夜が明けたかと目を覚ますと、窓の外はまだ真っ暗である。

コスモスの向こうが五色温泉



本人から寝言のクセがあると聞いたのを思い出して、どうやら寝言であったと納得したが、今度は何を言い出すかと思うと気になって眠られなくなってしまった。

朝散歩の時に見た風力発電風車



暫くウトウトしていると、いきなり九州弁で「美味しかあ!」という奇声がはっきりと聞こえてきた。

朝のウエルネスパーク



熟睡した本人は美味い食べ物の夢をみて幸福の絶頂かも知れないが、こちらは全く安眠できないので不幸のどん底状態である。

合宿の夜、女性軍に寝込みを襲われた一難が去り、やれやれと思ったのは甘かった、寝言攻撃というもう一つの災難が待っていたとは、全く予想外であった。

花桟敷




隣のロッジでは部屋が振動するくらい猛烈なイビキ攻撃があったらしいが、我々は別棟にいたので幸いにもその難儀からは無事であった。



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今日はテニス合宿ということで、メンバー16人が車4台に分乗して朝8時半に大阪を出発する。

明石大橋を渡って淡路インターチェンジで最初に休憩を取ることにしたが、このサービスエリアは橋の展望が良いのでいつも大混雑状態で、今日も観光客で一杯であった。

そこでその駐車場から奥に伸びる道を登って見ると、高台に第二サービスアリアのような場所がある。



その淡路ハイウエイオアシスは、下のサービスエリアのような混雑が無く、ゆっくりと土産物や名物の弁当を買うことができる、知る人ぞ知る穴場だったのである。



また淡路ハイウエイオアシスは、下のサービスエリアよりも高い位置にあるためか明石大橋と対岸が実に綺麗に見える。



暫く休憩した後で淡路花桟敷に向い、30分程で到着した花桟敷は、起伏のある高原にコスモスの花畑がある北海道のような美しいところであった。



途中見晴らしの良い場所に座り、コスモスを見ながら「たこめし弁当」を食べたが、これほど弁当が美味しく食べられる場所は少ないのではなかろうか。



早めの昼食の後、淡路花桟敷から今回のテニス合宿の目的地である「ウエルネスパーク五色」まで再びドライブを続ける。



12時半頃には「ウエルネスパーク五色」GOGOドームというテニスコートが3面も取れる屋内テニスコートに到着である。



テニスウエアに着替えて、全天候カーペットの屋内コートでテニスの試合をしたが、カーペットの床をオムニ用のテニスシューズで走るので、床にシューーズが引っかかり、走り難くてしょうがない。



床が気になってサーブも調子が出ず結局、5ゲーム先取の試合を1勝3敗とさんざんな成績であった。



5時過ぎにチェックインしたログハウスは定員8人、1階と2階に8畳の和室、1階に広いリビングダイニング、バストイレにキッチンという間取りで、冷蔵庫、調理道具、食器が揃い、自炊ができるようになっている。



もちろん、テレビ、エアコンも完備しているので、大人数のテニス合宿には持って来いの宿泊場所であった。




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谷町筋からは直接生国魂神社の鳥居から社殿に向う本参道とは別に千日前通りから北門坂を通る北参道がある。



北参道から生国魂神社に入ろうとすれば、かなり高い石段を登ることになり、この北門坂をからは、石垣で囲まれた生国魂神社の境内が谷町台地西の高台にあることが良く判る。



この石垣は18世紀末に出版された摂津名所図会にもあるので、恐らく秀吉が寄進した当初からあったのでなかろうか。



となればこの石垣は、江戸初期に建設された大阪城の石垣よりも古い421年の歴史を有していることになる。



その石段の脇に官幣大社生国魂神社という石碑と、万延元年(1860年)の石灯籠が建っている。

北門を入り、境内北側を西の奥に向うと、城方向(きたむき)八幡宮、鞴(ふいご)神社、家造祖(やつくりみおや)神社、浄瑠璃神社が仲良く東に向って並んで鎮座していた。



城方向八幡宮は大阪城鬼門の守護神として祀られていた八幡宮、鞴神社は刀匠、製鉄、金物、機械工具業界の神様、家造祖神社は普請造作の神様、浄瑠璃神社は文楽関係物故者の神様という。



以上4社の南側には鴫野神社、源九郎稲荷神社、稲荷神社の3社が並んでいる。



鴫野神社は、もともと大坂城外の鴫野弁天島にあった淀君ゆかりの「弁天社」が、1877年にこの地に移され女性守護の神として祀られたという。



源九郎稲荷神社、稲荷神社は商売繁盛の神様で、赤い鳥居の前にあった石灯籠には宝暦3年(1753年)の銘があった。



境内北側には井原西鶴像があるが、西鶴は1680年「生玉神社南坊」で一昼夜四千句を独吟興行したというからすごい。



西鶴像近くの北向八幡と彫られた石造手水鉢には元禄11年(1698年)とあったので西鶴興行の18年後にここに置かれたのであろう。



又、境内には最近建立された上方落語の祖といわれる米沢彦八の碑があるが、京都の露の五郎兵衛によって始められた落語を生国魂神社を舞台に大阪に広めた人という。



最近になって若手落語家による「彦八まつり」が盛大に催しされるようになったらしい。


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生国魂神社の社伝によれば、神武天皇が九州より難波津に上陸した際、生島大神(いくしまのおおかみ)、足島大神(たるしまのおおかみ)を現在の大阪城付近に祀ったのが創祀と伝えられ、後に大物主大神(大国主命)が相殿神として祀られている。



神社の略誌によれば生島、足島大神は国土、大地の守護神で五穀豊穣、健康長寿、縁結び、商売繁盛、社運隆盛、家内安全の神徳があるオールマイティな神様らしい。

最新の研究では神武天皇は49歳のときに河内に入り、64歳のときに大和で即位したとされていて即位の年を西暦181年としている。

境内から見た鳥居と本参道



となれば、河内の難波津に上陸したのは西暦166年、生国魂神社は大阪に創建以来1840年が経過しているということになる。

神武天皇が難波に入った直後に創建したとなれば、10代の崇神天皇ゆかりの伊勢神宮、14代中哀天皇の皇后ゆかりの住吉大社も及ばない関西最古の神社と言えるのかもしれない。

摂社の天満宮



又、京都市内最古と言われる賀茂神社も神武天皇の御世に創建されたとされているので、神武天皇が日向から難波に上陸した直後、すなわち天皇として即位する15年も前に創建した生国魂神社の方が古いことになる。

日本書紀には645年に遷都された難波宮造営の際に「生國魂神社の樹を切りたまふ・・・」と記されているというので、創建時に植えた樹木が470年以上の年月を経て宮殿建設の用材として利用できるくらいに成長していたのであろうか。

摂社の住吉神社



927年に編纂された延喜式では難波坐生國咲國魂神社(なにわにいますいくくにさきくにたまじんじゃ)と記され、既に神祇官から幣帛が授けられる最高の待遇を受けた神社であったらしい。

中世に入り、1496年、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して石山本願寺を建立したため1580年、本願寺が織田信長に攻められた際に神社の社殿も焼け、灰燼となっている。



1583年、豊臣秀吉が大阪城築城をスタートさせた時、旧生国魂神社が築城に障害となったことから現在の鎮座地が秀吉より寄進され、1585年になって社殿が再建されたと伝えられている。

徳川時代になってからも徳川氏より保護を受けたことから大阪庶民の篤い信仰を集め、明治維新後の1871年(明治4年)官幣大社となっている。



しかしながら官幣大社の中の序列では住吉大社が上7社に次ぐ中7社という高い位置に入っているのに、生国魂神社の名前が下8社の中にも無いのはどういうことであろうか。

社殿は明治45年『南の大火』、昭和20年の戦災による消失、昭和25年の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返し、現在の社殿は昭和31年に鉄筋コンクリートで建立されたものである。

拝殿



生国魂神社の造りは「生国魂造」といわれる本殿、幣殿の屋根が一つの流造りとなっている他に例のない様式で、正面奥に見えるのは拝殿、その奥にある幣殿と本殿とは回り廊下で結ばれている。

拝殿内部




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日系スーパーの総経理(社長)をしていたFさんが帰国されるということで、その送別テニス試合に参加した。

この日集まった男女14人が抽選で7チームに分かれ、リーグ戦で順位を決定するという形式で、私は最初4連勝してこれは優勝かもと思ったが、最後の2試合に負けて4勝2敗、7チーム中3位とまあまあの成績であった。



送別テニスの主賓ともいうべきFさんのペアが見事優勝し、60歳のSさんと58歳のKさんのペアが2位と、理想的な結果になったので、試合は大成功であった。

試合の後、近所の中華レストランの個室で送別の食事会となったが、こういう場所での世話役は広州領事館のIさんがすべて仕切ってくれて美味しい料理を注文してくれるのでほんとうに助かる。

アフターテニスの食事風景(女性軍)



外務省にはマスコミで報道される悪いイメージを持っていたが、テニスで知り合ったサービス精神旺盛なIさんのお陰で、悪いイメージを払拭することができたのは収穫であった。

隣に座った日系スーパーの最高責任者であるFさんからは、偽札を受け取ったレジ係りには自腹で弁償させるという話を聞き、レジの女性がお札を真剣にチェックする理由がやっと判った。

又、Fさんが最初レジに並んで支払いをしようとすると、国有企業で働いた経験のあるレジ係りがお金を受け取らなかったという。

理由を聞くと、国有スーパーでは総経理は商品を只で持ち帰ることが常識で、レジ係りはお金を受け取ってはならないという不文律があるらしい。

裏と表の2重スタンダードがあり、汚職は常識という中国ならではの習慣であろう。

それにしても広州の女性は男性に比べて皆優秀ですねえと私が言ったら、Fさんもまったく同感ですと全面的に認めておられた。

Fさんからは、広州の客単価は日本の3分の1くらいですと聞いたので、これが日中消費者の購買力の差かもしれない。

Fさんは広州滞在6年ということですっかりここが気に入って、日本には戻りたくありませんと非常に残念そうであった。

現地法人の総経理というトップの立場と、本社管理職の中の一人という立場ではその権限と仕事の面白さには雲泥の差があるということであろう。

テニスメンバーとの食事



試合で2位となったSさんは、広州の日系自動車メーカーに勤務していたが、定年と同時に広州の関連企業に再就職されたそうである。

その会社における初めての日本人として給料、待遇を全部自分で決めることになったので悩んだそうであるが、結局給料は別の関連会社の日本人と同額とし、専用車と専属運転手、専属通訳をつけて貰ったとのこと。

住むところは現役の時と同じ5つ星ホテルの付属マンションとしたので、ホテルのプールやアスレチック施設が無料で利用できるそうである。

その上、半年毎に会社の費用で帰国できるように制度を作って貰ったということなので羨ましい。


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3時15分、テニスウエアに着替えてタクシーに乗り、3時半には広州最高ランクの5つ星ホテル、花園酒店の黄金レリーフが美しいロビーに到着する。



20分ほどホテルロビーとショップを見学し、4時少し前にホテルの裏日本領事館の横にあるテニスコートに向かう。

まずはコート前の庭園で記念撮影をしておくことにする。



2面あるハードテニスコートは、サイドラインと金網との間のスペースが少し狭く、その上に敷地の関係でスペースが斜めに狭くなっている場所もある。

コートの北は花園酒店の30階建ての高層客室、南は道路、その向こうに10階建の古いアパートがあり、そこからコートが丸見えである。

客室から見たテニスコートと、周りの高層ビル



東側も車で混雑している道路と高層ビルがあり、西の部分だけが唯一テニスコートのある場所にふさわしいリゾートの雰囲気を持つホテルの庭園があった。

又、このコートは、ゲーム中に思い切り打ったボールが東や南の道路まで飛び出すことが何回もあり、車や通行人に当たったりしないかとヒヤヒヤしながらのテニスを強いられるスリル満点のコートなのであった。

4時過ぎにメンバー10人が集まったところで、じゃんけんで順番を決め、2面あるコートを使ってダブルスの試合がスタートした。

男性メンバーのテニスの腕は全員上級クラス、パワフルなパッシングショットが決まり、サーブも強烈である。

コートの中の女性メンバー



我々がテニスをしていると、羨ましそうに白人のホテル宿泊客がじっと見ていたが、テニス好きなら、コートで人がプレーするのを見ると、やりたい気持ちを押さえるのが大変であろう。

一方、南の正面に見える古いアパートに住む庶民は、昼間からテニスで遊んでいる同じアジア人の我々を見てどう感じているのであろうか。

慣れないハードコートで弾むボールと、広州で買ったばかりのラケットがしっくりしなかったせいかどうも調子が出なかった。

広州テニスのメンバー



それでも自分のサーブゲームは全てキープできたので、なんとかテニス暦15年の面目を保つことができた。

久しぶりのテニスをしている間に汗は一杯出たが、30℃以上あったであろう暑さが全然気にならなかったのが不思議である。


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大阪市長杯世界スーパージュニアテニス選手権大会は18歳以下のジュニアを対象に世界各国で行われる約300トーナメントの中で、最高のAグレード9大会の1つで、唯一アジアで開催される大会である。



この大会が大阪市で開催される契機になったのは、大阪オリンピック”誘致に向けて海外に大阪をアピールしたいということであったらしいが、肝心のオリンピックが流れ、この大会だけが残ったのは結果的には良かったのでなかろうか。



今年で11回目を迎えているが、この10年間に、男子はロディック、バグダディス(2006全豪準優勝・ウインブルドンベスト4)女子はモーレスモ(2006ウインブルドン優勝)等、後の世界のトップテニスプレーヤーとなる選手が出場している。



組み合わせ表によれば、今年の出場者はシングルスに男女64名づつ、ダブルスも32ペアの男女64名がエントリーしているらしい。



男子シングルス準決勝戦の杉田祐一と伊藤竜馬の試合を見たが、勝った杉田は強烈なショットを打ってもミスが無い、文字通りスーパージュニアと呼ぶにふさわしいテニスプレーヤーであった。



杉田は翌日の決勝戦でもフィンランドのヘリオバーラに勝ち、大阪市長杯開催11回目にして日本人男子初の優勝者となっている。



しかし身長190cm以上、サーブは時速200キロオーバーが普通というプロテニスの世界で身長170cmと小柄な杉田が戦うには体力的に少ししんどいかもしれない。

その杉田は2007年度トップアスリート入学試験で、卓球の福原愛とともに早稲田大学の入学が決定しているらしい。

女子シングルス準決勝で勝った16歳の森田あゆみは翌日の決勝で、ダブルスでペアを組んだデンマークのウズニアッキと戦い、こちらは敗れている。

練習中のウズニアッキ



プログラムによれば、ジュニア世界ランクで森田4位、ウズニアッキ2位とあるので敗戦もやむを得ないのかもしれないが、森田はあと2回この大会に出場するチャンスがあるので来年以降も頑張ってほしいものである。



その森田とウズニアッキがペアで出場した女子ダブルスの決勝戦を見たが、森田がウズニアッキを引っ張ってパワフルなロシアペアを破り見事優勝している。



森田の両手打ちのボールは常にネットすれすれを相手のコート深く猛スピードでつきささる強烈なショットで、長身のロシアペアのパワーと比べても互角以上の戦いをしていた。



しかしスーパージュニア森田も残念ながら身長162cm、180cmオーバーがゴロゴロしているパワフルな世界の女子プロテニスで、はたして通用するのであろうか。


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