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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豪商三井家は、近江の守護六角氏の旧臣三井高安の長男・高俊が元和のはじめころ武士を捨て、伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業したところから始まるという。

三越大阪店の跡地は超高層マンションになる



三井高俊の四男として生まれた三井高利(1622~1695年)は、江戸で三井家を創業した長兄の高次に丁稚奉公し、番頭となるが、その商才を恐れた兄達に放逐され、一旦松坂に戻ってしばらく金融業を営んだらしい。

大丸の創業よりも44年も早い1673年、51歳となっていた三井高利は、現金掛値無し、反物切り売りの新商法を導入して、江戸本町一丁目に越後屋という屋号で間口2,7メートルの小さな呉服店を開業している。

堺筋をはさんだ西側から見た三越跡地



当時、代金は後日のツケ払い、売買は1反単位が当たり前であった呉服業界においては三越の商法は斬新で、顧客が現金支払いさえすれば、商品を必要な分だけ安価で販売したので、富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにしたという。

後に、高利は江戸の店を長男高平らに任せて京都に移り住み、仲買の仕事を専門にするようになったが、三越の繁栄ぶりに嫉妬した同業者からは迫害され、組合からの追放や店員の引き抜き、商品不買運動などがあったらしい。

北側の高麗橋通から見た三越跡地



しかし高利は、将軍綱吉の側用人牧野成貞(1634~1712年)の推薦で幕府の御用商人となったため同業者からのいやがらせは止み、後には両替商もあわせて開業している。

綱吉から3千石から6万石の大名にまで抜擢された牧野成貞は、1681~1695年までの14年間側用人を勤め、その後は有名な柳沢吉保が引き継いでいるので、越後屋が幕府の御用商人となったのは1680年代後半くらいであろう。

この牧野成貞の子孫は、明治維新まで茨城県笠間藩主として続き、徳川幕府最後の大阪城代として笠間藩主牧野貞明が就任しているので大阪にも因縁のある大名家であった。

1936年に完成し今も使われている旧三井銀行大阪支店



高利は、1691年に大阪の高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設しているので、1726年に大阪心斎橋に進出した大丸よりも35年も早く大阪に店舗を構えたことになる。


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