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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



747年に創建され、774年には堂宇の拡張、伽藍の整備がほぼ完成していたと思われる石山寺は、788年に創建された比叡山延暦寺よりも古い寺院であるが、平安時代前期までの寺史ははっきりしていないという。

珪灰石の石山



平安時代前期の座主である聖宝と観賢は、いずれも874年に創建された真言宗醍醐寺関係の僧なのでこの頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。

伽藍の完成から100年以上を経た石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫である第3世座主・淳祐内供(890~953年)である。

国宝の多宝塔



菅原道真(845~903年)の嫡男は高視(876~913年)、その嫡男は文時(899~981年)なので、淳祐は高視の次男であろうか。

内供とは内供奉十禅師の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。

礼堂の廊下



淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。

兄の菅原文時も文章博士から内記・弁官・式部大輔などを歴任、954年村上天皇が諸臣に政治に関し意見を求めた際、意見奉事3ヶ条を提出している真面目な政治学者であった。

頼朝の供養塔もある



「匂いの聖教」と呼ばれる淳祐の自筆本は今も石山寺に多数残存し、一括して国宝に指定されているが、筆者が特定される1000年以上前の書物が現存していることは珍しい。

石山寺は、平安期の多くの文学作品に登場することで知られていて、藤原道綱母の『蜻蛉日記』の970年7月の記事や、清少納言の『枕草子』(996~1001年頃)には「寺は石山」とあり、『更級日記』の筆者・菅原孝標女も1001年に石山寺に参篭している。

石山寺の宝物館「豊浄殿」では紫式部展をやっていた



1004年、一条天皇の皇后である上東門院(988~1074年藤原道長の娘)が、女房の紫式部に新作の物語を書くことを命じ、紫式部は物語の構想と祈念のため石山寺に七日間の参籠をしている。

参籠中、八月十五夜の月が瀬田川に映えるのを見た紫式部の脳裏に、ある物語の構想が浮んだという。

後白河天皇も1156年に行幸されたという月見亭



とりあえず手近にあった大般若経の料紙にその場面を書き始めたことから源氏物語の執筆がスタートしたと伝承されていて、石山寺に来なければ源氏物語は書かれなかったかも知れないという由緒のある寺なのである。

清少納言から「寺は石山」とまで言われた石山寺の境内の至る所で見ることができる珪灰岩や瀬田川の流れは、平安期に活躍した女流作家達が見たものとあまり変わっていないのではなかろうか。

石山寺の境内から見た瀬田川



東大門の外には鎌倉期の石山寺中興の祖という朗澄律師(1131~1209年)ゆかりの庭園があり、律師の姿を彫った石碑が置かれている。




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『石山寺縁起』によれば、聖武天皇(在位724~749年)の発願により、747年、良弁(689~774年)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが石山寺の初めとされる。

本堂



聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、大仏の表面に金メッキを施すために大量の黄金を必要としていた。

そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせたところ、良弁の夢に吉野の蔵王権現が現われ、「近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」というお告げがあったという。

本堂(手前が礼堂、奥が正堂)


お告げによってこの地を訪れた良弁は、珪灰石の石山の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置して草庵を建て、後に如意輪観音像を覆うように堂を建てている。

聖武天皇から崇敬されていた良弁は、石山寺以外にも近江南部に諸寺を建立し、紫香楽宮遷都(742~745年)にも関与したとも言われている大物である。

石山の上の三十八社の鳥居



初代東大寺別当となった良弁は、751年東大寺大仏建立の功績により少僧都となり、756年には鑑真(688~763年)とともに大僧都に任じられているので奈良時代を代表する高僧なのである。

東大寺大仏の造営が745~752年、その後大仏殿の造営が758年まで続き、761年から造石山寺所という役所のもと、堂宇の拡張、伽藍の整備が本格的に行われたようである。

三十八社本殿



初代東大寺別当ゆかりの石山寺の造営には、造東大寺司から仏師などの職員が派遣され、石山寺の造営は国家的事業として進められていたと正倉院の記録に記載があるという。

この石山寺の造営は、聖武天皇の娘で、史上6人目の女帝となった孝謙天皇の在位期間(749~770年)と重なるので、弓削道鏡を重用し、道鏡に天皇位を譲位しようとした孝謙天皇と良弁の関係は良かったようである。

正堂の裏側



ちなみに若い頃に梵語を良弁から学んだ弓削道鏡(700~772年)は、761年孝謙天皇の病気を治してから重んじられるようになり、763年には少僧都、765に太政大臣禅師、翌年には法王となっている。


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石山寺の本堂、多宝塔などの建造物は、天然記念物の珪灰石という巨大な岩盤(石山)の上に建っていて、その珪灰石の塊を境内の至る所で見ることができるが、これが寺名の由来となっている。



珪灰石(ウォラストナイト)は、石灰岩と花崗岩の接触部に変成作用を受けた地帯に発達する鉱物で、1950年初頭のアメリカでは、主にタイル、陶磁器等のセラミックス原料として利用されてきたという。



この石山寺は、京都や大津などから少し離れていたせいか奇跡的に応仁の乱や戦国期の兵火に遭わず、建造物、仏像、経典、文書など古い文化財が多数伝存しているので有名である。

毘沙門堂



東大門から続く参道の石段を登った境内の右手には、毘沙門堂(1773年建立)と観音堂、左手に蓮如堂(1602年建立)がある。

観音堂



境内を進むと御影堂(室町時代初期に建立)、その上には重要文化財に指定されている鐘楼(鎌倉時代に建立)、さらに奥には瀬田川を眼下に見下ろす崖の上に月見亭(明治時代に再建)が配置されている。

御影堂



石山寺本堂(国宝)は、正面7間、奥行4間の「正堂」と、正面9間、奥行4間の「礼堂」という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形をしている。

鐘楼



正堂は、1078年の火災焼失後、1096年に再建されたもので、滋賀県下最古の建築で、内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。

月見亭



合の間と礼堂は、淀君の寄進によって1602年に建立されたもので、合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。

校倉造りの経蔵(桃山時代に建立)



礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造となっているが、懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多く見られるという。

懸造



映画ラストサムライのロケ地となった姫路書写山円教寺の本堂「摩尼殿」も懸造となっていて、本尊はやはり如意輪観世音菩薩である。

本堂内部



石山寺本堂内陣には、蓮華の形をした珪灰石の上に立っているといわれている本尊、如意輪観世音菩薩(重要文化財)が安置され、33年毎に開扉される秘仏という。

石山寺本堂の外側の廊下は、姫路にある書写山円教寺摩尼殿、食堂の廊下とソックリであった。



本堂の右手には、三十八所権現社という神社と鳥居が珪灰石の上に立っているので、お寺の中に神社が置かれているという珍しい形式であった。


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石山寺は、JRびわこ線の石山駅から京阪電鉄に乗り換えて2駅目、石山寺駅から瀬田川の右岸沿いを約800メートル下ったところにある。

東大門



瀬田川に向かって建っている東大門には、正月準備の門松が置かれていたが,この門は今から800年以上も前、1190年(鎌倉幕府が開かれる前)に建立されたという重要文化財で、建立後400年を経た西暦1600年前後(慶長年間)に、大規模な修繕が加えられたまま現存している。

東大門内側



門には仁王像が置かれているので仁王門とも呼ばれるというが、両側にある阿吽の木製仁王像もかなり古く、顔の表情が良くわからない。



門を潜ると石畳の参道がまっすぐに奥に伸び、両側には手入れされた庭園がきれいな寺院が配置されている。



途中にある大黒天堂に寄り道すると、鎌倉期に建てられ、その後室町時代(650年前)に再建されたとされる古い建築で、中にある大黒天像は西暦1024年に置かれたという。



東大門やこの大黒天堂、多宝塔、本堂などの建設年代から、石山寺は鎌倉時代初期には既に現在見るような寺観が整っていたと考えられている。

大黒堂を出て参道に戻ると拝観受け付け、そこから奥に進むと右側に本堂へ昇る石段があるが、12世紀の建築物を見にやってきた外国人観光客数組とすれ違った。



12世紀の建造物がそのまま残っている場所は、ヨーロッパ人にとっても一見の価値があるということであろう。

石段を登りきると開けた境内に出るが、その正面の高台には源頼朝の寄進によって1194年(813年前)に建立された日本最古(二重塔)の多宝塔が見える。



この多宝塔は、下重が大きく、軒の出が深い上重があるのが特長で、1951年には国宝に指定され、同年に80銭、翌年には4円切手のデザインに取り上げられている。

  


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12月25日のNIKEI NETのビジネスコラムの中に、かつて日本長期信用銀行(長銀)のMOF担(大蔵省担当)で、現在コンサルティング会社代表をしている箭内 昇氏の記事があったので紹介したい。

箭内氏によれば、日本の官僚組織ではポストでなく人に権力が伴うので、「将来の次官候補」から「あの件よろしく」といわれれば、他局の担当者であっても無視できないという。



バブル崩壊直前、銀行局に不良債権の計数報告をする長銀の財務担当者に請われて箭内氏が同行した時、かなり「甘い報告」だと推測されたが、銀行局から格段の指摘はなかったという。

長銀の倒産後、その元官僚に「銀行局は当時あの長銀の報告を真に受けていたのですか」と疑問をぶつけると、「甘いと感じていました(中略)箭内さんが銀行局の上司と親密そうだったから担当者が遠慮したんです」と言われたと書いている。

箭内氏も銀行局上司の幹部官僚もまったく意図していないところで、「手ごころ」という便宜供与行為が大蔵官僚によって行われていたのである。

守屋容疑者は、今でも山田洋行からの機材納入に関して直接指示したことはないと主張しているようだが、仮にそうだとしても、両者が極めて親密となれば部下が「忖度」して便宜を図った可能性は大きい。



今回発覚した山田洋行の水増し請求問題についても、同様の背景で防衛省の官僚が甘い処分に収めたことが強く推測されると箭内氏は書いている。

職務権限がなければ罪にならないと規定している収賄罪という網には、大きな穴が開いていることを痛感するとも箭内氏は述べている。

このコラムを読むと、上官には絶対服従であった旧陸軍、海軍というガチガチの組織がそのまま今も継続しているようで愕然とする。

守屋容疑者と宮崎容疑者は、職務権限が無いので罪に問えないことを十分承知した上で、宮崎に対して防衛官僚が守屋次官との関係を忖度して甘い姿勢を取ること期待して持ちつ持たれつの関係を続けてきたのであろう。

公務員組織をこのまま放置しておくと、かつて陸海軍省が日本を戦争にひきずりこんだように、国が滅ぶまで突き進む可能性があると思うのは私だけか。


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栴檀木(センダンノキ)橋とは栴檀木の材木でできていた訳ではなく、橋のたもとに栴檀の大木があったことから名づけられたという。

11月13日に撮った栴檀の木



土佐堀川を中之島に渡るセンダンの木橋は、元禄時代以前からこの地に架けられていたようであるが、江戸期には洪水で何度も流されたようである。

12月18日の栴檀の木



今は中之島中央公会堂への通路として使われているが、江戸期の栴檀木橋は、中之島の仙台藩62万石、館林藩6万石、備中成羽藩5万石、備中檜原藩2万石、美作津山藩10万石蔵屋敷への通路として使われていたようである。

1763年頃の栴檀木橋と蔵屋敷



橋から南に下る道路は、栴檀木橋が1885年の大洪水でも押し流され、永く橋の無い時期があったため長堀橋に架かる三休橋の名前を取って三休橋筋と呼ばれるようになってしまった。

1923年頃の地図(栴檀橋の下に大阪農工銀行、鴻池邸がまだこの地にある)



その三休橋筋を栴檀木橋から南に歩くと、1918年に建てられた大阪農工銀行ビルを改造した八木通商ビルがあり、その前には中国原産のトウカエデが植えられている。



トウカエデ(唐楓)は、江戸時代に渡来したカエデ科の落葉高木で樹勢が強いため、街路樹としてよく植えられ高さは20メートルにもなるという。

栴檀木橋から中之島公会堂



さらに南に歩くと明治期の1912年に建てられた旧大中証券ビルを使っているレストランシェワダのビル、その隣が1930年ヴォーリズの指導で建てられた浪花教会があり、その前にもトウカエデが街路樹として植えられていた。



実は、栴檀木橋から続く三休橋筋の街路樹は、トウカエデからセンダンに植え替える計画が進められている。



センダン(栴檀)は、ムクロジ目・センダン科の植物の一種でアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木で、高さは15メートルにもなる。



「栴檀は双葉より芳し」のことわざでよく知られるが、これはセンダンではなくビャクダン(白檀)を指すという。



既に1931年に建てられた綿業会館の前にはセンダンの幼木が植えられていたが、この木が栴檀木橋のたもとのセンダンの木のようになるにはあと何年かかるのであろうか。


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三田の奥に小山ロールという美味いロールケーキを作っている洋菓子店があると聞き、福知山線三田で下り、神戸電鉄に乗り換えてウッディタウン中央まで出かけてみた。

エス・コヤマの看板



バスが来るまでかなり時間があったので、タクシーに乗ると5分でその洋菓子店「エス・コヤマ」に到着である。



閑静な住宅地の角地にある店舗の入り口からは、裏庭に向かって2~30人くらいの客がずらっと並んでいる。





客を案内している店員に聞けば、開店から閉店まで客の行列が絶えることが無いというではないか。

待ち時間が長いためか、10本くらいまとめて買って帰る客もいたが、小山ロールは大量に生産されていて商品は途切れることなく供給されているようであった。

小山ロール



家に帰って食べてみた印象では、確かに美味いが、ロールケーキを毎月数本食べているケーキマニアでないと生地の微妙な美味さは判らないのではなかろうか。

1964年京都生まれのエス・コヤマのパティシエ、小山 進氏は、高校卒業後に神戸の菓子メーカースイス菓子ハイジに入社している。

エス・コヤマのケーキを食べることができる隣の喫茶「hanare」



そこでの修行を通じて実力を養い、1994年TVチャンピオンケーキ選手権大会「ウェディング」優勝、1996年TVチャンピオンケーキ職人選手権大会 日仏対決「クリスマス」優勝、1998年には兵庫県優秀技能者賞と次々と賞を受け非凡な才能を見せている。

「hanare」の内部



1999年にスイス菓子ハイジを退社し、パティシエ エス・コヤマを設立したあとの2001年、TVチャンピオン グランドチャンピオン大会(フランス)決勝でも見事第1位に輝いている。

小山氏は、ここまでくれば凝ったケーキを作っても何の印象も残らないと考え、シンプルなロールケーキを作って決勝に臨むことにしたという。

「hanare」の小山ロールセット



その優勝インタビューで、「ケーキの名前は?」と聞かれてとっさに答えたのが『小山ロール』であった。

エス・コヤマの前のバス停



2003年には、閑静な三田ウッディタウンにパティシエ エス・コヤマを開店し、『小山ロール』の製造販売を開始しているが開店以来、客の行列が絶える事が無いというのが凄い。


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東横堀川は、1585年に豊臣秀吉の命により大阪城の外堀として開削された、大阪で最古の堀川で、土佐堀川から北浜付近で分岐して南下し、下流は道頓堀川となる全長約3キロの運河である。

東横堀川が道頓堀川となる屈曲部分



東横堀川の上には、中央大通とほぼ同時期に建設された阪神高速道路の高架が通っているので、今では川というより幅の広い溝のような堀川となってしまった。

高麗橋



東横堀川は大正時代まで、ハゼ釣りができたくらいにきれいな川であったというが、次第に汚染が進み、メタンガスが発生するほど汚れていたが、高麗橋付近と道頓堀川の河口に最新鋭の水門が設置されてから川の水の浄化が進んでいるようである。

高麗橋の南にある水門



つまり、満潮時期に水門を閉じて溜めたキレイな大川の水を、干潮時に水門を開いて一気に流し、川底のヘドロや汚れた水を海に押し流しているのである。



この水門の操作のせいで、以前に比べて東横堀川と道頓堀川の水質が目に見えて改善されてきているのは嬉しい話である。

道頓堀川



OSAKA光のルネサンス2007では、東横堀川ライトアップ2007というイベントを12月10日から25日までやっている。



これは約80基の灯具を使って高麗橋から平野橋の間の阪神高速の高架を照らすイベントで、メイン会場の中之島に比べると観客が少なく、ゆっくりと鑑賞できるのが良い。



高麗橋は、大阪から西に向かう街道の基点になった場所であり、徳川時代には江戸の日本橋、京都の三条大橋と肩を並べる名橋であった。

江戸末期の東横堀川地図



この高麗橋の名前の由来は、6世紀末頃飛鳥宮に行く高句麗の使者のための迎賓館がこの地にあったという説が有力なので、この付近は1400年以上の歴史を誇る場所なのである。



阪神高速の高架の橋脚にカラーの照明器具を付け、東横堀川の西側から高架に向けて雪の結晶模様などを写しているが、南側の平野橋から見るのが一番キレイである。


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大阪の中之島とその北を流れる堂島川の南岸には江戸時代、諸国の蔵屋敷が軒を並べていて、全国から船を使って米が運び込まれていた。



土佐堀川に架かる筑前橋北側にある福岡黒田藩の長屋門は、今も天王寺公園に移設されて現存しているが、堂島川に架かる玉江橋の北には中津藩(大分県)の蔵屋敷があった。



諭吉の父、中津藩の下級武士(元締役)であった福沢百助は、24歳から亡くなるまでこの蔵屋敷で生活している。

当時の元締役は、藩が借金をした大商人を接待して、借金の返済延期を頼むことが仕事であったといい、儒学者でもあった誇り高い福沢百助には辛い毎日であったようである。

玉江橋から見た中津藩蔵屋敷の跡地には新しいビル群が建設中



福沢諭吉は、1835年1月中津藩(奥平家10万石)の蔵屋敷のあったこの場所で生まれている。

奥平家は、1573年頃に徳川家康の家臣となった信昌が家康の長女亀姫の婿となったことで幸運を掴み、家康の外孫となる信昌の子供達は全員が大名となって優遇されている。

玉江橋から見た堂島川の上流



長男家昌は譜代奥平家の祖となるが、4男の忠明は、家康の養子となって松平姓となり、大阪の陣の後に大阪藩主となって大阪の復興を担当したのは有名である。

さて、諭吉の父親福沢百助は借金の返済延期を頼む仕事の心労のせいか、45歳の若さでこの地で亡くなり、2男3女の末子であった諭吉は、わずか2歳で中津に移ることになる。

中津藩蔵屋敷跡前の堂島川



しかし18年後には緒方洪庵の適塾に入るために再び蔵屋敷のあるこの地を踏むのである。

北浜に残る適塾の建物



土佐堀川から中之島を縦断するなにわ筋を通って堂島川に架かる玉江橋を渡ると、橋の北東側、新朝日放送ビルの前に、福沢諭吉誕生地の碑があった。



初代の石碑は、1929年に建てられた高さ3,3メートルの円柱鋳銅製のものであったが、戦時中に撤去されている。

この石碑は、1954年に造られたもので「福沢諭吉誕生地」の文字は、1933~1947年まで慶応義塾塾長であった小泉信三の書である。



諭吉誕生地石碑の横には、1983年に中津市によって建てられた豊前国中津藩蔵屋敷跡の石碑があり、この地から江戸と中津までの距離が横に刻まれていた。



福沢諭吉誕生地石碑の左前には「学問のすすめ」中の有名な一節を刻んだ白い御影石が置かれ、後ろには玄武岩(6方石)23本が石碑を取り囲むように建てられていた。


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なにわ筋をミナミから北上すると、堀川の名前が残る通りをいくつか越え、今も流れている土佐堀川に到着する。

土佐堀川



「大阪橋ものがたり」というHPによれば、土佐堀川に架かる常安橋の名は江戸時代初期の豪商淀屋常安に由来するという。

「大阪市史」には「淀屋は本姓岡本氏、元祖与三郎常安北浜十三人町に住し、材木売買を営み、元和偃武の後中之島を開拓して之に居る。故に常安町・常安橋の名あり」と書かれ、常安橋が淀屋常安の中之島開発に伴って架けられたようである。



淀屋は初代常安から90年間続き、材木、米、海産物の取引で巨万の富を手にしたが、余りに巨大になりすぎたために5代目辰五郎の代1705年に闕所(取り潰し)になっている。

幕府から大坂町奉行所を通じて伝えられた闕所の公式理由は、「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」という単純なものだった。

承安橋から西の眺め



大阪春秋の中に当時淀屋から没収した資産の記録、「大坂淀屋三郎右衛門欠所物写」1754年(宝暦4年)8月の記事があったので、その中の一部だけを抜粋してみると、有り金が120万両、有り銀が18万貫、大名に貸付した銀が1億貫、屋敷が大阪に107箇所、京都50箇所、伏見、堺に28箇所とある。

承安橋を渡った中之島のなにわ筋(右側の先が旧常安町)



当時、1両は銀4貫と決められていたので銀に換算すると120万両は480万貫、淀屋に有った現金(金銀)は、合計で498万貫。

現在、銀の値段は1キロ約19万円なので淀屋が持っていた現金、銀498万貫(1貫=3,75キロ)は、約3600億円、大名への貸付1億貫は何と71兆円になる。

淀屋橋にある淀屋の碑



ちなみにトヨタ自動車の2007年3月期連結決算における総資産が32,6兆円、江戸時代の淀屋はその倍以上の資産を持っていたことになるが、ここまで溜め込むと幕府や封建社会からの憎しみを買い、一挙に資産を没収されても仕方が無いであろう。

淀屋橋



しかし、淀屋の取り潰し後も、蔵屋敷が建ち並ぶ中之島には物資運搬のための橋が必要であったので淀屋の架けたこの常安橋、上流の淀屋橋、淀屋が開いた常安町の名前は大阪に長らく残ることになる。



大阪の川に商人が架けた橋の維持管理は、蔵屋敷を事実上運営していた名代、蔵元などの有力商人の手で江戸期を通じておこなわれていたようである。


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阪急電車の御影駅前から南に2本目の道路と西側の幹線道路が交差する角のマンションの1,2階にフランス菓子の店「御影高杉」はある。

高杉から見た阪急御影駅



「きんつば」で知られる菓子の老舗「本高砂屋」社長杉田肇氏からこの店を任された高杉は、「フランス菓子ではないから」という理由でシュークリームもプリンもつくらないこだわりの職人である。

御影高杉の店内にあるショーケースのフランスケーキは見た目も綺麗で、どれも美味しそうである。



しかし、ここまできた人には、店内にある工房で菓子職人が注文を受けてから作るイートイン限定の「ミルフィーユ・オ・フリュイ」がお奨めである。

ゆったりとした2階の窓側の席に坐って暫く待つと、出来たてのミルフィーユが出てきた。



高杉のミルフィーユは、発酵バターを使い、水分を必要以上に残さない様、しっかりと焼き上げた300層にも及ぶサクサクのパイ生地の間に、カスタードクリームとイチゴを3層重ね、周囲に鮮やかな色をしたフルーツのチップを散りばめた綺麗なケーキである。

ミルフィーユをイートイン限定としている理由は、テイクアウトにするとパイ生地のサクサク感が失われるからというこだわりの逸品である。



従って、高杉のミルフィーユは、そごう神戸店、阪急梅田店にある高杉のショップで販売されず、ここまで来なければ食べられないという貴重なケーキであった。

たしかにミルフィーユのパイ生地はパリパリ、サクサクとした歯ごたえがあり、カスタードクリームの甘味とイチゴの酸味のバランスが良かった。



高杉氏のフランス菓子へのこだわりが判るケーキであったが、これからも余り手を広げないようにして美味しいケーキの味を守って欲しいものである。

高杉では、コーヒーはお代わり自由と聞いたので、とりあえず3杯だけお代わりしたが、ケーキとコーヒーで腹いっぱいとなった充実した午後であった。



しっかりと製法の基本を踏まえ、素材そのものを生かし、絶妙な組み合わせにより、奥深い味わいのある夢を広げたいという高杉氏は1998年にも神戸技能奨励賞も受賞し、神戸の洋菓子界を代表するパティシエとなっている。


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新靱町で干鰯などの海産物取引が活発になると、今度は海部堀川も混雑するようになったため、木津川に近い百間堀川の鷺島に靱町魚市場の出張所が1618年設けられ、大阪の魚市場は天満から鷺島まで3キロ以上も西に移るのである。

木津川大橋の北側



当初の鷺島は、文字通りの島であったようであるが、百間堀川に合流する江戸堀川と京町堀川が1617年に開削され、その土砂で埋め立てられて陸続きとなったようである。

江戸末期の大阪地図



鷺島の靱町魚市場出張所では、近海の生鮮魚類(雑魚)を扱ったので1650年頃から雑喉場(1908年の地図にはザコバとある)の地名がつき、1772年には、雑喉場に問屋株が交付されている。

1908年の地図にあるザコバは、未だ健在であった



江戸中期以降の大阪には、大商人が干物、こんぶ、干鰯等を扱う靱海産物市場と、生鮮魚類を扱う雑喉場魚市場の2箇所の魚市場があったのである。

1958年の地図には埋め立てられる前の百間堀川と雑喉場橋が載っている



靱海産物市場は、今の靱公園となにわ筋が交差する辺りにあり、雑喉場は土佐堀通りと新なにわ筋との交差点から2~300メートル南側付近にあったようである。

今は、雑喉場の前の百間堀川が埋め立てられ、さらに新なにわ筋と、その上に高架の阪神高速道路ができたために当時の面影を偲ぶものは全く残っていない。



唯一、「ざこばてい」という屋号の居酒屋が、この付近がかつての雑喉場であったことを物語っているかのようであった。



先日、雑喉場の近くから御堂筋と本町の交差点まで歩いてみたら20分くらいで到着できたので、江戸時代に船場の住人が、ぶらぶら散歩しながら毎日でも生鮮魚類を買って帰れる距離であった。

幕府からの問屋株交付以降、雑喉場はさらに賑わうようになり、雑喉場の商人は住吉大社に巨大な石灯籠を寄付できるまでに儲かっていたようである。



また生きの良い鮮魚を扱う雑喉場の商人は、明治、大正時代まで大阪の花柳界や演劇界の旦那としても有名であった。

しかし1931年、安治川の対岸福島に中央卸市場が開設され、雑喉場の商人がそこに収容されたことで雑喉場魚市場は159年の歴史を終え、きっぷの良い旦那衆も次第に姿を消したようである。



今は、マンションが建ち、魚市場であった面影は全く無いが、「ざこばばし」と書かれた橋の標識が、木津川の東側、本町通の歩道に残っているだけである。


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御影高杉のパティシエ高杉良和氏(56歳)は、1972年に広島から調理師を志して大阪に出てきている。



当初、天満橋にあるキャッスルホテルの洋食部門で修行していたが、ホテルプラザの総料理長安井寿一氏と出会い、安井の奨めで製菓料理長を目指すことに決めたという。

1985年には、キャッスルホテルからホテルシェレナ(神戸)に移り、製菓料理長を務めていたが、1995年の阪神大震災でホテルが全壊したことで転機が訪れている。

御影高杉の名物ミルフィーユ



震災後、「きんつば」で知られる菓子の老舗「本高砂屋」社長杉田肇氏から、「自分の菓子をつくってみないか」と声がかかったという。

本高砂屋は、1876年杉田氏のご先祖、杉田太吉が神戸市中央区元町で『紅花堂』の屋号で「瓦せんべい」の製造・販売を始めているので、創業から130年以上という老舗である。

御影高杉のマーク



実は、震災の2年前に高杉が日本洋菓子協会連合会主催のコンテストで最優秀賞を獲得し、副賞の米国ツアーに行った際、杉田氏も同行していて二人は旧知の仲であったらしい。

フランス菓子に対する高杉氏の思いと、洋菓子部門を充実させたいという杉田氏の考えが一致して、震災の翌年秋、激戦地の御影駅前に『御影高杉』がオープンしている。

当初から看板のケーキの原材料にこだわったことで、他店よりはるかに高い値となったため、最初はほとんど売れなかったという。

御影高杉のケーキ



しかし杉田社長は、値段を下げることも流行の品を扱うことも勧めず、「いい菓子はゆっくり広まる。急ぐことはない」と言い続けたというので、さすが老舗の主人である。

1997年、時間に余裕があった高杉は、テレビ東京の番組、『テレビチャンピオン~全国クリスマスケーキ職人コンテスト』に参加したところ、実力どおり見事優勝し、その直後から『御影高杉』は行列のできる店になっている。

御影高杉



御影高杉の洋菓子の評判は、すぐにクチコミで阪神間に広がり、洋菓子を楽しむ客が殺到するようになったため、阪急御影駅前は洋菓子店が林立する賑やかな街になったという。


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大阪の魚市場は、豊臣秀吉の大坂築城以前からあり、当初は大坂城北側の天満辺りであったが、秀吉時代には東船場の伏見町(本靱町)に移っている。

靱公園(もと新靱町)にある石碑



徳川時代には、東長堀川の海運が混雑するようになったため安土町、備後町付近(上魚屋町)に移り、後にさらに海に近い下船場の新靱町に移ったようである。

当初の新靱町(靱島)は船便が悪かったために、淀屋个庵等の商人が1624年に島の真ん中に海部堀川を開削し、さらに永代浜と呼ばれた舟着場もできている。

1908年(明治41年)の靱町地図



永代浜は海産物問屋の荷揚場、および塩干魚・鰹節などの専門市場として、靱の中心であった場所で、船便が良くなると、河内木綿の肥料となる干鰯の商いが大きく発展し、運上金の元締めであった淀屋の儲けに大きく寄与したようである。

永代浜の説明石碑



淀屋については以前このブログでも紹介したことがある。

戦災で発生した瓦礫で1951年に埋め立てられた海部堀川は、本町通のすぐ南を流れていた阿波堀川の途中から分岐して永代堀となって約100メートル北進(なにわ筋にある永代橋の石碑より)して西に曲がっていた。

1941年(昭和16年)の地図に載っている海部堀川、阿波堀川



56年前に埋め立てられた永代堀を知っている人はだんだん少なくなっているが、海部堀の東側、「上ノ橋」北側には樹齢400年の楠の大木があり、注連縄が張ってあったという。



この楠木は靱公園の南端に現存しており、楠と永代浜の永の文字を組み合わせた楠永神社の御神木となっている。



楠永神社の西には、「永代浜跡」の円柱石碑が残っているが、最初この石碑を見たときには、永代浜の「浜」の文字から、江戸時代にはこの辺りまで海であったのかとも思った。



しかし、海から堀川を遡ってきた船の船着場であったというのが正解で、海産物問屋が軒を連ねていた時代、この辺りは海産物特有の生臭い匂いが漂う活気のある場所であった。

1954年(昭和29年)の靱公園地図には堀川が無い



靱公園の永代浜石碑の位置は、阿波堀川跡から140メートルくらい北にあるので、1951年埋められた永代堀と海部堀川は、石碑の場所より少し南にあったようであるが、戦後のどさくさに埋められたせいか堀跡を示す標識は無いようであった。


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1612年、安井道頓・安井道卜(どうぼく)、らが私財を投じて運河の開削に着工し、1615年に完成したのが道頓堀川である。

道頓堀川の日本橋北側にある安井兄弟の石碑



道頓堀の南側には、1660年頃から劇場ができはじめ、江戸期には中座、角座、竹本座、弁天座、朝日座の5座で歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられ、今も大阪市民で賑わう歓楽街である。



その道頓堀川の西、阪神高速道路の高架から西側を西道頓堀川と呼んでいるが、西道頓堀川は大阪ドームの方向に向かって流れ、その先で木津川と尻無川に流れ込んでいる。



なにわ筋は、その西道頓堀川を渡っているが、この川から北側の堀川は、土佐堀川を除き今ではすべて埋め立てられてしまった。

江之子島の東側に堀川のある1899年の地図(未だ大阪市役所が載っていない)



埋められた江戸堀川、京町堀川、海部堀川、阿波堀川、立売堀川の水は、戦後しばらくまで江ノ子島の東側にある百間堀川に繋がり、木津川に流れていたのである。

1899年の地図に外国人居留地とある木津川対岸



百間堀川の西の江ノ子島には、明治初期から大正末(1874~1926年)まで大阪府庁があった由緒のある場所である。

最近その土地が121億円の買取価格を提示した長谷工グループに売却され、高さ198メートル56階のタワーと中低層マンション群が建つと発表されている。



さっそく、地下鉄「阿波座駅」から徒歩数分という交通至便な江ノ子島を散歩してみたら、今は工事用の塀で囲まれたかなり殺風景な場所であった。



敷地の中には戦災を免れた1938年完成の工業奨励館付属工業会館が残っているが、この建物は大阪府が保存の方針を出し、アートの展示場として活用するという。



1908年の地図には、府庁の北に市役所と書かれているが、明治になってからの大阪には当初大阪府庁しかなく大阪市は存在しなかった。



大阪が市制をしいたのは、1899年になってからで、府から独立後間もない市役所は1900年まで府庁舎に同居、その後、府庁舎の北側に移ったようで、木津川橋の東側本町通には、大阪市役所跡地の小さな石碑が残っている。


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