747年に創建され、774年には堂宇の拡張、伽藍の整備がほぼ完成していたと思われる石山寺は、788年に創建された比叡山延暦寺よりも古い寺院であるが、平安時代前期までの寺史ははっきりしていないという。
珪灰石の石山
平安時代前期の座主である聖宝と観賢は、いずれも874年に創建された真言宗醍醐寺関係の僧なのでこの頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。
伽藍の完成から100年以上を経た石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫である第3世座主・淳祐内供(890~953年)である。
国宝の多宝塔
菅原道真(845~903年)の嫡男は高視(876~913年)、その嫡男は文時(899~981年)なので、淳祐は高視の次男であろうか。
内供とは内供奉十禅師の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。
礼堂の廊下
淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。
兄の菅原文時も文章博士から内記・弁官・式部大輔などを歴任、954年村上天皇が諸臣に政治に関し意見を求めた際、意見奉事3ヶ条を提出している真面目な政治学者であった。
頼朝の供養塔もある
「匂いの聖教」と呼ばれる淳祐の自筆本は今も石山寺に多数残存し、一括して国宝に指定されているが、筆者が特定される1000年以上前の書物が現存していることは珍しい。
石山寺は、平安期の多くの文学作品に登場することで知られていて、藤原道綱母の『蜻蛉日記』の970年7月の記事や、清少納言の『枕草子』(996~1001年頃)には「寺は石山」とあり、『更級日記』の筆者・菅原孝標女も1001年に石山寺に参篭している。
石山寺の宝物館「豊浄殿」では紫式部展をやっていた
1004年、一条天皇の皇后である上東門院(988~1074年藤原道長の娘)が、女房の紫式部に新作の物語を書くことを命じ、紫式部は物語の構想と祈念のため石山寺に七日間の参籠をしている。
参籠中、八月十五夜の月が瀬田川に映えるのを見た紫式部の脳裏に、ある物語の構想が浮んだという。
後白河天皇も1156年に行幸されたという月見亭
とりあえず手近にあった大般若経の料紙にその場面を書き始めたことから源氏物語の執筆がスタートしたと伝承されていて、石山寺に来なければ源氏物語は書かれなかったかも知れないという由緒のある寺なのである。
清少納言から「寺は石山」とまで言われた石山寺の境内の至る所で見ることができる珪灰岩や瀬田川の流れは、平安期に活躍した女流作家達が見たものとあまり変わっていないのではなかろうか。
石山寺の境内から見た瀬田川
東大門の外には鎌倉期の石山寺中興の祖という朗澄律師(1131~1209年)ゆかりの庭園があり、律師の姿を彫った石碑が置かれている。
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