野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



 大阪府民の森、ぬかた園地を散策し北に抜けると、石切駅に下る辻子谷(ずしたに)ハイキングコースの標識がでていました。



このコースを進むと、延々と石畳の道が続いていて、石の種類が暗峠のものと良く似ているので、ここには江戸時代の道がそっくり残っているようです。



江戸時代、大和郡山藩柳沢家によって暗峠に敷かれた石畳は、現在100mほどしか残っていませんが、数百mも続くこの石畳は、貴重な歴史遺産ではないでしょうか。



さて、急な下り道をゆくと、役行者(634〜706年)ゆかりの「役行者霊蹟札所」三十六寺社のひとつ、興法寺の鳥居が見えてきます。

 

興法寺の由緒書には、舒明天皇の時代、役行者が、堂宇を建立したとありましたが、舒明天皇が亡くなったとき、役行者はわずか7歳なのでどうも計算が合いません。

 

その後、元明天皇(在位707〜15年)の時代、行基(668〜749年)が千手観音像を刻み本尊としたとあるので、行基による今から約1300年前の創建かもしれません。

 

815年には、空海(774〜835年)がここで修行し、歓喜天像を安置したと由緒にありましたので、興法寺には役行者、行基、空海と日本宗教史の三大スターがかかわっているようです。

歓喜天堂

 

行基の時代から640年の南北朝時代、南朝方の城塞であった興法寺は、四条畷の戦で楠木正行を破った高師直軍の焼き討ち(1348年)にあって焼失しています。

境内 



その45年後、足利幕府管領兼河内国守護、畠山基国(1352〜1406年)によって再建されますが、畠山氏の家督争いから始まった応仁の乱(1467〜77年)で再び焼失したといいます。

城壁のような石垣



その後、何度か堂宇の修復があったようですが、以前の規模には及ばなかったようです。

寺への石段



興法寺から石切駅までのルートも、急な坂が続いていますが、途中に江戸時代から大正時代までこの地で盛んだった製粉事業の動力源、水車の模型が展示されていました。



ここまでくると石切駅まではもうすぐですが、歴史を誇る京都の大寺院よりも、はるかに古い寺院がこの地にあることは、あまり知られていないようです。



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さて、靱公園の秋バラについて、一昨日に紹介した記事の続きです。

フロージン82



バラは、青空を背景とした写真が良くあうので、できるだけ低い位置からバラと青空を狙ってみました。



これはバラと彫刻



靱公園では、バラの花に霧吹きで水を吹きかけ、写真を撮っているクラシックカメラを持った高齢者を見かけてきました。

 ローズオオサカ



天気の良い日、バラの花に無理やり霧を吹きかけて写真を撮るのは不自然でないかと思いましたが、どうぞと勧められたので、つい好意に甘えて。



彼は、パティシエの仕事を45年続け、還暦を過ぎた今は悠々自適の毎日で、こうして花の写真を撮っているようですが、霧吹きのアイデアは仕事から思いついたのでしょうか。



その彼のもっともお気に入りの場所が、靱公園のバラ園だそうです。



彼のカメラは、戦前ドイツで生産されたもので、レンズも当時のドイツ製ですと自慢していましたが、私は骨董カメラにはあまり興味がありません。



シャッター音が良いんですよと言って、聞かせてくれましたが、「プシュー」と高圧エアーが吹き出すような変わった音でした。



 <たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時々> (橘曙覧)



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靱公園で開催中の花と彫刻展の作品の紹介、その2回目です。




「樹・ポエムー幸福の青い鳥 北田洋子」




「証(しるし) 西卓男」




「無題(山の掟)道正勝重」




「土座‘10-03 若林節子」




「僕とオレンジ 岩渕早苗」




「空の記憶 宮本晴」




「うつして 岡村三郎」




「氷河 玉城正雄」




では最後に、「たのしみは 朝起きいでて 昨日まで 無かりし像を 見て歩くとき」 ROSS

「風のカーニバル 淀川和男」




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 第41回花と彫刻展の開かれている靱公園では、ちょうど秋バラが満開となっていましたので、先日の朝日新聞の記事にあった橘曙覧のことと一緒に、ご紹介しましょう。




正岡子規は、幕末の歌人、橘曙覧(1812~1868、たちばなのあけみ)を、「万葉集以来、今日に至る幾百の歌人を圧倒した存在」と絶賛しています。

マチルダ




橘曙覧は、暮らしの中からほとばしる自然な気持ちを歌としたことで知られています。

ピース




彼は豪商の生まれでしたが、家業を弟に譲り、あばら家に住んで極貧の生活をしていたそうです。

ゴールドバニィ




橘曙覧が優れた歌人であることを知った福井藩主、松平春嶽が藩に仕えるよう招いても断ったといいます。

マリアカラス




断られた松平春嶽がある日、橘曙覧の住むあばら家を訪れてみると、あまりのひどい状況であったので驚いたそうです。

フロージン82




実は、そのあばら家での極貧の生活の中に、橘曙覧の楽しみがあったのです。

ストロベリーアイス




それは、日常のささやかなできごとを和歌にすることでした。

マグレディスイエロー




<たのしみは 朝起きいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき> 橘曙覧

プリンセス・ノブコ




「たのしみは 靱の庭の バラ園の 花のさかりを じっと見るとき」ROSS



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 今年も靱公園で花と彫刻展が開催されていると聞きましたので、芸術の秋を楽しむために行ってきました。




四ツ橋筋側から入るとすぐにある「五月 岩谷誠久」、あどけない表情が魅力的です。



純白の裸婦像「空へ 高橋宏至」、写実的なのにシュールなイメージが面白いですね。




次ぎが「あの頃の記憶 田村晴江」、恥ずかしそうな少女の表情が素晴らしい。




次が「OFF TIME 岡嶋祥介」、椅子にこしかけ固い表情の少女像




次が「回想 高砂晴光」、リラックスした表情の少女




次が「天をあおぐ 石橋整一」、日本人の体形を忠実に再現しているように思いました。




次が「わたしはわたし 岡田信美」、あぐらをかいた裸婦像は珍しい




次が「composition 酢谷宏」、膝をつく少女の体をうまく表現しているのではないでしょうか。




この抽象的な彫刻「立像 林在鳳」も、裸婦を表現したものでしょう。



最後がバラ園の滝の上に置かれた「歩き出そうよ 播間公次」、裸婦像は、明るいバラ園の中が似合います。





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 大阪市長杯世界スーパージュニアテニスの男子シングルス準決勝戦では、待望の日本人選手が勝ちあがっていました。




その選手は内山靖崇(第2シード)、1992年8月生まれなのでまだ18歳、身長が183センチと、錦織よりもさらに5センチ高い選手です。




日本人の男子テニス選手は、170センチ前後と小柄なので、190センチクラスの世界トップと戦うにはハンディがありますが、183センチなら何とか通用するのではないでしょうか。

フォアハンド




もうじき21歳となる錦織が伸び悩んでいる日本男子テニス界ですが、伸び盛りの内山にはこれから期待できそうです。

バックハンド




さて、内山の男子シングルス準決勝戦の相手は中国の
欧陽博文選手(第3シード)、中国人にしては大変マナーの良いさわやかな選手でした。

内山のサーブ




ジュニアの試合でも、審判の判定にクレームをつける選手を多く見かけましたが、
欧陽選手にはそれが無く正々堂々としていました。




それでは、その
欧陽選手のパワフルサーブを紹介しましょう。




トスしたボールにラケットがヒットする寸前ですが、
欧陽選手の目はまだボールをしっかりと見ています。




ヒットした直後のボールは、急加速され飛んでゆきますのでブレで写っています。




試合は内山選手(こちら向き)が勝利しましたが、敗者でありながら
欧陽選手の退場時には観客から大きな拍手がありました。




翌日の決勝戦では、第2シードの内山が、第1シードのパビック(クロアチア)を破って優勝していますので、やっと将来が楽しみな日本人選手が出てきました。



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 靱テニスセンターで大阪市長杯世界スーパージュニアテニス女子シングルス準決勝戦を見てきましたので、その写真を紹介しましょう。

サルニコワ




女子シングルス準決勝センターコートでの戦いは、ロシア人ダリア・サルニコワ(第4シード)対、小柄な日本人小和瀬望帆(第7シード)の戦いとなりました。

小和瀬




サルニコワは16歳、日本の小和瀬望帆は、去年全国中学テニス選手権女子シングルスで優勝した高校1年生なので同年齢同士です。




サルニコワは、体を生かしたパワフルなテニスが持ち味で、16歳の女性とは思えない鍛え上げた筋肉をしていました。




バックハンドショット後のフォロースルーを見ると、体全体を使って思い切り振りきっていることが判ります。




小和瀬望帆は、小柄ながらサルニコワに一歩もひけを取らないストロークで圧勝、決勝戦に進出です。

小和瀬のサーブ




女子シングルス準決勝のもうひとつの戦いは、ベラルーシのイロナ・クレメン(第3シード)対中国のZHENG・saisai(第1シード)でした。

ZHENG




シード順位が上のこちらの試合は、無料で開放された第1コート、シード順位が下でも日本人選手の試合は、有料のセンターコートと、主催者が合理的に試合会場を決めていましたね。

クレメン




クレメンのフォアハンドショットが、ボールに当たった瞬間を写真に捕えてみると、ボールが半分の大きさに凹んでいることが判ります。




この試合は、第1シードの中国選手、ZHENG(漢字では鄭か)が勝利、翌日の決勝戦ではZHENGが小和瀬を破って優勝しています。



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 今年の大阪市長杯世界スーパージュニアテニス女子ダブルス決勝戦を靱テニスセンターで見てきました。




今年の女子ダブルス準決勝は、長身のロシア人ペア(エカテリーナ・セメノワ、ダリア・サルニコワ)対日本人ペア(加藤未唯、穂積絵莉)の戦いとなりました。




サルニコワとセメノワは共に16歳、日本の穂積は16歳、加藤は15歳ですが、ロシアペアが大きいので小柄な加藤が子供に見えてしまいます。

加藤




サルニコワは、この試合の前のシングルス準決勝で敗退しましたが、ダブルスでは決勝に進出、体を生かしたパワフルなテニスが持ち味です。




セメノワは、背が高く、強烈なサーブとストロークの持ち主で、特にスマッシュの破壊力は抜群でいた。




15歳の加藤未唯は、小柄ながらロシアペアに一歩もひけを取らない素晴らしいストロークとサーブを見せてくれました。

加藤のサーブ




穂積絵莉も安定したストロークが持ち味で、この試合では相手の強烈なパスを素早い動きのポーチで何本も決めていました。




試合は第一セットを日本ペアが取り、第二セットはロシア、最終セット(タイブレーク10本)にもつれ込む展開となりました。


常に明るい表情の加藤



その結果、は下の写真の通り・・・・・・選手の表情に明らかなように、日本人ペアの見事な勝利に終わったのでした。




この試合で印象に残ったのは、大柄なロシア人に真っ向から勝負を挑み、全く引けを取らなかった15歳の加藤未唯でした。将来が楽しみな選手です。

加藤のサーブ




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 今年も恒例の大阪市長杯世界スーパージュニアテニスの季節となりましたので、仕事の合間を見つけ、女子ダブルス準決勝戦を見てきました。




今年の女子ダブルス準決勝は、長身のロシア人ペア(エカテリーナ・セメノワ左、ダリア・サルニコワ右)対日本人ペア(伊藤夕季、大前綾希子)の戦いとなりました。




サルニコワとセメノワは共に16歳、日本の伊藤は17歳、大前はもうじき18歳という年長ペアですが、ロシアペアが大きいので伊藤と大前が子供に見えてしまいます。




伊藤と大前(共に身長
157cm)に比べると、ロシアペアは20cmくらい背が高く、手足が長いのでサーブとストロークは強烈でした。(サルニコワのサーブ)




ラケットにボールが当たる瞬間を写真に撮るのは難しいのですが、このセメノワのサーブでは、なんとかものにできました。




ロシア人の女子テニスプレーヤーでは、シャラポワはじめ美人揃いで有名ですが、この二人もなかなかの美形でした。サルニコワ




しかし試合に集中し、フォアハンドでボールを強烈にヒットする時、その表情は一変するのです。サルニコワ




サルニコワのバックハンドは、唇をかみしめて思い切り体を捻って、しっかりボールを見ています。




さらに上半身と腕を思い切り回転させ、相手のコート深く突き刺さる、パッシングショットを何本も決めていました。




伸び盛りのロシア16歳ペアは、決勝戦でも日本人ペア(穂積絵莉、加藤未唯)が相手ですが、その勢いを止めるのは至難の業ではないかと思います。




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暗峠のすぐ下にある生駒縦走路分岐点から、北向きの縦走路方向にコースを替えると、山奥に数軒の集落があったので吃驚しました。




集落を抜けると、ぬかた園地と書かれたゲートがあり、生駒山麓のハイキングコースを示す案内看板がありました。




東大阪市には、大阪府みどり公社が管理する「大阪府民の森 中部園地」があり、案内看板を見ると、北からくさか、ぬかた、なるかわ園地と連なっているようです。




そのうち「ぬかた園地」は、面積62ヘクタール、九十九折りの遊歩道に沿って、30数品種約2万5千株のアジサイが植えられているとか。




府下でも屈指の規模を誇るあじさい園ですが、残念ながらあじさいの花は終わっていました。




しかし、よく探してみると、わずかに名残を留めているあじさいの株があり、それはそれで秋の雰囲気がいいですね。




園内を見て、あじさいシーズンに、もう一度来てみたいと思いましたが、今の季節ならではのガマズミの赤い実を見ることができました。




派手な色をしたクサギの実を見ることができるのも今の時期だけだと思います。




HPには、ここではヤマドリやホンドリスとの遭遇があり、野鳥や蝶々など昆虫の宝庫ともありましたが、大都会大阪からごく近いのには驚きました。




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この日天気予報は、「晴れ」でしたが実際は薄曇りで、少しもやがかかっていました。




暗越奈良街道は、国道とはいえ道幅は狭く、急勾配で有名です。




「暗がり」の名称は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道だったという説が有力です。




途中には、1000年以上前から湧き出ている弘法の水がありましたが、現在、生水のままでは飲めないようです。




弘法の水を過ぎると生駒山系の頂上が近くなり、道の勾配が次第に緩やかになってきました。




この辺りから道の両側には民家が続き、その先に狭い暗越奈良街道が伸びています。




江戸時代、暗峠には20軒近い茶店や旅籠があり、伊勢参りの人々で賑わっていたそうですが、今は茶店が1軒だけでした。街道の右側には、広い農地も




峠の頂上付近の路面は、大和郡山藩によって敷設された石畳となっていることが知られています。




暗峠には、「日本の道百選」の標識もありましたが、周辺の歴史景観を改善すれば、もっと人気が出るのではないでしょうか。




近鉄枚岡駅から約1時間20分、標高455mの暗峠の先には、生駒スカイラインの下を抜けるガードがあり、その先は奈良へと続いていました。




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秋の日曜日、大阪難波から近鉄電車に乗って生駒山麓にある枚岡駅で下車、そこから暗越(くらがりごえ)奈良街道を歩いてみました。




近鉄奈良線の枚岡駅で下り、枚岡神社を左に迂回すれば、
大阪から奈良に抜ける生駒越えの国道308号線に出ることができます。




難波宮と平城京を最短距離で結び、万葉集にも出てくるこの道は、1300年以上前からある古い道で、
暗越奈良街道と呼ばれています。




枚岡神社を迂回する道は、椋ケ根橋へ続き、その橋を渡ると国道308号線との合流地点です。




その地点は、思ったよりも標高がある展望の良い場所でした。




くらがりの由来は、地名の
椋ケ根が訛ったとか、馬の鞍がひっくり返る険しさから来たとか、諸説あるようです。




また、今も道が狭く、車が鉢合わせすると、すれ違うことが難しい個所が至る所にあります。




1694年、重陽の節句(9月9日)に松尾芭蕉(満50歳)が通り、「菊の香に
くらがり登る 節句哉」という句を詠んでいます。




芭蕉よりも高齢となったハイカーには、暗越えの坂道ハイキングは疲れます。途中にある観音寺




井原西鶴の世間胸算用には、この峠の近くで追剥が出たという記述がありますが、今でも車の通行が少なく追剥がでそうな道でした。途中にある石の神様




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 JR京橋駅南口にある1945年8月14日の空襲慰霊碑をきっかけに、今井美代三さんの「大阪空襲体験記」を読んだのでご紹介しましょう。


京橋駅南口


 

八軒家浜の南、東区石町2丁目(石二町)の町会長今井さんは、自ら被災されるなか、空襲下の大阪を著書につぶさに記述しています。



 

米軍の第一回大阪空襲は、3月13日の深夜から14日の未明までの3時間半、港区、浪花区、北区、西区が爆撃を受け、約4700人の死者、行方不明者を出しています。

石町2丁目にある坐摩神社行宮



 

その後は5月末まで途絶えていましたが、6月に入ると1日、7日、15日、26日と4回、7月10日、24日、そして8月14日の空襲へと続いたのです。

坐摩神社行宮にある鎮座石



 

今井さんによると、東区石町2丁目が爆撃されたのは6月7日、今井さんは町内の避難民157名を率い、避難場所の八軒家浜に到着しています。

八軒家浜の標識



 

暫くすると、八軒家浜対岸の天満青果卸売市場が大爆発、天満一帯が一瞬にして大火となり、避難民の頭上に大量の火の粉が降り注いだといいます。

天満青果卸売市場のあった大川対岸



 

大阪市は、延焼防止のために民家の強制破壊までしていますが、天満青果卸売市場に大量の軍需用燃料を貯蔵していることは知らされてなかったようです。

左が天満青果卸売市場の跡



 

大量の避難民で溢れる中之島公園では、両岸の大火災で竜巻が発生して危険な状況となり、避難民が危うく船で公園を脱出したと書いてありました。

中之島公園の剣先


 

大阪砲兵工廠(大阪造兵廠)は、米軍の目標とされて何度も空襲を受けていますが、幹部が避難する防空壕は、3月に空襲を受けた大阪市内の焼け跡に、豪華な資材をふんだんに使って築造されていたようです。

大阪砲兵工廠跡地に建つOBPのビル群(正面)



 

民間人が被災した土地に密かに建設した防空壕は、終戦直前に撤去されていますが、撤去作業に従事した人はその豪華さに驚いたと今井さんは書いていました。

石町2丁目から八軒家浜方向



 

庶民に滅私奉公を強要しながら、自らは豪華防空壕に避難していた砲兵工廠の軍人達を今井さんは痛烈に批判しています。



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JR京橋駅の南側には、今も1945年8月14日の空襲慰霊碑がありますが、ポツダム宣言の受諾を巡る政府の迷走が、京橋駅の惨事につながったことをご紹介しましょう。



1945年7月26日、連合軍のポツダム宣言発表を受け、日本政府は、明確に拒否することは終戦の機会を逸するものとして、コメント無しで28日の新聞にその訳文だけを発表しています。

京橋駅の慰霊碑

 

これに軍部が反発、鈴木貫太郎首相に、戦争貫徹に邁進するというコメントを要求、軍部を恐れた首相は断固抗戦という談話を30日の新聞に公表したのです。

京橋駅から近い砲兵工廠跡地、OBP(大坂ビジネスパーク)のビル



しかし、8月6日広島に原子爆弾が投下されたことを受け、東郷外相は昭和天皇に原子爆弾の恐るべき実情を上奏、昭和天皇は終戦に向け努力するようと発言されています。

砲兵工廠跡地と京橋駅の間を流れる寝屋川



政府は、ソ連を経由した講和締結を目指しますが、8月8日面会したモロトフ外相は、鈴木首相の断固抗戦という新聞発表を根拠に、ソ連の対日宣戦布告文書を佐藤大使に手渡すのです。

砲兵工廠跡地OBPのビル



翌9日、ソ連軍は満州国境を越え日本軍への攻撃を開始、長崎へは2発目の原爆が投下されますが、ポツダム宣言受諾に関する政府内の迷走は続き、同日深夜、御前会議が開かれています。

砲兵工廠跡地と第二寝屋川



8月10日の早朝、やっと天皇の聖断が下り、国体護持の条件を付加したポツダム宣言受諾が決定、中立国スイスとスエーデンを経由して連合国へそれが伝達されています。

左が砲兵工廠跡



12日、アメリカ国務長官から条件付きポツダム宣言受諾への回答文書が提示されましたが、その中の文章の解釈でまたもや閣議が紛糾したのです。

旧片町線から延伸したJR学研都市線



連合国側に文章の解釈を照会せよという意見(陸相)と、このまま受諾する意見(外相)が対立していた8月14日、大阪砲兵工廠と京橋へ米軍の大規模な爆撃があり、京橋駅で民間人多数が死亡したのです。



その後の御前会議で閣議はやっと終戦を決定、14日の23 時にスイス・スウェーデン経由で連合国側にポツダム宣言受諾が通知されていますが、10日早ければ、広島、長崎の原爆投下を防ぐことができ、1日早ければ京橋駅空襲の惨事は無かったのでした。



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 真言宗 智山派の総本山は、京都東山の智積院、大本山は成田山新勝寺、川崎大師、八王子市の薬王院の3寺があり、成田山の大阪別院は、京阪電車香里園駅からほど近い高台にある成田山明王院(以下大阪別院)です。



成田山新勝寺の本尊は、弘法大師空海の手によって開眼された不動明王、大阪別院の本尊は、その分霊で、成田山不動尊と呼ばれています。



京阪沿線は、大阪の鬼門に相当するため、明治大正時代に住宅地として人気がなく、他の私鉄沿線のように宅地開発がなかなか進まなかったといいます。



そこで京阪電鉄は、広大な境内地を成田山新勝寺に寄進して大阪別院の建立を依頼、そこに1934年に創建されたのが大阪別院です。

鐘楼



鬼門を抑える大阪別院の創建で、香里園の住宅地としての人気が高まったために、京阪電鉄は「香里遊園地」を枚方に移転し、跡地を住宅街として分譲、事業は成功したようです。

笑魂塚



大阪別院が香里園に創建されて既に76年が経過していますが、京阪電鉄が門前町の区画分譲をしなかったため、門前町が無いのが残念ですね。

本堂



大阪別院は、現在でも鬼門よけとして信仰されているほか、交通安全祈願も行っており、人車一体の祈願を行った最初の寺として知られています。

本堂の前



そのため山門の外に、広大な駐車場があり、車で来る善男善女の利便性は高いようです。

太師堂



大阪別院大師堂の前には、すぐ近くから見つかったという畠山義豊(1469〜1499年)の墓石が置かれていました。



義豊の父、畠山義就とその従兄弟、畠山政長による畠山家の家督争いは、応仁の乱(1467〜1477年)のきっかけとなったことで知られています。



大阪別院の奥の院は、高台の下にある暗い洞窟の中にあり、そこには干支にちなんだ仏像が置かれていました。



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