織田信長の命をうけ丹波国の征討戦を開始した明智光秀(1528〜1582年)は、1579年に丹波国を平定すると、中心にあった城地を福智山城と改名して大修築しています。
このことから福知山城の初代城主は、明智光秀とされていますが、城代として城に入ったのは、明智秀満(光秀の女婿、1536?〜1582年)です。明智秀満は、明智左馬助ともいい、講談の琵琶湖湖水渡の武勇伝で有名な人物です。
その3年後に本能寺の変(1582年)があり、福知山城は明智光秀から豊臣方の豊臣秀勝、杉原家次、小野木重勝(重次)と城主を変えています。
関ケ原の直後(1600年)、豊臣方の小野木重勝(重次)は細川忠興の攻撃を受けて切腹、次に福知山城主となったのは有馬豊氏(1569〜1642年)で、現在の城郭や城下町はこの有馬氏の時代に完成しています。
有馬豊氏は、大坂の陣の武功もあって福知山(8万石)から久留米(21万石)に加増転封となりますが、20年間支配していた福知山城の古い資料の多くを久留米市に持ち込んだようで、福知山城の古地図が久留米市の篠山神社に保管されています。
有馬氏の次は岡部長盛(1568〜1632年)が5万石の城主となり、3年後に大垣に転封、その長男の岡部宣勝(1597〜1668年)は、大垣→竜野→高槻→岸和田と移り、岡部家は岸和田(6万石→5万3000石)で明治維新を迎えています。
岸和田藩主岡部家から朝日新聞社創業家(村山家)に養子として入ったのが、村山長挙(1894〜1977年)元朝日新聞社社主です。
1624年、岡部氏の後に稲葉紀通(1603〜1648年)が移ってきます。紀通は、父の稲葉道通(春日局の兄、1571〜1608年)の跡を継いで摂津中島城主、その後に福知山城主となりますが、転封から24年後に乱心による自殺を遂げ、紀通系の稲葉家は断絶しています。
紀通は、異常な行動が目立つ人物でしたが、春日局(1579〜1643年)の甥だったせいか、幕府は春日局が亡くなるまでその処分を見送っていたようです。
翌1649年、刈谷藩から松平忠房(1619〜1700年)が入部しますが、20年後(島原の乱からは31年後)に島原藩へ転封、1969年になって島原で松平時代の福知山城下絵図が発見されています。
参考文献:新編 福知山城の歴史 福知山市郷土資料館編集