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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



鹿児島藩の実質的な外城支配者で、麓(ふもと)に居住している(武士)衆中は、1780年に郷士と改称されていますが、薩摩藩の郷士を出水のツルのスローシャッター(1/80秒)写真と一緒に紹介しましょう。

外城の支配者は、麓に居住している曖(あつかい)、組頭、横目、の所三役で、外城における最高職となる曖には複数(出水では7人)の郷士が任じられ、合議制によって運営されています。

曖の下の組頭は、外城郷士組(出水では6組編成)のリーダー役で、郷士の指導や外城の警備にあたり、横目(目付)は警察・訴訟・検察を担当しています。

所三役の下には、書役、普請見廻、野廻、相談役、触役、郡見廻、櫨楮見廻、牧司、庄屋、浦役などの役職があり、すべて下級郷士が任じられていました。

他藩では農民層から任じられる庄屋も郷士に独占されていたために、農民層は厳重な監視下に置かれ、薩摩藩では一揆のような抵抗運動はなかったといいます。

もともと鹿児島の城下に居住する武士と、麓に居住する郷士は同格でしたが、島津重豪の藩政改革以降、城下士は半農半武士の郷士を「一日兵児」(ひしてべこ)などと蔑称、下に見るようになっています。

一方、同じ郷士でも政治中心の麓に居住していた郷士は、麓以外の勤務地に居住する郷士を「肥えたんごさむらい」などと蔑んだといいます。また92か所あった地頭所の郷士は、一門が支配する私領地(21か所)の郷士を家中(陪臣という意味)と呼んで差別していたようです。

したがって江戸期の薩摩藩武士の世界では、鹿児島城下の武士(10ランク)>地頭所の所三役郷士>私領地の所三役郷士>地頭所の所三役以外の郷士>私領地の所三役以外の郷士>地頭所麓以外の郷士>私領地麓以外の郷士という序列があったようです。

幕末活躍した家老小松帯刀の小松家は、10ランクある城下士の上から2番目(2600石)、西郷隆盛の西郷家の家格は城下士の下から2番目。川路利良(日本警察の父)の川路家は最下級の城下士でしたが、これでも鄕士よりも上の立場でした。



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薩摩藩領国支配の拠点となった麓(ふもと)について「鹿児島県の歴史」1999年出版に出ていましたので早朝の出水のツル写真と一緒にダイジェスト版で紹介しましょう。

江戸時代における薩摩藩の外城は、合計113か所、麓は藩直轄の地頭所92、島津氏一門が支配する私領地21に分かれていますが、ここでは地頭所の麓を取り上げます。

一つの外城は数カ村からなり、中心には武士の集落となる「麓(ふもと)」がありました。江戸時代の麓で、現在まで良好に保存されているのは、出水、伊集院、加世田、国分、志布志、高岡(宮崎県)など。

このうち出水、知覧、入来の3か所が、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されています。

麓は、概ね中世の古城(山城が多い)の近くにあり、地頭が居住する地頭仮屋を中心に、石垣で囲まれた武家屋敷が整然と建ち並び、小規模な城下町を形成していました。

外城行政・軍事を司る地頭は、任地に在住していましたが、1644年頃以降は鹿児島常駐となり、地頭は任地に一代に1回だけ赴く制度となっています。

したがって諺の「泣く子と地頭には勝てぬ」という地頭と直接関係のあった庶民は殆どいなかったようです。

但し、国境の要衝となる出水などには地頭代が置かれ、甑島などの離島には地頭が赴任地に在勤(居地頭)していましたので、その地域の領民には当てはまっていたのかも知れません。

鹿児島藩では1783年に外城が郷と呼ばれるようになり、1780年には外城の衆中が郷士と改称されていますので、これから外城の武士を郷士とします。・・・つづく

参考文献:「鹿児島県の歴史」原口・永山・日隈・松尾・皆村共著1999年出版



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安土桃山時代とは、織田信長と豊臣秀吉が政権を取っていた時代のことで、概ね15681600年とされています。ところが豊臣時代に桃山という地名は無かったという説をシギの飛行写真と一緒に紹介しましょう。

秀吉が伏見城築城を始めたのは1592年、秀吉は伏見城を居城としながら1598年に亡くなっています。その後、関ヶ原の戦いを勝利した徳川家康は1603年伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸城に移ってから秀吉に所縁の伏見城を破壊しています。(江戸時代のはじまり)

その後、伏見は廃れますが徳川氏と共に江戸に移ることなく伏見に残った町人の一部は、許可を得て荒れた広大な城山に桃の木を植林したといいます。

桃栗三年というように、桃は生育が早く、痩せた土地でもちゃんと生育することが当時から知られていて、1664年頃の伏見山(城山・古城山)には、3万本もの桃の木があったようで、それ以降も桃の産地として続いていたといいます。

明治維新後となる1896年(明治29年)、京都奈良間に鉄道(現在のJR奈良線)が開通した際、伏見山(城山・古城山)に近い駅が桃にちなんだ「桃山」と命名され、この頃から「桃山」という地名が広まったようです。

1912年(明治45年)730日、明治天皇が崩御されると、明治天皇のご遺言(明治36年京都へ行幸した際のお言葉)によって伏見山が御陵の地となり、その名称は最寄りの駅名から「伏見桃山陵」(87日付け公文書)と決定しています。

819日から石造宝壙築造、御須家、祭場殿の建設、大鳥居、神饌所、奏楽所、幅10.8m、長さ880mの参道工事などが施工され、予定より7日早く95日に工事が完了したというので相当な突貫工事だったようです。(当然、桃の木は伐採されたのでしょう)

914日午前2時、東京の青山仮停車場を明治天皇の霊柩列車が出発、同日夕方には「桃山駅」に到着、八瀬童子によって霊柩は玄室に運ばれ奉安、翌15日に天皇皇后、皇族、高官など1000名が参列した拝礼があり、陵の名称は「伏見桃山陵」と発表されています。

明治天皇陵によって「桃山」の名が全国に広まったため、明治時代に教育を受けた歴史学者たちが織田豊臣時代を「安土桃山時代」としたようですが、豊臣時代に桃山という地名は無かったので、本来の伏見を採用して「安土伏見時代」とすべきでしょう。

参考文献:秀吉と伏見時代 桃山時代と呼ぶのは間違いである 中川正照著



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新宮城の写真と一緒にその城主だった水野忠央(1814~1865年)のことを紹介しましょう。さて、幕政初期における駿府の大御所家康の側近グループ(水野忠央の先祖)と江戸の将軍秀忠の側近グル-プとの間は仲が悪く、家康生存中は駿府の側近グループのほうが上位にあったようです。・・・新宮城の入り口

しかし、家康の死後、それまで忍従してきた秀忠側近グループの巻き返し策として、尾張、紀州、水戸御三家付家老となった駿府側近グループは将軍の陪臣扱いの身となっています。

ところが、諸大名の官位の規準が4代綱吉の頃にできあがると、各大名は家格や官位に敏感となり、少しでも官位が上がるなら莫大な賄賂も辞さないと競うようになり、尾張、紀伊、水戸徳川家の付家老5家も結束して江戸城単独登城、将軍御目見得など大名並みの待遇改善運動を開始しています。

将軍徳川家斉の時代に入ると幕府閣老は、家斉の多数の子を家格の高い御三家に押しつけようとして御三家付家老の要求を徐々に認めるようになり、御三家内の不満を抑圧させることに成功しています。

1824年(文政7年)、紀州家付家老(水野・安藤両家)の江戸城単独登城が実現していますが、紀伊徳川家に養子として入った将軍家斉の7男が同年家督を相続したことが背景にあったのです。

無理に隠居させられた徳川治宝は、付家老を遠ざけて側近グループを登用、隠居後も権力を保持し続けますが1852年に亡くなり、それ以降は付家老の専制体制が確立しています。

1835年水野忠央が22歳で水野家の家督を相続、紀州家付家老に就任しています。水野忠央は、藩主徳川治宝と最後まで対立しながら、幕府老中阿部正弘と結託して家斉の子を紀州家養子として迎えています。

また水野忠央は、水野家の大名昇格のために安政の大獄で知られる大老井伊直弼とも協力、御三家付家老の大名昇格に反対していた水戸藩主徳川斉昭を蟄居に追い込んでいます。

しかし1860年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、大老派とみられていた水野忠央は失脚、新宮で隠居謹慎を命じられ、1865年に新宮で亡くなっています。満50歳の若さでした。

参考文献:徳川御三家付家老の研究 小山誉城著

 



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室町時代の熊野参詣は、「蟻の熊野詣」(1439年の文献)と言われるほど、大勢の大衆による参詣が盛んでしたが、15世紀後半が最盛期で16世紀(戦国時代)となると伊勢神宮参詣のほうに人気が移ったようです。

また那智の青岸渡寺が西国三十三か所巡礼の第一番札所となり、15世紀頃から盛んに巡礼が訪れていますので、近世以降の熊野詣は、西国三十三か所巡礼の一部に包含されたようです。

1586年頃には、新宮を拠点としていた豪族堀内氏が古座から志摩までの所領を豊臣秀吉から安堵され、新宮が新しい城下町となりますが、幕末まで新宮にあった丹鶴城は堀内氏が築城したものという説が有力です。

しかし1600年、新宮の堀内氏は関ケ原で石田方に味方したために、浅野幸長(1576~1613年)が紀伊国に入り、一族の浅野忠吉(1546~1621年、幸長の大叔父)が新宮28000石の領主となっています。

浅野忠吉は、熊野川に近い丹鶴山に築城(堀内氏の城を改修か)し、領地としていました。それから19年間にあった大坂夏の陣の後(1619年)、徳川頼宣(家康の10男)が代わって55万石の和歌山城主となり、その付家老「水野重央(しげなか)」が新たな新宮城主(35000石)となっています。

水野重央(1570~1621年)は、水野忠分(1537~1579年)の次男、父親の水野忠分の兄水野忠守の系統(宗家)に水野忠元(従弟1576~1620年)その子孫に老中水野忠邦、忠分の弟水野忠重の系統に水野勝成(従兄1564~1651年)が出ています。

水野忠分の姉は、徳川家康(1543~1616年)の生母(於大の方)だったので水野重央、水野忠元、水野勝成たちは、徳川家康と従兄という濃い姻戚関係にあり、家康からの信頼も絶大だったようです。

駿府に大御所として隠居していた家康は、徳川御三家となる子孫に側近から最も信頼できる武将を付家老として選び、紀州徳川家和歌山城の城代家老は「安藤直次(田辺38800石城主)」、水野重央は紀州徳川家の江戸詰め家老となり、新宮には水野家の家老が城代として入っています。

名門ながら紀州家の家老水野家は、譜代大名家よりも格下の将軍家陪臣扱いとなったため、歴代藩主は名誉回復に苦しむことになりますが、その名誉が回復されたのは明治元年でした。



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福知山城の石垣には、もともとこの地にあった宝篋印塔、五輪塔などの石造物「転用石」が大量に使用され、「転用石」の点数は、現在おおよそ500点、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっています。

恐らく1579年に福知山城の城代となった明智秀満によって、近隣寺院の墓地などから築城用に大量に運び込まれたと考えられています。

「転用石」の種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、笠塔婆、石臼等があり、明治6年の廃城令で壊された石垣の中にあった「転用石」は、福知山城の中に今も保存展示されています。

さて、関ヶ原で西軍から東軍に寝返ったのが朽木元綱(15491632年)で、一時西軍についていたとの理由で2万石から減封され、長男朽木宣綱(15821662年)の系統は旗本として明治維新まで続いています。

1616年、酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付年寄となり、彼らは徳川譜代家臣団から60数名の少年を徳川家光(16041651年)の小姓として採用、旗本朽木元綱の三男朽木植綱(16051660年)も抜擢され家光に仕えはじめています。

朽木植綱は、1631年に小姓組番頭、1633年に書院番頭、1635年再び小姓組番頭と若年寄を兼任、1636年には加増を受けて1万石の大名と目覚ましい出世を遂げています。

朽木本家が旗本として留まったのに、三男の植綱が大名となったのは、植綱が優秀だったことと、家光よりも年下だったことで家光から可愛がられたからでしょう。

朽木植綱は、1639年に1万石、1647年にも5千石の加増を受けて下野鹿沼藩主、1649年には3万石の常陸土浦藩に転封、家光の死から9年後の1660年に亡くなりますが、長男の朽木稙昌(16431714年)が跡を継いでいます。

1669年、朽木稙昌(16431714年)は、松平忠房の次の福知山城主として土浦からこの地へ入り、以降明治維新まで植綱系の朽木氏(13代)が福知山(32000石)を統治しています。

しかし1873年(明治6年)の廃城令で建物や堀、石垣もかなり失われ、福知山城の遺構としては天守台と本丸の石垣が残されるのみとなっています。

参考文献:新編 福知山城の歴史 福知山市郷土資料館編集



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織田信長の命をうけ丹波国の征討戦を開始した明智光秀(1528〜1582年)は、1579年に丹波国を平定すると、中心にあった城地を福智山城と改名して大修築しています。

このことから福知山城の初代城主は、明智光秀とされていますが、城代として城に入ったのは、明智秀満(光秀の女婿、1536?〜1582年)です。明智秀満は、明智左馬助ともいい、講談の琵琶湖湖水渡の武勇伝で有名な人物です。

その3年後に本能寺の変(1582年)があり、福知山城は明智光秀から豊臣方の豊臣秀勝、杉原家次、小野木重勝(重次)と城主を変えています。

関ケ原の直後(1600年)、豊臣方の小野木重勝(重次)は細川忠興の攻撃を受けて切腹、次に福知山城主となったのは有馬豊氏(1569〜1642年)で、現在の城郭や城下町はこの有馬氏の時代に完成しています。

有馬豊氏は、大坂の陣の武功もあって福知山(8万石)から久留米(21万石)に加増転封となりますが、20年間支配していた福知山城の古い資料の多くを久留米市に持ち込んだようで、福知山城の古地図が久留米市の篠山神社に保管されています。

有馬氏の次は岡部長盛(1568〜1632年)が5万石の城主となり、3年後に大垣に転封、その長男の岡部宣勝(1597〜1668年)は、大垣→竜野→高槻→岸和田と移り、岡部家は岸和田(6万石→5万3000石)で明治維新を迎えています。

岸和田藩主岡部家から朝日新聞社創業家(村山家)に養子として入ったのが、村山長挙(1894〜1977年)元朝日新聞社社主です。

1624年、岡部氏の後に稲葉紀通(1603〜1648年)が移ってきます。紀通は、父の稲葉道通(春日局の兄、1571〜1608年)の跡を継いで摂津中島城主、その後に福知山城主となりますが、転封から24年後に乱心による自殺を遂げ、紀通系の稲葉家は断絶しています。

紀通は、異常な行動が目立つ人物でしたが、春日局(1579〜1643年)の甥だったせいか、幕府は春日局が亡くなるまでその処分を見送っていたようです。

翌1649年、刈谷藩から松平忠房(1619〜1700年)が入部しますが、20年後(島原の乱からは31年後)に島原藩へ転封、1969年になって島原で松平時代の福知山城下絵図が発見されています。

参考文献:新編 福知山城の歴史 福知山市郷土資料館編集

 



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昨日に続き1966年(昭和41年)4月出版された「今日の風土記2 奈良の旅」に著者松本清張氏がじっくりと観察した高取城のことがありましたので紹介しましょう。<・・・>がその本からの引用です。・・・高取城跡の石垣

<たとえば、弘法大師のつくった益田池碑という大きな碑が、むかし橿原市にあった。その碑文が伝わり、碑の台石も残っているのに、碑そのものは現存しない>・・・高取城の国見櫓跡から見た橿原市の畝傍山(左側)。益田池はそのすぐ南にあったようです。

<ところが高取城には、ところどころに碑文の一点一画を彫った石材が積まれている。まずまちがいなく、弘法大師の碑は割りくだかれて、この石垣の中に消えたものと見ていい>松本清張、は此の石垣の中に碑文を彫った石材を発見したのでしょう。

<また、城の道の側に、猿石というものが立っている。これは欽明帝陵のそばの吉備姫の墓や橘寺にある飛鳥地方特有の飛鳥時代の石人の一つである>

<さすがに石舞台古墳の石は、大きすぎて運べなかったが、それでも、その羨道(古墳の棺を納める室への通路)の天井石は全部なくなっている。これは、むかしから高取城へ持ち去られたと伝えられている>・・・石垣の隅石に加工されたものもあったのでしょう。

<また、飛鳥の有名な鬼の雪隠、鬼の俎板というものがあるが、いうまでもなく俎板が石室の底で、その上に雪隠といわれるものが伏せて置いてあったのである>

<それを今のようにひっくり返し、しかも俎板を割ろうとして、一面に矢(石割り用のくさび穴)入れてあるのは、ともに高取城(築城時の人)のしわざと伝えられている>

<すると、飛鳥地方には、むかしはもっともっと多くの石造物があり、運びやすいものはみな持ち去られて、大きすぎるものだけが取り残されているのだといえそうだ>

<南大和の石造文化財は、高取城築造のため、たいへんな被害を受けた。その元凶は、豊臣秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長である。郡山城では平城京址をこわし、高取城では飛鳥地方の遺跡をこわしたのである>

<郡山城入城後、彼がまもなく病没するのは、大織冠動座(藤原鎌足を祀る多武峰妙楽寺=今の談山神社を強引に郡山に移転したこと)の祟りだけでなく、この文化財破壊の天誅であったのかもしれない>



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今から48年前の1966年(昭和41年)4月に「今日の風土記2 奈良の旅」という本が出版され、その最初に著者(松本清張)の言葉が書かれていますので紹介しましょう。<・・・>がその本からの引用です。・・・高取城の石垣

<たとえば、旅先のある場所で、私が歴史を想い、古建築の様式を眺め(中略)山見ればその地質を、道あれば交通の移り変わりを、というふうに見まわして、しばし佇んでいたとしよう>・・・高取城の石垣

<ところがそこに別の旅行者が来て、ざっと眺めただけで立ち去ったとしようか。ああもったいない(中略)感動を人に伝えて一緒に見ていたいという(中略)その気持ちがこの本をつくる動機にもなったのである>・・・観光地にいる説明ボランティアの皆さんも同じ気持ちなのでしょうね。

その本に高取城のことがありましたので紹介しましょう。<高取城と言えば大和では有名な城である。郡山城よりも古く、すでに南北朝のむかしに、南朝方の豪族越智氏の居城となり、吉野を守って足利勢と戦ったところであり、ついで後南朝もここによったことがあった>

<豊臣秀長が郡山城に入ると、大和の南の備えとして、石を積んで雄大、堅固に造られ、天守台、天守閣も設けられた>

<徳川氏の天下になると、徳川家光のとき、植村氏が二万五千石の大名としてここにはいり、幕末まで住んだ>

<わずか二万五千石の大名であれば、陣屋が普通であるのに、植村氏はこの大きな城を持たされて、少々迷惑気味であった>

<しかし、文久年間(1861~1864年)に天誅組の変が起こって、高取城が攻められたとき、さすがの天誅組の猛者も、この天険を利用した山城を抜くことはできず、それが天誅組崩壊の一原因となった>

<高取城でとくに注目したいことは、郡山城と同じく、この城も付近の石造文化財をこわして石積みをやっていることである>・・・下の写真、手前の稜線の先が石材を調達した明日香村

つづく



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1863年、山麓の藩主御殿は、天誅組(960人)の攻撃を受けていますが、吉野からの反乱軍の備えとして置かれた高取藩士達(約200人)は、家光の思惑通り天誅組を撃退しています。・・・高取城二の丸の紅葉

明治2年(1869年)6月、版籍奉還によって江戸詰めの高取藩士が大和に帰郷、高取城内にあった侍屋敷の居住者が一挙に増え、150戸を数えたようです。

しかし、藩士達は次第に厳しい山上から縁故のある各地に移住してゆき、明治6年(1873年)には廃城、兵部省の管轄となっています。

その際に建造物の大半が入札により近隣の寺院などに売却され、二の門は町内にある子嶋寺に、新御殿(藩主下屋敷)の門は町内石川医院の表門に、松ノ門は土佐小学校(町立高取小学校)の校門として移築されています。

しかし天守をはじめとした解体の困難な大型建造物は、明治24年(1891年)頃まで残っていたようなので、天守閣が1615年頃の完成とするなら、276年間も高取山上に聳えていたことになります。・・・高取城本丸東側の紅葉

それから123年、高取城の建物は失われましたが、本丸や二の丸の石垣遺構は、人里離れた山頂にあることが幸いして、ほぼ完全な状態をとどめています。・・・本丸の紅葉

しかし、本丸や二の丸という中央部分以外の石垣(塁壁総延長は3600m)は、樹木の生長によって石垣の形が崩れ、崩落の危険がある箇所も多数あるようです。・・・本丸の紅葉

また心無いハイカーによって、焚き火のカマドとするために石垣の石が移動されていたこともあったといいます。・・・松の門跡の石垣

城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルという国内最大規模の山城をしっかりと保存して後世に伝えてゆく必要があると思います。・・・本丸北側の紅葉

高取城は、貴重な城郭遺跡として1953年3月31日に国の史跡に指定され、さらに2006年に日本100名城にも選定されています。

参考文献:大和高取城 多賀左門著 日本城郭史論叢(大和高取城 海津栄太郎著)



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近鉄吉野線壺阪山駅から4km南東にある高取城は、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つですが、城内面積は約10,000平方メートル、石垣塁壁の総延長約3.6キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ国内最大規模の山城です。・・・左は本丸の石垣

かつては標高583mの山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟も建ち並び、山麓から望むと「雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐(高取)の城」と謡われた城は、1589年に入城した本多氏によって1615年頃(今から約400年前)に築城されたようです。・・・本丸跡を表示する看板と紅葉

本多氏無嗣断絶後、1640年に三代将軍家光(37歳、1604~1651年)によって旗本の植村家政(52歳、1589~1650年)が取り立てられ、植村氏が明治維新まで14代にわたって高取藩主(2万5千石)となっています。

1968年、天守台の南西隅から本多氏の「丸に二の字」の家紋(植村氏は割桔梗)のついた瓦が発見されたことで、高取城天守閣は本多氏が1615年頃に造営したものが明治維新後まで残っていたようです。・・・本丸の紅葉

本多氏以降、植村氏によって修改築された高取城の門や櫓には、植村氏の家紋(割桔梗)のついた瓦が確認できるそうです。

家光は、かつて吉野からの反乱(壬申の乱や南北朝時代)があったことを考え、信頼絶大だった植村家政を高取藩主とし、吉野の押さえとして重要な城なので幕府に許可を受けること無く城の修理をしても良いと命じたといいます。

入城した植村家政は、高取城ではなく麓の下屋敷に移住(1642~44年頃)、高齢の身(54~56歳)に山上の冬の厳しさは耐えられなかったのでしょう。・・・二の丸からの景色

しかし藩士の城居住は続き、1644年頃には侍屋敷だけで55戸、幕末から明治15年(1882年)頃でも22戸、山上の人口は135人(大和国町村志集)もいたようです。・・・国見櫓跡地から藤原京付近の景色

1644年頃の絵図(和州高取城山之絵図)を見ると、高取城には多数の侍屋敷や足軽屋敷が克明に描かれていて、山地での厳しい生活が偲ばれます。

参考文献:大和高取城 多賀左門著



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高取城は、近鉄吉野線壺阪山駅から4キロメートル程南東にある標高583メートル、麓からの高さ390メートルの高取山山上に築かれた山城です。・・・今が紅葉の真っ盛りでした。

もとは南北朝時代に南朝方であった越智邦澄が1332年に築城したのが始まりと伝えられ、越智歴代の支配が長く続き、戦国時代には越智氏の本城となっていました。・・・高取城石垣と紅葉のコラボレーション

1532年、大和国に一向一揆が侵攻した際、一揆勢によって高取城は包囲されますが、天険の城は落ちず、一向一揆は敗走したといいます。(天文の錯乱)・・・見事な紅葉

1580年、織田信長の指示で高取城は一旦廃城となりますが、1583年に越智氏が滅亡、筒井順慶が支城の一つとして堅固な城塞へと改造したようです。・・・至る所に紅葉を見ることができます。

1585年、その筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)が大和郡山城に入城しています。・・・鬼門に当たる本丸北東部の石垣

その際、大和国は秀長の配下となり、高取城には秀長の重臣本多利久(徳川四天王の本多氏とは別系統)が1589年に入城、利久は新しい縄張りで高取城を築造し直したようです。・・・本丸跡

1591年に秀長が没し、4年後に後継者の秀保も亡くなると、本多利久の子俊政は秀吉の直臣(1万5千石)となっています。・・・本丸から見下ろした紅葉

秀吉没後、本多俊政は東軍(徳川家康)に加勢、西軍(石田三成)は高取城を手始めに攻撃しますが、堅固な山城だったために途中で断念して大津城(京極氏)攻撃に向かったようです。・・・藩主の屋敷があった二の丸

1600年の関ヶ原の後、東軍に付いた功を認められた本多俊政は高取藩(2万5千石)初代藩主となり、その直後から加増に見合う高取城整備を始めたようです。本多氏による高取城整備は、1国1城とする武家諸法度の発布(1615年)までにはほぼ完成していた可能性があります。今も残る石垣は399年以上前からここにあったのでしょう。・・・大手門石垣

しかし関ヶ原から37年を経た1637年、俊政の子の政武が嗣子なく没したため、大和の本多氏は2代で終焉。 養嗣子が認められなかったのは、外様大名だった上に大規模な城郭整備をしたことが幕府から疑いを受けたのかも知れません。

参考文献:大和高取城 多賀左門著



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大極殿を後にして平城京跡地の北にある溜池、水上池まで散歩してみました。・・・この時期は暑いので散歩する人はほとんどいませんね。

途中に咲いていたキバナコスモスです。それにしても暑い。

これが水上池です。赤い花は、夏に咲くフヨウ属のモミジアオイでしょう。

水上池の朽ちた桟橋の上に野鳥がいます。どうやらチドリ科最大の鳥、ケリの幼鳥のようです。

ケリは奈良市周辺で春から夏にかけて営巣産卵するようで、以前も奈良近郊のレンゲ畑で写真を撮っていると、空中から激しく威嚇攻撃されたことがあります。

ケリの成鳥は、胸に黒い線があり目がもっと赤いはずですが、これは幼鳥なのでしょう。

水上池の南東角から池の西側を見ると、手前の枯れ草にウチワヤンマが丁度止まっていました。

水上池の北側の籔から南側を見ると、2羽のカルガモが泳いでいました。自然豊かな湿地帯のようですね。

これがカルガモ。幼鳥のように見えましたがどうでしょうか。



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岩国吉川家の宗家は、吉川元春の父方の毛利家です。徳川家康は関ヶ原の直前、吉川広家(元春の二男1561~1625年)に毛利氏の中国8か国安堵という起請文を与えますが、関ヶ原の後、謀反の疑いがあったとして、毛利氏を防長2か国に減封しています。蝶の写真と一緒に毛利藩を紹介しましょう。

約束を反故にされ、中国8か国から防長2か国に減封された毛利家の徳川家に対する怨恨は深いものがありました。

毛利家では正月元旦に藩主が奥御殿に通じる渡り廊下まで来ると、上席家老が駆けつけ「殿!、今年は徳川征伐、いかがいたしましょうか?」と伺いを立てることになっていました。この話は、確か司馬遼太郎の龍馬がゆくの中でも紹介されていました。

ここで藩主は「うむ・・・まだ早かろう」と言うことになっていたとか。「廊下の式」と呼ばれるこの儀式が毛利家で幕末まで密かに続いていたのです。

しかし、毛利輝元(1553~1625年)から14代目となる毛利敬親(1819~1871年)は、第二次長州征伐に勝利した慶応3年(1867年)正月、「まだ早かろう」ではなく、「うむ・・・考えておく」と言ったそうです。

ところで1610年の検地によれば、防長2か国の総石高は53万9280石、毛利家では家康の腹心だった本多正信(1538~1616年)にこれを相談したようです。

本多正信は、「隣の安芸・備後2か国を受けた広島藩(福島正則1561~1624年)と調整した上で」と言い、福島家からの報告49万8000石を受けて、毛利家の石高を36万9411石と決定しています。

老獪な本多正信は、関ヶ原で大功のあった福島正則よりも毛利氏の石高を低くしておいた方が幕府幹部や正則を刺激せずに済み、かつ毛利家にも恩を売れると考えたのでしょう。

1625年にあった検地では、防長2か国の総石高はさらに増え、65万8299石、1687年には81万石、幕末には100万石を越えていたようですが、幕府に対する所役の負担基準となる総石高は36万9411石から増えていません。毛利家は密かに巨万の富を蓄えていたようです。

関ヶ原から288年後の1868年、この富を使った毛利家は、歴代藩主悲願の徳川征伐(明治維新)を断行、明治17年に藩主は公爵となり山口県出身者は長州閥として政界や陸軍を牛耳ることになるのです。

参考文献:岩国藩 成田勝美著



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先日大雨被害のあった岩国は、関ヶ原の戦いの後に防長2カ国に減封された毛利輝元(1553~1625年)が従兄弟の吉川広家(元春の次男1561~1625年)に与えた所領です。ツマベニチョウの写真と一緒に吉川氏を紹介しましょう。

豊臣時代、出雲国で14万石を領していた吉川広家の岩国は当初3万石でしたが、1634年に実高6万石と幕府に報告、幕府もこれを認め、外様大名格として参勤交代の義務を負わせていますが、江戸城伺候席の定めは無く、従五位下の叙位もありませんでした。

吉川氏は、藤原武智麻呂(南家)系統の藤原氏が1185年に駿河国入江庄吉河邑に居城を築いて定住、姓を吉河(吉川)と称したことに始まり、承久の変(1221年)での戦功で安芸国大朝荘の地頭となっています。

戦国時代に出た吉川経基(1428~1520年)は、応仁の乱(1467~1477年)で東軍に属して「鬼吉川」の異名を取る活躍が知られ、国基、元経、興経と続きますが興経が毛利元就の次男元春(1530~1586年)を養子に迎えたことから名門吉川家は毛利家に乗っ取られています。

岩国に入った吉川広家は、1603年から城の築城を開始(1608年に完成しますが一国一城の制により1615年に廃城)、この築城事業や参勤交代、幕府手伝い普請費用などが財政を圧迫しています。

そこで岩国藩は換金農産物(特に和紙)の専売に着目、一時相当な利益(1717年の収入で銀1560貫)を上げて藩財政を立て直しますが、家格昇格運動と吉川外記の失政でまたしても財政が破たんしています。

さて、幕末に登場した14代藩主、吉川経幹(つねまさ1829~1867年)は聡明な人物として知られ、1864年の第一次長州征伐では総督参謀西郷隆盛が岩国で吉川経幹と会見、直後に毛利家三家老の首が征長総督に届けられています。

 

吉川経幹を信用した西郷は、毛利藩が洋式武器を購入する際に進んで薩摩藩の名義を貸し、さらに二人の信頼は1866年の薩長同盟締結に繋がるのですが、その翌年に吉川経幹は病死、薩長同盟にひびが入ることを恐れた毛利家では経幹の死を秘匿しています。

この吉川経幹の活躍が認められたのか、吉川家が岩国に入ってから268年後(1868年)、新政府は正式に岩国藩を認め、吉川家は晴れて大名の仲間入りを果たしています。

参考文献:岩国藩 成田勝美著



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