野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



靱公園のバラ園にはバラの花に生産された国名と花の名前があるので、バラの勉強に丁度良い。

パットオースチン





ハッピーチャイルド





ロイヤルプリンセス





ジュリア





ホワイトクリスマス





マダムシャルルソバージュ





オータム





フロージン82




ピース




LDブレイスウエイト





バラの種類は150種もあるが、残念ながら花が終わったものや、まだ開花していないものも多く、とても全部を写しきれない。




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靱公園のバラ園のバラが丁度満開となったので、バラの写真を撮ってみた。

まずバラ戦争というものまであったイギリスに敬意を表してクイーンエリザベス



モナコのグレース王妃から





ピンクピース


パパメイアン




珍しいアメリカ産のオクラホマ


日本産のローズオオサカ


メアリーローズ




ツルゴールドバニイ


アンジェラ


ピエルドウロンサール




続く・・・




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私が勤めている会社から歩いて10分のところに、大阪のセントラルパークとも言える靱公園がある。


1955年に開園してから既に51年が経過していて樹木も大きく生長し、しっとりとした雰囲気のある美しい公園になってきた。


ここは大阪大空襲で廃墟になった、ざこば魚市場と靱塩干魚市場の跡地である。

靱公園がなにわ筋を挟んで東西に細長い形をしているのは戦後、進駐軍の小型飛行機用の飛行場となり滑走路跡地が公園となったためである。

面積 約10haというから長居公園 の6分の1、下の写真のニューヨークセントラルパークの33分の1というミニ公園である。


しかし大阪のビジネス街のど真ん中にあるので利便性が良く、昼休みに行くといつも近くのOLやサラリーマンが大勢寛いでいる。


この靱公園にはベンチが多いのが特徴で、昼休みには新緑の木陰にあるベンチに座って弁当を食べる人を良く見かける。


公園の南側の植栽の中には並木を縫うように、フワフワの樹皮を敷き詰めた遊歩道ができていた。


その上を歩いてみると、一瞬都会にいることを忘れ、山の中をハイキングしているような気持ちになってしまうので不思議である。


公園の北側には芝の広場と池を廻る周遊路があり、大阪市内で最も歴史がある151品種、3200株のバラ園がある。


平成16年5月にリニューアルオープンしたこのバラ園は、面積約9千m2、その特徴は殆どのバラに名称、生産国、生産年、型種がわかり易く表示してあることである。


これを見ると、生産国はイギリス、フランス、ドイツが圧倒的に多く、バラはヨーロッパで品種改良されてきた花ということが良く判る。

写真を撮っていると、昼休みの休憩時間があっという間に終わってしまうので、又10分間かけて歩き会社に戻ることになる。


12時から昼ごはんに15分、靱公園まで10分、公園で20分、会社に戻るのに10分というのが私の最近の昼休みなのである。


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1950年6月25日朝鮮半島全域の支配を目指した金日成の北朝鮮軍は一気に38度線を越え、8月には南朝鮮の90%を占領した。

しかしアメリカ軍を主体とする国連軍が9月15日に38度線に近い仁川(インチョン)に上陸し、南に侵攻した北朝鮮軍を孤立させ、さらに北上する姿勢を見せた。

朝鮮半島をすべて支配することを狙った金日成に朝鮮戦争を起こすようにけしかけたのは実は毛沢東なのである。

戦争の開始直前に中国軍の支援を頼みにきた金日成に対して毛沢東は人民解放軍を朝鮮に投入できると確約している

毛沢東は朝鮮戦争を国民党から投降してきた450万人にも上る中国人部隊を始末する格好の機会と考え、意図的に朝鮮の戦場に送り込んだ。

戦場から逃げ出す兵士を始末するために後方には処刑部隊が控えていたという。

毛沢東は兵隊の使い捨て競争をすれば、アメリカが絶対に太刀打ちできないと確信していた。

1950年10月19日、毛沢東は劣勢に陥った北朝鮮軍を助けるために、旧国民党軍を主体とする45万人の中国軍を朝鮮戦争に投入している。

毛沢東のもう一つの狙いは朝鮮戦争に参戦することで、ソ連から武器の援助や軍事技術の援助を受け、さらに兵器の生産工場の建設支援を受けることであった。

スターリンは毛沢東の命令で交渉に来た周恩来と林彪に飛行機、大砲、戦車、その他軍事装備の供与を約束し実行している。

スターリンは朝鮮戦争で、ミグ戦闘機等のソ連の最新兵器の実戦テストができると考えたのである。

又、戦利品としてアメリカの軍事技術を入手することができるとも考えていたらしい。

さらに毛沢東が西側諸国の軍を圧倒すれば、東西の軍事バランスが崩れ、ヨーロッパにソ連の支配地域をさらに広げることが可能になることを期待していた。

従って米国軍と毛沢東との戦争を望んでいたソ連は、国連の安全保障理事会で朝鮮に国連軍を派遣するという採決に拒否権を使用しなかったのである。

このときの安保理事会でのソ連の行動はいままで謎とされていたが、謎の行動の裏にはスターリンの意図が働いていたのである。

1950年末、フランスの高官はソ連は中国人を家畜のように使って、彼らに西側との戦いをさせていると、スターリンの意図をズバリ見破った発言をしている。

1951年1月25日、国連軍が反撃を開始すると戦況は一変し中国側の犠牲者は莫大な数に上った。

同年3月1日毛沢東はスターリンに対して、中国軍は今まで10万人の犠牲者を出し、今後さらに30万人の戦死者を見込んでいるので、これから42万人を追加派遣すると報告している。

そこには中国の国民を家畜か消耗品のようにしか見ていない毛沢東の本音が見て取れ、総計で300万人の中国軍が朝鮮戦争に投入されたのである。

朝鮮戦争に参戦したことで毛沢東は当初の狙い通り、最新鋭のミグ戦闘機3000機を保有する世界第3位の空軍力を獲得している。

さらにソ連の援助で最新兵器を生産する工場が、中国国内各地に続々と建設され、朝鮮戦争を利用した毛沢東の狙いは現実になったのである。


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青いバラ
サントリーのHPによれば現在栽培されているバラの殆どは、世..界各地の野生種のバラ数種を人為的に交配するという品種改良によって作られている。



四季咲きのバラや黄色いバラも、育種家の情熱と英知により、生み出されたのである。

青に近いスイートムーン


青いバラは、過去800年の品種改良の歴史の中で、多くの育種家が挑んできた夢であったが、青いバラの開発にはこれまで誰も成功しておらず、英語では、「不可能」の代名詞とも言われているほどである。

ブルーヘブン


その青いバラを「最先端のバイオテクノロジーの遺伝子組換え技術を用いれば可能になるはず」という信念で挑戦して14年、サントリーがようやく開発に成功している。



青いバラは既に商品としては以前から存在していたが、その正体は白いバラに青色の色素を人工的に着色したものである。

ブルーバリュー


青色色素が最初から花びらに存在する正真正銘の青いバラは、サントリーの開発したバラが初めてである。

クインエリザベス


薬としてのバラ
バラの薬効を調べてみると、ノイバラは1日量2~5グラムを煎用すれば利尿、下剤に効果があるという。

又、ノイバラの乾燥した果実を煎じた汁で患部を洗うと、できもの、にきび、はれものに効果があるという。

プリンセスオブウエールズダイアナ


さらにノイバラの、芳香性の成分は、下剤や健胃薬に用い、花を蒸留して得た薔薇水(しょうびすい)は口内炎によいとされている。

生のノイバラの果実を、ホワイトリカーで3ヶ月以上熟成させたノイバラ酒は、利尿、腎臓病、解毒、解熱、便秘などに有効と言われているのでバラには意外な効能がある。

プリンセスミチコ(美智子皇太子妃)



バラの品種名

世界のバラ品種の約1割に女性の名前が付けられていると言われている。

もっとも多いのは「マダムヴィオーレ」のように「マダム」を付した品種名で、「ミセス」がこれに次いいでいる。

プリンセスオブモナコ


その理由は綺麗なバラにはトゲがあるというように、バラと女性に共通する部分があるかららしい。

ブルーヘブン


バラの香水
現在、バラ香水の主産地はブルガリアで、エッセンスの輸出先の筆頭はフランスである。


1kgの香水を得るには1haのバラ園が必要とされ、150万枚にも及ぶバラの花びらを採集する必要があるといわれているので、バラの香水原料は非常に高価である。


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長居公園にある「花と緑と自然の情報センター」バラ展で展示されたバラ


日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち3種類は日本原産である。


奈良時代の西暦713年に編纂された『常陸国風土記』には、「土賊を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をからませて捕まえた」とある。


イバラが多く自生していた常陸国には、この故事にちなむ茨城という地名があり、県名の由来となっている。


又、大阪府の茨木市もイバラの茂る野原だったことから、茨木となっているのでバラは日本と大変ゆかりの深い植物なのである。


江戸時代には園芸バラが栽培されおり、当時日本を訪れたドイツ人ケンペルはヨーロッパで人気のあるバラが日本でも栽培されているのを見て驚いている。


明治維新を迎えると明治政府はヨーロッパのバラ「ラ・フランス」を農業試験用の植物として取り寄せ、青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させたが、西洋からの舶来種のバラは「高嶺の花」であった。


その後、バラが接ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる、東京郊外や京阪神地域の郊外で栽培が行われるようになった。


バラは華族や高級官僚といったパトロンを得て、日本でも徐々に愛好され始め生産量も増え始めた。


大正から昭和のころには一般家庭にも普及し、宮沢賢治が「グリュース・アン・テプリッツ(日本名:日光)」を愛し、北原白秋の詩にもバラが登場している。


第2次世界大戦で日本でもバラの栽培より野菜の栽培が優先され、生産が停滞したが、戦後すぐの1948年には早くも銀座でバラの展示会が開かれた。


鳩山一郎や吉田茂など戦後の大物政治家はバラを愛好し、戦後日本でのバラの普及に大いに貢献した。


日本ではバラは花卉としてはキク、カーネーション、とならぶ生産高があり、ハウス栽培で年中市場に供給されるようになった。




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長居公園の「花と緑と自然の情報センター」での展示会のバラである。


社団法人、農林水産技術情報協会のHPによればアジアや欧米などに自生分布しているバラの近縁種(バラ科、バラ属の植物)は200種にも及ぶ。


野生のバラは3千万年前には北半球の各地に分布していたらしい。


紀元前3千年のクレタ島の壁画や紀元前2千年のバビロニアの叙事詩、紀元前400年のギリシャのヘロドトスの著書など、 バラは紀元前から数々の歴史に登場してきている。


クレオパトラがアントニウスを迎えたときには宮殿全体をバラで飾り、廊下にはバラの花びらを20センチほど敷きつめたと言われている。


クレオパトラは高価なローズオイルを、 支配者の象徴としてふんだんに愛用していたらしい。


バラの栽培史については、紀元前500年頃に、古代中国の宮殿(周王朝)の庭で栽培されたのがもっとも古い記録である。


ギリシャでも紀元前後に栽培されはじめたらしいが、 一般化してきたのは3世紀のローマ帝国時代以降といわれている。


ローマ帝国の崩壊とともにバラの栄華も一時は衰えるが、やがて7世紀中期にサラセン帝国の隆盛をみるに及んで、バラは南欧スペインまで到達する。


11世紀から13世紀の間に7回も遠征した十字軍は、東方からの帰りにバラの新種を西ヨーロッパに持ち帰ったという。


そのせいか14世紀以降、イタリアのルネッサンス期から、ヨーロッパにおけるバラの栽培が急に盛んになってきた。


又、バラの発展に偉大な貢献を果たしたのは、ナポレオンの第一妃ジョセフィーヌである。


彼女は1802年にマルメゾン離宮に広大なバラ園を作り、そこで世界から集めた珍しいバラを多数栽培したらしい。


ジョセフィーヌは1814年に亡くなったが、彼女のコレクションは250種類にも達し、 この大コレクションの多くは図譜として今も残されている。


さらに、このバラ園で働いていたA.デュポンが世界で初めて人工交雑によって新しいバラを作出している。


近縁種間の交雑によって花形、色、香り、四季咲き性などバラの遺伝的な性質に革命的な変化が生じたので、この時期よりも前のバラを「オールドローズ」、 それ以後のバラを「モダンローズ」と称することになったくらいである。



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中国最高額紙幣100元(約1400円)


1949年10月1日、毛沢東は天安門の楼上に立ち中華人民共和国の成立を宣言した。

しかし人民の名前を冠した政権を樹立した毛沢東は、人民のための施策を何一つ打ち出さなかったのである

今でも民主主義人民共和国を名乗る北朝鮮の金正日が、食糧不足の人民のための施策を打ち出さないのと同じである。

5億5千万人の中国人の絶対支配者となった毛沢東は、政権樹立の1年後の1950年10月全国規模で反革命鎮圧運動を開始した。

標的になったのは旧国民党政権にかかわったことのある国民で、毛沢東は反革命という大義名分を造り、国民党に関係があったという理由だけで1年間で300万人を殺している

その際に人民は暴力行為や処刑を見るように強制され、全人民の脳裏には新政権の恐ろしく残忍な光景が刻み付けられている。

この難を逃れた国民党関係者数百万人は大部分が強制労働収容所に送られ、重労働の果てにその多くが死んでいった。

27年に渡る毛沢東の支配下で、強制労働収容所に送られて処刑され又、獄死した中国人は2千7百万人にも及ぶと中国人のユン・チアンは書いている。

1951年末には引き続いて国民を恐怖の力で押さえつける政策として反横領、反浪費、反官僚主義の三反運動が始まっている。

このときに毛沢東は三反運動犯罪者の捕獲ノルマを示し、全国の省を競わせ、383万人の公務員が厳しい尋問と審査にかけられたが、この三反運動そのものが国家による浪費の最たるものとなった。

次に民間の実業家を対象にした5反運動が開始され、まだ資産を没収されていない実業家から無理やり金を吐き出させるための拷問を伴う取調べが実施されている。

汚名を着せられ辱められて生きる犠牲者の姿を見て、国民は毛沢東政権に刃向かうことの恐怖をまたしても肝に銘じることになる。

この結果中華人民共和国5億5千万の人民は、一人残らず毛沢東の奴隷となったのである。

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大阪市営地下鉄の長居駅を上がると、そこは総面積65,7ヘクタールの長居公園である。



ニューヨークのセントラルパーク320ヘクタールと比べるとかなり狭いが、日本にある公園としては結構広い方ではないかと思う。


昭和3年に建設が計画され、戦争のために建設が一時中断したが、昭和34年から本格的な造成が始まり現在に至っているという。

最近ではプロサッカーチーム.セレッソ大阪のホームスタジアムがあることでも有名である。

その長居公園内に平成13年4月、2階建て延床面積:8千平方メートルもある「花と緑と自然の情報センター」がオープンしたのを私は全く知らなかった。

大阪の自然や都市緑化、園芸などに関する情報発信と交流の場となることをめざして建設されたという。


1階には「サービスゾーン」「交流のゾーン」「憩いのゾーン」などがあり、くつろぎながら、映像や図書、検索端末で花や緑に関する情報が得られるとなっている。

2階のアトリウムでは、生きた植物を使っての展覧会を季節に応じて楽しめるという。

新聞にこの「花と緑と自然の情報センター」でバラの展示会があると出ていたので5月の休日に出かけて行くことにした。

地下鉄を出て長居公園の正面入り口を入ると綺麗な春の花が出迎えてくれる。

左手にセレッソの長居スタジアムのドームが見える長居公園は緑が一杯で散歩には持って来いである。


気持ちが良い公園の遊歩道をゆっくりと15分くらい歩くと有料の長居植物園がある。


しかし日差しが強く暑くなってきたので、そこをパスして右に入ると目指す花と緑と自然の情報センターという看板の建物が見えてきた。


入場料が無料であったのは嬉しかったが、入場料収入が無くても面積8千平米もある建物の維持費とスタッフの人件費は当然発生するので大阪市民としては心配になってくる。

こんな経費のかかる建物を次々と作ったのが大阪市の赤字の原因となったのではと思ってしまうのは私だけか。

花と緑と自然の情報センターは最近出来た公共建築ということで1階には大きな窓に面したレストランもあり中は豪華そのものである。


2階のアトリウムには熱帯植物が生き生きと茂り、中でもヘゴシダはケアンズにあるレインフォレストで見たシダのように巨大に成長していて、行き届いたメンテナンスが伺われる。


そのアトリウムの一部のスペースを使って、こじんまりとしたバラ展をやっていた。

2階の外側には長居公園の樹木を借景にしたイギリス風の周遊ガーデンがあり、空の青さと植物の緑の対比が美しい。


ここは未だあまり知られていないせいか、お客が少なくゆったりと寛げる穴場的な場所となっている。

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散髪屋のある中信広場の天窓


シャンプーの後は椅子に戻り、理容師に散髪して貰うのだが、どれだけ切って欲しいかを、どう伝えてよいのかが判らない。

適当に指で長さを指示すると、鋏で頭のてっぺんのほうから、サッサと切りはじめた。

頭の上と前をカットした後で、横と後ろをバキュームの付いたバリカンと櫛を使って大胆にカットする。

日本の散髪屋では、最初に頭の横と後ろをバリカンと鋏を使ってカットし、その後で頭の上と前を鋏で繊細にカットするので、国が違うと散髪の手順も全く反対になってしまう。

途中、もっと短くと英語でいうと、中国流の大胆な技で思いっきり短くカットされてしまった。

文句を言おうにも言葉が出来ないので広州の暑さには短いほうが楽でよいと自ら慰めるしかないのである。

理容師は最後に後ろを刈った状況を鏡で見せてくれて、こちらが観念した顔でうなずくとあっという間にカット作業が終了する。

このカットの丁寧さは、日本の散髪屋の繊細な鋏の技に軍配を上げざるを得ない。

カットの後で安全かみそりのようなもので、首の後ろの生え際と、耳の横の鬢をサッサと投げやりに剃って、顔の髭剃りは無しで終わりとなる。

中国では、散髪屋でのシェービング中に他のお客の病気を貰ったりするらしいので、散髪屋での剃刀の技の心地よさは犠牲にするのが正解である。

この後、もう一度最初の洗髪スペースまで足を運ぶことになるが、今度は簡単な洗髪が1回だけなのである。

散髪の後のシャンプーは、カットした髪の毛を洗い落とす大事なプロセスなので、カットの前に入念にシャンプーする中国式は全く逆の手順を取っていることになる。

考えてみると中国式散髪手順とは、めったにシャンプーをしない汚い髪をした客が大勢いるので、まず客の頭を洗って清潔にしてからカットする、髪の毛性悪説から来ているのかも知れない。

この性悪説と性善説によって大陸狩猟民族国家中国と島国農耕民族国家日本との散髪プロセスに決定的な違いが出るのである、という重要な結論に辿り着いたのであった。

再びカットして貰った席に戻り、ドライヤーで乾かしてすべてが終了する。

渡された伝票を受付に渡し、33元(460円)を支払って中信ビルを出た。


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中信ビル


広州に来て1ヶ月もすると髪が伸びてきて鬱陶しいので、意を決して散髪に行くことにした。

広州では美容院と理髪店を兼ねる店が多く、特に高級な店ではその傾向が強いようである。

同じ店といっても店の左右に鏡と椅子があり、たいていは男女の客は左右に別れてお互いが気をつかうことの無いように背中合わせで髪をさわって貰うようになっている。

仕事の知り合いに日本人が利用できる高級店ということで、中信広場の散髪屋を紹介して貰った。

中信ビル入り口

その店では女性のお客が5,6人、男性の先客が1人すでに散髪してもらっていた。

受け付けカウンターの女性から中国語で話し掛けられたが、わからないと言うと英語でヘアーカットですかと聞いている。

イエスというと、席に案内されて、黒い袖つきのシルク生地のガウンを着せられる。

日本の散髪屋では首の部分から下全体を蔽うスモックであるが、中国では寝巻きのようなガウンであった。

それを着たら、早速奥の方へ案内され、髪を洗うベッドが5台並んだ場所で、仰向けに寝かされて洗髪である。

寝かされた台より洗髪のシンクがかなり低く、首が90度近く曲がって、むち打ち症になりそうであったがこれが中国式なので止むを得ない。

その状態で洗髪専門の若い女性が、優しく繊細な指の運びで丁寧に3回もシャンプーとリンスで繰り返して洗ってくれる。

いつも日本で行く散髪屋の大将の太い指と、荒っぽいがさつな指の動きとは天国と地獄のような差がある。

洗髪の最後は額の真中を指で軽く押さえて円運動させる心地良いフェースマッサージで眠ってしまいそうになる。

続いて額からこめかみにかけて入念に繊細な指で軽く押さえて円運動させるマッサージ、その後でリンスした頭のてっぺんの髪の毛を数回クイ、クイと引っ張って髪の毛のマッサージを終わったが、30分もかけて実に心地よい洗髪であった。

日本には無い人件費の安い中国ならではの洗髪サービスである。

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広州市内

最上階の9階にある広東協和高級医療中心からエレベーターに乗って下の階にある広東省人民医院に移動する。

眼科病棟の待合室では診察待ちの大勢の中国人患者がおとなしく順番を待っている。

3人の女性に付き添われたVIP患者の私は、その患者達の前を素通りして待ち時間無しの最優先で診察室に案内して貰った。

診察待ちの大勢の中国人患者の羨ましそうな視線を感じたが、社会主義の中国では金持ちが優遇されるこうした制度が整備されている。

一方、資本主義の日本では診療費を多めに払うことで優先して診察して貰うこういう制度はあるのであろうか。

眼科の若い女医さんにウエルビーの鄔さんが私の症状を通訳してくれる。

その後で女医さんから視力と眼底検査、角膜検査、眼圧検査をしてもらった。

美人の女医さんは両目ともにウイルス性の結角膜炎にかかっていて、特に右目が酷い炎症を起こしてますねと診断してくれたが、病気の原因が判れば治療も簡単であろうと安心した。

診察が終わった後も3人の女性スタッフにかしづかれて患者で一杯の待合室を通って最初の広東協和高級医療中心まで戻る。

途中で鄔さんに聞くと医療サービスの会社の通訳は医学用語を翻訳しなければならないので、その勉強が大変ですとのこと。

それにしても彼女の日本語は品があり、日本人と話しているのと変わらないくらいに上手であった。

今日は私で3人目ですと話していたが、毎日平均2,3人の日本人患者と医師との通訳サービスをしていて結構忙しいらしい。

このウエルビー医療通訳サービスは、24時間体制のサービスが売り物なので夜中に呼び出されることも頻繁にあるらしいが、仕事なので仕方がないですと割り切った言葉がすがすがしい。

待合室で請求書にサインして新人の陳さんと世間話をしながら少し待つと、1週間分の3種類の目薬が届いた。

一日4回、5分置きに3種類の目薬をさして下さいとの説明を受けて、早速その場で目薬をさしておく。

このウエルビー医療サービスはキャッシュレスが売り物ということなので、サインだけで支払いは一切無しである。

広東協和高級医療中心の受け付けから1時間後には薬を貰って病院をでることが出来るという、スピード診療は気持ちが良いものであった。


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中華広場(広東協和高級医療中心はすぐそばにある)

ある日、両目が異常にチクチクし、翌日には右目で見ると近くの文字が霞むようになってきた。

そこで会社が契約している医療救急サービス会社ウエルビーに電話をしてみると、上海のオペレーターが日本語で広州の担当者から電話をさせますとのこと。

15分くらいして私の携帯にウエルビーの広州担当者という日本語の上手な女性から電話がかかり、中山3路にあるという広東協和高級医療中心という病院を指定される。

その女性から診察希望時間を聞かれたので4時が良いと言うと、即座ににOKですと回答があった。

恐らく中国の病院にとって我々外人の患者は高額診療報酬が期待できる美味しい患者ということなのであろう。

後で聞いた話では、普通の患者の10倍の診療費を取っているらしい。

3時半に広州事務所の前からタクシーで目標となる広東省人民医院へ向かう。

中国では病院はすべて医院と呼ぶので広東省人民医院も日本の医院とは全然違う15階くらいある大規模な病院であった。

その広東省人民医院本館の南側に心血管病医院という9階建ての循環器系の専門病棟がありその最上階に目指す外人専用の広東協和高級医療中心があるらしい。

エレベーターで乗り合わせた患者が降りた8階以下の階は中国人専用のようで、広州のどこでも見かけるように人でかなり混雑している。

8階までは日本の大病院と比べるとかなり薄暗く、建物の仕上げもかなり見劣りするものがある。

しかし最上階の9階にあった目指す広東協和高級医療中心はガラガラに空いていて、明るく清潔なクリニックであった。

エレベーターの正面にある受付の女性がウエルビーの患者さんですかと聞いているので、そうですというと中の待合室で待つようにとのこと。

患者が誰も居ない待合室の豪華なソファーに座って待っていると、すぐにウエルビーの鄔「ウ」さんという女性が来て、問診表と保険会社への手続き書類に必要事項を書いて下さいという。

書類の記入が終わると鄔さんの同僚の陳さんという女性、受付の看護婦さん合わせて3人もの女性にかしずかれ、VIPの気分で下の階にある広東省人民病院の眼科まで案内された。


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農民を奴隷のように支配した毛沢東が所長を務めた広州農講所の執務室

日本軍の兵器で武装することができた中国共産党軍127万人は、アメリカが支援する450万の国民党軍を圧倒し、最後には毛沢東が勝利し蒋介石が敗北するのであるが二人の指導者には決定的な相違があった。

まず、毛沢東からスパイとして送られた軍幹部が、何度も繰り返して共産軍に敗れても、温情豊かな蒋介石は軍幹部を厳正に処分しなかったために、結果的に国民党の崩壊を早めることになってしまうのである。

又、一旦追い詰めた共産党軍をアメリカの指示があったことで見逃し、壊滅寸前の共産党軍を立ち直らせるきっかけを作るという甘い決断をしている。

蒋介石の義兄、宋子文は首相に任命されると、これも義兄の孔一族と共に政府高官という地位を利用して、3億8千万ドルという莫大な外貨を手に入れているが、親族に対する私情を断ち切ることができない蒋介石は厳正な処分をしていない。

これが報道されたことで蒋介石は中国国民の人心だけでなく、アメリカの支援をも失うことになる。

こういう蒋介石は、ある意味で人間性が豊かな人物として魅力があると思うのは私だけであろうか。

一方、毛沢東は整風運動によって支配下の国民のプライバシーを破壊し、どんな小さな抜け穴も見逃さない冷酷さで国民党のスパイが入り込む隙を見せなかった。

又1948年、毛沢東は国民党軍の立てこもる東北の長春市を包囲したが、市民の投降を決して許さず5ヶ月で33万人の中国人市民を餓死させている

この死者の数だけで南京大虐殺での最大と見積される死者数を上回っているが、毛沢東は目的の達成のためには人命の犠牲を全く意に介さない、冷徹な判断をしている。

さらにこの直後、共産党は1億6千万人の農民を支配下に置くことになるが、毛沢東は根拠も無しに人口の10%1600万人が金持ち階級であると決め付けて彼らを公開の場で虐待し、財産を没収するように指導している。

その結果、何の罪も無い100万人近い中国人が殺されたが、この方法で毛沢東は支配下の農民を恐怖の力で押さえつけ、絶対服従させることに成功している。

1948年以降においては、兵役、強制労働、食糧調達等、毛沢東が目標達成に必要なものをどれだけ農民から徴発しようと、彼らは何も抵抗しないようになっていた。

結果的に中国人は蒋介石よりも毛沢東を選ぶのであるが、私としては毛沢東の血も凍るような非人間性には絶対についてゆくことが出来ない。

蒋介石は人間に対する冷酷非常さにおいて毛沢東に遠く及ばなかった。そこが毛沢東と蒋介石の決定的な違いなのである。。

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広州では12月から5月までは朝の気温が比較的低く、雨も少ないので徒歩通勤にはもってこいの気候となる。

私もその期間だけはマンションから事務所まで、広州市内を徒歩で通勤することにしていた。
天河北路の歩道

まず、サラリーマン、OL、学生で溢れている朝の天河北路の歩道を早足で西に向かい、青信号を忠実に守って広い天河東路の交差点を渡る。

しかし下の写真のように広州では赤信号でも道路を横断する人が大勢いるのである。

つまり歩行者が我勝ちに道路を渡るので、必然的に交通渋滞が多発することになる。

天河東路を南に少し下り、最初の交差点を右に曲がると、朝は閉まっている日本料理店とイタリア料理店がある。

その前を通り気根が垂れ下がっているゴムの樹の並木道を通って、下の写真の華升街に出る。

早朝から店を開けている華升街の歩道を足早に歩き、広い体育東路まで抜ける。

この辺りの体育東路には信号が無いので、8車線の道路をひっきりなしに通る車を待ちながら、急がないでゆっくりと渡ることにする。

体育東路を渡るとようやく天河体育中心である。

スタジアムの右上にある体育館は福原愛ちゃんが所属する広州省卓球チームのホームグランドとなっている。

500mくらいある天河体育中心の中を横切って体育西路に出ようとすると、いつの間にか競歩のコースができて、早朝から選手が必死で競争していたりすることがある。

暑い広州での陸上競技は確かに早朝にやるのが正解であろうが、私の通勤のルートが遮断されるのは困ったものである。

競歩以外では、いつでも20人くらいのグループがあちこちで太極拳の練習をしていて中国らしい朝の風景を見ることができる。

体育中心を横断して8車線と広い体育西路に出ると、ここにも信号が無い。

そこでゆっくりと歩いて渡りながら、走ってくる車を車線の上で立止まってやり過ごし横断するのである。

こうしてマンションを出てから体育西路の事務所まで、丁度30分かかって到着である。

日本の大都会では、なかなか体験できない徒歩通勤なので雨の日や猛暑の日以外にはできるだけ歩いて出勤することにしていた。

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