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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪府島本町の史蹟桜井駅址には、1912年5月に建立された「楠公父子訣別之所」陸軍大将乃木希典謹書と書かれた石碑があり、乃木の几帳面な性格が筆跡に出ている。



乃木大将(1849~1912年)は、1912年9月、明治天皇大葬の日の夜に妻と一緒に自刃しているので、その4か月前に書かれたものであろう。

碑の裏側に書かれた漢文の由来書には、枢密院顧問官従2位勲1等男爵細川潤次郎とあったが、細川 (1834~1923年)は、幕末の土佐藩藩士・蘭学者で明治・大正時代の法学者・教育家である。



細川は、司法大輔、貴族院副議長を歴任、日本の近代法導入の功績で高く評価されている人物で、1870年には平民に苗字を許す規定を提案している。

3つ目の石碑は、最も巨大で「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」という明治天皇作の和歌を伯爵東郷平八郎(1848~1934年)が揮毫したものである。



筆の運びが自由奔放でかつ気品があり、当時80歳を越えていた東郷の高い精神性を窺うことができると思った。

石碑の裏には、頼山陽の桜井駅の漢詩が彫りこまれ、第四師団長 林 弥三吉とある。



林 弥三吉中将が第四師団長(大阪)に在任していたのは、1928~1930年(昭和3年~5年)であるが、現地の由緒書では昭和6年建造とあった。

東郷平八郎は1913年に天皇の軍務顧問である元帥に列されているので、終身「元帥海軍大将」という肩書きが使えたのに、この石碑への署名は何故か伯爵だけであるのが面白い。



ちなみに同じ伯爵であった乃木希典には元帥の発令は無かったが、連隊長心得として出陣した西南戦争で、西郷軍に軍旗を奪われたことがその理由かもしれない。

それにしても大阪府の北部にある水無瀬という辺鄙な場所に、日露戦争の陸軍と海軍の英雄二人が揮毫した巨大な石碑が今も残っているのが興味深い。



林 弥三吉は、第4師団長を終えた2年後の1932年に予備役になったが、1940年「大楠公」という著書を出しているので、相当な楠木正成ファンであったようである。

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阪急京都線水無瀬駅から北西方向に真っ直ぐ伸びる道を暫く歩くと、こんもりとした森が見えてくる。



ここが、旧西国街道に面した史蹟桜井駅址で、森の樹は当然「楠木」である。

周囲は公園整備の工事中で雑然としていたが、ネットフェンスの切れ間から1921年(大正10年)に内務大臣から国の史蹟指定を受けていた桜井駅址に入ることができた。



中には巨大な石碑が3基あり、最も古いものは1876年に建立された「楠公訣児之處」と彫られたもので、題書は大阪府権知事「渡辺昇」である。



渡辺昇(1836~1913年)は、元肥前大村藩士で江戸に出て、安井息軒に漢学を学んだというが、さすがに江戸末期の漢学教育を受けた素養が筆跡に出ていると思った。

渡辺昇は、肥前に帰藩してから坂本龍馬と国政に奔走し、維新後は新政府に仕え、この石碑建立の翌年(1877年)に大阪府知事となっている。

石碑の裏側には、当事の英国公使ハリー・パークスの文章でTO THE ROYALTY OF The Faithful Retainer KUSUNOKI MASASIGE who Parted from his Son MASATURA At this spot before the battle of MINATOGAWA AD 1336(大意は、西暦1336年湊川の戦いの前における忠臣楠木正成と正行の別れの場所)とあった。



恐らくパークス公使は、楠木正成の逸話を聞いて感動し、この文章を残したのではと思うが、明治初期の英文石碑とは珍しい。

又、MASASIGE KUSUNOKIと、現在のように名前を姓の前に書かいていないのが興味深い。

ハリー・パークス(1828~1885年)は、少年期に父母が死去したために二人の姉を頼って清国に赴き、1843年15歳という若さで広東(広州)のイギリス領事館に勤務したという。

現在も広州に残る沙面租界地区の風景



1856年、広東代理領事に出世していた28歳のパークスは、アロー号事件に介入して清国に因縁をつけ第二次アヘン戦争開戦のきっかけをつくっているが、血気盛んな若者の暴走行為に当事の英国は乗ったのである。

パークスの要請で派遣された英仏連合軍は、1857年12月に広州を攻撃略奪し、3年間に渡って広州は英仏の占領下に置かれたのである。

沙面のコロニアル風街路



パークスは29~32歳までの3年間、人口100万人の大都市である広州の支配者であったと英語版のウイキペディアに出ていた。

フランス地区の教会



この間にパークスの指示で沙面租界が作られたのであるが、かつて広州に1年半滞在していた私には懐かしい場所で、沙面のことは1年前のこのブログに書いている

パークスは第二次アヘン戦争のきっかけを作った功績が認められ、上海領事を経て1865年には日本駐在公使となっている。

沙面の建築群は、現在中国の重要文化財に指定されている



第二次アヘン戦争を引き起こし、中国人の虐殺を何とも思わなかったパークスが、48歳になって日本人の楠木正成をFaithful Retainerとして顕彰しているのが面白い。

パークスは、明治維新前後の日本に18年間も続けて勤務しており、その間西洋文明の導入を推進するなど日本の近代化に貢献し、日本アジア協会の会長を長く務めていたという。

沙面の街路樹の中には樹齢300年を超える楠木がある(楠木正成と因縁がある)



1883年になって任を解かれたパークスは、少年期から青年期までの24年間を過ごした清国(北京)に渡り、2年後に58歳で亡くなっている。


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兵庫県立美術館は、神戸ゆかりの金山平三と小磯良平の作品を遺族や関係者から寄贈を受けて数多く所蔵している。



金山 平三(1883~1964年)は、黒田清輝らに師事し、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科を首席で卒業している。

28歳から31歳までの間はパリを拠点にしていたが帰国後、文展初出品の『夏の内海』特選を皮切りに官設展での受賞を重ね、弱冠36歳にして帝展審査員に選ばれている。

南側から見た美術館



1935年の帝展改組を機に中央画壇から去り、その後は日本の風景を描くために旅を続けたというが、展示された24作品の殆どが金山 平三の妻であった金山らくさんの寄贈品である。

金山らく(1888~1977年)は、女性として帝国大学(東北大学)に入学した最初の人で後に数学者となったらしい。

金山の作品



小磯良平(1903~1988年)は、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中に、『兄妹』が帝展入選、『T嬢の像』(1926年)が帝展特選を果たしている。

実はその『T嬢の像』が展示室に展示されていたが、80年前に描かれたとは思えない美しい作品であった。

武田繁子さん寄贈のT嬢の像



小磯良平の20作品が展示されていたが、そのうち12作品は武田繁子さんという人からの寄贈と書かれている。

武田繁子さんのことを調べてみると、武田薬品6代目当主武田長兵衛氏の妻で、現在の社長武田國男氏のご母堂、実家は食品商社「国分」のオーナー国分家であった。

武田繁子さん寄贈の合唱



小磯良平は、1956年から,武田薬品の機関紙「武田薬報」の表紙に薬用植物画の連載を始めているのでその縁で社長夫人であった武田繁子さんが小磯の作品を購入していたのであろう。

ミュージアムショップ



2階奥の常設展示室6には、近代の洋画を展示していたが、黒田清輝、藤田嗣治、安井曽太郎、岸田劉生など日本の大家の作品とマネ、カンディンスキー、ルオー、ミロなどの海外の有名画家の作品が展示されていた。

美術館から三宮方向を望む



ほかにも、神戸市生野町生まれの三巨匠、白滝幾之助、和田三造、青山熊治の作品、ヨーロッパ旅行から帰国後神戸に住んだ林重義、晩年芦屋に住んだ小出楢重の作品などがあった。

隣は国際健康開発センター(WHO神戸センター)



これだけの作品を入場料500円で見ることができるので、兵庫県立美術館は格安である。


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兵庫県立美術館のエントランスホールに入ると内部は、照明を抑え薄暗くした広い空間があり、中央にチケットブースとインフォメーションがあった。

美術館内部の階段



常設展のチケットを500円で買って1階展示室に入ると、「展示室1」は1960年代以降の前衛美術が中心で、パンフにも採用されている呉本俊松のシュールな大作が見事である。



「展示室2」は1950~60年までの抽象と具象の絵画、「展示室4」は版画セレクション、「展示室5東」は近、現代の彫刻を展示していたが中にロダンの作品もあった。

「展示室3」と「展示室5西」は企画展で、「没後10年 菅井汲の作品展」の展示室である。




菅井汲(すがいくみ1919~1996)は、神戸市東灘区に生まれ大阪美術工芸学校に学んだ後、1937年から阪急電鉄宣伝課で商業デザインの仕事に就いている。

1952年渡仏し日本画を学んだこともある菅井の作品は、東洋的なエキゾティシズムがあるとして、パリの美術界で高い評価を与えられた。



菅井は、愛車のポルシェで高速走行している時に浮かぶビジョンを制作のモチーフとしているが、1967年にパリ郊外で交通事故を起こし、頸部骨折の重傷を負っている。

運転よりも次の作品の構想に熱中していたのであろうか。

1970年代からは、円と直線を組み合わせ単純化された作品を描くようになったが、道路標識にどこか共通しているという説がある。



彼の「無駄を省く」姿勢は実生活にも及び、朝食、昼食、夕食のメニューはそれぞれ決まっていて(たとえば朝食はコーヒーとチーズ)、同じメニューを、20年間食べ続けたという。

晩年には「S」字のシリーズを描き続けたが、「S」は「スガイ」の「S」であるとともに、高速道路のカーブを意味しているらしい。



70歳を過ぎた横尾忠則が、「Y字路」にこだわった作品を描き続けているのとよく似ているのが面白い。

南西側から見た兵庫県立美術館



菅井は「なぜ同じ絵を描き続けてはいけないのか」と問い、同じパターンを描き続けること行為自体に個性があると考えたという。

北側の陸橋と美術館



最後まで1億人の日本人からはみ出した日本人でありたいと願っていた強烈な個性の持ち主であったという。


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阪神電車の岩屋駅で降りて、南に向かい、国道43号線にかかる陸橋を渡ると神戸市東部新都心のHAT神戸である。



超高層のツインタワーマンションを左に見ながら、さらに南に進み、広い道路にかかるボードウオークとなっている陸橋を渡ると、2002年に開館した兵庫県立美術館「芸術の館」がある。



直線で構成された美術館には、陸橋から直接入場できるようになっているので、ラクチンであるが、中は迷路のようになっていて美術館の入り口に辿り着くまでかなり歩くことになる。



建物の設計者は、当時東大教授であった安藤忠雄氏で、延床面積2万7千㎡余という巨大な建物であった。

安藤氏は美術館の設計者として、サントリーミュージアム、直島コンテンポラリーアートミュジアム、アメリカのフォートワース現代美術館、東京アートミュージアムなどの作品があり、最近では三宅一生氏とのコラボレーション作品「21_21デザインサイト」が有名である。



美術館展示棟とギャラリー棟の間の屋外空間には、円形の吹き抜け階段があり、建物の直線と階段の円形のコントラストが面白い。



その円形階段を使って3階に上り、、南側のベランダに出ると大きく張り出した3枚の庇が目に飛び込んでくるが、あまりにも巨大な庇なので途中から折れそうである。



3階から下りて美術館の周囲をぐるっと回ってみると、美術館を囲む直線的な外壁には打ち放しコンクリートでは無く、表面にさざなみのような凹凸のある白い御影石が貼り付けられていた。



美術館南側の運河の前には、ハーバーウオークというHAT神戸の東西にある住宅エリアをつなぐ長い遊歩道ができている。



東西に長く広がるHAT神戸の両側は、住宅エリアとなっていて全部で1万戸、居住人口3万人というからかなり大規模な新都心である。

途中、美術館と隣の国際健康開発センタービルとの間のハーバーウオークで自動車の写真撮影が行われていたが、隠れた撮影ポイントとなっているのであろう。




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高槻城は、1337年入江氏の居館に始まり、1569年に和田惟政が城としての基礎を固め、1573年に高山右近が主筋に当たる和田惟長を追放して堅固な城郭を築いたという。



高山右近は熱心なキリシタンで、1587年キリシタン禁教令が秀吉によって施行されると領地と財産をすべて捨てて信仰を選んでいるので高槻城主としてはわずか12年間しか滞在していない。

1614年、徳川氏のキリシタン禁制があっても信仰を捨てなかった右近は、ルソンに流され、翌年マニラで死去している。



関が原の戦い直後の1601年には、家康が高槻城を直接支配しているが、京都と大阪の中間にある交通の要衝としてその重要性を認識していたのであろう。

1617年大坂夏の陣の後、江戸幕府による直営改修工事が行われ、土岐定義、松平家信、岡部宣勝、松平康信(家信の嫡男)とめまぐるしく城主交代し、1649年には永井直清が3万6千石で入城している。

江戸期の高槻城の絵図(上の地図の右、東側から見た城の中心部)今では完全に撤去されているが、石垣で囲まれた大規模な城郭であったようである。



永井直清は徳川家光の小姓から出世した譜代大名で、高槻城主はこのあと13代続く永井氏によって幕末を迎えている。

明治になってからの1874年、鉄道建設のため高槻城は石垣が破却され、建物は解体されて石垣と一緒に鉄道用材として使われたという。



1909年高槻城の敷地は陸軍に接収され、堀が埋め立てられて本丸と二の丸は工兵第4連隊の練兵場、三の丸は兵舎となっている。

今も工兵第4連隊の煉瓦造りの営門の跡が残され、当事歩哨兵が使っていたボックスが現存しているのが珍しい。



その営門跡以外には城跡を偲ぶ石垣や堀、城壁、建物などをまったく見ることができないので高槻城は、明治政府によって徹底的に破壊されてしまったのであろう。

旧本丸跡の工兵連隊練兵場の一部は、城跡公園となって新たに石垣と池が整備されていた。



その公園の南には、1775年頃に建築された旧笹井家住宅が移築され、江戸中期の木造建築様式を今でも見ることができる。



端午の節句が近いせいか、旧笹井家住宅の床の間には雛人形が飾られていた。




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1294年に建立された西門の鳥居には、四天王寺は極楽浄土の東門の中心であるとして「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」と金色の文字で記された扁額がある。



宝物館に保管されている本物の扁額の裏には、1326年と年号が書かれているというので、681年も前の額が現存していることになる。

過去には多くの巨大地震もあったと思うが、700年以上も風雨に曝されて残っている石造の鳥居は日本でも珍しいのではなかろうか。

谷町筋から見た鳥居



寺院に鳥居とは妙な取り合わせであるが、鳥居の創建当時は西門から下り坂になっている逢坂の向こうの海に沈む夕日が見えて、その光景が極楽浄土のようであったのであろう。

逢阪の下り



西門の先には、逢坂という地名が今も残っていて、ちゃんと住所表示もされていた。



平安期の四天王寺では、浄土信仰 ・舎利信仰・太子信仰の行事が行われ、西門からの浄土信仰は法皇、貴族のみでなく、一般庶民にも及んでいたらしい。

1146年には、僧西念が極楽土東門中心である西門より西の海に向かって入水往生したという記録が残っているくらいである。

鳥居の内側にある西大門は、1962年松下幸之助氏によって再建されている



四天王寺のすぐ北西には、夕日にちなんだ夕陽ケ丘町という地名があり、最寄の地下鉄駅の名前も「四天王寺前夕陽ケ丘」と名づけられている。

平安初期、天台化された四天王寺の基盤は、創建当寺や奈良時代ほど強力ではなく、960年には火災で焼失しているが、藤原一門によってすぐに再建されている。

西大門に取り付けられた転法輪



1007年、金堂六重塔中より聖徳太子の自筆書という『四天王寺縁起』 が発見されたことで天皇、皇族の参詣が頻繁に行われるようになったと記録されている。

しかしこの縁起は、当時から414年前の聖徳太子のものではなく、どうやら発見の少し前に書かれたものだったらしい。



平安時代から1000年が経過し、平安期に作られた『四天王寺縁起』は、今や1000年前の貴重な文書として国宝に指定されているというのが面白い。


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四天王寺は、593年聖徳太子が、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に創建したとされているが、発掘調査によると実際の創建は7世紀前半(推古朝の末年)らしい。



日本書紀によれば、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、蘇我氏についた聖徳太子が四天王像を彫り 「この戦いに勝てば、四天王を安置する寺院を建立する」 と誓願し、その誓いを果すために建立されたという。

四天王寺の「四天王」とは、古代インドの神で「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」のことで、それぞれ「東」「南」「西」「北」の四方を守る守り神である。

金堂



それにしても、1400年前からこの地にあった寺院が、幾度も焼失しては再建され、歴史に翻弄された大阪の中心部に今もしっかりと存在していることは奇跡的である。

聖徳太子が四天王寺を建てるにあたって、仏法修行の敬田院、 病者に薬を施す施薬院、病気の者を収容する療病院、恵まれない者を収容する悲田院の四院が中心伽藍の北に建てられたというが、現在の本坊や、墓地となっている辺りであろうか。



四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つであるという。

回廊



787年に空海は四天王寺に借住し、西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄土を観想する修行をしている。

空海に密教の教えを請うたこともある最澄は、816年に四天王寺に借住し、六時堂や椎寺薬師院を創建したと伝えられている。

六時堂



この六時堂は、1623年に再建されたものが重要文化財として中心伽藍の北に現存し、今も参拝者が絶えることが無いという。

六時堂の扁額には「六時礼讃堂」と書かれ、天台座主大僧正源応の署名があった。



愛知県春日井市出身の吉田源応(1849~1927年)は、12歳で出家し41歳で四天王寺住職、55歳で天台座主に就任、四天王寺中学高校を創設し、天台宗中興の祖といわれている。

明治時代の四天王寺住職であった吉田源応のように、四天王寺には天台僧の補任が多くみられ、かなり早い時期から天台化されていたようである。


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1595年今井町では太閣検地が行われ、「海の堺、陸の今井」と言われた当時、人口4千人 家数1200軒と伝えられているので、現在の倍以上の人口を保有していたことになる。

まちなみ



江戸期に入った1621年、今井兵部が今井支配を命じられ、今西・尾崎両氏が惣年寄に指名されているが、今西家はいまも今井町の西側にある1650年に建てられた館で生活している。

最も古い今西家(1650年建築)今井の惣年寄



今から350年も前に建てた住居に今も生活している今西さんも凄いが、しっかりとした木造建築物がいかに耐久性に優れているかを物語っている。

道路は江戸期のまま保存されているので幅が狭く、狭い道の両側にびっしりと、江戸時代以来の町屋や長屋が連なっている。



江戸期には近畿一円から多くの商人が移り住み、なかでも繰綿(種の部分を取り去っただけの、まだ精製していない綿)、古手(中古衣料販売)、木綿が隆盛を極めていたらしく、大和の金は今井に7分(70%)と言われていたという。

豊田家(1662年建築)材木商を営んでいたので壁に「木」のマークがついている。



今井町の中には小売店が少なく、生活している人にとっては不便な場所であるが、歴史的景観を保ったままの静かな居住地として今でも住民がこの地で暮らしているのである。

1679年今井氏は、武士を返上し称念寺の住職に専念することになり現在に至っていると由緒書きにあったので、称念寺の住職は今も今井さんが勤めているのであろうか。

河合家(18世紀中頃)今も連綿と酒造業を営んでいるので杉玉が吊るされている



河合家の杉玉(酒林)と蔵元と書かれた看板



中橋家(18世紀後期)江戸期には米屋



現在の今井町の町並みは、東西600メートル、南北310メートル、面積約17,4ヘクタールで、760戸の建物があり約1800名が居住しているという。

高木家(幕末に建築)江戸期には酒造業




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今井の地名は1386年の興福寺の文書に見えるが、今井町の成立は浄土真宗本願寺の歴史と深くかかわっているらしい。



1532年、浄土真宗本願寺は、足利管領細川晴元によって、当時の本拠地であった山科本願寺を攻撃されこれを焼き討ちされている。

山科本願寺を追われた10代門主証如は、1533年頃より居所を大坂石山御坊に移し、石山本願寺(今の大阪城の場所)を新たな浄土真宗の本拠地としている。

石山本願寺跡の石碑



今井町は、1550年頃に浄土真宗本願寺(当時の門主は証如)の僧、今井豊寿が開いた称念寺を中心に形成された寺内町で、石山本願寺の出城のような存在であったようである。

称念寺の前の由緒書によれば、本願寺11世顕如(1543~1592年)より寺号を得て、今井富綱を開基として建立したとあったので、顕如が門主を継いだ1554年以降1592年までに建立されたことになる。



寺と民家が1つの境内にあり、周囲を掘で囲まれた環濠都市の面積は、当時は現在の今井町の西半分だけであったが、次第に東側に発展してきたようである。

その後、織田信長の本願寺弾圧が続き、武田軍との長篠合戦があった1575年に今井町は織田軍に降伏したが、武装解除だけで町は無傷で残ったというので、信長にとってはあまり重要な拠点ではなかったのであろう。

今西家の塀



5年後の1580年には、総本山である石山本願寺も織田軍との和睦に応じ、浄土真宗は石山御坊(今の大阪城付近)から退去している。

2月17日、NHKの世界遺産の旅という番組で、南フランスにある中世の城壁都市「世界遺産・カルカソンヌ」を紹介していた。



町を囲む二重の城壁は総延長3km、高さは約15m、その規模はヨーロッパ最大級で、保存状態も極めて良く、中世の姿をこれほどにとどめる城壁都市は他に類を見ないという。

今井町も堀と壁で囲まれた環濠都市であった



壁の最も古い部分は3世紀頃に作られ、その後13~14世紀の工事によって現在の姿になったカルカソンヌは、年間300万人が訪れる大観光地だが、城壁内には今なお100人の住民が暮らしているという。 

カルカソンヌは、19世紀に城壁が崩壊し始めたが、国家事業として建築家・ヴィオレ・ル・デュクによる大がかりな修復工事が行われたために現在までその姿が残されたという。

今西家(上の模型の中央下部右側)の前に残る堀



歴史的遺産の保存活動の先駆といわれているが、今井町は日本のカルカソンヌと言えるのかもしれない。


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奈良県橿原市今井町は、全国62箇所ある「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、重要文化財に指定された民家が9軒もあり、道路配置も建設当初とほとんど変わっていないという。

今井町の町並み



そこで、近鉄電車で八木西口駅まで行き、駅から歩いて10分の今井町まで出かけてみた。

この町を見学する場合には、まず今井町の南東にある「今井まちなみ交流センター(華甍)」に寄って、展示されている資料を見てからスタートするのが良い。



「今井まちなみ交流センター(華甍)」は、1903年に奈良県高市郡博物館として建設された建築後100年を超える建物で、昭和初期から30年間今井町役場として使われていたという。

この中に江戸期の今井町の大型模型があり、それを見ると東西600メートル、南北310メートルもの堀で囲まれた環濠集落であることが良くわかる。



実際に歩いてみた今井町は、戦国時代にできた寺内町の雰囲気を良く残しているが、重要文化財の9軒の民家の多くは今も生活に使われているため、連絡無しで中を見学できるのは旧米谷家住宅1軒だけであった。

18世紀中ごろに建設されたという旧米谷家住宅は、250年も経過しているとは思えない保存状態の良さで、今でも十分に生活できそうであった。



旧米谷家は「米忠」の屋号をもち、もとは金物商を営んでいたという建物で、後に土蔵や蔵前座敷を増築している。

内部は他家と異なる5間取りで、土間には立派なかまどや「煙返し」が取り付けられるなど農家風のイメージがある。



建物に使われている木材は柱、梁ともに意外と細いものが使われていたので、これなら1869年(明治2年)に建てられた家内の実家の方が頑丈であろうと思った。

蔵前座敷



町の中心である称念寺本堂は、17世紀初期(江戸初期)に建てられ400年近く経過しているので相当傷んでいる。



1877年(明治10年)2月に明治天皇が畝傍御陵行幸のときには行在所となったという歴史を持っていて、これ以上傷みが進まないように保存して欲しいものである。

由緒書によれば、山門は明治天皇の行幸に際して、多武峯(談山神社)より移築したとあるので、それまでの江戸期にはこの山門は無かったことになる。



本堂前にある金灯篭も一部腐食していたが、1711年(宝永8年)という鋳造年が見られるので300年ほど前に作られたものである。



最初の今井町の町域である西の端まで歩いてみると、復元された旧環濠の一部を見ることができた。




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私の会社では、3月末現在で満60歳となっている社員を一斉に定年とする制度があるので、3月生まれの人は60歳と殆ど同時、4月生まれの人なら61歳が近い時期に定年を迎えることとなる。

会場のグラモンデ・クラッシィ



ちょっと前までは、定年と同時に退職金を貰って会社を離れて年金生活に入るか、第二の職場を探して働く人が多かった。

小なすと里芋のオランダ煮



ところが私の今の職場では、今後3年間で70%の社員が一挙に退職するという事態に直面することとなっていることが最近判ったのである。

今後3年間で会社が縮小し、仕事が70%も減ればつじつまは合うのであろうが、会社の経営計画では当然安定的な成長を目論んでいる。

鮮魚のカルパッチョ香味野菜とポン酢のジュレ添え



そこで、今年から定年を迎える社員全員に定年後も嘱託社員として職場に残り、現役時代と同じ仕事を継続して欲しいとの要請があった。

しかし、一旦退職金を受け取るので、給料は半分以下に削減されることになり、それでもOKという条件を飲んだ人だけが残ることになるのである。

舌ひらめのポワレ ソースプールノアゼット



今年は6名の定年者があったが、そのうち5名の人が残り、1名はゆっくりと休養したいと会社を去ると聞いた。

そこで、昨年までの定年退職者送別会は、定年を迎えた6名のうち、実際に退職するたった1人が対象となり、残りの5名は定年祝賀会という名称にしてお祝いの会が開催されることになった。

グラニテ



これからの時代には、このように定年即退職ではなく熟練した仕事を定年後も続けるサラリーマンが増えそうである。

祝賀会の場所は堂島にあるグラモンデ・クラッシイ北新地という、北新地から少し離れた場所にあるレストランである。

子牛フィレ肉のグリエ シャリアピンソース



グラモンデ・クラッシィのコンセプトは「ラグジュアリー・レストラン」、来店者に温かみのあるホスピタリテイとゆったりとした空間で贅沢にくつろいで貰うという。

店内には広い厨房と、明るいカウンターがあったが、贅沢に寛ぐには少々客席が狭い思ったのは私だけであろうか。



フレンチ&イタリアンが織り込まれたフュージョン系の料理は、マアマアの味付けであったがボリュームが少ないので若い人には物足らないのかもしれない。

ガトーショコラと季節のフルーツ



最初にビールで乾杯したあと、赤ワインを頼んでみるとコクのあるマアマアの味のワインであった。

トイレ内部



最近のレストランでハウスワインを頼むと期待外れのものが多いが、この店のワインは一応合格である。

トイレは狭いが機能的で、手洗器もデザインされたものが使われていたが、ゴミ箱に使用済みのペーパータオルが溜まってくるのにスタッフが片付けないのはマイナスであった。

客がいつでも快適にトイレが使えるよう、常にスタッフの気配りが欲しいものである。

入り口の近くにあるワインセラー



グラモンデ・クラッシィへのROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆
インテリア  ☆☆☆☆
サービス   ☆☆☆☆
味      ☆☆☆
ボリューム  ☆☆
値段     ☆☆☆
トイレ    ☆☆☆

総合評価   ☆☆☆

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1724年、柳沢吉保の死から10年後、将軍吉宗の命により柳沢吉里の領地は甲府藩から大和国郡山藩に移されたが、15万石の知行は明治維新まで減封されることはなかった。

郡山城二の丸から見た堀



柳沢吉里が入城した当時、郡山城下は家数3656戸、町数40、人口1万3千人余であったと「郡山町鑑」に記録されている。

吉里は、大和国郡山藩、四男の経隆が越後国黒川藩(1万石)、五男の時睦が越後国三日市藩(1万石)の藩主となり、その三藩とも明治維新まで存続したという。

二の丸から見た柳沢文庫



柳沢吉里が入城した郡山城は、筒井順慶が1580年に築城し、豊臣秀吉の実弟であった秀長が1585年に100万石の大名として入っている。

現在の遺構は秀長時代に築かれたものと思われるが、秀長は郡山入城後わずか6年で病死し1591年、豊臣秀吉の5奉行の一人であった増田長盛が郡山20万石で入封している。 

郡山城の石垣に転用された台座石(右上から3番目の石)



増田長盛は、城の修築を続け外堀(総堀)を普請し、城の完成をみているが、1600年関ヶ原の役に西軍に組みして領地没収され、以降しばらく城主が置かれなかったようである。

1615年の大阪夏の陣では、緒戦に大阪方に攻められて落城しているのでかなり損傷したようであるが、柳沢氏の入城までの109年間に徳川譜代大名が5家も入れ替わり入城している。

柳沢文庫前の庭



初代吉里の後、郡山藩は6代続き、6代目藩主であった柳沢 保申(やすのぶ、1846~1893年)は、第5代藩主・保興の三男として郡山城で生まれている。

柳沢藩は1868年の戊辰戦争で、新政府に協力して東北戦争に参加し、後方の輜重部隊の役割を果たしているが、このときから松平姓を捨てて柳沢姓に戻している。

柳沢伯爵が使った椅子



柳沢 保申は、1869年版籍奉還により藩知事となり、1871年の廃藩置県で免官されたが1884年に伯爵の爵位を受けている。

明治時代以後は産業の発展、救済事業、教育振興も熱心で奈良県立郡山高等学校に多額の金品と土地を提供し、郡山城二の丸はすべて郡山高等学校の敷地となってしまった。

柳沢伯爵の顕彰碑



郡山城内には柳沢伯爵の殖産、救済、教育事業を顕彰する石碑が1897年(明治30年)に建立されている。


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大和郡山の城主として明治維新を迎えたのは、将軍綱吉の側用人、赤穂浪士の敵役として有名な柳沢吉保(1658~1714年)の子孫である。

本丸にある柳沢神社と白梅の花



柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の末子として生まれ、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕える。

1680年、将軍徳川家綱の後継として、綱吉が将軍となったとき21歳の柳沢吉保も幕臣となり、小納戸役に任ぜられている。

郡山城天守台西側



吉保は、綱吉の寵愛により頻繁に加増され、1685年に26歳で従五位下出羽守に叙任、1688年、29歳で将軍親政のために新設された側用人に就任し、禄高1万2千石の大名にまで昇っている。

先輩の側用人には、館林藩主であった綱吉の家老で、越後長岡藩牧野家の遠い親戚に当たる24歳年長の牧野成貞(1634~1712年)がいたが、牧野は1695年61歳であっさりと隠居を願い出ている。

本丸から毘沙門郭を望む



この牧野成貞の子孫は、明治維新まで茨城県笠間藩主として続き、最後の大阪城代には最後の笠間藩主であった牧野貞明が就任している。

柳沢吉保は、1694年35歳で7万2千石の川越藩主となり、同年12月には老中格、1698年39歳で大老が任ぜられる左近衛権少将に転任している。

内堀



1704年、綱吉の後継に甲府藩主徳川家宣が決まると、45歳の柳沢吉保は家宣の後任として、それまで徳川直系が就任していた甲府藩(山梨県甲府市)15万石の藩主となっている。

1709年、柳沢吉保50歳の時に徳川綱吉が薨去したことで、自ら幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居し、以降は保山と号したという。

本丸にある明治30年に建立された柳沢静山伯爵石碑



実は、新将軍となった徳川家宣と新井白石が権勢を握る時代になっても、綱吉近臣の松平輝貞や荻原重秀らは、なおも地位に残ろうとしたために減封の憂き目にあっているので柳沢吉保は見事な身の処し方だったと後世高く評価されている。

吉保の隠居後は、江戸駒込で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園(りくぎえん)の造営などを行い1714年享年56歳で江戸で没している。

天守台の北石垣



正室は、親族の曽雌定盛の女(柳沢定子)、側室は飯塚氏の女(柳沢染子)、公家正親町氏の娘(正親町町子)で、染子との間に長子柳沢吉里が生まれている。

本丸の堀と石垣



吉保の側室の染子は、将軍綱吉から拝領したという経緯があり、吉保のもとに嫁いだときには綱吉の子を既に身籠っていたという風説が当時からあったという。

追手向櫓



従って柳沢吉里は、タイミングさえ良ければ次期将軍になっていたかも知れないので、後の徳川将軍は柳沢家を格別の大名として扱ったらしい。


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柳沢文庫のある毘沙門郭と本丸の間の内堀には、江戸期に架けられていた橋のための石垣の切り欠きが見え、極楽橋跡と書かれてあったが、当時としては相当巨大な橋があったようである。



毘沙門郭の南端から本丸に渡る狭い通路を通ると、二の丸から本丸に渡る竹林門があった。

狭い通路



郡山城の本丸には、天守台は作られたが天守閣は最初から建築されなかったようで、1585年豊臣秀長が築城したときにも、天守閣は無く本丸御殿だけがあったようである。

本丸の外にある内堀



徳川時代になってからの1619年に入城した松平忠明は、大阪夏の陣の戦場となり荒れた郡山城本丸御殿を捨て、広い二の丸の敷地に御殿を移している。

さらに1671年に転封してきた松平信之は、本丸御殿を取り払い敷地を更地にしてしまったようで、以降本丸は櫓と城壁が残り中央部は更地のまま明治を迎えたようである。 

竹林門跡



明治維新後まで残った郡山城の櫓は、廃城令によって1873年(明治6年)に競売にかけられ解体されたという。

再建された櫓



その本丸には1880年(明治13年)創建された柳沢神社が鎮座していたが、これは当然江戸期にはなかった神社である。



柳沢神社の裏から本丸東側の高い石垣の端まで歩き、堀越に東側を見ると江戸期に馬場のあった厩郭は郡山高校となっていた。



さらに本丸天守台の石垣をぐるっと一周すると、北側に有名な「さかさ地蔵」の看板が掲示されている。



1585年、豊臣秀長が郡山城を築城したとき石垣が不足したために、近郊から色々な石をかき集めたと謂われているが、それを証明するかのように石垣の隙間から覗くと、石地蔵が下向きに石垣の中に突っ込まれている。



この石地蔵には、1523年の刻銘があることが判っているので、野辺に置かれていれば風雨にさらされて消滅したかも知れない石地蔵が、郡山城の石垣として使われたために500年を経た今も貴重な歴史遺産として残っているのである。



天守閣が建築されなかった天守台の上までの石段は、段差が大きく登り難いが天守台頂上にたどり着いてみると、360度を見晴らせる絶景の場所であった。



そこには後の大正天皇の結婚を祝って明治33年に郡山城跡に松と桜を植えたことを記した石碑が残されていた。



天守を降りて、竹林橋門まで戻り、堀にかかった橋を渡ると1619年以降に郡山城御殿のあった二の丸で、そこは現在郡山高校となっていた。


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