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ROSSさんの大阪ハクナマタタ




広州博物館は広州市街地のやや北、越秀公園内の丘の上にある旧広州城壁の上に構築された昔の楼閣をそのまま博物館として活用したものである。

タクシーに乗って越秀公園内広州博物館と書いたメモを渡すと、越秀公園の正面入り口に付けてくれた。


入場料5元を払い、蒸し暑い越秀公園の中の山道を登り、少し降りたところが5階建ての鎮海楼である。

城というと日本では大阪城のような市街地の中の比較的狭い範囲にある堀や城壁で囲まれた天守閣というイメージであるが、大陸国家の中国では市街地全体を包む長い城壁で囲まれた範囲を城と呼ぶ。

つまり大阪市街地全体を城壁で囲ったというイメージである。

したがって広州城といっても天守閣などなく、だいたい3kmくらいの四方をレンガの城壁で囲った部分がそれに該当するのである。

その広州城城壁も清朝が倒れ中華民国となった7年後1918年頃から順次撤去され、今では城壁の跡は広い道路になっている。

ただこの越秀公園内の丘の部分は道路として利用できなかった為に、明、清時代当時の城壁の一部がそのまま残り、丘の最も高い部分には城壁の上に鎮海楼と呼ばれた楼閣があり今も当時のままの姿で聳えているのである。


何故鎮海楼という名前となったのかは諸説あるみたいであるが、そこから眺められる珠江を海と見て、珠江が氾濫しないように、いつも鎮まっていて欲しいという願望をこめて付けられたという説が有力である。
海のような広州近郊の珠江


博物館の入り口にある石碑によると、この鎮海楼は今から620年前の明時代の1380年に造られた古代建築であるが、それを改修して1928年に博物館として開設したという。


入場券20元を買ってゲートを入ると正面に鎮海楼、向かって左側にアヘン戦争、日中戦争で使った大砲が10基ばかり展示してある。

一番大きいものは口径22cm、1867年製造のドイツ製元込め式の鍛造砲で、砲身には錆は無く美しいくらいに黒光りしていた。これは日中戦争当時使われたとか。


アヘン戦争の時につかったものは1840年代中国で造られた先込め式の鋳物製で、砲身の回転軸部分が折れており、錆も酷く相当旧式な大砲であった。
大砲の説明を書いてある石碑


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1920年12月に上海から広州に戻った孫文は1921年5月に大総統に就任し宋慶齢と共に祝賀行進する10万人の広州市民の前に立った。

しかし7か月後の1921年12月には広西省の軍閥を倒すために軍を率いて桂林へ進出している。

その半年後の1922年6月、今度は身内の広東政府の軍司令官の反乱が起きてしまう。

孫文と宋慶齢は命を狙われ銃弾が飛び交う危険な広州を後にして香港に逃げるが、この時の広東軍の将校で最後まで孫文と行動を共にしたのが蒋介石であった。

周りで友人が反乱軍の銃弾にバタバタ倒れるという厳しい脱出行をしたのが原因か、このとき宋慶齢は流産し、再び妊娠できない体になってしまう。

翌1923年3月に内部対立が治まると広東政府(第3次)に再び大本営が置かれ、孫文は陸海軍大元帥として上海からこの地に三たび戻ってきている。

大元帥府のオフィシャルダイニイグルームには今も孫文の写真が掲示されている


孫文は強力な軍隊が無いと安定した政権は作れないと悟り、日本の陸軍士官学校で教育を受けた経験のある蒋介石を校長に呼んで1924年6月に黄埔軍官学校を設立するのである。

1924年11月には日本に渡る旅の途中、軍艦で黄埔軍官学校に立ち寄り周恩来が組織した大歓送会に出席するが、これが黄埔における孫文最後の演説となる。
孫文が見たであろう軍官学校前の珠江


その後香港、上海を経て神戸に渡り、アジアで最初の独立国家となった日本がアジアの他国の解放者となる必要があるとして反帝国主義で共闘しようと訴える。

しかし日本政府は満州を日本に支配させるという条件を持ち出したために孫文は日本との共闘を諦めるのである。

12月に失意のもとに天津に戻った孫文は病に倒れ、そのまま翌1925年3月に59歳という若さで肝臓ガンのために亡くなってしまう。

その孫文が日本に渡る直前まで執務をしていた場所がこの大元帥府の建物なのである。

その内部は華南地方独特の天井の高い建築で、上階のバルコニーが跳ねだす騎楼建築様式が採用されている。

元帥府の事務室、孫文の執務室、応接室、居間兼寝室、食堂が当時のまま残されており、ここで孫文がその夫人の宋慶齢と生活していたのかと思うと感慨深いものがある。


孫文夫妻のここでの生活は非常に質素であったと記録に残っている。

プライベートリビングルームに展示されている孫文夫妻の人形




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地下鉄市二宮駅で降り、そこから1kmくらい東にある孫中山大元帥府記念館を目指して歩き始めたが、この辺りは広州の旧市街地で道路が迷路のようになっていて、なかなかたどり着けない。


やっと目指す高架道路を見つけて横断したら、目の前が孫中山大元帥府記念館であった。
記念館の看板


敷地面積8000㎡、南北に2棟あるコロニアル風3階建ての建物で、外から見ても手入れが行き届いてなかなか美しい。


清朝を倒した1911年の辛亥革命の後、孫文は中華民国臨時大総統に就任したものの、実質は軍事力を持つ軍閥が主導権を取ることになる。

その中で最有力の軍閥を率いていた袁世凱が1912年に北京で大総統に就任、孫文は暗殺されることを恐れて日本に亡命、1914年に東京で中華革命党という袁世凱に対抗する新党を立ち上げている。

中国を掌握した袁世凱は1915年12月、清朝に変わって中国の皇帝として北京で即位するのである。

大元帥府の入り口


いつか天皇になりたいと思っている日本人はいないと思うが、実力を持った中国人は、最後に中国皇帝になることを考えているという。

日本人と中国人の最大の違いがこのあたりにある。

袁世凱は人望が無く、わずか80日で帝政を取り消し1916年6月に病没する。

袁世凱亡き後も北京には軍閥による指導体制が敷かれるが、その背後には中国に利権を確保しようとする日本政府がいたのである。

華南建築様式の涼しそうな大元帥府の廊下


中国を支配しようとする軍閥の主導権争いと、中国に特殊権益を広げようとする日本の動きに孫文や民主的な中国人は立ち上がる。

51歳の孫文は日本から上海を経由して1917年8月広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれ執務を開始している。

孫文執務室。中に有名な「天下為公」の額が掲示されている


その直後に北京政府は孫文以下の広東省政府の幹部に逮捕状を出し、南北の中国政府が対立することになる。

今の中国も共産党支配の下での極端な所得格差という矛盾が拡大し、最後に国が分裂する可能性があるが、その時には1917年と同じように、北京に対抗する政権はここ広州に誕生するのではなかろうか。



1918年5月孫文は寄り合い所帯の権力争いに破れ、職を辞して一旦宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る。

1920年12月には再び広州に戻り、1921年5月広東政府(第2次)総統兼内務部長に就任する。

孫文は失脚を何度も繰り返しながらもその都度必ず復活するという強い男であった。


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黄埔軍校の看板前は絶好の撮影スポットで、中国人観光客がひっきりなしに記念撮影をしている。


中の教室に学生の生活スケジュールが展示されていたが、12時からの昼食後12時半から2時45分まで昼寝の時間があるのが暑い広州の学校らしい。
学生の毎日のスケジュール表


我が家に中国語の家庭教師にきている中山大学の学生に聞くと、中山大学では今でも昼休みは12時から2時45分まであるとのこと。


広州に来て吃驚したのは、12時から午後3時まで役所が昼休みとなることであった。

気の短い日本人ビジネスマンには非常に不評であるが、80年前からの習慣であれば仕方が無いことかもしれない。

教官用の校舎の2階には孫文の総理室と蒋介石の校長室が教員食堂をはさんで配置されている。
孫文の総理室にある説明文

孫文の総理執務室


珠江を見下ろす教員食堂で今から80年以上前に孫文、蒋介石、周恩来、葉剣英という若き歴史上の人物達が、中国の未来を語りながら一緒に食事をしていたのかと思うと感慨無量である。
教員食堂。奥の戸を外すと珠江が見えるリバービューレストラン。


黄埔軍校旧址記念館を出たところのみやげ物屋では、古い毛沢東バッチのようなチャチなものばかりを売っており今の中国人観光客は誰も見向きもしない。
みやげ物屋


海軍基地のゲート前にいたバイクタクシーの運転手に海珠区に渡るフェリーの出る黄船埠頭までいくらかと聞くと4元(スークワイ)と言う。

その金額なら安いと思って、久しぶりにバイクの後ろにまたがり長洲島の山道を15分ほどバイクツーリングした。

黄船埠頭の前にある東江陣亡烈士記念坊に到着したので4元を払うと、違うと言うではないか。
記念坊内部


バイク運転手は料金は10元(シークワイ)と言いましたと主張するので結局10元を払ったが、どうもすっきりしない。

広東語ではこの4と10の発音は非常に似ていて紛らわしい。

この記念坊は蒋介石が黄埔軍校の卒業生在校生を率いて東江で戦った時に亡くなった軍人生徒を慰霊するためのものであった。

2元を払って展示館に入ったが、当時の兵器や新聞を掲示してあるくらいで、あまり見るべきところは無かった。


12時少し過ぎに対岸からフェリーが到着し、15分ほど停船した後、車と人を乗せて出航である。
フェリー乗り場


この黄船埠頭から対岸の海珠区新州港までは珠江が狭くなっている部分で、5分くらいで到着してしまった。

車を持ち込んだ人はしっかり船賃を取られていたが、車の無い人は無料のようで、ただ乗りできたのが有難かった。

到着した新州は辺鄙なところでタクシーも見当たらない。
新州港


仕方が無いのでバスターミナルのような場所まで15分くらい歩き、偶然通り掛ったタクシーを見つけて地下鉄駅まで乗せてもらう。

その地下鉄駅「新港東」から冷房の効いた快適な車両で孫中山大元帥府記念館に近い「市二宮」駅まで移動する。


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蒋介石

軍官学校の開校から4年後の1928年頃には広東省だけでなく中国最大の軍隊、国民革命軍の総司令として41歳の蒋介石の名前が歴史の表舞台に登場してくる。

蒋介石校長室の説明
英文の説明文に孫文(逸仙)が蒋介石を校長に任命したとある。
孫文の英文表記は英国時代に名乗ったSUN Yatsen。


そして1931年満州事変、1932年満州国成立、1937年日本軍南京占領と時代が急変してゆく。

蒋介石は1938年に孫文亡き後13年間空席となっていた中国国民党の総裁に就任し、政治と軍事の最高指導者となって抗日戦線を指揮するようになる。

その蒋介石の権力への道の足がかりが又、同時に後に国民党軍を圧倒する中国共産党軍の幹部の養成供給基地がこの黄埔軍官学校だったのである。
学校の教室


教官だけでなくここの卒業生にも後の中国共産党軍の幹部として成長したものが多数おり、当時17歳の林彪もその一人である。

つまり文化大革命の時に毛沢東に追従してその後継者とされていた林彪の恩師は周恩来であり、葉剣英だったということになるのである。

珠江の船着場のすぐ前に有名な陸軍軍官学校の看板が掛かった正門があり、その左右に樹齢210年という見事なガジュマルの古木があった。
正門ガジュマル



正門を入ると小学門という門がある。その門には1938年に日本軍の爆撃を受けて損傷したと説明文が掲示され、それを観光に来た中国人が熱心に読んでいる。



日本軍はこの年の10月に広東省を攻略し、終戦までの7年間広州を占領したという記録が残っている。

アヘン戦争で英仏軍に2度に渡って占領された広州は78年後に今度は日本軍によって占領されるという悲運を味わうことになる。

広州で日本軍が酷いことをしたという記録はあまり聞かないが、当時広州占領日本軍の指導者がよほどりっぱな人物であったのか、あるいは北京から離れすぎていて情報が伝わらなかったのかよくわからない。

小学門の後ろに2階建ての校舎が2棟あり、前が教官用の校舎、後ろが教室と生徒の寄宿舎となっている。
校舎


延べ床面積が1万600㎡と書いてあったが、3000名の学生を収容するとなると相当に窮屈な学校生活であったのでは無かろうか。
窮屈そうな学生の寝室




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広州の天河地区から西に向かってタクシーで20分(36元)走ると黄埔区の魚珠港に到着する。

ここから孫文が作った陸軍軍官学校のある長洲島行きのフェリーが出ているので、5角(6円)の乗船料を払って珠江を渡る。
フェリー乗り場


広州の海(実際は珠江にあるので川であるが、このあたりの珠江は広くまるで海である)の玄関、黄埔港が近いので停泊している大型船が多く、近くに林立している造船所のクレーンを海から眺めるのもまた楽しい。
珠江


10分くらいで長洲港に到着して、後ろから追い越して行くバイクタクシーの警笛を浴びながら島特有の狭い道を20分ほど歩く。

当時政治的に不安定であった孫文は守り易く攻め難い島の特性と、そこに残っていた旧清国軍の兵舎がそのまま使えることに目をつけてこの不便な場所を決定したらしい。
孫文も見たかも知れない島の運河


この島は今でも軍の施設があちこちにあり、めざす黄埔軍校旧址記念館も海軍基地の入り口を入ったその奥にあった。

入場券売り場で15元の入場券を買おうとすると、係員が割引があるようなことを言っている。どうやら軍の在籍証明書を出せば半額になるらしいが、こちらは顔は中国人と同じでも外国人なので割引は関係が無いのである。
入場券発売所


孫文によって1924年に設立された国民党軍の幹部を養成するこの学校は、3万人以上の軍の幹部を養成してきたという。
中文の説明看板


1924年6月建設されたと表示のある石碑


孫文は58歳でこの学校の理事長のような「総理」というポストに就任するが、翌年の3月にはガンで波乱に満ちた生涯を閉じるのである。

当時孫文はここから20km珠江を遡った江湾大橋の南にある大元帥府という建物で生活しており、海軍大元帥でもあった彼は珠江を海軍の船でここまで通勤していたらしい。
校門を裏から見るとすぐ前は海軍の船着場


日本の陸軍に留学の経験のある38歳の蒋介石が孫文に乞われて1924年5月3日に初代校長として就任し、第1期生は3000人以上の受験者の中から選抜された470名が6月10日に入学している。

この1期生は蒋介石に率いられて将校として北伐に参加し、その7割が戦死し、生き残ったもの僅かに140名というほど勇猛に戦ったという。

孫文はこの学校の修業期限を1年と考えていたが、気の短い蒋介石は軍を指揮できる幹部候補生を早期に送り出したいとして、結局その期限は6ヶ月とされた。

蒋介石は3ヶ月後には第2期生、その後3ヶ月毎に大量の生徒を入学させるようになり、第5期、6期になると2600名から3000名という多数の生徒を入学させている。

蒋介石はここで日本陸軍留学時に習得した規律や近代的な教育内容を取り入れたが、その教育を受けた精鋭が次第に国民党軍の主力幹部となってゆくのである。
教員室


この軍官学校の教官には当時の国共合作の影響を受けて共産党員が何人も就任している。
孫文、周恩来、蒋介石(中正)等の幹部の名の入った説明看板


27歳の周恩来がフランス留学から帰国した直後にここに招かれ教授兼政治部主任に、その下の政治教官には26歳の葉剣英が就任している。

後に彼らは蒋介石の国民党に対抗する共産党の幹部となり、周恩来は中国首相、葉剣英は毛沢東も一目置く人民解放軍の元帥として小平の復活を助け、小平の恩人として子息の葉選平ともども長く広東省の実権を握るのである。

しかし当時彼らは孫文の3民主義と帝国主義打倒のスローガンの下に中国統一の為の軍幹部養成を共通の目的として、後に台湾に渡る蒋介石の下で働いていたのである。
学校の廊下


蒋介石は校長に就任して1年も経たない1925年3月には自らが教育した幹部を配置した軍を引きいて、孫文に対抗する勢力を東江(今の恵州市)に攻めて広東省を制圧している。

その東征における戦没者を慰霊する記念坊


つづく


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東風中路をタクシーで走ると、いやでも目立つ青い瓦の巨大な建物が建国の父、孫文を記念して1931年建設された中山記念館である。

建物は大阪フェスティバルホールの倍以上4900名も収容できるという巨大なホールで、以前は演劇やコンサートに利用されていたという。

内部から上を見上げると中国らしい精緻な造りで、9角形に円形をはめ込んだ天井の意匠が美しい。
内部


今は70年以上も経過してしまったためか使われることは少ないようで、観光客に公開され、舞台の上にも上がることができる。

舞台の左側に置かれた200インチくらいのスクリーンには孫文とその妻、宋慶齢の生前の様子がくりかえし映画上映されていた。

しばらく客席に座って見ていたら、中国人の団体さんや、ガイドを連れた日本人観光客、白人観光客がひっきりなしに入ってきては出て行くというあわただしさである。

建物の周りには良く手入れのされた庭園があり、特に南側の東風中路側には歩くのが嫌になるほどの広大な庭園が広がりこの地区のオアシスのようになっている。


建設以来70年以上が経っているためか樹木も巨大に生長しており、中には樹齢300年という広州の銘木もあった。

孫文歴史展示館は巨大なホールの北西にあり、中は2階建てで、孫文の生い立ち、辛亥革命、中華民国建国から1925年に亡くなるまでの活躍を古い写真や資料で紹介している。

この展示館も中国人の団体さんが大勢押しかけて、ゆっくりと見学して孫文の在りし日を偲ぶというような心境にはとてもなれない状態であった。

有名な中山記念館に付属する展示館ということで結構な入場者があったが、後日見学した珠江の南地区にある孫中山大元帥府記念館のほうがずっと展示内容も豊富で、当時の雰囲気をよく残している。


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軍官学校にある1925年当時の蒋介石の校長室


宋三姉妹の三女、宋慶齢の妹が才色兼備を絵に描いたような宋美齢である。

宋美齢は姉たちと同じ南部アトランタのウエスレイアン大学を卒業後、ボストンの名門ウエルズレイ大学でも4年間学んでいる。

このウエルズレイはブッシュ大統領夫人、クリントン大統領夫人などの母校であり、東部きってのエリート校として今でも有名な大学である。

この大学で宋美齢は相当真剣に勉強したようで、その間に彼女の英語の能力にますます磨きがかかったと思われる。

蒋介石は生前の孫文に、宋家三女の宋美齢との結婚をとりもってもらうように頼んでいる。

軍官学校の1925年当時の孫文総理室。広さは校長室と同じで、校長室よりも質素な室内


しかし孫文夫人の宋慶齢が女癖の悪い蒋介石に妹を嫁がせることを強硬に反対し、その時には実現していない。

蒋介石は故郷に正妻を持ちながら、当時19歳という若い陳潔如という美人の第二夫人がいた。

蒋介石は孫文が亡くなると孫文夫人の宋慶齢に即結婚を申し込むという節操の無い男であった。

たしかに宋三姉妹を撮った写真を見ると、どう見ても次女の宋慶齢が一番美人で、その次が三女の宋美齢で、長女の宋靄齢は美人とは言い難いのっぺりとした顔をしている。

宋家の家長という立場の長女宋靄齢(アイレイ)は、宋一族である自分の夫や兄弟を政府の要職につけるということを条件にして蒋介石と宋美齢との結婚を認めたのである。

蒋介石が校長時代軍官学校の生徒を率いて戦った東征戦役の戦没者のための記念館。軍官学校と同じ黄埔区の長洲島にある。


孫文夫人の妹、宋美齢は1927年29歳で蒋介石夫人となり、その直前まで蒋介石夫人であった21歳の陳潔如はその際に無理やり離縁させられる。

その宋美齢は蒋介石が張学良に監禁された1936年の西安事変で現地に乗り込み夫の危機を救ったために38歳にして世界的な有名人になってしまった。

宋美齢は第二次大戦中の1942年にアメリカに渡りその美貌とボストン名門女子大で鍛えた得意の英語を使った演説で膨大な対中国援助を引き出すなど、夫の蒋介石も舌巻く辣腕をふるうこととなる。

しかし戦後共産党との内戦に敗れ、1949年には夫の蒋介石とともに台湾に渡ることを余儀なくされたのである。

先ごろその宋美齢が106歳でニューヨークで無くなったというニュースを聞いたが、そうすると彼女は1897年に生まれ19世紀、20世紀、21世紀の3世紀を生きたというこれまた珍しい人生を送ったことになる。

ある人いわく「昔中国に三人の姉妹がいた。長女は金を愛し、次女は中国を愛し、三女は権力を愛した」と。

つづく


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孫文の晩年、夫婦で生活した広州大元帥府


宋三姉妹の父親である宋耀如は1861年海南島生まれの客家、9歳で親戚を頼ってアメリカに渡り大学を卒業している。

大学卒業後25歳で伝道師として1886年上海に帰国したが、キリスト教の伝道の世界でも欧米人との差別にあい、それに嫌気がさしたのかほどなく実業の世界に転身している。

実業家として成功した宋耀如は三男三女すべてをアメリカに留学させ、最初に帰国した長女宋靄齢(あいれい)を交流のあった孫文の秘書とした。

宋靄齢は孔子の子孫という名家の出で財閥の御曹司であった孔祥熙と、ほどなく結婚したので、アメリカから帰国していた次女の宋慶齢が引き継ぎ孫文の秘書となっている。

この孔祥熙は宋靄齢との結婚で孫文と蒋介石という歴史的な超大物の義理の兄という立場を手にした訳で、結婚によって人脈を得て、それによって財をなした男と言われている。

孔祥熙は宋靄齢との結婚で中国国民党政府の工商大臣、大蔵大臣に就任するなどの恩恵を受け、お金には不自由しなかったが、最後まで宋靄齢には頭が上がらなかったらしい。

ただしこの二人にはその派手な生活のせいで汚職の疑惑があり、孔祥熙は86歳、宋靄齢は84歳で共にその生涯を亡命先のニューヨークで閉じている。

次女の宋慶齢は姉に代わって秘書として使えた孫文を次第に愛しはじめ、2年後の1915年22歳で両親の反対を押し切って、当時日本に亡命中の49歳の孫文と日本で結婚している。

当時、中国人の男性は本国に妻がいても、遠く離れた海外では同国人の女性と二重結婚するケースが多かったようだが、孫文は本国にいた本妻の盧慕貞と正式に離婚したうえで結婚している。

1884年に結婚した孫文と盧慕貞の間には3人の子供がいたが、当時いずれも成人しており、その中でも孫科は父親が作った広東政府の広州市長に就任している。

広州大元帥府のプライベートリビングに置かれている孫文夫婦の人形。


その結婚から10年後の1925年3月、宋慶齢32歳の時に孫文は肝臓ガンのために59歳で永眠することになる。

宋慶齢は未亡人になった直後、孫文の弟子筋に当たる蒋介石から猛烈にアタックされるが、その後も独身を通し、夫の意思を継いで中国の統一に残りの人生を捧げるのである。

1964年には70歳で毛沢東に次ぐNO2のポスト中国国家副主席に就任したが、文化大革命が終わった5年後、1981年5月29日88歳で永眠している。

亡くなる直前には中国国家名誉主席という地位を与えられたが、今の中国がいかに彼女を高く評価しているかを物語っているのであろう。

広州大元帥府の中の意外と狭いプライベートダイニングルーム。今から82年前、ここで孫文と宋慶齢が食事を共にしていたのである。


つづく

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今も広州市内に残る状元坊(正体は最後まで読めばわかります)


昨日から大学入試センター試験が始まったが、清朝末期の科挙の試験について勉強してみた。

当時4億人の人口を有する中国で、男性であれば全員平等に金と地位と名誉を手に入れられるチャンスがあった。

それが科挙に合格して進士になる道である。

その試験の順序であるが、まず最初は日本でいう市の単位の試験である県試を受け、合格すれば、県の単位の府試を受ける。

それに合格したものが院試に進むが、院試には歳試と科試があり両方に合格してはじめて省を代表して科挙の試験を受験する有資格者となるのである。

ここまでに既に4回の受験でふるい落とされることになる。

その後三年に一度、科挙の一次試験である郷試が各省の省都であり、合格した者は挙人と呼ばれることになる。

科挙の二次試験では各省の挙人(受験生)全員が北京に集まり復試と会試を受け、会試の合格者はだいたい300名前後とされている。

会試合格者は全員再び復試を受け、復試に合格した者が皇帝自ら試験官となる殿試を受けるのであるが、北京に来てからもさらに4回もの試験があるという厳しさである。

会試の会場に入るには龍門という門を通るので、会試合格者を登竜門という。

殿試合格者は第一位を状元、第二位を榜眼、第三位を探花といい第一甲「進士及第」、翰林院という高級幹部養成所に入れる官職を受ける。

それ以下の合格者の上位100名は第二甲「進士出身」。残りの下位200名は第三甲「同進士出身」という資格を得る。

第一甲を除く第二、第三甲の合格者はその後「朝考」という高官になるための登用試験を受け、翰林院から中央最高幹部になる者「京官」と地方の市長、県知事クラスになる「外官」等の官職を皇帝から授けられる。

科挙の試験は四書(大学、中庸、論語、孟子)、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)の中から出題される。

無数の受験生の中からここまでくる者には、全部で43万文字もある四書五経をすべて暗記し、逆さまでも暗誦できるという受験生がゾロゾロいた。

太平天国の乱の首謀者洪秀全は県試に15歳で合格後、十六年間かけて府試を4回受験したが、合格しなかった。

彼の乱は科挙の試験に合格しなかった世の中への恨みに起因するという説が有力である。

清朝末期の政治家で洪秀全を滅ぼした曽国藩は十六歳で府試に合格しているが、四書五経だけでなく史記まですべて暗記していたという。

その曽国藩ですら会試に2度落第し、3回目でやっと合格しているが、そのランクは第三甲であった。

日清戦争当時の清国の最高実力者で直隷総督、宰相を兼務した李鴻章も科挙に合格した進士であったが、その試験官が曽国藩ということで彼等は師弟の関係にあった。


昨日紹介した康有為も当時既に多数の著書を出版しており全国的に有名な学者であったが、科挙の受験(会試)には一度落第し、三十七歳でやっと合格している。

いかに進士になる道が厳しかったか理解して頂けたと思うが、三年に一度の科挙殿試で全国第一位合格者、所謂「状元」を輩出した街は、中国で第一位のエリートを輩出した街を誇るという意味で「状元坊」と書いた額を掲示した門を立てた。

広州市内にもその状元坊があるが、近所から中央最高幹部になる人を出せば人治主義の中国では街全体が潤うという嬉しいことなのであろう。

康有為




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孫文

正面から見た中山記念堂



以前にも書いたことがあるが、広州には孫文にちなむ建物、建造物が数多くある。その中でも最も大規模で象徴的なものがこの中山記念堂であろう。

中山記念堂の敷地内にある孫文歴史展示館の隣には売店があり孫文にちなんだおみやげや、本が売られていたので25元出して「辛亥革命の旅」と「中山記念堂」という2冊の本を買っておいた。

孫文歴史展示館前から見た中山記念堂


その本によれば、孫文は第二次アヘン戦争のきっかけとなったアロー号事件の10年後の1866年11月に広州の南、中山市にある客家の家に生まれている。

1884年ハワイに留学し、その後で1888年には香港の西医学書院という医学校に入学しているが、このことから彼の実家は客家とはいえ、かなり裕福な家庭であったのでは無かろうか。

その西医学書院で学んでいる時、医学では皇帝に支配された封建的な国の現状は救えないと悟って清朝を倒す革命の道に入ったといわれている。

中山記念堂の正面に掲示されている孫文の有名な言葉を記した額。「天下為公」とは中国世界(天下)は国民(公)の為にあるのであって、皇帝の為にあるので無いという意味。


孫文は1895年に亡命先の日本で断髪しているので、それまでの29年間は清国の風習である辮髪(ベンパツ男性の髪を伸ばし編んで後ろに垂らす髪型)のままであったらしい。

清朝を倒す革命運動の途中で何度も危機的な状況に遭遇するが、そのたびに来日して難を逃れており、その際に名乗った偽名が中山 樵である。

清朝から国際手配されていた孫文が東京の宿に泊まる時、直前に通った中山孝麿侯爵家の中山をとっさに拝借し宿帳に苗字として書き、名前は山の中には「きこり」かいるということで、樵としたという。

中山侯爵とは明治天皇の母親中山慶子の兄の子で、明治天皇の従兄弟、東宮太夫という高官であった。

孫文はその後この偽名が気に入って、号を中山としたという。

孫文より少し早く広州南海県に生まれた康有為は最難関の科挙の試験に合格し、エリート(進士という)として清朝の官僚となる。

康有為の書である陶陶居の看板。見事な楷書が書けることが当時の科挙に合格する最低の条件であった。


当時の科挙については後日書き込みの予定。

官僚として優秀で、憂国の士であった康有為は時の清朝皇帝の覚えめでたく、体制内部から国を変える「変法」の道を目指すことになるが、時の権力者であった西太后の逆鱗に触れて失脚する。

この二人は同時に日本に亡命した時期があり、共通の目標となった清朝の改革、革命の為に協力するようにと周囲から勧められるのであるが、清朝の政権内部にいた科挙に合格したエリートとして誇り高い康有為の方が孫文との協力を断っている。

プライドを捨てて二人が協力すれば中国の近代化はもっと早まったのではないかと思うが、両雄並び立たずということかもしれない。

広州市内にある孫文文献館


孫文や多くの著名人を輩出した客家について

2世紀頃から五胡十六国等の戦乱、唐末期、南宋末期、17世紀の明朝末期等に起こった戦乱を逃れるために1500年という長い期間に渡り、黄河流域北部の山西、河北、河南一帯の住民が何度も黄河を越えて南に逃れてきた。

これらの難民は気候の温暖な広東省を中心に福建、広西、湖南省に定住したので今でも広州の周辺には多数の客家が住んでいる。

彼らは戦乱さえなければ先祖以来の安住の故郷から逃れる必要は無かったわけで、そういう意味ではローマに追われたユダヤ人と共通した立場にあるとも言えるのである。

さらにはユダヤ人がイスラエルを建国したのと同じように、客家を中心とする華僑は東南アジアにシンガポールを建国している。その建国の父リークワンユーは当然客家なのである。

よそ者である客家は貧しく、その裏返しのためか概して教育熱心で政治家、革命家、軍人を多数輩出しているのが特徴と言われている。

客家の有名人としては太平天国の乱の洪秀全、孫文、その夫人の宋慶齢、改革解放政策の小平、軍人では朱徳、広州軍区の葉剣英、台湾の李登輝などが上げられるが、いずれにしても錚々たる人材を輩出している。


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昭和の歴史を振り返ると、昭和6年、(1931年)の満州事変、昭和7年の上海事変、満州国建設の後、昭和12年(1937年)には日中が全面戦争に突入し、日本軍の南京占領があった。

その翌年の昭和13年(1938年)6月には日本軍が広州を空爆し、5000人の死傷者を出している。

軍官学校の門に掲示された日本軍の爆撃を受けた当時の写真


その4ヶ月後、10月12日に日本軍は広州から140km南東にある大亜湾に上陸し、わずか9日後の10月21日には広州を占領しているので、日本軍の進軍は破竹の勢いであったらしい。

広州から車で3時間かかる大亜湾にある澳頭港の写真。このあたりから日本軍が上陸し広州を目指した。アヘン戦争前までは海賊の基地があったという。



1934年に建設されたばかりの広州市政府、現在の広州市人民政府ビルが接収されて日本軍の司令部になっている。

広州に外国軍が入るのは第二次アヘン戦争時の英仏による占領(1857年12月から1861年10月までの4年間)以来、実に77年ぶりのことであった。

第二次アヘン戦争のときの英仏両軍は、広州市内で略奪の限りを尽くしたと記録に残っているが日本軍の占領中はどうであったのであろうか。

しかし遂に昭和20年(1945年)9月16日、日本の敗戦から1ヶ月後になって中山記念堂で日本軍の田中久一華南派遣軍司令官が投降文書にサインして、ようやく7年間に渡る日本軍の広州占領が終わるのである。

日本軍が投降文書にサインした中山記念堂




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1941年12月8日太平洋戦争開戦と同時に英仏の沙面租界も日本軍の占領下に置かれ、その行政を行う軍部沙面民政署が設置された。
沙面の西側にあるドイツ領事館


こうした日本軍の占領下の1943年に中国政府はイギリス、フランスに外交団を送り、沙面租界の中国返還と治外法権等の不平等な条約を解消する交渉に成功する。

当時のイギリス、フランスはナチスドイツとの戦争で忙しく、遠い中国の、それも日本に占領されてしまっている小さな租界などどうでも良かったという絶妙のタイミングをうまく掴んだ交渉であった。

従って1945年終戦と同時に沙面は中国に接収され、1946年広州市は沙面を市の管轄地域として宣言し、ここに沙面は85年間の長期にわたって続いた租界としての歴史に終止符を打ったのである。

六二三路側から見た沙面


1959年周恩来首相が北京から広州に視察に来た時に、ぜひ一度この沙面を見たいとの要望があったという。

実は広州市の幹部は知らなかったのであるが34年前の1925年当時、広州にあった陸軍軍官学校で周恩来は政治部主任という教職に就いていたのである。

ちなみに軍官学校の総理(理事長)は沙基事件(6、23事件)の2ヶ月前1925年3月に59歳で永眠した孫文、校長は後の台湾の大統領あの蒋介石であった。
軍官学校の教室


周恩来は1925年に起こった沙基事件のデモに参加してその事件を目撃しており、そのときの犠牲者には彼の教え子であった軍官学校の生徒が大勢含まれていたのであった。

周恩来は目に涙を浮かべて昔を振り返り、教え子達の尊い犠牲を無駄にせず歴史の教訓とする意味でこの租界を後世に残す必要があると指示したという。

その時から共産党主導で沙面整理委員会が設立され、そのトップには広州市長が就任して沙面の整備に拍車がかかったのである。

つまり今の沙面がこうして歴史的な場所として保存され、整備されているのは周恩来が英仏帝国主義者の凶弾に倒れた教え子を追悼する気持ちを34年経っても持ち続けていたお陰なのである。
沙基事件のあった六二三路前のビル


毛沢東の主治医であった李 志綏氏の書いた回顧録「毛沢東の私生活」を読むと、周恩来は保身のために毛沢東の言いなりであったとか、冷酷だったとか意外と評判が悪いのにはビックリする。

しかし、沙面にとってはパークスが生みの親なら、周恩来は育ての親ともいうべき存在なのである。

そのためか1966年から1976年までの文化大革命期間中も整備が少し遅れた程度でたいした被害を出さなかったのは幸いであった。

文化大革命の終了後間もない1979年、新生中国を象徴するかのように沙面の珠江に面した南西部分を一部埋め立て、延床面積11万㎡、34階建てのホワイトスワンホテルの工事が着工され、1983年に竣工している。
ホワイトスワンホテル


そのホワイトスワンホテルに先日1月13日に北朝鮮の金正日総書記が宿泊したのである。
ホワイトスワンホテルのプール

ホワイトスワンホテルのデリ


つづく


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沙面は1861年9月埋め立て区画整理が完了してから既に140年以上が経過している。

ガジュマルの大木


当時の苗木がそのまま育っていれば145歳、この土地で既に大木であった木もあったであろうし、その後植えられた木もあり、沙面には広州のほかの場所には見られないほどの大木が数多くある。

広州市内で保存の対象となっている古樹名木といわれる樹は全部で209株、そのうち約半数の102株が沙面にある。

つまり、広州で保存の対象となっている古樹名木をまとめて見ようと思えば、沙面に来てこの旧租界を一周すれば良いのである。

その中でも最も古い樹は200号という番号のついた広東勝利賓館前の樟樹(クスノキ)で、直径165cm、樹齢300年と判定されている。

樹齢300年と書いた樟樹(クスノキ)の表示プレート


その樹の枝は向かいの7階建てビルの屋上よりも高く伸び、まさに巨木という表現がぴったりする見事な楠の大木であった。
一番奥が樹齢300年の樟


樹齢100年以上の古木は154株、その7割は榕樹(ガジュマル)、3割が樟樹(クスノキ)で、そのうち沙面埋め立て区画整理の完成よりもなお古い樹齢180年以上というものが44株もある。
ガジュマル並木


この沙面では美しい街路樹と同じく、コロニアル風建築群の美しさも特筆されねばならない。


1861年から1940年頃までの約80年間に英仏の租界として当時英仏両国で流行した建築様式の建物が次々と建設され、今でも150棟が残っている。

中国側の建築分類によるとこれらの建築群は新古典、ローマン、バロック、モダンの4つに分類できるという。
勝利賓館

沙面コロニアル建築群を示す石碑


果たして今の日本の大都会にこのような古樹名木を100本以上、コロニアル建築群を150棟もまとめて見られる贅沢な場所があるのであろうか。

つづく


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1892年には電灯、1906年には電話、1910年には水道とインフラも着々と整備され、1911年のイギリス租界には323人の外国人と1078人の中国人が居住していたと記録されている。

現在のコロニアル風街路


1911年の辛亥革命をきっかけに広州でも租界と中国側の緊張関係が起こり、イギリス3隻、フランス2隻、アメリカ、日本各1隻の軍艦が派遣されている。

1912年には広州南部出身の孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任し、清朝が滅ぶのである。

1914年に第一次世界大戦が起こり、遠いヨーロッパで列強が戦っているスキに日本が中国に権益を主張しはじめる。

1907年には日系の台湾銀行の支店が開設され、1920年代(日本では大正後期)にはこの沙面に三井物産、三菱商事、大阪商船、横浜正金銀行、台湾銀行など日系企業の支店が軒を並べていたことが記録に残っている。

この沙面租界には今から100年くらい前から既に日本人が住み、ビジネスで欧米企業と張り合って働いていたのである。

沙面の中央大街と呼ぶ公園


1925年(昭和元年)5月30日、上海で2000人の学生デモ隊へ租界のイギリス警察が発砲して死者13名、負傷者数十名という事件が発生した。

それを契機に広州でも共産党主導で沙面中国工人援助委員会が設立されたことで広州市民と沙面租界が不穏な状況となった。

そこで6月22日イギリス、フランスは珠江に停泊中の軍艦から水兵を上陸させ、外国人混成の義勇軍を組織し、沙面へ通じる2つの橋を閉鎖してしまった。

6月23日になって広州市民、黄埔陸軍軍官学校の学生が上海虐殺者追悼集会を挙行し、10万人という空前の人数を数えるデモ隊が帝国主義のシンボルのような沙面租界に向かって行進しはじめた。

今も残る黄埔陸軍軍官学校の校門


諸外国の義勇軍兵士は雲霞のようなデモ隊を見た時、恐怖の余り沙面側から対岸の沙基路にいたデモ隊に向けて発砲し、デモ隊から死者52人、重傷170人という上海事件を上回る犠牲を出してしまったというのが沙基事件(6、23事件)である。

このときの犠牲者を追悼する意味でその後沙面対岸の沙基路は六二三路と改名されている。

現在の六二三路。


時代が下り1933年(昭和8年)になると沙面に住む外国人はアメリカ263人、日本235人、イギリス157人、ドイツ146人、その他120人という記録が残っている。

1911年の記録と比較するとイギリス人が大幅に減り、アメリカ人と、日本人居住者の増加が目立つ。
樟の並木



1934年には沙面に日本以下英、仏、米、独、伊、スペイン、オランダ、ポルトガル等12カ国の領事館が設置されていた。

1936年(昭和11年)には邦人保護の名目で100人の日本軍が沙面租界に駐留し始め、日中戦争突入への秒読みがはじまった。

その2年後の1938年には沙面を含む広州市街地がすべて日本軍に占領されることになる。

つづく


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