孫文
正面から見た中山記念堂
以前にも書いたことがあるが、広州には孫文にちなむ建物、建造物が数多くある。その中でも最も大規模で象徴的なものがこの中山記念堂であろう。
中山記念堂の敷地内にある孫文歴史展示館の隣には売店があり孫文にちなんだおみやげや、本が売られていたので25元出して「辛亥革命の旅」と「中山記念堂」という2冊の本を買っておいた。
孫文歴史展示館前から見た中山記念堂
その本によれば、孫文は第二次アヘン戦争のきっかけとなったアロー号事件の10年後の1866年11月に広州の南、中山市にある客家の家に生まれている。
1884年ハワイに留学し、その後で1888年には香港の西医学書院という医学校に入学しているが、このことから彼の実家は客家とはいえ、かなり裕福な家庭であったのでは無かろうか。
その西医学書院で学んでいる時、医学では皇帝に支配された封建的な国の現状は救えないと悟って清朝を倒す革命の道に入ったといわれている。
中山記念堂の正面に掲示されている孫文の有名な言葉を記した額。「天下為公」とは中国世界(天下)は国民(公)の為にあるのであって、皇帝の為にあるので無いという意味。
孫文は1895年に亡命先の日本で断髪しているので、それまでの29年間は清国の風習である辮髪(ベンパツ男性の髪を伸ばし編んで後ろに垂らす髪型)のままであったらしい。
清朝を倒す革命運動の途中で何度も危機的な状況に遭遇するが、そのたびに来日して難を逃れており、その際に名乗った偽名が中山 樵である。
清朝から国際手配されていた孫文が東京の宿に泊まる時、直前に通った中山孝麿侯爵家の中山をとっさに拝借し宿帳に苗字として書き、名前は山の中には「きこり」かいるということで、樵としたという。
中山侯爵とは明治天皇の母親中山慶子の兄の子で、明治天皇の従兄弟、東宮太夫という高官であった。
孫文はその後この偽名が気に入って、号を中山としたという。
孫文より少し早く広州南海県に生まれた康有為は最難関の科挙の試験に合格し、エリート(進士という)として清朝の官僚となる。
康有為の書である陶陶居の看板。見事な楷書が書けることが当時の科挙に合格する最低の条件であった。
当時の科挙については後日書き込みの予定。
官僚として優秀で、憂国の士であった康有為は時の清朝皇帝の覚えめでたく、体制内部から国を変える「変法」の道を目指すことになるが、時の権力者であった西太后の逆鱗に触れて失脚する。
この二人は同時に日本に亡命した時期があり、共通の目標となった清朝の改革、革命の為に協力するようにと周囲から勧められるのであるが、清朝の政権内部にいた科挙に合格したエリートとして誇り高い康有為の方が孫文との協力を断っている。
プライドを捨てて二人が協力すれば中国の近代化はもっと早まったのではないかと思うが、両雄並び立たずということかもしれない。
広州市内にある孫文文献館
孫文や多くの著名人を輩出した客家について
2世紀頃から五胡十六国等の戦乱、唐末期、南宋末期、17世紀の明朝末期等に起こった戦乱を逃れるために1500年という長い期間に渡り、黄河流域北部の山西、河北、河南一帯の住民が何度も黄河を越えて南に逃れてきた。
これらの難民は気候の温暖な広東省を中心に福建、広西、湖南省に定住したので今でも広州の周辺には多数の客家が住んでいる。
彼らは戦乱さえなければ先祖以来の安住の故郷から逃れる必要は無かったわけで、そういう意味ではローマに追われたユダヤ人と共通した立場にあるとも言えるのである。
さらにはユダヤ人がイスラエルを建国したのと同じように、客家を中心とする華僑は東南アジアにシンガポールを建国している。その建国の父リークワンユーは当然客家なのである。
よそ者である客家は貧しく、その裏返しのためか概して教育熱心で政治家、革命家、軍人を多数輩出しているのが特徴と言われている。
客家の有名人としては太平天国の乱の洪秀全、孫文、その夫人の宋慶齢、改革解放政策の小平、軍人では朱徳、広州軍区の葉剣英、台湾の李登輝などが上げられるが、いずれにしても錚々たる人材を輩出している。
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