野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



所用で山口県の防府市まで行ってきましたので、防府市を紹介しましょう。山口県の市では下関市、山口市、宇部市、周南市、岩国市に次ぐ第6位、114800の人口を持つ市です。

新幹線徳山駅(周南市)と新山口駅(山口市)の中間に位置しているため新幹線の駅はありませんが、車なら新山口駅か徳山駅に20分前後で移動できる位置にあります。そのためJR在来線の列車本数は少なく、特に昼間は極端に少なくなり大変でした

かつては三田尻、中関(なかのせき)などとも呼ばれていますが、周防国の国府が置かれたことから防府と呼ばれるようになったようです。・・・銀座商店街にある「ほうふ昭和館」のみだじり駅プレート

県下最大の下関市と広島市の中間点として、かつては商業都市、交通都市、製塩都市として栄え、都市銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていたようですが、近年はかなり都市力が低下しています。・・・ぎんざ通り商店街

現在は旧来からの商店街や門前町が衰退、商業都市としてよりも工業都市としての性格が強いようです。・・・ぎんざ通り商店街にある萩往環の石碑

歴史のある防府市には、観光資源も多くありますが、観光集客にはうまく生かされていないようです。・・・防府天満宮

例えば「扶桑菅廟最初」(日本最初の菅原道真廟という意味)の石碑がある防府天満宮が駅から徒歩圏内にあります。

また、そのすぐ東側には奈良時代全国に設置された国分寺の一つ、周防国分寺が現存、広大な敷地と巨大な木造建築物の金堂(本堂)は重要文化財に指定されています。

さらにその東側に、明治末~大正初期に完成した毛利公爵家の庭園「毛利氏庭園」(重要文化財)が公開されていて、今の季節は紅葉が見事でした。



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ミサゴが公園の杭に止まるまでの着地飛行を撮ってみました。・・・止まる杭の先端よりも、かなり低い高さで水平に接近しています。

ここから翼の角度を上向きにし、上昇姿勢に入ります。

地面と翼の角度が大きくなると、急に飛行速度が落ちて、ここからフワッと上昇してゆきます。ミサゴの眼線は杭の先端を捉えています。

フワッとした上昇をさらに続け

杭の先端と目の高さが揃ってきました。

杭の先端からやや高い位置に到達すると、杭を掴む足の指が開き始めて

両方の翼と尾羽をいっぱいに広げて、フワッと杭に着地する寸前のミサゴ

鋭い爪のある足の指をいっぱいに広げて、杭の先端に降りようとしています。

こうしてミサゴは杭の先端に無事着地しました。こういう写真の撮影は、現在市販されているネオ一眼では難しいと思います。



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近所の公園でよく見かける11月末頃の野鳥を紹介しましょう。・・・ジョウビタキ♂

予想していなかったグリーンの背景がきれいなジョウビタキ♀

今の季節のウグイスは地鳴きだけで、ホーホケキョとは鳴きません。

ナンキンハゼからのムクドリの飛び出し

緑をバックにしたジョウビタキ♀・・・尾羽はいつも細かく震わしています。

モズ♂

ジョウビタキ♀をトリミングして拡大してみました。

モズ♂のトリミング拡大

遠い干潟にアカアシシギが2羽いました。この2羽、大阪市内の公園で越冬するかも知れません。



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いつもの公園で、環境省レッドリストの準絶滅危惧種に指定されているハイタカ(全長♂32cm、♀39cm)を見つけました。・・・こういう場所に止まっていると非常に判りにくい野鳥です。

突然、明るい場所に出てきてくれましたが、顔が日陰に入っています。

ハイタカは、大阪府のレッドリストには入っていないようですが、大阪府下でも希少種でしょう。・・・真後ろを向くこともできるようです。

  

ここからはニコンp900で写したハイタカです。一眼レフに比べると安いカメラですが、その解像度は高いと思います。

ハイタカは留鳥として四国以北に分布するほか全国に冬鳥として渡来する野鳥です。  

日本では、北海道と本州の標高の高い山地で繁殖する例もあるようです。

大阪では繁殖期から子育てが終わる秋口まで、その姿を見ることはありませんが、秋に渡ってきて農耕地や河川敷などに生息するようです。

ハイタカの獲物は小鳥類で、この公園でも小鳥を狩る姿をときどき見ることがあります。下の写真参照

ハイタカの狩り。この狩りには成功したみたいで、この直後、芦原の中に着地して出てきませんでした。追われている野鳥は何でしょうか。・・・半円形に広げた尾羽がきれいですね。



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カラスの羽色は黒ですが、その表面には鳥類共通の微細構造があり、太陽光の入射角度によって複雑な黒に見えるようです。

「黒」と言う色は、一番認知し易い濃い色ですが、そこには全ての色の要素が入っていて、その色素の中で最も目立つのが青、次が濃い紫ということが知られています。

実際のカラスの羽色かどうか、公園のナンキンハゼに飛来したカラスを望遠レンズで撮影して確認してみましょう。

遠目には黒く見えるカラスも、その翼をレンズで拡大してみると、やはり光沢のある青い色や紫色が混じって見えます。

昔の日本人も、この特徴を知っていて、若い女性の光沢のある髪を「髪はカラスの濡れ羽色」と表現、カラスの濡れた羽は、美しさの象徴だったようです。

平均的な日本人女性の髪は、黒っぽい色ですが、健康な若い女性の髪に水や髪油などを含めると、カラスの羽色を髣髴とさせる干渉色が浮かぶことがあることが判っています。

髪と言えば、ヘアカラーの業界で使われる「ブルーブラック」も、カラスの濡れ羽色をイメージした商品のようです。

ある企業のHPには<ブルーブラックとはその名の通り、ブラックにブルーが入ったような深い色合いのことです。パッと見た感じでは、黒髪との違いが分かりにくい場合もありますが、光の当たり具合などで、さり気なくブルー色が入っていることに気が付きます>

一見、黒としか見えないものが、光の当たり具合で、光沢のある青色が重なって見える。この神秘性が美しさに繋がるのかも知れません。・・・スミマセン、カラスの頭が隠れてしまいました。



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昨日、中山寺の記事の中で、羽林家(中山家)出身の明治天皇の生母「中山慶子」を紹介しました。そこで公家の家格について調べてみましたので、今日はナンキンハゼのカワラヒワの写真と一緒に紹介しましょう。

まず公家とは、御所の清涼殿にある殿上間に昇殿する資格を世襲した上級貴族のことで、平安中期には日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部「公卿」としての家柄が固定され、江戸時代末期には137家もあったそうです。

公卿になることが出来るのは上から摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家と呼ばれる家で、家格の高い順に御所の詰め所も異なり、天皇から受ける処遇も違ったといいます。

明治期になって爵位が制定(明治17年)されると、摂家5家は最高の公爵、清華家9家のうち三条実美の三条家が公爵、残る8家は侯爵を受爵。

清華家のうち西園寺家の西園寺公望、徳大寺家の徳大寺實則が尊皇攘夷派としての活躍と明治期の天皇側近としての勤務が認められ後に両家は公爵。次の大臣家4家は伯爵ですが、正親町三条家だけが正親町三条実愛の明治維新と明治新政府での活躍が評価され、後に侯爵に叙せられています。

大臣家の次の羽林家66家のうち、岩倉具視の岩倉家が公爵、中山家と四条家が侯爵、6家が伯爵、残る57家が子爵、明治維新で活躍した人物を出した家は、爵位でも優遇されていたことが判ります。

羽林家出身の公家の中で、岩倉具視の活躍は抜群と認められたのは当然としても、中山家は明治天皇の生母の実家ということと、父親の中山忠能が岩倉具視の協力者だったことでの優遇でしょう。・・・ナンキンハゼのカラス

同じ羽林家出身の公家で中山家と並んで侯爵となった四条家では四条隆謌を出しています。隆謌は八月十八日の政変で失脚した七卿の一人で、戊辰戦争で中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務めた人物です。・・・モズ♂

羽林家の次となる名家28家では4家が伯爵、残りが子爵、半家26家では、澤宣嘉の澤家が伯爵、他はすべて子爵に叙せられています。澤宣嘉は八月十八日の政変で失脚した七卿の一人で、王政復古の後に九州鎮撫総督、長崎府知事などを務め、明治2年(1869年)に外国官知事から外務卿になった人物でした。・・・モズ♂



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兵庫県宝塚市にある西国三十三所の第24番札所で、真言宗中山寺派の大本山「紫雲山中山寺」に行ってきましたので紹介しましょう。・・・中山寺の山門

寺伝では聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場で、元四天王寺と呼ばれることもあり、現在の本堂(慶長8年・1603年再建)や阿弥陀堂は、豊臣秀頼が再建したとされています。・・・参道

中山寺は、昔から安産祈願の霊場として武家や庶民から信仰を集めていて、豊臣秀吉の祈願で豊臣秀頼を授かった(1593年)こと、幕末に中山 慶子が安産祈願して祐宮(後の明治天皇)を無事出産したことなどが知られています。・・・本堂と多宝塔

明治天皇の生母となる中山 慶子は、1836年1月京都に生まれ、1852年(17歳)で典侍(宮中における高級女官の最上位)となって孝明天皇の宮中に入り、同年、中山邸において明治天皇(祐宮)を産んでいますので、中山寺安産祈願は1852年(165年前)のことでしょう。・・・今年完成した五重塔

明治天皇の公式な母は、孝明天皇の正妃・女御(典侍の上位)九条夙子(九条尚忠の娘・英照皇太后)九条家は公家最高家格の五摂家の一つ、中山家は五摂家の次の(清華家)の次の(大臣家)の次(羽林家)という家格でした。・・・本堂前

1867年、孝明天皇が崩御されたことで、祐宮は明治天皇として践祚、生母の父親中山忠能は明治天皇の外祖父となり中山家の運が一挙に開けています。・・・五重塔

中山忠能は1884年羽林家としては異例の侯爵を叙爵、中山侯爵家を継いだのは中山 慶子の長兄中山忠愛、その次男が侯爵中山孝麿(明治天皇の従弟)です。・・・多宝塔

日本に亡命した孫文は、中山孝麿邸にあった中山の表札を見た縁で、中山樵という偽名を名乗るようになり、孫中山を号として自称、今では中国の都市にあるメイン道路が中山路と命名されています。

中国の大都市を調べてみると、北京、上海、天津、重慶、南京、広州などに中山路が存在しています。そのルーツは中山寺に安産祈願に来たことがある中山 慶子の実家の中山侯爵家だったのです。・・・参道のコウテイダリア

 

 



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急降下すると最高時速390km以上というハヤブサの写真と一緒に、太平洋戦争中「隼」の愛称がついた飛行部隊、加藤隼戦闘隊について紹介しましょう。

1941年(昭和16年)4月、4代目戦隊長として飛行第64戦隊に着任したのが加藤建夫(19031942年)陸軍少佐です。第64戦隊は加藤がかつて中隊長を務めていた飛行第2大隊第1中隊など3個飛行中隊が合併して193881日に編成された飛行戦隊です。

19418月、加藤少佐指揮する第64戦隊は、新鋭の一式戦闘機(中島飛行機機製造)に機種改変するため日本に帰国して機体を受領、中国広東で猛訓練を行い、日米開戦直前の123日に広東から 2千数百kmを一気に飛行し仏印に進出しています。

「エンジンの音 轟々と 隼は往く 雲の果て」と始まる「加藤隼戦闘隊の歌」は、部隊の戦意高揚のため前年(19402月末・加藤建夫が隊長として就任する前)に南寧に派兵された第64飛行戦隊第1中隊で生まれ、すぐに「飛行第64戦隊歌」となった歌です。

その歌詞に出てくる「隼」とは、戦闘機をハヤブサに例えた愛称でしたが、太平洋戦争の緒戦において第64戦隊が大活躍したため、19423、陸軍航空本部は、その歌詞の「隼」を「一式戦闘機の公式の愛称」に採用、加藤少佐の飛行第64戦隊は加藤隼戦闘隊と呼ばれるようになったのです。

太平洋戦争開戦後、第64戦隊は各地の航空撃滅戦において連合軍を圧倒、加藤自身も積極的に一式戦闘機に搭乗し戦隊長として空中指揮・戦闘に活躍し、南方作戦の成功に大きく貢献し、中佐に昇進しています。

しかし19425月、第64戦隊の駐屯する飛行場を敵機が来襲した際、迎撃した加藤隊長機は腹部に集中射を浴びて発火、加藤中佐はベンガル湾に突入して自爆していますので第64戦隊長としての期間は僅か11月余りだけでした。

戦死した加藤中佐は、寺内寿一南方軍総司令官からの個人感状、さらに帝国陸軍初となる二階級特進(陸軍少将)、功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となっています。

戦死から2年後の1944年には山本嘉次郎が監督を務めた東宝映画『加藤隼戦闘隊』が陸軍省後援の国民映画として公開されて大ヒット、挿入歌「加藤隼戦闘隊の歌」も一挙に全国に広まっています。



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先日ふと空を見ると、カラスの集団が白っぽい中型の野鳥を追いかけていました。カメラを持っていたのでチョット撮影し、帰ってからPCで見るとハヤブサでした。

ハヤブサ(全長♂42cm、♀49cm)をウイキペディアで検索すると、眼瞼は黄色、虹彩は暗褐色、嘴の色彩は黒く、基部は青灰色で嘴基部を覆う肉質(ろう膜)は黄色とあり、写真にその特徴がちゃんと写っていました。

ハヤブサは、留鳥として九州以北に分布するほか、冬鳥として沖縄や全国に渡来して山地、平地、海岸、河口、農耕地などに生息、ビルや橋脚などに営巣することもあるようです。和名のハヤブサは「速い翼」から転じたとされ、実際に素早く飛ぶので飛行中の姿を写真に撮るのは大変です。

ハヤブサは、鋭い爪と嘴を持つ生態系の頂点に位置する鳥で、強さ・速さの象徴とされ、太平洋戦争中の日本陸軍一式戦闘機にも陸軍が正式愛称として「隼」を使ったことが知られています。

しかし、開発や採掘による生息地の破壊、農薬による汚染などによりその生息数は減少、環境省のレッドリスト2017では絶滅危惧II類(VU)に指定されています。

また、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律の施行に伴い、1993年に国内希少野生動植物種にも指定されています。

国内希少野生動植物種は、環境省のレッドリストと違い、指定されると、その種について保護計画(個体保護、生息地保全、保護増殖)が策定され、野生個体を無許可で採集した場合には、罰則が適用される規定があります。

ハヤブサは、主にスズメやハト、ムクドリ、ヒヨドリなどの小型鳥類を食べますが、獲物は飛翔しながら後肢で捕えたり、水面に叩きつけて捕えるようです。

また、ハヤブサの水平飛行時速度は100㎞前後、急降下時の速度は、飼育しているハヤブサに疑似餌を捕らえさせるという手法で計測したところ、時速390kmを記録したと言われているので、地球上で最も早いスピードが出せる動物とされています。

参考文献:日本の野鳥590 大西敏一解説



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秋晴れのある日、東京江東区にある富岡八幡宮に行ってきました。江戸幕府が初めて江戸での勧進相撲を認めたのは今から333年前、1684年、この富岡八幡宮でした。・・・そこにある相撲関係の石碑を紹介しましょう。

明和年間(1770年前後)には春・秋の年2場所のうちの1場所がこの富岡八幡宮で開催されていたそうです。・・・大関力士碑は鳥居を入ったすぐ右にあります。

「そういう意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地と言えます」と神社の説明板に表記されていました。・・・大関力士碑の裏にある碑には、駒ケ嶽、伊勢ノ浜から始まり、昭和期は能代潟から平成期は霧島から順に大関名が刻まれていました。

こちらは、拝殿の右側奥にある明治二十八年三月吉日の横綱力士碑、左側に横綱不知火・右側に横綱陣幕の顕彰碑、魚かしの石柱は大正期のものでした。・・・左端は千代の富士が寄進した超五十連勝力士碑

 横綱力士碑の裏面には、初代明石志賀之助、二代綾川五郎次、三代丸山権太左衛門、四代谷風梶之助から続く横綱の名前がぎっしりと刻まれていました。・・・石碑の横面には陣幕久五郎の名前が大きく刻まれていました。

 横綱力士碑の右後方には協賛中曽根康弘とある横綱の顕彰碑があり、朝潮太郎、柏戸、大鵬から若乃花(三代目)まで刻まれています。

その顕彰碑の表側スペースが無くなった関係で、裏面に武蔵丸から稀勢の里までの横綱名が刻まれていました。裏面では最上段なので、まだ15名分のスペースが確保されています。すべて埋まるのはいつになるのでしょう。

実は、それ以降のこともちゃんと配慮されていて、横綱力士碑の左後方に名前の刻まれていない石碑があり、ここも三段×7名×裏表で計42名を刻めるスペースがありました。これが埋まる時期は想像できませんね。

超五十連勝を達成した力士は、双葉山69連勝(以下同じ)、千代の富士53、谷風63、太刀山56、初代梅ケ谷58の名前が刻まれていますが、白鵬(63達成済み)は現役なのでまだ表示されていません。ちなみに大鵬の記録は45連勝なので対象外でした。



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但馬国・豊岡は、忠臣蔵の主役、大石内蔵助(赤穂浅野家5万石・筆頭家老1500石)の妻、理玖の出身地で、理玖の父親は豊岡京極家(35000石)の筆頭家老・石束源五兵衛毎公(いしづかつねよし・1200石)でした。・・・JR豊岡駅前

理玖(16691736)が大石内蔵助(16591703)へ嫁いだのは1687年頃とされ、その約14年後に浅野内匠頭長矩が江戸城で吉良に切りつけ、即日切腹という事件が起きます。・・・豊岡駅前通り「こうのとりのまち」の垂れ幕

1702年、大石内蔵助は討ち入りで罪が妻子に及ばぬよう離縁の形をとり、理玖は身重の体で長女のくうと共に豊岡の実家(石束家)に帰り、後家となってからの11年間を豊岡で過ごしています。・・・旧町人町にある立正寺

吉良邸討ち入りが成功して夫と長男の主税が切腹した後、理玖は豊岡の実家で生まれた大三郎の養育と、内蔵助の冥福を祈る生活を続け、香林院と名乗りました。・・・旧、豊岡藩陣屋門の先は図書館

1709年、徳川綱吉が死去、1912年に家宣も死去した1713年(7代家継の時代)赤穂浪士が称賛されるようになり大三郎は父と同じ石高(1500石・5万石大名の筆頭家老格)で浅野本家の広島藩(43万石)に召抱えられています。その際に理玖は大三郎と一緒にこの豊岡から広島へ移ったといいます。・・・旧豊岡藩陣屋から道を挟んだ土蔵の前(左)にある大石理久の看板

一方、理玖の兄で豊岡京極家の筆頭家老石束毎明(つねあき・1667?~1755年)は、1703年に石束家の家督と家老職を相続(加増され1500石)しますが、3代藩主京極高栄が32歳の若さで亡くなったことで平穏な状況が一変しています。・・・左に「大石りく夫人と豊岡藩家老石束家」という説明、中央石碑、右は元禄時代の絵図

京極高栄の後を継いだ4代藩主京極高寛も1726年に10歳で急死、京極家が無嗣になり、弟の京極高永(17201726)が急きょ家督相続したため、豊岡京極家は15千石に半地され石束家の家禄も半減したのです。・・・大石陸女生誕之地とありました。理久、りく、でもなく陸とありました。

理玖の兄、石束毎明(つねあき)は藩の半地に対応するため、積極的に改革と倹約にあたり、また殖産興業を図って柳行李(豊岡名物カバンの始まり)の生産を開始しています。1726年ころの理玖は、広島に移って13年目でしたが1736年に広島で亡くなっています。・・・武家屋敷と町屋を隔てるのは円山川支流の和久田川

理久の兄、石束毎明が隠居すると、嫡男毎雅(つねまさ)が、藩主京極高永と藩政改革を巡って対立、 1747年には家老を辞して出藩したため、隠居していた毎明は豊岡を離れて広島の甥(理久の息子大石大三郎)のもとに身を寄せ、8年後に広島で生涯を閉じています。豊岡石束家と広島に何か縁を感じます。・・・今の和久田川



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ちょっとした用事で、大阪から京都、山陰本線に乗り換えて福知山(下は福知山城)、さらに豊岡まで行ってきました。

JR豊岡駅のプラットフォームです。

駅の待合室にあるマップを見ると、右下の赤い二重の矢印の箇所に大石内蔵助夫人、大石理久(りく)の実家があると表示されていました。

そこで、忠臣蔵のファンとして一度は見てみたかった大石理久の実家跡に向かいました。

なかなか立派な豊岡市役所です。前面の古い市役所の後ろが当たらしい市庁舎でしょう。

さて、元禄15年豊岡城下絵図とあるところが大石理久の生家があった場所でした。

絵図を見ると、生家の石束源五兵衛は豊岡藩の筆頭家老だったので京極氏藩邸(豊岡陣屋)のすぐ西隣に位置しています。

この門は、明治3年旧久美浜県庁門として築いたものを翌明治4年に豊岡県庁の門としてここに移築したものだそうです。・・・左は豊岡図書館

武家屋敷らしい築地塀が残っていました。

つづく



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昨日に続き、明治初期の東京大学医学部で800人以上の日本人医学生を教えたベルツ博士(1849 1913年)の日記から、明治1020年代の草津温泉と湯畑の写真を紹介しましょう<・・・>が引用部分

<草津は他のどの温泉よりも、湯の温度が高く、入浴の度数が多い。摂氏46度乃至50度で、毎日5回の入浴を通例とする。これを少なくとも1か月継続するのだ>

<およそ二週間後には、大抵の入浴者の皮膚の柔らかい箇所に、化膿性の発疹ができて、次第に広がってゆくが、これを「タダレ」と称する。それでもなお、入浴を続けねばならない、これは湯が強い酸を含んでいるための苦痛である>

草津温泉の公式サイトによれば、濃度の高い草津の含硫化水素強酸性明礬緑ばん泉は、「湯もみ」によってできる「湯の花」の効果で、皮膚表面に薄い膜ができ、実温度よりも体感温度が低くなるため今も入浴温度は48℃としているそうです。

<引き続き入浴するうちに、発疹は再び良くなるが、後に患者が帰途、沢渡のアルカリ性の温泉で3.4日入浴すると、あらゆる痛みと烈しいかゆみが治まり、発疹はしごく簡単に癒えてしまう>沢渡温泉は今も草津温泉の仕上げ湯として知られています。

ここからは草津の人々との交流です。<夜、草津の家主一同により、茶屋へ招待された。町長が演説をやり、自分に歓迎の辞を述べて、同地のために助言を請うた。もちろん、ふんだんに「酒」と「ゲイシャ」だ。飲めば飲むほど、日本人は皆、いよいよ陽気になった>

<おしまいには、これら町の名士達は、ほとんど誰もが、怪しい踊りをやったり、おかしい歌を歌ったりした。・・・またもや自分は、おどけたり茶化したりする才能を、いかに豊富にこの国民が持ち合わせているかを見せつけられた>

<おかしいことを言ったり、したりする連中が大抵そうであるように、彼らはいささか軽々しい。この人たちは、心底から不景気の年を迎えて、大抵は借金を背負いこんでいるのだが、この場所では、まるで子供のように打ち興じている。>・・・酒を飲んだときの今の日本人と今から100年前の日本人の行動が、実によく似ていることに驚きました。

<これらの朗らかな人々を見ると、これが、一旦祖国のためとあらば、断固としていかなる努力、いかなる危険をも辞さない国民の一分子であるとは、ほとんど想像もつかない>

参考文献:ベルツと草津温泉 市川 善三郎著



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草津温泉を再発見、世界に紹介した人物は、御雇外国人として東大医学部で27年にわたって医学を教え、日本医学界の発展に尽くしたドイツの医師、エルヴィン・フォン・ベルツ(1849 1913年)です。

草津温泉の湯畑の写真と一緒にベルツ博士日記から明治1020年代の草津に関する部分を一部紹介しましょう<・・・>が引用部分

<草津は草深い盆地にある。初めてこの地を訪れた者には、日本の町というよりは、むしろチロル地方の村落が念頭に浮かぶ。風雨で黒ずんだ木造の二階家は、周囲にベランダをめぐらせ、往来に面して、正真正銘に枠組みの破風があり、張り出した屋根、屋根板の上の重しなど、一般にこの国では極めて珍しい風景を呈している>

<町の真ん中(ドイツの町の中央広場に相当)には、湯気を立てて猛烈に臭う、硫黄を含んだ熱湯の大噴泉がある>この湯畑のことでしょう。

<その縁には、大きい共同浴場が設けられているが、周囲の三階建ての旅館は、それぞれ内湯を持っている>現在の湯畑には、共同浴場はありません。

<日本(の温泉)は、どこでもそうであるが、各人別に新しい湯をたてるのではなく、昼夜を分かたず、新しい湯が流れこむようになっている>

<しかし、今では、相当大きい旅館はいずれも、せいぜい知人のあいだ、又は同一家族の者だけで使用する個別浴室を持っている>今の家族風呂のことでしょう。

<なにしろ日本では、浴場なるものは、中世におけるドイツの浴場と同様に、一種の社交機関なのである。当地でも昔は、老若男女を問わず、一緒に入浴したものだった>

ベルツ博士夫人は日本人女性(新井 花)で、二人の間に生まれたトク・ベルツ氏の子供(ベルツ博士の孫)ハット・ベルツ氏が祖父所縁の草津温泉とドイツとの親善に貢献しています。

参考文献:ベルツと草津温泉 市川 善三郎著



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藤村操(18861903)の「巌頭之感」は、当時16歳の彼のオリジナルなのでしょうか、16歳の高校生は何を参考として遺書を書いたのかを調べてみました。近所にいるモズ♂の写真と一緒に紹介しましょう。

当時発行されていた本格的な哲学書「哲学概論」(1900年発行)桑木厳翼(18741946)著は、発行から40年間も売れ続けたロングセラーでした。

桑木厳翼は、「哲学概論」の冒頭で「ああ悠々たる天壌 それははたして始終あるか始終なきか。 びょうたる五尺の小塊、そのなかに云々・・・その整然たる秩序と規律とは、またあまりにも不可思議にすぐ」と書き「哲学概論」には「不可思議」という言葉が頻繁に登場しています。

藤村操の「巌頭之感」の出だしは「悠々たるかな天壌 遼々たるかな古今」から始まり、「五尺の小躯をもってこの大をはからんとす」。

さらに「万有の真相はただひとことにしてつくす。いわく不可解」さらに「我はこの恨みをいだいて煩悶、ついに死を決するにいたる」と続きます。

「哲学概論」と「巌頭之感」の文章自体が、自然や人生の不思議さを述べ、そうした自然や人生を肯定しているのが前者、否定しているのが後者となるのでしょう。

桑木厳翼は、藤村操が直接講義を受けていた第一高等学校の哲学教師で、高校生の藤村はその教師に尊敬と親しみを感じていたことは間違いないでしょう。

さらに小説「武蔵野」で有名な国木田独歩(18711908)の作品は、藤村操が傾倒する哲学的・思想的な傾向を帯びていて、藤村操が読んでいた可能性は高いようです。

藤村操自殺(1903522日)の7日前(515日)、雑誌文芸界に15歳年長の国木田独歩の「悪魔」(人生問題に悩む若者が登場し、悪魔に自殺をそそのかされる内容)という作品が掲載されていますが、そこに表現された言葉と「巌頭之感」の文章が実は良く似ているのです。

参考文献:藤村操の手紙 土門 公記著・検証藤村操、華厳の滝投身自殺事件 平岩 昭三著

 



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