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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



現在の大阪で桜川と言えば地下鉄の駅しか思いつかないが、江戸時代の中期から大正時代の初期まで「桜川」という綺麗な名前がついた川が大阪に存在していた。

桜川が流れていた千日前通り



明暦年間(1650年代)までの大坂には、道頓堀川の南に川は未だ無かったが、宝永年間(1704~1711年)の地図には載っているのでその間に掘削されたのであろう。

1830年の浪華名所独案内地図にある桜川



徳川政権も安定し、諸大名の蔵屋敷が建ち始めた17世紀末期の大坂では、「大坂の掘り起こし」と呼ばれる水運のための大土木工事が進行していたので、桜川もその頃に開削された堀川であったようである。

1908年の地図



この「掘り起こし」は、あみだ池大黒のお菓子「岩おこし」に転用されて「岩おこし」は縁起の良い大坂みやげとなっている。

桜川は、1913年(大正2年)3月の地図に載っているが、1915年(大正4年)8月の地図には埋め立てられているので二百年チョットしか存在しない短命の堀川であった。

1913年の地図



この地図が正確に時代を反映したものであれば、わずか2年の間に埋め立てられ、市電の線路が敷かれたことになるので、大正時代の市電建設工事は猛烈なスピードだったようである。

1915年の地図



旧桜川のあった場所には、1915年11月に玉船橋からの市電が開通し、高野登山鉄道の汐見橋と奈良に向かう関西鉄道の湊町駅への重要なアクセス路線となっていた。

旧湊町駅のあった場所の今の姿



その後、自動車の増加とともに大阪市内の市電路線は次第に廃止され、旧桜川を通る路線も地下鉄千日前線の開通とともに1969年4月に無くなり、代わりに桜川の名前が駅名として残されている。



現在、旧桜川はミナミの東西を結ぶ主要幹線千日前通となり、その地下には2009年の開通を目指して西九条から近鉄難波駅までを結ぶ「阪神なんば線」の工事が進行中である。


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大相撲1月場所は、東西横綱対決を白鵬が制して優勝しているが、大阪には江戸時代から大正の末まで大阪相撲という興行があった。

大阪相撲の興行のあった南堀江(道頓堀写真の左側)



戦国時代の空気の残る江戸時代初期の相撲興行は、興奮した観客同士の暴力沙汰が絶えなかったために永く禁止状態が続き、寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかったという。

興行的な勧進相撲は、元禄期になってやっと解禁され、全国の力士を大阪へ招いての相撲興行が再開されている。

幸橋



道頓堀に架かる幸橋の北、南堀江公園の西側には、「勧進相撲興行の地」という石碑と、1692年(一説には1702年)、この辺りで最初の相撲興行があったという説明文が建っている。



このときの10日間の興業収入は、銀186貫目(約3千両=現在の3億円くらいか)を超えたといわれているので、今のプロレスかK-1をしのぐ人気があったようである。



享保期(1716~36年)には一時中断していたが、1765年から南堀江と難波新地(現在なんばグランド花月のある場所)の2箇所で毎年交互に興行され、18世紀後半には豊かな大阪商人の後援を背景に江戸相撲をしのぐ隆盛を誇っていたという。

難波新地付近

  

しかし、谷風(1750~1795年)、雷電(1767~1825年)らの活躍がはじまると、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が、競って力士を抱えるようになり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになる。

当初、大阪と江戸で力量の差は無かったようであるが、有力力士が江戸に流出するようになり、幕末の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になったようである。

陣幕



1870年大阪相撲の大関であった梅ケ谷は、東京相撲に小結として移籍し、1879年にやっと大関にまで昇進したという。

1909年に両国国技館が落成すると、大阪相撲も対抗して1919年新世界に両国に匹敵する規模の「大阪国技館」を建設しているので、大正時代まではまだ大阪相撲の人気は衰えていなかったようである。

1923年の地図にある国技館



東京相撲との合同興行は、大正期まで恒例として行われたが、東京と大阪の戦力差が大きく、また1923年には力士の引退養老金問題での内紛などで衰退し、大正末期には東京相撲に吸収されてしまったようである。


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コガノイベイホテルでの夕食は、日本レストランの神島(かしま)での和風会席料理である。



最初に出てきたのは左から鰆のキズシ、真中には小さな器に入ったタイの子とカズノコ、ゴマメと野菜4品の煮物、さらに梅酒。



2番目が吸い物とマグロ、タイ、ハマチ、えびの刺身



3番目が里芋を裏ごししたダンゴの中に具を入れた煮物



4番目がステーキが2切れ



5番目が野菜と魚の鍋(前の写真)

6番目が茶そば



7番目が海老と野菜の天麩羅



8番目がご飯と漬物と赤だし

9番目がメロン、イチゴ、みかんゼリーのデサートというコースであった。



同じカラカミ観光の系列ホテルであるが、去年のホテル川久よりも、今回のコガノイベイホテルのレストランのほうが広くゆったりとしていて、料理も美味しかったように思う。

食事のあとロビーの売店で買い物をして部屋に戻り、外を見ると日が暮れかかりホテル川久がライトアップされて綺麗である。



朝食は、フレンチレストラン「コンカドーロ」で摂ったが、ホテル川久の「フォルナーチェ」と比べると質素な内装であった。

ビュッフェ形式の朝食は、和食メニューが主体のヘルシーな料理が多く、ちょっと豪華さに欠けると思ったが、「フォルナーチェ」のように気取らなくて良いので○。

ROSSの評価(☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆
部屋     ☆☆☆☆
サービス   ☆☆☆☆
食事の味   ☆☆☆☆
ボリューム  ☆☆☆☆
値段     ☆☆☆☆
トイレ    ☆☆☆☆
大浴場    ☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆☆


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ホテルに掲示してある温泉分析表によれば、古賀之井の原泉の泉温は60,5℃、湧出量は毎分119リットル、pH8,1、無色澄明、無臭、弱塩味というので成分はホテル川久の温泉とほぼ同じである。

客室から眺めた朝のホテル川久



泉質は、ナトリウムー炭酸水素・塩化物泉とあり、効能は切り傷、火傷、皮膚病、婦人病、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、消化器病、痔、冷え性等と万病に効く温泉のようである。

コガノイベイホテルの外観



コガノイベイホテルには、男女が日替わりで変わる2箇所の浴場があり、屋内プールの両側に配置されている。

プールとジャグジー(左)



入浴客は、浴室ホールにあるタオルとバスタオルを取ってから脱衣室に入るので、何度入浴しても新しいタオルが使えるようになっている。

屋内プールの右側にある浴場の脱衣室から大浴場に入ると、大きな窓に沿った浴槽と清潔な広い洗い場があり、さらにサウナルームも付属していた。

夕方に入った浴場の露天風呂は、引き戸を開けて外に出たところにある「大自然の湯」というモルタル仕上げの浴槽であった。



その前に円形の小さな浴槽が2箇所あり、こちらは内側に木が貼り付けられていて、中からは、林越しに白浜の海を眺めることができる。

露天風呂の中からの眺望



さて、次の日の朝は、屋内プールの左側にある浴場が男性用に替わっていたのでそこに入ってみた。

脱衣室と室内浴場は昨日の浴場と殆ど同じであったが、露天風呂だけが違っており、手前に白いタイル貼りの楕円形浴槽と、チョット高い場所に高野槙で作られた円形露天風呂がある。

2箇所ある露天風呂



露天風呂に限ればこちらの方が高級感があるが、まずタイル貼りのほうで青空を見ながらじっくりと温まり、程よいところで高野槙風呂に移動する。

タイル風呂



高野槙風呂には屋根があるので青空は見えないが、昨日の露天風呂と同じように林の隙間から白浜の海を見ることができる。

高野槙風呂



また高級素材である高野槙でできた浴槽に入ると、ザザッとお湯が外に溢れ出て、贅沢な気分を味わえるのが温泉リゾートの醍醐味である。




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コガノイベイホテルのロビーは、ホテル川久の広く豪華で重厚なロビーに比べると対照的な明るい簡素な空間であった。



ロビー正面にはガラスの壁で仕切られた中庭があり、その周りの廊下をロビーから右手に進むと朝食ビュフェにも使われるフランスレストラン「コンカドーロ」の入り口である。



その左手にはガーデンプールへの出口があり、屋外にあるプールは今の季節は使われていないが、高台にあるのでここからホテル川久を眺めることが出来る。



このガーデンプールには、外国のリゾートホテルでよく見かけるプールの中の椅子に腰掛けて飲み物が飲めるプールバーがあった。



また「コガノイベイホテル」には、ジャグジー付の明るい温水屋内プールがあり、宿泊客は無料で使えるので、ここに泊まる人は冬でも水着を持って行くほうが良い。



客室の面積は、去年泊まったホテル川久の80㎡に比べると劣るが45㎡と広く、玄関を入ると廊下の左に冷蔵庫とクローゼット、右に洗面スペースがあり、洗面の左右に浴室とトイレが独立してあるのが特長である。



この浴室も使って見たが、お湯の出が悪く、なかなか一杯にならなかったので大浴場の利用を前提としてお湯の供給を絞っているのかもしれない。



クローゼットの横にあるドアを開けると、広々としたベッドルームと大きな窓があり、その向こうにはホテル川久と海と空の空間が広がっている。



コガノイベイホテルの最大のセールすポイントは、400億円もの巨費をかけて建設したホテル川久を、客室から眼下に眺めることができる点であろう。



ベッドルームの窓には、カーデンの代わりにスライド式のルーバーがついているのが珍しい。



室面積が45㎡あるので、ベッドと窓までのスペースが結構広く、海を見ながらゆったりと部屋で寛ぐことができるのは、リゾートホテルならではの醍醐味である。

テレビ台の下部のキャビネットの中にある浴衣は、大小のサイズ別に置かれる気配りがされていたが、残念ながら大の「ゆかた」も少し丈が短く脛が出てしまっていた。



室内のエアコンを運転すると少し音が煩かったので消して寝たが、屋外の最低気温が1℃という寒い夜であっても、室内は結構暖かい。


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去年に続き、カラカミ観光の「白浜四季彩の旅」という大阪~白浜間の無料バスを使って「コガノイベイホテル」に行ってきた。



「コガノイベイホテル」を経営していた株式会社古賀乃井は、2004年10月に負債約180億円(うち金融債務約174億円)で倒産している。

古賀乃井は、1949年に設立された白浜の老舗旅館で、温泉旅館「ホテル古賀の井」(客室103室、定員419名)、とリゾートホテルの「コガノイベイホテル」(客室172室、定員502名)を経営していた。



白浜地区を訪れる年間約100万人の宿泊客の約10%強を古賀乃井が確保しており、ピーク時の1997年には年商約36億円をあげていたという。

しかし、個人消費低迷の影響から2003年には年商が24、3億に減少、特に「コガノイベイホテル」への資金負担が経営を圧迫し債務超過に陥っていたらしい。

海側から見たコガノイベイホテル



1992年7月に140億円をかけて「ホテル古賀の井」の背後にある高台に建設された「コガノイベイホテル」は、バブル真っ最中に計画された「バブルの遺産」とも言えるホテルであった。

大阪からの無料バスは、「ホテル古賀の井」に寄ってから急斜面のアクセス道路を登り、白浜の海が一望できる高台にある、地上10階、地下2階の「コガノイベイホテル」に到着である。

宿泊するホテル客室からの眺めは、去年宿泊した「ホテル川久」を正面から見下ろす素晴らしいオーシャンビューであった。



「ホテル川久」は、古賀乃井と同じ1949年に創業した白浜の老舗旅館「川久」が1991年11月に開業しているので、古賀乃井は対抗して「コガノイベイホテル」を建設したのではなかろうか。

それにしても「コガノイベイホテル」から見下ろす「ホテル川久」の重厚なデザインは、他の建物と比べると際立って見事である。



1998年にカラカミ観光チェーンがホテル川久(投資額400億円)を買収した金額は、30億円と噂されているので、2004年倒産した「コガノイベイホテル」も相当安い金額で買い取られたのではなかろうか。

朝のオーシャンビュー



お陰で我々マイカーを持たない庶民がこうして無料バスを使って気軽に利用することができるようになったのは有難い話である。


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和光寺には江戸時代、善光寺の末寺として本堂・放光閣・観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵・閻魔堂・地蔵堂・金比羅権現・金銅地蔵・鐘堂などの伽藍があったというが、1945年の空襲で惜しくも焼失している。

和光寺の山門と享保4年(1719年)の銘のある石灯籠



江戸時代の和光寺境内には演芸場や遊技場が立ち並び、特に仏生会(4月)の植木市は大阪の名物行事として知られ、遠方からの参詣人の人気を集めていたという。

また盆供養の時の賑わいも目だったもので、昭和初期には地元の芸者衆による盆踊りが評判となっていた。

境内



和光寺の北側には阿弥陀池が現在もあり、この付近の地名や、あみだ池筋の語源となって親しまれている。

池の前にある「阿弥陀池」と刻銘のある石碑は、戦災を免れたかなり古いもののようで、池の中央には、1947年に再建された宝塔(放光閣)が建っている。



和光寺は、落語の「阿弥陀池」に縁のある寺院として有名で、落語が創作された明治時代までは「あみだがいけ」と呼ばれていたようである。

落語では、「こんなこと、お前ひとりの知恵やあるまい。誰が行けちゅうたんや?」と言われた男が「へい、阿弥陀が行けといいました」で落ちとなる。

池の前にある地蔵像



この和光寺の西側には、有名な大阪名物「粟おこし、岩おこし」の「あみだ池大黒」本社がある。



あみだ池大黒の創業は、堀江の土地が整備されてから約100年後の1805年、土佐堀川・長堀川の河畔に西国諸大名の蔵屋敷が建ち並んでいた頃のことというので、創業から200年を越える老舗である。

初代、小林林之助は、長堀川畔あみだ池に店を開き、諸国から蔵屋敷に運ばれる米を積んだ船の船底に溜まった米を安く買い取っておこし作りをはじめたという。

1806年頃の堀江地図



これらの米から作られる「おこし」は、当時大坂で河川の「掘り起こし工事」が多かったことから、「大坂の掘り起こし、岩おこし」として広がっている。

あみだ池筋



また、蔵屋敷に出入りの人々や、近くの茶屋で遊ぶ商人や文化人たちがお土産ものとして使い、さらに明治になってからの日露戦争で『恩賜の御菓子』として採用されたために全国ブランドとなったようである。


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和光寺は、元禄期に創建された新しい寺院であるが、西暦552年、境内の「阿弥陀池」に反仏教派の実力者物部氏が阿弥陀如来像を棄てたという伝説がある。

阿弥陀池



この阿弥陀如来像は、百済の聖明王(在位523~554年)から欽明天皇に贈られたものという。

継体天皇の子息、欽明天皇時代の大連(おおむらじ、朝廷軍事部門のトップ)は反仏教派の物部尾輿、大臣(おおおみ、朝廷政治部門のトップ)は、仏教受け入れ派の蘇我稲目であった。

和光寺山門



当時、彼等は仏教を受け入れるかどうかで激しく争っており、その過程で反仏教派の物部氏による阿弥陀如来像の投棄があったようである。

この争いは、子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれ、587年に聖徳太子を味方につけた仏教派の蘇我馬子が勝利している。

和光寺本堂



その6年後、摂政に就任した聖徳太子は、阿弥陀池から3,5キロ南東の土地に四天王寺を創建、元物部氏の領地であった場所に建つ四天王寺は、日本最古の本格的仏教寺院となっている。

物部氏が棄てた阿弥陀如来像は、602年に信濃国国司・本田善光が救って信濃国飯田持ち帰ったというが、本田善光の名前から明らかなように、その阿弥陀如来像は、624年善光寺に移されて本尊の秘仏となっている。

本堂屋根の雨樋受けの紋章



和光寺のある堀江の地は、江戸時代の初めのころは、まだ湿田が広がる場所であったが堀江川、長堀川、道頓堀川、西横堀川が掘削され、その土砂で低地が埋め立てられて1698年頃には新たな市街地となっている。

現在、道頓堀川以外の堀川はすべて埋められてしまった



しかし、「阿弥陀池」だけは堀江開発の前から存在しており、仏教伝来時に捨てられた阿弥陀如来像の伝説も江戸期以前からあったので、池は埋め立てられずに残されたようである。

長堀川の跡にできた長堀通りの説明標



物部氏がここに阿弥陀如来像を棄ててから千年以上が経過した1699年、智善上人(?~1727年)が善光寺本尊が出現した霊地として寺院を建立し、蓮池山智善院和光寺と号している。


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1582年に信長が本能寺の変で死去すると村重は堺に戻り、豊臣秀吉が覇権を握ると、茶人・荒木道薫として、千利休らと親交をもっている。

伊丹駅前の有岡城跡(右の林)



村重の反旗は、本能寺の変の先駆けでもあり、信長亡きあとに天下人となった秀吉・家康などからは厚遇されたというが、妻子を見捨てて有岡城を脱出した村重の晩年はつらい毎日であったようである。

有岡城の石垣



信長から兵糧攻めにあった有岡城に監禁された黒田官兵衛は、土牢という劣悪な環境と、栄養失調で脚部の関節に障害が残り、歩行が不自由となったが、豊臣、徳川の権力争いをうまく泳ぎ、筑前福岡52万石の大名黒田家の祖となっている。

土塁



また、村重の配下にあって信長に寝返った茨木城主中川清秀の中川家も豊臣、徳川時代をうまく渡り、7万石の豊後岡城主として明治維新まで続いている。

茨木城の搦め手門を移築した茨木神社の東門



もう一人の配下大名であった高槻城主高山右近も、本能寺のあと秀吉について明石6万石の大名となったが、改宗しなかったためにバテレン(キリスト教)追放令によって領地を没収され、その後国外追放となっている。

高槻城跡の右近像



江戸期にはいってからの1661年、伊丹は五摂家筆頭の近衛家の所領となっているが、近衛家は酒造を奨励したために伊丹の酒造業は一段と発展し、最盛期には100軒を超えていたとも言われている。

伊丹の繁栄を知った幕府は、幕末に御用金113万両(幕末には貨幣の価値が下がっているので今の5~60億円くらいか)を課しているので近衛家をバックとした酒造家は当時その金額を支払える富を蓄えていたようである。

今も清酒白雪で有名な小西酒造(創業1550年)の本社は伊丹市にあり、有岡城跡の西側には旧岡田家酒蔵を復元した伊丹郷町館もある。



落城した有岡城と武家屋敷は、信長軍の憎悪の対象となって徹底的に破壊され、また明治時代に鉄道工事で大半が掘削されてしまったために天守の跡は只の丘のようである。

天守の跡の説明碑



また、信長軍と1年間も戦った歴史的に重要な場所であるが、JR伊丹駅と再開発ビルに挟まれていて城跡としての整備は無理のようである。


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荒木村重(1535~1586年)は、摂津国池田城主である池田氏の家臣として城主池田勝正に仕えていたが、1570年に池田勝正を追放し、池田城を乗っ取っているので斎藤道三(1494~1556年)のような下克上を実行した人物である。

JR伊丹駅前から見た有岡城



1573年、織田信長(1534~1582年)の台頭を見た村重は、織田家の家臣となり、信長から摂津一国(37万石)を与えられて茨木城主となっている。

翌年、伊丹氏を追放して伊丹城に移っているが、その後も信長に従って、石山本願寺攻めなど各地を転戦し、武功を挙げて1歳年長であった信長の信頼を高めている。

空堀



ところが1578年突然、荒木村重は有岡城で信長に反旗を翻したために村重を重用していた信長は、その反逆に驚愕し、翻意の使者を出すように羽柴秀吉に命じているほどである。

秀吉は、村重と旧知の黒田官兵衛孝高(1546~1604年如水としても有名)を有岡城に派遣したが村重は、官兵衛を拘束して土牢に監禁し、織田軍に対して1年間、有岡城に篭城して徹底した抗戦をしている。



村重の信長への反逆の原因には諸説あるが、前年に上杉謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長連盟をつくったためにそれに乗るほうが有利と下克上を実践してきた村重は考えたのではなかろうか。

その後村重の側近、中川清秀(1542~1583年)と高山右近(1552~1615年)が信長方に寝返ったために戦況は次第に不利となり、1579年村重は有岡城を脱出して最後は毛利氏に亡命している。

天守のあった広場



したがって村重の有岡城主としての期間は5年間にすぎなかったが、村重は15の町を有する南北6キロ、東西0,8キロの広大な城域を掘と土塁で固めた「惣構え」としていたためにさすがの信長軍も攻めあぐね落城まで1年もかかっている。

「惣構え」の遺構は江戸期の地図に残されている



この有岡城の「惣構え」の防御機能は、すぐに秀吉によって大坂城築城にも取り入れられたために、徳川勢が大阪冬の陣で攻めあぐねたのは有名である。


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講堂の西側にある戒壇には、1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれたが、唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の1284年に造られたとする説とがあるらしい。

戒壇前から林越しに見た鐘楼(正面講堂、その右が小さな鐘楼)



戒壇と講堂との間にある鐘楼に懸かるのは平安期の梵鐘で、「南都左京」という間違った刻銘がある(正しくは右京)ので有名である。

井戸



鐘楼から境内の奥に進むと、だいご井という古い井戸があり、その奥は唐招提寺の本坊である。



本坊前の古い築地塀に沿って、東に進むと右手に小さな旧開山堂、左手(境内の北側)には鑑真大和上御影堂(重要文化財)がある。



この建物は、1647年に再建された旧興福寺一乗院門跡の宸殿等を移築したもので、唐招提寺の開基、鑑真和上像(国宝)は現在ここに置かれている。

毎年、開山忌の6月5~7日のみ公開されているので、今の時期は高い築地塀の上から屋根の一部が見えるだけである。

御影堂の前をさらに東に歩くと、左手に古い簡素な山門があり、その奥が鑑真和上廟であった。



奈良時代の高僧の墓地が最初から明確になっているのは鑑真だけで、没後1200年間も線香が絶えることがない墓地はこの廟くらいであろう。



廟から御影堂の前まで戻り、南に進んだところにある礼堂(重文)は南北に細長い建物で、もとの僧房を1283年に改築したものという。



境内東側に並んで建つ経蔵(国宝)と宝蔵(国宝)は、ともに奈良時代の校倉造倉庫である。



経蔵は唐招提寺創建以前からあった新田部親王邸の倉を改造したものといい、東大寺正倉院よりもさらに古い日本最古の校倉建築とされている。

経蔵(国宝)



宝蔵(国宝)





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753年、薩摩に寄航した鑑真は、翌年遣唐使船の出発地であった難波津に上陸したのち平城京に入り、建設途上の東大寺大仏殿(758年完成)前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに導師として菩薩戒を授けている。

東大寺大仏殿



現在の唐招提寺の境内西側には、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う戒壇があり、戒壇院の建物は江戸時代末期の1851年に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。

戒壇



鑑真は、日本で過ごした10年間のうち、前半5年間を創建されたばかりの東大寺で過ごし、759年に今の唐招提寺の地を与えられて移ってきている。

唐招提寺の寺地は、平城京の右京五条二坊に位置し、広さは4町(約4万平方メートル)、境内の発掘調査の結果、天武天皇第7皇子の新田部親王邸と思われる前身建物跡や古い瓦が出土している。

世界遺産「唐招提寺」



招提寺建立縁起によると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家、羂索堂は遣唐大使で帰国が叶わなかった藤原清河家の寄進といわれている。

763年鑑真は76歳でこの地で没しているが、弟子達が師の大往生を予知して作成した和上像は開山堂に安置され、鑑真廟は境内北東にある林の中に円墳のかたちで残っている。

鑑真廟の円墳



伽藍の造営は、鑑真の弟子如宝、孫弟子の豊安の代にまで引き継がれ、平安時代以後一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛によって復興されている。

770~780年頃の建築と推定されている唐招提寺金堂(国宝)は、奈良時代の金堂建築としては現存する唯一のもので、寄棟造、単層で、屋根上左右に鴟尾(しび)が乗っているのであるが、残念ながら2009年秋まで修理のためにすっぽりと仮設の建物に覆われていて外観を拝観することができない。

金堂を覆う仮設建物



金堂は1270年頃と1693~4年に修理されており、屋根構造は創建時から少し変わり近世風になっている。

2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されているという。

講堂



講堂(国宝)は、鑑真が開基した際に平城宮の東朝集殿を移築し改造したものといわれ、金堂よりもさらに古い建築物のようである。


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世界文化遺産の一つ、唐招提寺の開基は、有名な中国の僧、鑑真(688~763年)で、境内には奈良時代に建立された金堂、講堂をはじめ、多くの文化財があることで知られている。

唐招提寺の南門



続日本紀によれば、唐招提寺は鑑真が759年、平城宮右京にあった天武天皇第7皇子の旧宅跡を朝廷から譲り受けて寺としたものという。

平城京、右京の俯瞰図



寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、「寺」などと同様、仏教寺院を指す一般名詞として使われていたので寺名は、「唐僧鑑真和上の寺」という意味らしい。

南大門に掲示された唐招提寺の扁額



鑑真の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した大和上伝、それをもとにした淡海三船の唐大和上東征伝、井上靖の天平の甍などに詳しい。

出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧もいなかった。

唐招提寺に現存している戒壇



そこで733年、朝廷の命を受けた普照と栄叡は、日本に戒壇を設立するための高僧を招請するため遣唐使と同行する留学僧として渡唐している。

彼らが揚州(江蘇省)大明寺の高僧であった鑑真に初めて会ったのは9年後の742年のことで、鑑真は渡日を承諾するが、足掛け12年の間に5回も渡航に失敗している。

旧開山堂



748年、鑑真の5回目の渡航では中国南端の海南島まで流され、日本人留学僧の栄叡を失うという苦難を味わったが、海南島から広州を経由して遣唐使船の寄航する明州(寧波)まで戻っている。

広州にある光孝寺南門



城壁で囲まれた広州城内にある鑑真が立ち寄った光孝寺(面積約3万平方メートル)は、このブログで紹介したことがあるが、城壁のない平城京にある唐招提寺(面積約4万平方メートル)よりも狭い寺院である。

光孝寺金堂



753年、鑑真は前年に明州(寧波)に到着した遣唐大使、藤原清河(706~778年)の率いる遣唐使船3隻の中の副使大伴古麻呂(?~757年)の船に乗って、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、当時失明していた鑑真はすでに66歳になっていた。

光孝寺境内



鑑真と同時に出発した3隻のうち、藤原清河と阿倍仲麻呂(698~770年)が乗った第一船は不幸にも遭難して安南(今のベトナム)にまで流され、清河と仲麻呂は望郷の念を抱きながら二人とも唐で亡くなっている。


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堺から高野山までの路線を目指していた高野鉄道は、1900年(明治33年)堺のターミナル大小路(今の堺東駅)から北上して道頓堀(汐見橋)まで路線を延伸して大阪市内へ乗り入れている。

道頓堀、手前から3つ目が汐見橋



大阪市内でのターミナルが汐見橋となったのは、当時の大阪では船がメインの交通機関で、道頓堀川の汐見橋に船着場があったからである。

1909年(明治42年)の地図にある汐見橋駅と船着場



だが、高野鉄道の経営は思わしくなく、高野登山鉄道(根津嘉一郎社長)に事業が継承され、1915年に汐見橋~橋本間が開通している。

その後、高野登山鉄道は南海鉄道と合併し、1925年に現在の高野下駅まで開通しているが、そこから南は別会社の高野山電気鉄道によって建設され1929年に極楽橋駅までの全線が開通している。

汐見橋駅



かつて全国から高野山へ向かう参詣者は、船で汐見橋まで来て、すぐ南にある「汐見橋」駅から列車に乗ってでかけたのである。

汐見橋から見た道頓堀の西側(大阪ドームが見える)



汐見橋近くで生まれた芥川賞作家の河野多恵子さん(1926~)は、この駅からの電車に乗って帝塚山にあった大阪府女専に通学していたと書いている。

現在の南海汐見橋線は、高野線が難波に乗り入れたために岸里玉出~汐見橋間だけの支線となり、1時間に2本に減便されながらも細々と生きながらえている。



駅舎は、大阪市内にある鉄道駅の中ではかなり古く、小さな駅であるが、改札口にはちゃんと自動改札機が置かれていた。

改札口



汐見橋駅前の千日前通りは、2009年には開通するという阪神九条から近鉄難波までの地下鉄新線「阪神なんば線」桜川駅の建設工事で雑然としていた。

駅前



この新線が完成すれば神戸三宮から近鉄奈良までの直通運転が可能となるが、新線の桜川駅で降り、汐見橋駅から南海本線の岸里玉出へ出れば堺、泉南、和歌山方面へのアクセスも便利になりそうである。

阪神なんば線



また建設が計画されている地下鉄「なにわ筋線」との接続路線になる可能性もあり、そうなると汐見橋駅は明治時代末期の活気を取り戻すことになるかも知れない。


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1885年(明治18年)、難波から大和川間の鉄道を開通した阪堺電鉄(現在の南海電鉄)に続き、1888年(明治21年)大阪鉄道は、湊町から奈良までの路線建設免許を受けて工事に着手している。

開業から120年の歴史を誇る湊町駅(今のJR難波駅)は、超高層ビルに挟まれた楕円形の大阪シティエアターミナル(OCAT)ビルの地下にある。



翌年には湊町から柏原までの路線が開通、1892年には現在大和路線と呼ばれる奈良までの全線が開通しているので今と比べるとすごいスピード開業である。

明治27年頃の大阪地図にある湊町駅(湊町ステーション)



当時の地図にある湊町駅は、現在の駅よりも道頓堀に近い今の湊町リバープレイスの場所にあったようである。



これによって大阪から文明開化のシンボルのような鉄道を使って奈良まで人とモノを運ぶことが可能となっている。

大阪鉄道が大阪市内のターミナルを湊町に置いたのは、当時大阪市内のメイン交通機関が船であり、船着場が最も人が集まる場所であったためである。

OCAT



淀川河口に発展した大阪では、秀吉の時代から道路の代わりに川と堀がメイン輸送路として使われてきた歴史があり、明治30年代以降まで大阪市内では道路の延長距離よりも河川の延長距離の方が長かったという。

当然、湊町と呼ぶくらいなのでこの地には大きな船着場があったようで、九州、四国、中国、関西地方から奈良に向かう人々は、船着き場で下船して湊町から汽車に乗ったようである。

OCAT北側入り口



1909年頃の地図を見ると、道頓堀川と西横堀川を通る船の航路がちゃんと書き込まれている。



大阪鉄道の鉄道敷設免許は、梅田で官設鉄道と連絡することを条件としていたために、路線の途中となる天王寺駅から大阪市街地の外周を迂回して梅田に至る路線(環状線の東半分)が1895年に開通している。

湊町駅西側にあった堀は、埋め立てられ千日前通と高架道路となっている



この湊町をターミナルとする大阪鉄道と、やはり港に近い片町をターミナルとする関西鉄道は、生駒山を南北から迂回する奈良への路線で激烈な競争をした後、1900年に大阪鉄道が関西鉄道に事業譲渡して統合、さらに国鉄に買収され現在JRの路線として生き続けている。


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