大相撲1月場所は、東西横綱対決を白鵬が制して優勝しているが、大阪には江戸時代から大正の末まで大阪相撲という興行があった。
大阪相撲の興行のあった南堀江(道頓堀写真の左側)
戦国時代の空気の残る江戸時代初期の相撲興行は、興奮した観客同士の暴力沙汰が絶えなかったために永く禁止状態が続き、寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかったという。
興行的な勧進相撲は、元禄期になってやっと解禁され、全国の力士を大阪へ招いての相撲興行が再開されている。
幸橋
道頓堀に架かる幸橋の北、南堀江公園の西側には、「勧進相撲興行の地」という石碑と、1692年(一説には1702年)、この辺りで最初の相撲興行があったという説明文が建っている。
このときの10日間の興業収入は、銀186貫目(約3千両=現在の3億円くらいか)を超えたといわれているので、今のプロレスかK-1をしのぐ人気があったようである。
享保期(1716~36年)には一時中断していたが、1765年から南堀江と難波新地(現在なんばグランド花月のある場所)の2箇所で毎年交互に興行され、18世紀後半には豊かな大阪商人の後援を背景に江戸相撲をしのぐ隆盛を誇っていたという。
難波新地付近
しかし、谷風(1750~1795年)、雷電(1767~1825年)らの活躍がはじまると、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が、競って力士を抱えるようになり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになる。
当初、大阪と江戸で力量の差は無かったようであるが、有力力士が江戸に流出するようになり、幕末の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になったようである。
陣幕
1870年大阪相撲の大関であった梅ケ谷は、東京相撲に小結として移籍し、1879年にやっと大関にまで昇進したという。
1909年に両国国技館が落成すると、大阪相撲も対抗して1919年新世界に両国に匹敵する規模の「大阪国技館」を建設しているので、大正時代まではまだ大阪相撲の人気は衰えていなかったようである。
1923年の地図にある国技館
東京相撲との合同興行は、大正期まで恒例として行われたが、東京と大阪の戦力差が大きく、また1923年には力士の引退養老金問題での内紛などで衰退し、大正末期には東京相撲に吸収されてしまったようである。
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