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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



豊臣秀吉に家臣として仕えていた建部氏は、江戸時代に入っても引き続き尼崎郡代として700石を所領していたが、1615年大坂の役で建部政長(1603~1672年)が軍功をたて、1万石の大名に取り立てられている。

建部氏の長久を願って命名された長建寺の山門



当時の建部政長は、僅か12歳という若さだったので、相当しっかりした補佐役がいたのであろう。

外様大名を大阪に近い尼崎に配置するのが問題視されたのか、初代尼崎藩藩主となった建部政長は、1617年になって播磨国林田藩(姫路市)1万石に転封となっている。

長建寺の前には弁天浜の看板



建部政長の次男が建部政宇(まさのき1647~1715年)で、1670年建部家を相続して、従五位下内匠頭に叙任され、1698年には51歳で伏見奉行となっている。

長建寺の参道



交通の要所である伏見に置かれた伏見奉行は、遠国奉行の中では唯一大名が就任することがある役職で、初代は茶人として有名な小堀遠州である。

建部政宇は、1714年に寺社奉行として栄転するまで16年間も伏見にいたので、1701年の浅野内匠頭の切腹、赤穂藩断絶、1703年の赤穂浪士の討ち入り事件をこの地で仄聞したのであろう。

長建寺の赤い土塀



濠川に近い長建寺は、1699年に伏見奉行の建部政宇が深草大亀谷の即成就院から塔頭多聞院を分離して創建した真言宗醍醐寺派の寺である。

周囲を赤い土塀で囲まれた長建寺には、珍しい様式の竜宮門があり「島の弁天さん」と呼ばれ、本堂には本尊の八臂弁財天が安置されている。



インドでは、水の神として尊崇されている弁財天は、河川が神格化したものといわれ、江戸期には淀川を往来する廻船の守護神としての信仰を広く集め、今も毎年夏になると弁天祭がおこなわれているが、広い京都で御本尊が弁財天という寺はここしかないらしい。

弁天浜に繋留された10石船



本堂の左手にある閼伽水(あかすい)は、仏に供え参拝する人を清める水で、閼伽(あか)という言葉はインドから来たようである。

水を意味する「あか」の語源は、ラテン語のAquaと同じで、インド語、英語は勿論世界中の言語に広く使われていて、日本の漁師が使う言葉の中にも船の底に溜まった水を出すことを「あかを掻い出す」という。



ところで、吉良を切りつけて切腹させられた浅野内匠頭(1680年に叙任)と、伏見奉行の建部内匠頭(1670年に叙任)と、同時代に二人の内匠頭がいたことになるが、混乱は無かったのであろうか。


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江戸期から今日に至る各時代の建物が集まっている月桂冠大倉記念館の周辺は、「京都百景」の一つに数えられ、「京都美観風致賞・特別賞」を受賞している場所である。



また、環境省が日本の豊かな香りとその源となる自然や文化などを将来に残し、伝えていく「かおり風景100選」にも、「伏見の酒蔵」は選ばれている。



さらに、読売新聞が日本の行ってみたい、歩いてみたい、100か所を選定した「遊歩百選」のひとつにも京都を代表して選ばれている。

酒蔵通り



月桂冠大倉記念館から外に出て、酒蔵に沿って北に歩き左に曲がると、月桂冠酒造当主であった大倉家の本宅が1828年に建造された姿で残っている。



本宅建造から40年後に起こった鳥羽伏見の戦いでは、通りをへだてて北側の建物や、その並びに連なる船宿、町家の多くが焼失したが、この本宅は幸いに羅災をまぬがれている。

大倉酒造の内部



大倉家本宅は、京都市内の町屋の中でも最大規模に属すると言われ、表構えに、虫籠窓、太めの木材を組み合わせた酒屋格子が残る、昔ながらの酒屋のたたずまいを今に残している。

さらにその先には、1919年に建造された月桂冠の旧本社があり、建物の周囲を京都らしい犬矢来がとりまいている。



表玄関には石段や石囲いが施され、濠川の氾濫による水害から建物を守るため建物の床面は道路より1メートルほど高い位置に建造されている。

濠川



今は「伏見夢百衆」という飲食店となり、中に取り揃えられた伏見の清酒100種類の飲み比べができるという。

月桂冠酒蔵の西を流れる濠川は、1594年伏見城築城の際、宇治川の水を引き込み、伏見城の外濠として構築されたという。



江戸時代、濠川沿いには、大名の武家屋敷が建ち並び、現在の「昭和蔵」は紀州藩、「北蔵」は尾州藩、「大賞蔵」は薩摩藩の京都屋敷であったという。

月桂冠大倉記念館や隣接する内蔵酒造場のある南浜一帯は、かつて水陸交通のターミナルとして、三十石船が発着していた場所で、「伏見濠川の柳並木」は「京都市自然100選」に選ばれている。



しかし、日本にはこれほど、いろいろな百選があるとは寡聞にして知らなかった。


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京都伏見区の東には、標高600メートル近い醍醐山背後の山系があり、そこから流れ出る伏流水は、伏水(ふしみず)と呼ばれ、今も良質な水が湧き出している。



この伏水がなまって伏見という地名となったようで、この地下水を活かして江戸期から酒造業が発達し、全国第2位の生産量を誇る伏見の代表的産業となっている。

その中のトップメーカーは、1637年に創業した月桂冠大倉酒造で、中書島駅に程近い濠川の川端にある酒造蔵を改造し、記念館として公開している。



月桂冠大倉記念館は、1987年に創業350年を迎えるにあたり、発祥の地の酒蔵を改装し、酒造用具類のうち整理の終った主なものを常設展示する記念館を開設することにしたという。

受付



1985年には、酒造用具多数が「京都市指定有形民俗文化財」に指定され、現在そのうち約400点が常設展示されている。

展示室



この記念館の特徴は、入場料300円を払うと、記念に1合の特製純米酒が貰えることで酒マニアには嬉しいお土産である。

売店



展示室を見たあと、江戸時代にタイムスリップしたような庭に出ると、そこに江戸期の隠れキリシタンが礼拝していたキリシタン石灯籠が置かれていた。



庭を奥に回って酒蔵広場に出ると、造り酒屋らしく巨大な酒樽が置いてある。



広場の隅には、今も地下から伏流水を汲み上げている井戸があり、その水を少し飲んでみると、看板に書いてある通りなかなか美味い水であった。



見学の終わりに立ち寄った試飲コーナーでは、3種類の酒の試飲ができるという。



最初に飲んだ「ザ・レトロ」は、酒造米を高度に磨き、低温でゆっくりと発酵させた吟醸酒で、明治時代のレトロ瓶に入っていた。



次に飲んだ大吟醸酒「玉の泉」は、1637年創業当時からの酒銘で、白ワインのようなフルーティな吟醸香が特徴であった。



最後に飲んだプラムワインは、梅を伏見の名水を使って仕込み、醸造した甘味果実酒で、食前酒や食中酒として使われるようである。


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淀屋橋から乗った京阪電車の特急が、大阪京橋駅の次に停車する駅が、京都伏見区の中書島駅である。

中書島駅に近い10石船の乗り場



その中書島で下りて、竹田街道を北に歩き、伏見の京橋を渡って東に入ると坂本竜馬の定宿であった寺田屋が今も当時の雰囲気をそのままにたたずんでいる。



数年前に中を拝観したことがあったが、歴史的に有名な割には質素で狭い旅籠であったという印象が残っている。

寺田屋の前は三十石船の乗り場



寺田屋から竹田街道に戻り、さらに北に歩いて大手筋との交差点を西に歩くと「富翁」醸造元の北川本家がある。

北川本家は、江戸時代初期、宇治川沿い観月橋の近くで「鮒屋」という船宿を営んでいた北川四郎兵衛が、お客に出すための酒をつくりはじめたのが創業という。



酒株制度が起った1657年、伏見には83軒の造り酒屋があり、「鮒屋の酒」は伏見の代表酒として三十石船に乗って淀川を下り、江戸に運ばれたと伝えられているので便宜的に1657年(明暦3年)を創業としている古い酒屋である。

三十石船の船着場



恐らく1637年創業と記録の残っている伏見トップの酒造会社「月桂冠」よりもさらに古い創業の酒造会社ではなかろうか。

1910年 10代目 北川三右衛門が中国の四書五経の文献より「心の豊かな人は晩年になって幸せになる」という意味の「富此翁」の表現をみつけ、酒銘を「富翁」としている。

濠川と富翁の看板



この北川本家は、「おきな屋」という酒と米の直売店を出していて、ここでは「富翁」の量り売りもしているようである。



「おきな屋」から濠川に架かる大手橋を渡り、さらに西に歩くと「日出盛 桃の滴」醸造元の松本酒造が見えてくる。

1791年(寛政3年)、初代松本治兵衛が現在の京都市東山区で酒造りを始め、1922年に、伏見の地に製造場を増設し、1949年に松本酒造株式会社と組織を改めている。



大正時代に伏見にやってきた松本酒造の醸造所は、西を流れる東高瀬川に面して雰囲気のある木造建築が並び、今では京都伏見を代表する景観を作っている。



新高瀬川を渡ってさらに西に歩くと「英勲」醸造元の齊藤酒造があるが、齊藤酒造が誕生したのは1895年という。

齊藤家の先祖は1690年代(元禄の頃)に泉州より伏見へ移り、井筒屋伊兵衛として呉服商を営み、8代にわたって受け継いだ呉服商から明治時代に酒造業に転じたらしい。



伏見にはまだまだ多数の酒の醸造元がありそうであるが、とてもすべては回りきれない。


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IAAF世界陸上2007大阪大会は、今年8月25日から9月2日までの9日間、大阪長居陸上競技場を中心に開かれる大会である。

左側の白い屋根が陸上競技場



この世界陸上競技選手権は、1983年にヘルシンキで初めて開催され、最初は4年に1度、1991年の東京大会以降は2年に1度、世界のトップアスリートたちが一同に会し、「真の陸上世界一」を目指す舞台として注目を浴びるようになってきた。

今年の大阪大会では、世界212の国と地域から約3200人の選手・役員が参加するので、参加国はアテネオリンピックよりも多いことになる。

戎橋のグリコの看板も日本代表アスリート風に衣替え



また1991年の東京大会では、164の国と地域から2500人が参加しているので、今回の大阪は東京をかなり上回る大きな大会となっている。

過去、この世界陸上で日本人が取った金メダルは、1991年男子マラソンの谷口、1993年女子マラソンの浅利、1997年女子マラソンの鈴木とたった3個だけである。

グリコ看板の本来のウエアは白



その世界陸上2007大阪をPRするために、世界陸上プラザが御堂筋にオープンしている。

黒いビルの先の黄色い部分



世界陸上プラザでは、世界陸上チケットの販売、世界陸上に関する展示、過去大会からのポスター、選手のサイン色紙、シューズの展示、オリジナルグッズの販売などをしているというが、どうも大阪市民の盛り上がりに欠けるようである。



緑の少ない大阪の夏は、日本で一番暑いので有名であるが、大会は朝7時から午前中で終って一旦休憩に入り、夜の7時頃から10時過ぎまで1日2回に分けて開催されるようである。

プラザのイベントスペース



しかし大阪の蒸し暑さは、熱帯から来た外国人も参るというくらい酷いので選手は勿論、観客も暑さ対策で大変であろう。

現在、世界陸上プラザでは、暑い大阪を涼しくしようと、細かい霧を発生させる空間冷却システムを取り付けていたが、涼しさをあまり感じなかったのは私だけであろうか。



ちなみにチケットの値段を調べてみると、9日間の通しで20万円という高額なものもあるが、午前の部ならスタンド最上段の席が前売2千円(当日2500円)という。


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今年3月の調査によれば、大阪市営地下鉄今里筋線の利用率は当初予想の12万人に対し3万7千人であることが判明、大幅な赤字路線になっているという。



バブル頂点の時期であった1989年、大阪市運輸政策審議会答申で、上新庄~湯里六丁目間が示されたが、上新庄までの経路に地下構造物が判明したため、起点が阪急相川駅の東1キロ付近にある東淀川区の井高野に変更されている。

清潔なトイレの入り口



その地下鉄今里筋線は、2000年に予定通り着工され、2006年12月に井高野~今里間が開業したが、起点の井高野が他の交通駅と連絡していないので乗客の伸びは厳しいようである。



バブル崩壊から10年近く経ち、大阪市の財政環境が激変しているのに、地下鉄新線建設を中止すべきであるという公務員や議員はいなかったのであろうか。

ホームへのエレベーターはガラス貼り



井高野駅から今里駅までの事業費は2700億円、今里駅から延伸計画がある湯里六丁目駅までを着工すると、さらに1300億円の費用がかかってしまうことから、関大阪市長は延伸区間の工事を当面凍結すると表明している。



同じ規格で市内中心部(心斎橋)に乗り入れている長堀鶴見緑地線が、毎年100億円を超える赤字という厳しい状況となっているのを見ると、市内中心部を通らない今里筋線の採算性は絶望的であろう。

ホームには昇降エスカレーター完備



今里筋線では、建設費を圧縮するために設計が共通化され、ホームのデザインも共通化されているので駅名表示を見なければどの駅にいるのか良く判らないほどであるが、改札とホームの上部に現時刻・発車時刻・列車接近を案内するモニターが備えられているので安心である。



地下鉄の車輌は、長堀鶴見緑地線と同じリニアモーター方式のミニ地下鉄を採用しているので、車内が少し狭いが乗客も少ないので違和感は無く、コスト削減のために運転はワンマンバスと同じワンマン体制である。



今里筋線の駅ホームには、大阪市営地下鉄で初めて導入した車両扉と連動した可動式ホーム柵が設置されているのが大きな特徴で、これならホーム転落事故に対する安全面は万全であるが、当然装置の保守コストは加算されることになる。



大阪市営地下鉄としては初めて淀川を地下トンネルで潜る区間があり、多くの駅で地下駐輪場が併設されているのもコストアップの要因であろう。



大阪市は、交通局を公設民営化する方針から転換して『株式上場も視野に入れた完全民営化』する方針を打ち出したため、今里筋線の延伸は実現しない公算が極めて高いようである。

しかし、日本国の公務員の伝統である見通しの甘さは、旧陸海軍の軍幹部(すべて公務員だった)と同じで、国を破滅させてしまうまで続くのであろうか。


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久しぶりに梅田に出たので、阪急三番街の地下にあるHARBSでお茶を飲むことにした。



大阪に4店あるHARBSを展開しているのは、1979年に創設された(株)重光で、本社は名古屋にあるらしい。

(株)重光のHPによれば、ハーブスのケーキは、「1個食べて、心の底から満足できるケーキ」と大きさにこだわり、甘さの加減や空気の抱かせ方などを研究して大きくてもペロッと食べられるケーキを開発したという。

マロンタルト



又、作りたてを届けるためケーキを冷凍保存せず、ケーキはカットした瞬間から劣化するために、丸ごとケーキケースに並べ、注文があってからカットするというこだわりを守っている。

オレンジムースタルト



HARBSのケーキの中での一押しは、カットしたフルーツとクリームをクレープの中にはさみこんだビッグサイズのミルクレープであろう。



他のケーキ店で注文するケーキの倍くらいの大きさがあり、普通の人なら1個食べれば充分満足できるサイズがHARBSの特徴である。

このケーキは、何度も食べたことがあるが、フルーツの美味さとクリームのバランスが良く、いつ食べても外れが無い美味さである。

バナナクリームパイ



今回は6、7月の期間限定商品として広告看板があったブルーベリーチーズタルトも美味そうだったので一緒に注文してみた。



このブルーベリーチーズタルトは、チーズムースにフレッシュクリームと大量のブルーベリーを飾ってあり、爽やかな風味とチーズのコクが絶妙というHPの記事通りの商品であった。

それにしても、これほど大粒のブルーベリーを大量にトッピングしてあるケーキは珍しいのではなかろうか。



HARBSの店では、基本的にコーヒーはお代わり自由で、何杯でも新しいカップに入れたものを持ってきてくれるのが有難いが、ポットに入れて出してくれる紅茶だけはお代わりできないのが残念である。



HARBSの店で注意が必要なことは、皆がお茶を飲みたいと思う時間帯には大抵順番待ちの行列が出来ていて、暫く待たなければ入れてもらえないことくらいであろう。


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1988年というバブル絶頂期に、大阪に本社を置く青木建設が世界的ホテルチェーンのウェスティン・ホテルズ・アンド・リゾーツを1730億円で買収して世間を驚かせたことがあった。

ウェスティン淡路



青木建設は、その投資が祟って5220億円の負債を抱えて2001年に民事再生法の適用を申請、倒産している。



この倒産劇は、高杉良の小説「ザ・ゼネコン」に詳しく描かれているが、青木建設は倒産後高松建設の傘下に入り、2004年あすなろ建設と合併して今では青木あすなろ建設となっている。

ロビー



不動産投資家のスターウッドは、1998年1月にウェスティン株のすべてを、同年2月にシェラトン株のすべてを買収し、スターウッド・ホテル&リゾートが誕生している。

明るいロビーラウンジ



スターウッド・ホテル&リゾートは、現在9つのブランドで構成され、シェラトンホテル、ウェスティンホテル、ル・メリディアン等は同じグループのホテルなのである。



ウェスティン淡路には、2002年のワールドカップサッカーの時に来日したイングランドチームが宿泊したことで、ホテルの名前が一躍有名になっている。



ベッカムは、ホテル10階の夢舞台を見下ろす部屋に宿泊しているので、一度その10階の部屋に泊まってみることにした。

10階エレベーターホール



部屋の広さは、リゾートホテルだけあってシティホテルよりも少し広く、デラックスタイプで42平米とかなりゆったりとしている。

ベランダから見た景色



デラックスタイプの浴室にはシャワーブースは無いが、ホテルには珍しい日本式の洗場がついていて、プラスチック製の椅子と風呂桶が完備しているのが有難い。



サニタリーコーナーの洗面台はガラス製で清潔感があり、トイレには当然ウオッシュレットが完備している。

夢舞台と国立明石海峡公園を見下ろす部屋から見る景色は絶景で、5年前のベッカムもこの光景を見て感動したのではなかろうか。



以前ゴールドコーストのマリオットホテルの高層階に泊まったときに見たラグーンの光景を思い出す素晴らしい景色であった。



夜は、対岸の神戸空港に発着する飛行機の光の軌跡が綺麗であり、朝はウグイスの鳴き声や小鳥のさえずりで目覚めたが、大阪の近くに本格的なリゾートホテルがあることを知らなかったのは迂闊であった。




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淡路夢舞台は、兵庫県淡路市の自然の中にある複合文化リゾート施設、安藤忠雄氏の代表作であり、2000年に開催された国際園芸博「ジャパンフローラ2000」の会場になったので有名である。

ホテル10階から見たギリシャ神殿のような淡路夢舞台全景



ウィキペディアの記事によれば安藤 忠雄(1941年~ )は、東京大学特別栄誉教授で、打ち放しコンクリートの住宅や商業建築を次々と発表してきた建築家である。



名声が上がるに従い、博物館・娯楽施設・宗教施設・事務所等、作品の幅は広がり、規模も大きくなったが、逆に初期の小規模建築の持っていた魅力が失われてきてるという声もあるらしい。



淡路夢舞台の敷地面積は、約28ヘクタール、延床面積は約11万平米 という巨大な建築群で、樹木の緑とコンクリートのコントラストが綺麗である。



案内絵図によれば、淡路夢舞台には貝の浜、円形フォーラム、百段苑、楕円フォーラム、レストランショップ、温室などが配置されている。



海を望む百段苑の高台から流れてくる水をいくつもの滝と、いくつもの浅い池で受けとめる変化に富んだデザインが面白い。



池の底には合計100万枚の帆立貝の貝殻が敷き詰められているというが、安藤デザインの実現にはどれだけの人手がかかったのであろうか。



円形フォーラム前の貝の浜には、今も霧状に吹き上がる噴水があり、四六時中噴出していたが、ランニングコストは大丈夫であろうかとつい思ってしまう。

円形フォーラム



打ち放しコンクリートの壁で囲まれた円形フォーラム、楕円フォーラムは、まさに安藤作品と呼ぶにふさわしい芸術性豊かな空間であった。

楕円フォーラム



こういう一見無駄と思われる空間に、芸術的建築作品の面白さがあるわけで、この感覚は、ある程度社会が成熟しないとなかなか受け入れられないものであろう。



ところで、楕円フォーラムの壁に突き刺さった鋭い円錐を見て、ダリの作品を連想したのは私だけであろうか。

夜景



フォーラムに続くレストランショップは、閑散としていたが、果たしてこれで採算は取れているのであろうか。


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梅雨の昼休み、本町から御堂筋を1本東に入った心斎橋筋をウオーキングして戎橋まで来ると、高松伸の設計で有名なキリンプラザ大阪ビル(以降KPOとする)がある。



この場所には、1980年代中頃まで、緑色タイル張りのキリン会館があり、戎橋筋に面した壁面には巨大なビールの神(ガンブリヌス)のレリーフが飾られていたことを覚えている。



KPOは、1987年に完成しているが、個性的なデザインのせいか、今も全く古さを感じさせないのが不思議である。

KPOの入り口には、日本のビール文化史とキリンビールの歴史を振りかえる「キリンの100年、ビールの100年」展を開催していたので、ウオーキングの途中であったが覗いてきた。



エレベーターで6階に上がると、幕末の開港後、日本人に飲まれ始めたビールが身近な存在になるまでの歴史や文化と、創業から現在に至るまでのキリンの歴史がパネルを使って展示してあった。



昔使っていたビール壜や、レッテル、宣伝ポスター等が展示されていて、ゆっくり見ると面白そうであったが、残念ながら昼休みが終わるまでに会社に戻らなければならない。

展示品の中では、1933年頃から発売されていた2リットル入り特大ビール壜が珍しい。



折角なので展示されたパネルのいくつかを写真に撮っておいたが、ビール瓶を持って何ともいえない楽しそうな表情をしている1867年頃の若者の写真が印象的である。



大正時代のカフェー、昭和30年頃の茶の間、昭和40年頃のビアガーデンなど、当時の懐かしい光景が立体展示してあったが、懐かしい昭和30年頃の茶の間と比べれば今の生活環境は夢のようである。



キリンビールは、1885年、三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、外国資本による香港国籍の新会社「ジャパン・ブルワリー(二代目)」を設立したのが始まりらしい。

1888年 ジャパン・ブルワリーは、明治屋と一手販売契約を結び「麒麟ビール」が初めて発売され、1907年には三菱と明治屋の出資による純粋日本国籍、資本の新会社「麒麟麦酒株式会社」が設立されている。

KPO前の出会い麒麟像



1918年には、今のJR尼崎駅に程近い場所に尼崎(神崎)工場が開設しているが、この尼崎工場は1996年に操業停止となり神戸市北区に移転している。



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「奇跡の星の植物館」の展示室3は、「花と緑のある暮らし」― 淡路の庭、涼の庭、但馬の庭 、水路 というテーマで日本住宅の庭がしつらえられて、季節の花であるアジサイと花菖蒲が展示されていた。



こういう日本情緒豊かな展示は、「咲くやこの花館」や「観覧温室」には見られないもので私としては好きな展示室であったが、例によって植物の展示数が少ないのが難点である。



展示室4は、「癒しの庭」― アートコラボレーションのスペースとなっていて彫刻家向山潔氏の作品や、レオナルドダビンチにちなんだアート作品が展示され、ゆっくりと椅子に座って展示を楽しめるようになっている。



展示室4には珍しいハアザミや、フクシアの展示もあったが、「京都植物園観覧温室」のボリュームのある展示とくらべると貧弱な展示であった。



展示室5は、1千㎡の広さがあるイベントスペース「フラワーショースペース」で、季節やテーマに応じたフラワーショーや結婚式、パーティ会場としても利用できるという。



今は、各種のアジサイを展示していたが、折角1千㎡もあるのに、展示された植物が少なく、広い面積と空間を生かしていないのは残念であった。



この辺りは、歴史のある「京都植物園観覧温室」をもっと見習うべきであろう。

展示室6は、 直射日光が差し込まない構造となっていて、耐陰性のあるシダ等を人工の光で育てるシダルーム であるが、暗く陰気な展示室で、もう少し入場者を楽しませる工夫が必要であろう。



展示室6を出たアトリウムには、プラントショップがあったが、商品が少ない上に、値段が市価よりも高く、商売意欲がまったく無さそうな店であった。



この1ヶ月、淡路夢舞台「奇跡の星の植物館」、大阪鶴見緑地「咲くやこの花館」、京都府立植物園「観覧温室」と、京阪神にある3大温室を巡ってみた私の評価は、植物園としての歴史の重さ、経験の差が歴然としていた京都がナンバーワンであった。



安藤忠雄氏が設計したオシャレ空間を評価して淡路を2位としたが、展示の植物をもっと増やす工夫が必要であろう。



ただ広いというだけで、特徴の無い「咲くやこの花館」が最下位という結果となってしまったが、大阪市民の一人として「大阪もっと頑張れ」とエールを送りたい。


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淡路夢舞台「奇跡の星の植物館」の延床面積は6700m²、「咲くやこの花館」の6900㎡に次ぐ日本第2の規模の大温室で、京都府立植物園「観覧温室」の4600㎡よりもかなり広い温室である。



その3大温室の入場料は、「奇跡の星の植物館」が600円、「咲くやこの花館」が500円、「観覧温室」が200円(別に植物園の入場料が200円)と、淡路が最も高い設定であった。



2000年の淡路花博の際には、入場するのに何時間も待たされた人気パビリオンであったが、今では待ち時間無しで、ゆっくり鑑賞できるのが有難い。

チケット売り場の左にあるエスカレーターで一気に4階くらいの高さまで上がると、ホールに置かれた柏葉アジサイの白い花が満開であった。



フラワーショースペース、癒しの庭、トロピカルガーデンと続く展示室を見下ろす長い廊下を進み、突き当たりのスロープを下りると、ブランツギャラリーである。



展示室1と番号がついたブランツギャラリーは、 多肉植物のドライガーデンで、最大の売り物は、アロエの大木と北アメリカ原産の多肉植物アガベ・バリーであろう。



2000年の淡路花博の際、このアロエの大木を見てビックリしたことを思い出したが、今では「咲くやこの花館」や「京都観覧温室」にも展示されている。



「奇跡の星の植物館」の植物展示は、空間をゆったりと使っているのが特徴で、よく言えば都会的なオシャレな温室、悪く言えば折角の空間を無駄にしている温室ということか。



床の高さが少し低くなっている隣の展示室2は、「トロピカルガーデン」と呼ばれ、耐暑性のあるカラーリーフプランツや、トロピカリフラワーのサマーガーデンである。



丁度、スタンド仕立てのフィリピン原産、メディニラマグニフィカのピンクの花を見ることが出来た。



又、隣の展示室との境界にある藤棚には、「京都観覧温室」にもあったヒスイカズラが藤の花のように垂れ下がっていた。



この花は、2000年の花博にあわせて植えられたが、初めて花をつけたのは2005年になってからという。

クリヌブアマリベ



フィリピン原産のヒスイカズラが、これだけ見事に咲いている温室は珍しいのではなかろうか。



それにしても、安藤忠雄氏設計のこの温室では、どこで写真を撮ってもちゃんと絵になってしまうのが素晴らしい。


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JR大阪駅の北地区、梅田北ヤードの約70%の面積を占めるJR梅田貨物駅は、2010年度中に貨物機能の移転をすべて完了することとなったという。



梅田北ヤードの総面積は約24ヘクタール、貨物ターミナルの移転先が決定したことで、約8、6ヘクタールが先行開発され、2011年の完成を目指すという。

北ヤードの隣には梅田スカイビル



先行開発のナレッジ・キャピタル・ゾーンは、次世代ロボットの研究開発など、知的創造拠点となるエリアで、地上38階・地下3階、高さ179m、延床面積15万㎡の複合ビルを建設するという。

大阪駅



ヨドバシ梅田の隣地となるAブロックには、地上38階、高さ179m、12.7万㎡の商業施設とオフィスの複合ビルが、北のCブロックには南北に50階と33階建て2棟のホテルや住宅などが建設され2011年には完成するという。

ヨドバシ夜景



大阪駅北側の旧梅田コンテナヤード地域は、2001年に開業したヨドバシ梅田で活気付いているが、今後はさらに充実されるようである。

また、JR大阪駅本体の改良工事も行われており、ホームの改修、大阪駅北ビルの建て替えなどが急ピッチで進んでいる。



2011年度には、梅田北ヤードに面する大阪駅北側に、高さ150mのJR大阪駅高層複合ビルが完成するという。

駅前南のビル群



この複合ビルの低層部には、10年前に鉄道管理局跡地の入札で、ヨドバシカメラに敗退した三越が出店することが決まっていて、既存の阪急、大丸、阪神百貨店は強力なライバル店の出現に警戒を強めているようである。



大丸は、その対策として2011年に、大阪駅南側のアクティ大阪に隣接する部分に、地上15階建てのビルを増築し、大丸梅田店の売場面積を1,5倍の6万㎡とするという。

突き当たりがアクティ大阪



又、阪急百貨店も、地上41階地下2階建て、高さ187mのオフィスビルと百貨店の複合ビル工事をスタートしていて、2011年春の完成を目指している。

左が阪神百貨店



その後には、阪神百貨店の立替も控えているようなので、これから大阪梅田地区は大きく変貌するようである。

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御堂筋がここから始まる大阪駅は、JR西日本の駅で、北陸方面の特急・急行列車の始発・終着駅、新快速を始めとする京阪神の都市間連絡列車や、北近畿・山陰方面との特急、九州・新潟青森北海道方面との寝台特急などの在来線特急が発着する、西日本最大の駅である。



大阪の中心地である梅田に位置するため、駅前から繁華街が広がり、大阪市営地下鉄や阪神・阪急の駅とも隣接している。

駅前の夕暮れ



梅田という地名は、かつて鉄道が開通するまで周辺一帯が沼地(湿地帯)であり、開発するにあたり、この田園地帯を埋め立てたことに因んでいる。

大阪駅前梅田地区



元々沼地であったため特に地名はなく、埋め立てた当初は埋田(うめた)と呼ばれていたが、地名として馴染まないので、近くの大阪天満宮の梅花殿にあやかって梅田となり、現在に至っている。

ミナミから見た梅田



大阪駅は、7面13線のホームを持つ高架駅であったが、駅改築に伴い現在は5面10線となっている。

大阪駅前アクティ大阪



改札口は御堂筋口・南口・中央口・桜橋口の4ヶ所あり、駅改築に伴う仮駅舎として東側に「フロートコート」、西側に「トラベルコート」がある。

大阪中央区から見た梅田



北側にも駅ビルがあり飲食店などが入っていたが、2011年を目処に三越が入居するビルに改築されるため解体されている。

大阪駅近くからの展望



新駅ビルは、ホーム上に橋上駅舎や南北を結ぶ通路が設けられ、ドーム屋根が架かる構造になるらしい。

今後、改修工事前の旧9、10、11番ホームを撤去し、新11番線を新設して構内配線を改良する予定であるという。

その結果、ラッシュ時には北陸方面の特急列車と平日朝、夕方以降の京都線・琵琶湖線の新快速、および宝塚線の大阪駅終着列車が同じホームで発着することから混雑が予想されるためにホームの幅を広くしている。



一方梅田駅は、阪神・阪急・大阪市営地下鉄・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅の名称となっている。

これらの駅は、JR西日本大阪駅と事実上同一の駅であり、大阪市営地下鉄東梅田駅・西梅田駅、JR東西線北新地駅とも隣接している。

南側から見た梅田地区



地下鉄乗車券は梅田、西梅田、東梅田とも相互に使用でき、例えば御堂筋線に乗車するのに誤って西梅田駅で乗車券を購入しても梅田駅の改札を通ることができるので有難い。


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1997年、総事業費696億円をつぎ込んで完成した大阪ドームは、大阪市を筆頭に大阪府、関西電力、大阪ガスなどが出資する第三セクター「大阪シティドーム社」が経営をしていた。



地上9階、地下1階、コンコース一周が600m、延べ面積約16万㎡、最大収容人員5万5千人という巨大なドーム球場は、丁度バブル期に計画されたために無駄な空間が一杯詰まった球場であった。



例えば、半円形の波打つ屋根で覆われた9階スカイホールは、一周600mの円形スペースとなっているために使いにくく、あまり利用されていないようである。



案の定、公務員をトップにしたドーム会社の経営は、赤字が毎年15~18億円という状況が続き、2004年11月、シティドーム社は債権放棄を求める特定調停を大阪地裁に申請している。



しかし調停も不調に終わったため、2005年10月会社更生法の適用を申請し、負債総額588億円の大型倒産となっている。

2006年には、大阪ドームの施設と営業権を売却する入札が実施されたが、応札した企業は、京都のタクシー業者MKグループ1社のみで、入札価格は不動産鑑定価格に近い100億円であったという。



それにしても総事業費696億円と、不動産鑑定価格100億円の差額596億円は、どこに消えたのであろうか。
 
管財人は、「エムケイの応札内容は不確実性が高い」として不適格と判定し、ドーム施設を大阪市に対して買い取りするように要請している。



その後大阪市は、オリックスと協議を進め、オリックスが5億円でドーム社を買収し、5年後にドームを市に無償譲渡することで合意したという。



プロ野球球団の本拠地としての大阪ドームの年間使用料は、10億円程度と言われ、近鉄バファローズの経営に致命傷を負わせた原因となっているが、5億円で買収すれば5年分の使用料50億円を格安にできるという訳であろう。

オリックスは2007年、大阪ドームを専用球場として登録し、今年はオリックス主催公式戦のうち48試合が大阪ドームで開催されることが決まっている。



2006年春、大阪ドームは、京セラに5年の期限付きで命名権(年間数億円と推定)を売ったために2006年7月から「京セラドーム大阪」と呼ばれるようになっているが、京セラは再建支援には一切関わっていないというから賢明である。



今日大阪ドームの近くを通りかかると、以前あったアミューズメント・ショッピングゾーンが解体されて更地になっていたが、これも無駄にデザインされた建物の一部であろう。

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