鹿児島県大隅半島には肝付(肝属とも)という地名があり、平安時代に薩摩に赴任した伴兼行(応天門の変で失脚した伴大納言善男の玄孫)の孫、兼貞が大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊が地名の肝付氏を名乗ったのが始まりです。・・・肝属郡旧大根占町にある神川大滝
南北朝の争乱後、肝付氏は島津氏に服属していましたが、戦国時代には領土問題から島津氏と対立、肝付氏第16代肝付兼続(?~1566年)は、島津忠将を討ち取るなど島津氏を圧倒していたこともありました。・・・根占港に近い薩英戦争時の砲台根占
しかし島津家絶頂期を築く島津義久(1533~1611年)の時代、肝付氏第19代肝付兼護は、島津氏の家臣となって関ヶ原の戦いで討死しますが、子孫は島津氏に仕えて重用されています。・・・史跡西郷翁宿所跡
江戸時代末期の肝付氏の庶流、肝付兼善(1802~1876年、喜入領主5,500石)の三男尚五郎は、1856年に小松清猷(1827~1855年、吉利領主2,600石)の妹・千賀と結婚、平朝臣小松帯刀清廉(略して小松帯刀)と名乗るようになります。・・・西郷翁宿所
大隅半島には根占(禰寝とも)という地名があり、その領主禰寝氏(根占氏)は、肝付氏と同様に薩摩藩に重用されますが、禰寝氏嫡流は、江戸中期に先祖(小松宰相平重盛)にちなんだ小松氏へと改姓しています。・・・根占港近くにある西郷翁宿所の庭にある浴槽
禰寝家の当主となった小松帯刀(肝付尚五郎1835~1870年)は、薩摩藩主島津忠義とその実父島津久光の信頼が厚く、1862年頃には薩摩藩家老職に登り、年長の西郷、大久保を指揮する立場(1867年に城代家老職)でした。・・・根占港から見た開聞岳と薩摩半島
また坂本龍馬の海援隊設立を援助、長州の桂小五郎と薩長同盟を結ぶ(京都の小松屋敷)など活躍、維新後も新政府の要職に就きますが、病弱だったために明治2年に依願退職し明治3年に病没しています。・・・根占港にある大クス
小松帯刀の本願地は大隅国根占、その海沿いにある根占港には1873年鹿児島に戻った西郷隆盛が西南戦争直前(1877年)に滞在していた木賃宿が現存しています。・・・西郷南洲翁宿所
西郷は、私学校を建てて若者を指導する一方、地元で狩りをしながら余生を送ろうと考えていたようですが、生徒達の暴発(城下の弾薬庫を襲撃)を知り、思わず「ちょしもた」(しまった)と言ってあわてて鹿児島に戻ったと根占で伝承されています。・・・鹿児島に戻る途中の西郷も見たと思う錦江湾越しの開聞岳です。
つづく