野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



霧島錦江湾国立公園(旧霧島屋久国立公園)に含まれる佐多岬(北緯30度59分10秒、東経130度39分42秒)は、日本本土の最南端、ホテル佐多岬のすぐ上にある佐多岬ロードパーク道路を通って岬手前の駐車場まで行くことが可能です。・・・駐車場にあったガジュマルの大木

この道路は鹿児島の岩崎グループが1964年から佐多岬ロードパークという私有道路として運用を開始、1973年には通行量がピーク(年間6万台の自動車)となりますが、その後減少に転じ2005年には年間2万台まで減少していたそうです。・・・駐車場から御崎神社への参道

岩崎グループは、去年(2012年10月)南大隅町に佐多岬ロードパークを譲渡、それまでは有料でしたが今は無料で通行できるようになっています。また佐多岬ロードパーク終点の駐車場から岬の先端にある展望台跡地までは、山道の徒歩移動となります。・・・遊歩道の途中には、本土最南端の御崎神社(708年創建)があります。

それまでの佐多岬展望公園には、有料展望台やレストハウスも設置されていましたが、老朽化していたため撤去(2013年5月に完了)され、更地になっていました。・・・両側が谷となっている遊歩道

ここが展望台のあった場所です。・・・日本本土最端地四極交流盟約という看板が設置されていました。

途中に国の特別天然記念物「鹿児島県のソテツ自生地」などの観光資源があるために、県や町はこれから新たな展望台や遊歩道などを整備していく方針とか。

撤去された展望台跡地からは、天候によっては種子島・馬毛島・屋久島などの島々や薩摩半島の開聞岳などが見えるようです。(この日は快晴でしたが、見ることができませんでした。)

こちらの方向に開聞岳があるはずです。

50m沖合にある大輪島の佐多岬燈台は、1871年に設置された日本最古のものですが、太平洋戦争で空襲を受け、1950年に再建されています。

つづく



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ホテル佐多岬に宿泊した翌朝、山の向こうにある伊座敷漁港で定置網の水揚げがあると聞いたので見物に行ってきました。

伊座敷漁港の日の出です。

待つこと暫し、定置網漁船が2隻、戻ってきました。

左の船がクレーン船、右側が獲物の運搬船です。

最初に運搬船の甲板のコンテナに入った獲物を、クレーンの先に付けた大きな網ですくい上げます。

網ですくいあげた獲物は、クレーンに吊り下げられて選別台の上に運ばれます。

これが選別台上の獲物です。中型のカンパチや、カツオ、サバ、その他いろいろの魚が水揚げされていました。

折角なので昼食用に刺身用のカンパチとモンゴウイカ、塩焼き用のカマスを分けて貰いました。

選別台の上の獲物は、素早く魚種別に仕分けされ、箱に詰められて目方を量り、横づけされた冷蔵トラックの中につぎつぎと放り込まれます。

つづく



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今回の宿泊は、佐多岬に近い南大隅町大泊にあるホテル佐多岬です。シングル洋室9室、ツイン洋室9室、和室12部屋というホテルでした。・・・左側が砂浜なので夏は海水浴が楽しめるようです。

ホテルの近くから佐多岬の先端まで、かつて佐多岬ロードパークという有料道路がありましたが、経営不振のために現在は南大隅町に譲渡され、無料の道路となっています。・・・ホテルの入り口、右奥は乗用車100台を収容できる無料駐車場

本土最南端のリゾートホテルというのがここのセールスポイントで、ロビーには最北端の稚内から徒歩や自転車でやって来た人たちの色紙が展示してありました。・・・ロビーからの海

本州最南端から初日の出を見たいと考える人が多いのか、大みそかは満室だそうです。・・・フロント

売店にあった焼酎各種。レストランで飲めますと書いてありましたので、夕食時にしっかり頂きました。やはり地元で飲む焼酎は格別でしたね。

全室オーシャンビューという客室から見た太平洋です。世界地図を見ると、佐多岬から対岸(カリフォルニア半島の付け根)までの太平洋には全く島がありません。・・・客室にも狭いバストイレユニットがありましたが、4階にある展望浴場がお勧めです。

ホテルの夕食。これに、ご飯とみそ汁、暖かい揚げものと煮物が付きました。・・・鹿児島名物の芋焼酎と一緒に美味しく頂きました。

ホテルのレストランは、東側に大きな窓があり、朝には太陽の光が内側まで差し込みます。・・・その明るいレストランで頂いた朝食です。

ホテル前に突き出た防波堤の先端まで歩いて本土最南端というホテルを写してみました。・・・この日の朝は快晴で、白亜のホテルがまぶしいくらいでした。

つづく



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鹿児島県大隅半島には肝付(肝属とも)という地名があり、平安時代に薩摩に赴任した伴兼行(応天門の変で失脚した伴大納言善男の玄孫)の孫、兼貞が大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊が地名の肝付氏を名乗ったのが始まりです。・・・肝属郡旧大根占町にある神川大滝

南北朝の争乱後、肝付氏は島津氏に服属していましたが、戦国時代には領土問題から島津氏と対立、肝付氏第16代肝付兼続(?~1566年)は、島津忠将を討ち取るなど島津氏を圧倒していたこともありました。・・・根占港に近い薩英戦争時の砲台根占

しかし島津家絶頂期を築く島津義久(1533~1611年)の時代、肝付氏第19代肝付兼護は、島津氏の家臣となって関ヶ原の戦いで討死しますが、子孫は島津氏に仕えて重用されています。・・・史跡西郷翁宿所跡

江戸時代末期の肝付氏の庶流、肝付兼善(1802~1876年、喜入領主5,500石)の三男尚五郎は、1856年に小松清猷(1827~1855年、吉利領主2,600石)の妹・千賀と結婚、平朝臣小松帯刀清廉(略して小松帯刀)と名乗るようになります。・・・西郷翁宿所

大隅半島には根占(禰寝とも)という地名があり、その領主禰寝氏(根占氏)は、肝付氏と同様に薩摩藩に重用されますが、禰寝氏嫡流は、江戸中期に先祖(小松宰相平重盛)にちなんだ小松氏へと改姓しています。・・・根占港近くにある西郷翁宿所の庭にある浴槽

禰寝家の当主となった小松帯刀(肝付尚五郎1835~1870年)は、薩摩藩主島津忠義とその実父島津久光の信頼が厚く、1862年頃には薩摩藩家老職に登り、年長の西郷、大久保を指揮する立場(1867年に城代家老職)でした。・・・根占港から見た開聞岳と薩摩半島

また坂本龍馬の海援隊設立を援助、長州の桂小五郎と薩長同盟を結ぶ(京都の小松屋敷)など活躍、維新後も新政府の要職に就きますが、病弱だったために明治2年に依願退職し明治3年に病没しています。・・・根占港にある大クス

小松帯刀の本願地は大隅国根占、その海沿いにある根占港には1873年鹿児島に戻った西郷隆盛が西南戦争直前(1877年)に滞在していた木賃宿が現存しています。・・・西郷南洲翁宿所

西郷は、私学校を建てて若者を指導する一方、地元で狩りをしながら余生を送ろうと考えていたようですが、生徒達の暴発(城下の弾薬庫を襲撃)を知り、思わず「ちょしもた」(しまった)と言ってあわてて鹿児島に戻ったと根占で伝承されています。・・・鹿児島に戻る途中の西郷も見たと思う錦江湾越しの開聞岳です。

つづく



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昨日の記事に関連したソマリア海賊の起源を、旅行のあとに立ち寄った岡山後楽園の紅葉写真と一緒に紹介しましょう。・・・さて、内戦で沿岸警備が混乱するソマリア領海にやってくる無法な外国漁船を検挙し、密漁の罪状で罰金を徴収していたのは、氏族社会が独自に創設した私立の警備組織でした。

彼らは、沿岸警備のプロを育てるという名目で1999年に欧米の民間警備会社と人材研修契約(そのプログラムは沿岸警備、港湾警備、漁業権益保護など)を結んでいます。

その内容を具体的にみると、警備船の操船方法、小型高速艇の操船方法、GPSや衛星電話の使用方法、沿岸無線、小型レーダーの使い方など、近代的な海賊の育成と共通するカリキュラムでした。

さらに自動小銃などの武器の使用方法、密漁者との格闘術や逮捕術、逮捕者の拘留方法なども研修内容に含まれていたのです。

ソマリア人の教育に当たった民間セキュリティ企業とは、CIAの出身者などが設立した会社で、軍の特殊部隊で実戦経験のある元将校などを派遣し、優秀な警備員を短期間に養成できることをセールスポイントとしています。

ソマリアでの研修プログラムは、近代兵器を自在に活用できる即戦力の沿岸警備官を育成するものでしたが、結果的には優秀な海賊を養成するためのものとなっていたのです。

ソマリア側は、契約した民間警備会社に高額の研修費用を支払いましたが、そこを卒業したソマリア人が高性能ボートと近代兵器で武装し、沖を通る民間船舶を襲って年間100億円もの身代金を稼ぐようになっています。

ソマリア沖で被害を受けはじめた外国海運各社が警備会社の武装警備員を乗船させるようになったため、警備会社は海賊と海運会社双方から利益を計上できる仕組みが完成しています。欧米の警備会社は、まさに矛と盾を同時に販売して稼いでいたのでした。

今も海賊被害が後を絶たないため、各国は2008年からソマリア沖に海軍艦艇を派遣するようになりますが、(日本の海上自衛隊も2009年から護衛艦と哨戒機を派遣)、2008年から2012年までの5年間でソマリア沖、アデン湾、紅海では851件の海賊事件が発生、警備会社の仕事はますます繁昌しているようです。

近日公開の映画、キャプテン・フィリップスにはここに紹介したことが一部出てくるようなので楽しみです。

参考文献 :世界を動かす海賊 竹田いさみ著



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日本は2009年から海上自衛隊の護衛艦二隻をソマリア沖に派遣し、民間商船に対する護衛を行っています。2009年3月には護衛艦「さざなみ」と「さみだれ」が派遣され、1隻当たり200名の自衛官と4名の海上保安官が乗船(合計400名+8名)しています。・・・鹿屋航空基地の石碑

2009年7月から2013年1月までのソマリア沖アデン湾での護衛実績は、388回、護衛した民間商船は2845隻(うち日本関係商船は560隻)。・・・鹿屋史料館での展示

民間商船の護衛に当たっては、国交省の海事局が東西二つの集合ポイントでの集合日時を民間側と護衛艦に伝え、両者が合流しているそうです。・・・アデン湾の海図

CIAやアメリカ軍特殊部隊の元メンバーによって教育訓練された海賊活動(その経緯は明日紹介します)を情報収集するため、海上自衛隊は2機のP―3C哨戒機をソマリアの隣国ジブチに派遣しています。

沙漠に囲まれ、海からの強風にさらされるジブチで、航空機を継続的に飛行させることは過酷で、欧米軍哨戒機の稼働は安定していないそうです。・・・ジブチの地図

海上自衛隊のP―3C哨戒機は、飛行を開始した2009年6月から2013年1月末までの累計飛行回数834回、累計飛行時間6500時間、確認した商船65000隻に達する成果を上げています。・・・鹿屋史料館の屋外に展示されている自衛隊哨戒機P-2J

また海上自衛隊P-3C哨戒機による外国海軍艦艇や民間商船への情報提供は7400回、アデン湾を通過する各国の船から信頼され感謝されているようです。・・・Pー2J哨戒機

ジブチに派遣された海上自衛隊には専用格納庫が無かったため、日中気温が50℃を越える炎天下でP―3C哨戒機の整備を続けていましたが、2011年7月に「派遣海賊対処行動航空部隊」としての活動拠点格納庫(自衛隊では基地という名称は使えない)が開設され、より安定的に整備ができるようになっています。・・・鹿屋史料館の屋外展示機は飛ぶことはありません。

また「派遣海賊対処行動航空部隊」活動拠点(基地)の警備は、24時間体制で陸上自衛隊が担当しているので、ソマリア沖海賊対策には、陸上自衛隊も参加していることになります。・・・史料館に展示されているゼロ戦の日ノ丸

つづく

参考文献:世界を動かす海賊 竹田いさみ著



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鹿屋航空基地史料館の周辺には海上自衛隊で使用していた飛行機が展示され、道路の向い側には日本海軍で使われた二式飛行艇(以下二式大艇)が展示されていました。・・・その案内図

これが二式大艇です。メーカーは川西航空機(現在の新明和工業)、全長:28.13m、全幅:38m、全高:9.15m、最高速力:465km/h、航続距離:7153km、武装は20mm旋回機関砲×5、7.7mm旋回機銃×4、爆弾2000kg又は魚雷×2、乗員10~13名

終戦後アメリカに引き取られて性能を検証された際、圧倒的な高性能を発揮して米軍関係者を驚かせたとか。1978年にアメリカでの保管期間終了が決定したことで翌1979年に日本に到着、1980年から東京の「船の科学館」に展示されていましたが、2004年にこの鹿屋に移されています。・・・正面

川西航空機は、戦後新明和工業と社名変更しますが、飛行艇の設計・製造技術を温存していて、現在も自衛隊に飛行艇US-2を納入しています。このUS-2は世界で唯一波の高さ3mの荒海でも離着水が可能で、先だってヨットで太平洋横断中遭難した辛坊治郎さんを救出しています。

Pー2J対潜哨戒機(運用開始1971年~退役1994年)、ロッキード社が開発、川崎重工製造、83機が配備され全機が無事故で退役しています。

Pー2J対潜哨戒機の操縦席、川崎重工のマークが入った昇降ハンドルがあります。

US-1A救難飛行艇(運用開始1976年~順次US-2に交代)新明和工業が開発、製造。水上離着水という過酷な運用条件のため運用期間は15年程度とか。2005年の生産終了まで通算20機が配備されています。

屋外には古い魚雷の展示もありました。

こちらは屋内に展示された新しい魚雷とミサイルの展示。

つづく



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古江港での食事のあとで立ち寄ったのは、海上自衛隊鹿屋航空基地にある史料館です。

ここの2階には、真新しいゼロ戦が展示してあり、自由に写真撮影することができました。今回は、その写真とゼロ戦の仕様を紹介しましょう。

史料館HPによれば、鹿児島県の海底に沈んでいた2機のゼロ戦が1992年に引き揚げられ、翌年三菱重工名古屋小牧工場に運ばれて損傷部分を補い、1機の零戦として復元したそうです。

復元に当たっては実機をできるだけ活用し、復元が不可能な部分だけを当時の設計図を使って同じ規格で製作したとか。復元協力会社は、機体が三菱重工、計器が東京航空計器、7.7mm機銃が日本製鋼所です。

展示されているゼロ戦の正式名称は、零式(レイシキ)艦上戦闘機52型(A6M5)で、当時の海軍では零戦(レイセン)と呼んでいました。(但しこのブログでは、戦後の通称ゼロ戦とします)・・・後輪の前の黒い棒は、空母着艦時に使う着艦フック

ゼロ戦の機体全幅:11.00m、全長:9.121m、全高:3.57m、全備重量:2,733kg、プロペラは、住友ハミルトン(住友金属製の可変ピッチ)恒速3枚、直径3.05m、展示機に取り付けてあるものは本物だそうです。

武装は7.7mm機銃×2、20mm機関砲×2、装備としては30kg爆弾または60kg爆弾×2。操縦席には射撃のための火器照準器もありました。元ゼロ戦パイロットだった笠井智一さんは、プロペラの後部にある7.7mm機銃から発射された弾が、たまにプロペラに当たることもあったと中之島公会堂での講演会(今年8月30日開催)でお話されていました。

ゼロ戦のエンジンは、栄21型(約1000馬力)、空冷14シリンダー、公称高度最大6000m、クランク軸の常用最大回転数2500rpm、最大速度564.9km/h、航続距離1,920km、機体後部に特徴のあるアンテナがありました。元パイロットの笠井さんは、ゼロ戦では高度1万mを飛ぶB-29の撃墜は無理だったが誉21型(約2000馬力)を装備した紫電改なら撃墜できたと話されていました。

来月、百田尚樹さんの小説「永遠の0」が映画化されるので、年末からゼロ戦のブームが来るかも知れませんね。

つづく



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二階堂家住宅を後にして西側の鹿屋市に入り、さらに西に向かうと錦江湾に面した古江港があります。ブリに似たカンパチの養殖では日本でもトップクラスの漁港とか。

その漁港に漁協直営のみなと市場があり、カンパチをはじめとした海の幸を販売していました。

みなと市場の隣は、漁協直営のみなと食堂です。ちょうど昼時だったので、入ってみました。

そこで注文した品は、左上から時計まわりにカンパチの刺身、カンパチのかぶと煮、アカエビのかき揚げ、カンパチのカルパッチョの4品。これで千円ちょっと。

食堂には、ハーバービューの席もあり、のんびり船を見ながら食事をすることができます。

その窓から見える漁船。

こちらは食事のあと立ち寄った、みなと市場の内部です。

あさり、ガラミナ、ハマグリ、ホタテ、イワガキなども格安で販売されていました。

漁協直営店なので、鮮度には問題はないと思います。

つづく



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志布志山宮神社から志布志湾に沿って南に15km、さらに西に5km走ると、かつて自民党の大物国会議員だった二階堂進氏(1909~2000年)の生家、二階堂家住宅(重要文化財)があります。

大隅半島の中央部、鹿児島県肝属郡肝付町にあるこの住宅は客間となるオモテ(1810年建築)と日常住居となるナカエ(1889年の再築)の2棟が並立した形となっています。・・・こちらはナカエ

1190年代、鎌倉幕府の政所執事だった二階堂行政の6代目二階堂泰行は、1293年に鎌倉から 薩摩国阿多北方(南さつま市)に下向、 その地頭職となった薩摩の名家です。並立する2棟(左がナカエ、右がオモテ)

一方、島津氏初代の忠久は、1197年に大隅国・薩摩国・日向国守護職となり比企の乱で失脚、その後忠久は薩摩国守護職に復職しますが、大隅・日向守護職の復権は南北朝時代以降となり、さらに島津氏は室町時代に一時衰退しています・・・左がナカエ、右がオモテ

16代島津義久(1533~1611年)は、1578年頃に薩摩・大隅・日向の三国を統一しますが、その際に義久の家臣として働いた薩摩二階堂氏の末裔二階堂行盛は大隅国高山の土地を拝領しています。・・・オモテの内部

二階堂行盛の子孫は、その後この地に居住、子孫の二階堂行昭によって1810年に建てられた住宅が二階堂家住宅です。・・・ナカエの天井部分

その末裔となる二階堂進氏は、志布志中学(今の志布志高校)から南カリフォルニア大学を卒業、1941年に帰国しています。子供を海外に留学させることのできた当時の二階堂家はかなり裕福だったようです。・・・ナカエの炊事場から見た庭

進氏は、終戦後すぐ(1946年)の総選挙で当選、引退するまで16回もの当選を重ね、自民党の大物議員となって先祖以来400年(薩摩国下向から計算すれば700年)居住した地元に多大の貢献をしたようです。・・・庭

1984年にあった「二階堂首相擁立構想」では、派閥のトップ田中角栄元首相の反対にあって出馬を断念していますが、出馬すれば総理大臣となっていた可能性もあった大物でした。その二階堂進氏は1996年に87歳で政界を引退しています。・・・庭の一角に二階堂進の銅像がありました。

つづく



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一昨日の記事からの続きです。志布志港に着いて最初に訪問したのは、鹿児島県第2位、全国10位という楠の巨木がある安楽山宮神社です。・・・鳥居の背後がその楠木

社伝によると和銅2年(709年)に創建。大同2年(807年)に近隣の6社を合祀して「山口六社大明神」と名乗っていましたが、明治2年(1869年)以降、現在の山宮神社に改称しています。

境内にある大楠は、推定樹齢約1300年、根廻り32.25m、樹高23.6m、目通り17.1m・1941年に国の天然記念物に指定されています。ちなみに住吉大社の楠珺社にある大楠は、推定樹齢約1000年、樹高18.5m、目通り9.8mとかなり小型です。

境内から見た楠木は、内部が空洞となっていました。

国指定天然記念物の表示

山宮神社の拝殿

祭神を天智天皇(626~672年)としているためか、拝殿の左右に宮中に勤める公家の装束(衣冠束帯)姿の座像がありました。

拝殿に向かって左が阿形の公家座像。他の人のブログに仁王像とありましたが、これは仁王では無いと思います。

鹿児島県神社庁のHPによれば、山宮神社に近い若宮神社にある阿吽の仁王石像は、1691年(元禄4年)に寄進されたものだそうです。それと同時代のものかも知れません。・・・拝殿に向かって右が吽形の公家石像

つづく



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九州旅行記の途中ですが、今朝(11月19日)中之島公園を散歩中、今年はじめて「ゆりかもめ」を見ましたので紹介しましょう。・・・淀屋橋から見た生駒山

中之島の北、堂島川に架かる水晶橋からみた大江橋方向の朝

水晶橋の北詰め東には、堂島川の中に新しい建物が完成していました。河川財団のHPには<一級河川堂島川(旧淀川)右岸の水晶橋~鉾流橋間で大阪府が平成22年度から推進する「中之島にぎわいの森づくり」事業の一環で、河川沿いに賑わい施設を誘致するとともに、遊歩空間を緑化し人々が憩楽しめる場としての充実を図る>とありましたのでその賑わい施設(レストランなどか)でしょう。

水晶橋から中之島公会堂の北を通ってバラ園に向かいます。途中ケヤキが見事に紅葉していました。

朝の中之島公会堂です。

バラ園に入ると、朝の太陽が雲に隠れてしまいました。

中之島の南を流れる土佐堀川に沿って淀屋橋方向に向かうと、遊歩道の手摺に鳥の群れが留まっています。

今年はじめて見たユリカモメでした。

淀屋橋から本町に向かう途中の道修町入り口です。11月22~23日の神農祭の準備が進んでいるようでした。



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先日、大阪南港からフェリーさんふらわあ(きりしま)に乗って、3泊4日の九州大隅半島観光に行ってきました。その旅行記を紹介しましょう。・・・南港を出港する直前のフェリー(きりしま)1993年就航・12、418総トン・全長186m・幅25.5m・航行速力23.5ノット・旅客定員782名

フェリーレストランの夕食は、1500円のバイキングです。但し65歳以上のシニアは1200円と格安でした。・・・レストラン

今回は、6名のグループ旅行だったので、開店時間の午後7時から閉店の8時までここで宴会。・・・このあと客室のベッドに入りましたが、1万2千トンの大型船だったせいか、揺れを感じることなく熟睡できました。

翌朝、デッキに出てみると、進行方向の左手(志布志湾の南側)に肝付町国見山(887m)が見えていました。左手向こう側は内之浦ロケット基地です。

フェリーが入港する志布志港には大型のとうもろこしサイロがあり、ここから家畜飼料として南九州各地の牧場や養鶏場に配送されているようです。・・・左が全農サイロ(15.7万m3)、右が志布志サイロ(18.2m3)、全農サイロの後ろに上組サイロ(15.1万m3)があります。

家畜用配合・混合飼料の生産量は、鹿児島県が全国1位だそうです。フェリーは、サイロを左舷に見ながら前進、接岸している大型船の横を回ってフェリー埠頭に向かいます。

これが志布志港のフェリー岸壁。岸壁の長さは、フェリー全長(186m)の3倍くらいあるようです。

接岸したフェリー さんふらわあ きりしま。いよいよ大隅半島巡りの旅のスタートです。

こちらは、帰りに乗ったフェリーさんふらわあ さつま。 ・・・行きに乗ったきりしまとほぼ同サイズの姉妹船で、こちらのほうが約5か月早く就航したようです。



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久しぶりに神戸・三宮を散歩しましたので、三宮周辺の様子を紹介しましょう。・・・リニューアルされた阪神三宮駅のホームは気持ちの良い空間となっていました。

新しい阪神三宮駅東口の改札コンコース。天井のデザインは、ガウディ風で洗練されていました。

東口を出た右側は、1995年の阪神大震災で被災した旧神戸新聞会館、現在のミント神戸地下への入り口です。ミント神戸に新しいアクセス通路ができていました。

こちらが以前からあるJR三宮駅へのアクセス通路ですが、リニューアルされていました。

さて、JR三宮駅の東側に出てみると、タワーマンションが目に入りました。そこで日本のタワーマンションに限定してその高さランキングをNETで調べてみました。

1位がザ・北浜タワー(大阪市・北浜)209m、54階、2009年3月完成、完成から4年が経過していますが、日本国内ではこれを上回る高さのマンションは建設中、計画中を含めてもまだできていません。・・・今年2月に完成したばかりのシティタワー神戸三宮でした。高さ190m。オフィス・ホテルを含めても、神戸市内最高を誇るマンションです。

2位がパークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー(川崎市)204m、59階、2009年完成、3位はクロスタワー大阪ベイ(大阪・弁天町)200m、54階、2006年完成、以上日本で200mを超えるタワーマンションは3棟だけ、そのうち2棟が大阪市内にあり、東京にはまだ1棟もありません。

4位はTHE TOKYO TOWERS MID TOWER(東京・勝どき)193.5m、58階、2008年完成、同率4位が同じ高さのTHE TOKYO TOWERS SEA TOWER(東京・勝どき)193.5m、58階、2008年完成、このツインタワーが現在東京で最も高いマンションです。

6位は勝どきビュータワー(東京・勝どき)192m、54階、2010年完成、7位はアクティ汐留(東京・汐留)190.3m、56階、2004年完成、全国ランキングの8位がこのシティタワー神戸三宮(神戸市・三宮)190.0m、54階、2013年完成です。

 

 



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村上春樹さんの小説1Q84の中に主人公の天吾が月を見上げる場面がありますので、ATCから見た三日月の写真と一緒に紹介しましょう。<・・・>が小説からの引用です。・・・ATCの日没

<(中略)初秋の夜空に浮かんだ月はくっきりと明るくこの季節特有の内省的な温かみを持っていた。(中略)その穏やかな自然の光は、ひとの心を癒し鎮めてくれる。澄んだ水の流れや、優しい木の葉のそよぎが、人々の心を癒し鎮めてくれるのと同じように>・文学的表現というのはこういう文章を言うのでしょうね。・・・これは日没直後の月齢1.6の月

<(中略)都市の世俗的な明かりが、いつものように星の姿をかき消していた。空はきれいに晴れていたが、いくつかのとくべつに明るい星が、ところどころに淡く散見できるだけだ。しかしそれでも月だけはくっきりと見えた>・・・ここからが月齢3.6の月となります。

<月は照明にも騒音にも汚染された空気にも苦情ひとつ言わず、律儀にそこに浮かんでいた。目をこらせば、その巨大なクレーターや谷間が作りだす、奇妙な影を認めることもできた>

<月の輝きを無心に眺めているうちに、天吾の中に古代から受け継がれてきた記憶のようなものが呼び起こされていった。人類が火や道具や言語を手に入れる前から、月は変わることなく人々の味方だった>・・・関空に着陸する飛行機が月の前を横切ります。

<それは天与の灯火として暗黒の世界をときに明るく照らし、人々の恐怖を和らげてくれた。その満ち欠けは時間の観念を人々に与えてくれた>・・・ここまで沈むと灯台と月との位置関係がはっきりしてきます。

<月のそのような無償の慈悲に対する感謝の念は、おおかたの場所から闇が放逐された現在でも、人類の遺伝子の中に強く刷り込まれているようだった。集合的な暖かい記憶として>・・・高度の下がった三日月は、オレンジ色になってきました。

<考えてみれば、こんな風に月をしげしげと眺めるのはずいぶん久しぶりのことだな、と天吾は思った。この前月を見上げたのはいつのことだったろう。都会であわただしく日々を過ごしていると、つい足もとばかり見て生きるようになる。夜空に目をやることさえ忘れてしまう>・・・オレンジ色の月と灯台

月の描写だけでこれだけの文章が書ける、ノーベル文学賞の候補となる作家は、やはりただものではありません。・・・このあと、さらに高度が下がった月は、かすんで見えなくなりました。

参考文献:1Q84 BOOK2 7月ー9月 村上春樹著



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