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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



夏の暑い日が続きますが、今回の大阪街並み散歩は、すこし足を延ばして堺市まで行ってきました。



豊臣時代までの堺は、「黄金の日々」というくらいの大発展を遂げていますが、「大阪夏の陣」(1615年)において、大阪方の放火によってすべての市街地が焼失しています。



その後、復旧した堺に、いちはやく再建されたのがこの山口家住宅で、江戸時代を通じてこの地にあり、先の戦争の堺大空襲(1945年7月)の火災をも免れています。

土間のカマド




山口家は、江戸時代、堺の庄屋を勤め、奉行所と町方をつなぐ役割を担い、1689年(元禄2年)の堺絵図には「越前屋久右衛門」の屋敷地として記載されています。

主人の部屋




その後、1775年に改修され、1790年代にも増築工事があったようで、その際に敷地が北に広がりますが、越前屋山口家は大地主として幕末まで続いています。




明治維新後、第13代当主の山口義一(1888~1939年)が衆議院議員に5回当選、昭和初期には政友会幹事に就任するなど、国政の舞台で活躍しています。

下半分が網代になった障子


山口義一の政治活動で、江戸時代からの山口家の莫大な資産は無くなり、最後に残ったこの住宅も最近手放すことになったようです。

奥の増築部分には堺の名産、晒し浴衣が展示されていました



この山口家住宅は、国内でも数少ない江戸時代初期の町屋の一つとして、1966年に国の重要文化財に指定されています。

 

つづく



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昨日の記事からの続き、夕方の大阪港の写真と、長谷川幸延の著書「大阪歳時記」からの抜粋です。

神戸の山に沈む夕日



大阪の商家では、<三十年、のれん分けして別家に取り立てられると、はじめて「兵衛」を名乗って(長松→長吉→長七→長助から)「長兵衛」となり、一人前の商人になるのである>そうです。

落日後




具体的には、<長吉が使いにいっても「何の用や、聞いてみい」と上げてもらえないが、「長七っあんが来やはりました」なら「よし店の火鉢へ上がってもらえ」>となり




さらに、<「長助はんが来やはりました」なら「そうか奥に通って貰え、座布団とお茶、早う出しなはれ」>ともっと丁寧に扱われ、




<「長兵衛さんがお見えになりました」なら「奥へお通し申せ、カステラがあったナ。それから用がすんだら、一口差し上げる支度せないかん」>と最大級のもてなしとなるようです。




大阪の奉公人は、いつか「○兵衛」と呼ばれる日を夢見て頑張ったのでしょうが、家の中には「○兵衛」さんの上位に君臨する最高実力者が別にいたようです。



参考文献:長谷川幸延「大阪歳時記」



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梅雨が明け、毎日うだるような暑さとなりましたが、こういう晴天の日の夕方、大阪港を散歩してみると、コンテナ埠頭のはるか先、須磨の山に沈む夕日を見ることができます。

 


この暮れなずむ大阪港の風景と一緒に、明治大正期の大阪の奉公人の呼び方について、長谷川幸延の「大阪歳時記」から紹介してみましょう。




長谷川は、<大阪の商家では、その名の呼び方一つで、その男がその店で、どのくらいの位置におかれているか、すぐ判った>と書いています。




<まず、男の子が丁稚として奉公のはじめには「松」の字をつけて呼ばれる。本名が長吉なら「長松」であり、久一なら「久松」である>といいます。




次に、<五年も辛抱すれば「吉」になり、長松は「長吉」に、久松は「久吉」になる。十年もして手代になると「七」になって、「長七」であり、二十年で番頭になれば「助」となり「長助」>だそうです。




参考文献:長谷川幸延「大阪歳時記」 

 

つづく



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摂津国、西成郡総社の坐摩神社と大阪天満宮との関係について、昨日の記事からの続きです。

坐摩神社



大阪天満宮は、大阪夏の陣(1615年)の際に郊外の吹田に避難していましたが、1644年頃に松平忠明の天満屋敷が寄進されたことから、北渡辺の地に戻ってきて、天満の氏神としての活動を再開しています。

坐摩神社には、天満宮もあります



一方、新しい土地に移転させられた坐摩神社は、氏子も少なく経営が苦しかったようで、西成郡の惣社として郡全体を氏地として活動したいという嘆願書を町奉行所に出しているほどです。

摂社、相殿神社



同じ西成郡にあった大阪天満宮は、吹田から復帰したばかりの氏地が坐摩神社に奪われることとなるため、西成郡天満の氏地は渡さないという争いが起こったようです。


坐摩神社の花、さぎ草


 

最終的には、大川の北側はすべて大阪天満宮、坐摩神社を南限として東横堀川と西横堀川に挟まれた土佐堀川までの土地(船場)の東半分が坐摩神社、西半分は御霊神社の氏地と定まったようです。

アサガオも



 

味方した豊臣が徳川に負けたことで西成郡総社としての坐摩神社は広大な氏地を失いましたが、それでも東船場の氏神として現在までしぶとく生き延びたのです。



参考文献:「大阪天満宮史の研究」大阪天満宮史料室編



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大阪天満宮史料室編の「大阪天満宮史の研究」を読んでみると、坐摩神社について面白い論文があったのでご紹介しましょう。


 

江戸時代までの大阪市域は、旧淀川の北部と上町台地の中央から西が摂津国西成郡、上町台地の中央から東が摂津国東成郡、上町台地が終わる天王寺辺りから南が摂津国住吉郡、以上3つの郡に分かれていました。

拝殿



その西成郡には、現在の大阪市のうち、北区、中央区、西区、浪速区など12の区が含まれ、その総社が坐摩神社だったのです。

摂社、大江神社



西成郡総社の坐摩神社は、当初石山本願寺の寺域にあったようですが豊臣秀吉の大坂城築城の際(1583年)、約1キロ西の南渡辺(西成郡内石町)に移転させられています。

摂社、繊維神社



坐摩神社は、それから32年後の「大阪夏の陣」で豊臣方に味方したため、南渡辺から、1,7キロも南西に離れた南御堂西側の土地に再び移転させられるのです。


摂社、大国主神社


 

参考文献:「大阪天満宮史の研究」大阪天満宮史料室編



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昨日紹介した瀧川説なら大阪天満宮の摂社大将軍社は、大阪天満宮よりも610年も古い創祀となるようですが、後に「天満宮に軒を貸して母屋を取られた格好」(宮本又次)になってしまっています。

大将軍社(天満荒物屋中)


 


鎌倉、室町時代半ばまで(中世)の大阪天満宮については資料が乏しく、よく判っていませんが戦国期以降は石山本願寺との往来などで、しばしば資料に登場してくるようです。

十二社権現





石山本願寺と織田信長との合戦時、大阪天満宮は本願寺側についたため、神領は取り上げられ、古い記録はほとんど焼失したようです。


八坂社(地下町中)



秀吉は、天満宮の復興を支援し、天満地域が発展する基礎を作っていますが1615年の大阪夏の陣でその豊臣方についた大阪天満宮は被災、御神体は吹田に避難しています。


老松紅梅社(左)下村店(大丸?)中



江戸時代に入り、松平忠明の屋敷などが寄進されたため1644年頃にやっと御神体が天満に戻ってきたようです。

八幡社(左)東西町奉行同心中




その後、大阪天満宮は1686年、1724年、1768年、1777年、1792年、1837年、1846年の7回も火災に遭っていますがその都度再建されています。

住吉社(丸屋弥兵衛)




この火災からの再建記録から、境内の摂社、末社など諸建物の変動を読み取ることができるようです。

蛭子遷殿(酒小売、中次、造酒家中)




元禄期まで(~1704年)の境内摂社は、まだ6座しかありませんでしたが、1724年の火災後に8座となり、1792年の火災後には16社、1886年には19社に増えています。

霊符社(天満町々年寄)




これは、天満地域の繁栄、特に商工業者の同業者仲間が互いに競い合うようにして、天満宮の中に彼らの守護神を持ち保護したことが、末社が次第に増加した原因だったようです。


白米大神



 

参考文献:「大阪天満宮史の研究」大阪天満宮史料室編



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大阪天満宮史料室編の「大阪天満宮史の研究」を読んでみると、大阪天満宮の創祀年代について面白い論文があったのでご紹介しましょう。

 


大阪天満宮の社伝は、652年孝徳天皇が長柄豊崎宮(前期難波宮)に遷都した際に皇城鎮護の神として奉斎したのが、現在大阪天満宮の摂社となっている大将軍社としています。




一方、元国学院大学教授の瀧川政次郎氏は、その論文「大阪天満宮の創祀年代考」の中で仁徳天皇(古事記では394~427年)による堀江(天満川)開削時、堀江の霊(水神=蛇または龍神)を北岸(北渡辺)に祀ったのが大将軍社といいます。


大将軍社



この間には、230年近い相違がありますが、いずれにしても現在の天満の土地に古くから大将軍社があり、当時は大将軍の森と呼ばれていたようです。

天満宮拝殿




現在の南森町などは、その大将軍の森と呼ばれていた時代の名残と考えられています。

表門




余談ですが当時、この堀江の渡しの船頭を渡部(わたしべ)と呼び、その渡部達の住む土地を渡辺と呼んだようで、源頼光の四天王、渡辺綱(953~1025年)はこの地を地盤としていた豪族と思われます。

拝殿の提灯




また天神祭の際に踊る「
龍踊り」は、天満宮の創建より古いこの大将軍社の霊をなぐさめる踊りからきているのではないでしょうか。

天満宮本殿




さて話を戻し、大阪天満宮社伝によれば、901年菅原道真(845~903年)が太宰府に向かう途中、北渡辺の大将軍社に参拝したことから、そこに村上天皇の勅願で949年に天満宮が創祀されたといいます。


地車




しかし、瀧川政次郎の論文「大阪天満宮の創祀年代考」では、社伝とは別の資料(藤原敦基、敦光の詩句)から、道真の死後約130年を経た長暦から万寿年間の中間頃(1030年頃)に創祀されたと推測しています。

 

参考文献:「大阪天満宮史の研究」大阪天満宮史料室編



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5月の記事で紹介した葛城山の天神社は、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命の住まい跡とされ、山城国風土記には、そこから山城に進出したのが上賀茂、下鴨神社の賀茂氏と伝えています。



 

葛城山の麓には賀茂の地名があり、上賀茂、下鴨神社の賀茂氏のルーツはかつてその辺りにあったようですが、天皇家や葛城氏との勢力争いに破れ、5世紀中頃に現在社殿のある山城に移ったのではないでしょうか。

二の鳥居



 

公式HPによれば<上賀茂神社とは、賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祭神とした神社です>とあり、葛城ロープウエイ山上駅に近い天神社も雷を祭神としている雨乞いの神とされています。


外幣殿(御所屋)


 

<雷の御神威によって、厄を祓いあらゆる災難を除く、厄除明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されています>と、こちらの霊験は天神社よりもっと幅広くなっています。

西の鳥居



 

また由緒書には、<神代の昔、賀茂別雷大神が本社の北北西にある、神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)、現在の社殿の基が造営されました>とあるので、賀茂氏は200年かけてこの地に社殿を造営できるまでに勢力を拡大したのでしょう。

細殿(1628年、重文)前の立砂



 
その後、広く庶民の信仰を集め、平安遷都後には22社の上位にランクされています。


本殿前の楼門(1628年、重文)


 

毎年6月に行われる夏越祓式の情景は、藤原家隆(1158~1237年)によって百人一首に「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」と詠まれています。

句碑



 

藤原定家と並び称される藤原家隆は、大阪四天王寺に近い丘に庵を建てて住み、夕陽を眺めながらそこで亡くなったことで有名で、以前のブログ記事で紹介したことがあります


奈良社の鳥居



賀茂神社と神山との間の神聖な土地は、戦後京都に進駐したゴルフ好きの軍政官によって強制的にゴルフ場とされ、進駐軍撤退後もそのまま現在に至っているようです。(京都ゴルフ倶楽部 上賀茂コース)

 

参考文献:上賀茂神社 建内光儀著



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昨日の記事からの続きですが、参拝後に楼門を出てから前を流れている御物忌川の右岸にある参道を進むと御物忌川が神格化された末社、川尾社があります。

楼門前


 

さらにその先の石段を登ると新宮門があり、そこで参道は行き止まりですが、扉の隙間から中を見ると新宮社の拝殿を見ることができます。



 

この祭神は、雨乞いの神の高龗神(たかおかみ)で、貴布祢新宮とも呼ばれ、1046年に鞍馬山の横にある貴船神社が洪水で流された際、ここに分祀されたようです。

楼門前の御物忌川



 

高龗神の全国総社は、奈良大和神社の境内にある高龗神社で、以前の記事で紹介したことがあります。



 

さて、いったん楼門前まで引き返し、御物忌川に架かる片岡橋を渡った対岸にあるのが上賀茂神社の第一摂社とされる片岡社です。

片岡橋



 

片岡社の祭神は、上賀茂神社の賀茂別雷神の母親、玉依比売命で、現在でも恒例祭祀の際には、本宮の祝詞奏上前に、まず片岡社で祝詞を奏上することになっているとか。



 

片岡社の前の御物忌川は、少し先の橋殿の手前で御手洗川と合流し、そこから奈良の小川と呼ばれる流れとなり、少し下流が曲水の宴で有名な渉渓園です。



 

毎年4月第二日曜日に渉渓園で開催される曲水の宴は、1182年から始められていましたが、永い中断の時期があり1994年から復活したようです。



 

奈良の小川の下流東側には、摂社の奈良社があり、その奥には995年(正歴5年)の記録にある調之屋(1628年、重文)が建っています。



 

面積が280㎡(86坪)もある広い調之屋は、庁ノ舎とも呼ばれ、かつて上賀茂神社の政所として使われていたようです。



 

庁ノ舎の南にある校倉(1628年、重文)は、藤原定家の1190年頃の日記に御器御倉と出ているそうです。



 

参考文献:上賀茂神社 建内光儀著



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京都市営地下鉄の北大路で下り、市バスに乗り換えて10分で世界文化遺産上賀茂神社の一の鳥居前に到着します。


 

そこから160mもある参道を進むと、両側に芝生の広場があり、その途中には樹齢150年という枝垂れ桜や、古樹を見ることができます。



 

参道の右手に見えてくるのは、995年(正歴5年)の記録にある外幣殿(馬場殿、御所屋、重文)、他の社殿と同じ1628年(寛永5年)に造替された古い建物で、皇室や摂関家の賀茂詣の際の到着殿として使われてきたようです。



 

その先にある二の鳥居の前までくると、天皇、上皇だけの到着殿となる細殿(1628年、重文)と、その正面に置かれた円錐形の2つの立砂が見えてきますが、天皇、上皇だけしか利用できない建物とは凄いですね。



 

細殿の右側には、川をまたいだ橋殿と、神主の到着殿となっている土の舎がありますが、修理中の足場が建っていました。



 

細殿の左側を通って御手洗川を渡ると、本殿への入り口となっている朱の楼門(1628年、重文)が見えてきます。



 

楼門の前にある玉の橋(1937年造替)は、神事の際にだけ使われる反橋で、創建年代は不明ですが、1266年(文永3年)に造替された記録が残っている古いものです。



 

さて、楼門をくぐると正面に中門があり、一般の参拝者はここで参拝することになります。

楼門



 

実は、本殿(国宝)と権殿(ごんでん、国宝)は、この奥に左右に並んでいるのですが、手前に祝詞屋(のりとや)などの建物があるため、それを直接目にすることはできないのです。

中門



 

中門と楼門との間の石段の東側には、幣殿(1628年、重文)、西側には高倉(1628年、重文)が向かい合って建っていました。

幣殿




上賀茂神社の社殿は、創建年代が古すぎて良く判っていないようですが、現在見ることのできる社殿の多くは、江戸時代初期の1628年に造替られたものです。


参考文献:上賀茂神社 建内光儀著



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「おおすみ」が入港した日、梅雨明け宣言の出た大阪港を色々な角度から見ることができたのでご紹介しましょう。

 



水上警察の高速艇、かなりスピードがでそうですね。




水上警察の高速艇の後ろから見た海遊館とサントリーミュージアムです。




「おおすみ」の甲板越しに見た、サントリーミュージアムとホテルシーガル、水上警察署




「おおすみ」の艦橋後方にあるヘリコプター甲板越しの大阪港の入り口




「おおすみ」の甲板から見た
南港咲洲地区のビル群




なにわの海の時空館ドーム(左)と夢洲クレーン(右)の間が大阪港の入り口、大関門。安治川の濁流で海が黄色く濁っています。



夢洲コンテナターミナルの大型コンテナ船用C11,12,13岸壁



対岸の梅町岸壁に接岸した大型貨物船



観光船サンタマリア



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大阪生まれの作家、長谷川幸延(1904~1977年)は、その随筆「大阪歳時記」に天神祭と大阪天満宮のことを書いています(以下<・・>の部分)ので、天神祭りの準備風景と一緒にご紹介しましょう。



 

<昔の天神祭の船渡御の壮観さを、ここに再現することは不可能である。鉾流橋の下からの神輿の舟入、そしてドンドコ船、お迎え人形の船、そして篝火の船、両岸の照明>

表門



 

<午前二時、お旅所の松島花園町の行宮に到着。その宮入り直前のあばれ神輿がもみにもまれて繰り込むありさまは・・識っている人には、「とても、そんなチョロコイもんやない」というであろうし、ぜんぜん識らない人達には想像さえもつかないであろう>

表門の上の方位盤



 

<天神祭の天神社は、いうまでもなく菅公を祀る社で、大阪には二十五の天神社がある(中略)二十五社詣りの巡路は、古く「難波丸綱目」(1748年初版の大阪ガイドブック)に見えている>

提灯で飾られた拝殿



 

<その二十五社の中でも、なんといっても第一に指を折られるのは、もちろん「天満の天神さん」で通っている天満宮である>

本殿の裏側



 

<そもそも、天満の天神というのは訝しいのであって、天満も天神も菅公を神格化しての呼称である>



 

<天神とは菅公の霊、雷となる。すなわち天神なりというのと、観世音三十三身のうち大自在天神というのとある>



 

<天満というのも、天神記の「その瞋恚(しんい)の焔(燃え上がる炎のような激しい怒や恨み)天に満ちたりからとも、虚空見大和の虚空見(そらみつ)、すなわち天満であるともいう>



 

<いずれにしても「天満の天神」はおかしいのである。>

今では北の鳥居の前に、ちゃんと大阪天満宮と書いてありました。



 

最後にシジミの貝殻約1万枚を藤の花に見立てた「しじみ藤棚」は、大阪天満宮の名物として知られていましたが、1926年を最後に途絶えていたものを2002年に復活させたものだそうです。




若き長谷川幸延もこの「
しじみ藤棚」を見ていたかもしれません。

 

参考文献「大阪歳時記」長谷川幸延 著



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大型輸送艦「おおすみ」の舷側にある車両出入り口は、大阪港に接岸したばかりの段階では閉じた状態です。

 

 


しかし、接岸と同時に大きな入り口が開き、一般見学者はそこから「おおすみ」の艦内に入ることになります。




全長178m、全幅25,8mという「おおすみ」の格納庫は、巨大な空間でした。




その後部には、輸送用ホバークラフトが前後に2隻搭載され、このホバークラフトは重量59トンもある戦車でも揚陸できる能力があるそうです。




ホバークラフトが出入りする艦尾ドア。




また、乗員用居住区とは別に、330名分の居住区を持っていて、災害救助時にはそれだけの避難民の収用が可能とか。



「おおすみ」の艦橋より後方は、輸送ヘリコプター2機分のヘリコプター甲板、それより前は車両や資材用の甲板として使用するようで、甲板は滑らないようアスファルトのような舗装がされていました。




公開時のヘリコプター甲板には、「おおすみ」に積んでいる陸上自衛隊の医療用車両などが展示。



格納庫と車両甲板の間は、艦橋前部(20トン)と後方(15トン)2箇所にエレベーターがあり、車両などを上げ下ろしできるようになっています。



「おおすみ」は、1999年トルコ地震救援、2002年東ティモールへPKO部隊を輸送、2004年にはイラクで使用する車両の輸送など、非軍事活動の実績があるようです。


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大阪港に海上自衛隊の大型輸送艦「おおすみ」が入港、一般に公開されると聞いたので梅雨明け宣言の出た日に行ってきました。

 


「おおすみ」を正面から見ると、艦橋を左側に寄せ船体上部に平らな甲板があるので、小型の航空母艦のようです。




1998年に就航した「おおすみ」は、基準排水量8900トン、満載排水量14000トン、全長178m、全幅25,8m、深さ17m、吃水6m、速力22ノット、乗員135名という大型艦です。



公開時間の10時、一般の見学者は「おおすみ」の舷側に開けられた車両の出入り口から中に入ります。




艦橋の前面下部に置かれた上に白いドームのようなものが乗った機械が、攻撃してくる
ミサイルや航空機を至近距離で迎撃する20mm機関砲CIWS)です。




近接防御火器システム
とも呼ばれるこの機関砲は、「おおすみ」に2台装備されていて、有効射程1,500m、有効迎撃距離550m、毎分3,000発を発射できるようです。




海上自衛隊には、「おおすみ」とほとんど同じ仕様の「しもきた」、「くにさき」という姉妹艦がいて、いずれも広島県呉市にある第一輸送隊に所属しています。

ヘリコプター甲板 




「おおすみ」の軍艦旗。



おおすみ型の輸送艦は、直接海岸に接岸するのでは無く、艦内に搭載している2隻のホバークラフトで資材や人を揚陸できるので、世界の海岸線の70%が利用できるようです。


舵輪



旧日本軍は、
輸送などの支援活動を軽視して敗れていますが、兵站と呼ばれる輸送システムが機能しない組織に勝利は無いのです

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東京の歌舞伎座で新蔵の「茶臼山血判取」を見ていた元大阪府知事の西村(石碑には西邨)捨三(1843~1908年)は感激し、木邨(村)長門守を追慕する気持ちを掻き立てられたようです。

 


第6代大阪府知事の西邨(村)捨三については、以前の記事で紹介したことがありますが、1889~1891年まで大阪府知事を務めた後、松方内閣の農商務次官に転出しています。

中之島




西村は、その後1893年に官を辞して北海道炭鉱鉄道の社長に就任していますので、新蔵の芝居を見たのは北海道炭鉱鉄道の社長時代だったのではないでしょうか。




興奮冷めやらぬ西村捨三は、豊臣家と所縁のある浅野、黒田、鍋島など当時の旧藩主を歌舞伎座に招き、新蔵の「茶臼山血判取」を見せたといいます。


大阪城の南外堀



西村は、その芝居のあと料亭で旧藩主をもてなし、その席で木村長門守顕彰碑を建立することを提案しています。

大阪城の大手門




すると同席していた団十郎が真っ先に寄付を申し出、即座に諸藩主も全員賛同しているので、新蔵の演技は、それほど凄いものだったのでしょう。

大阪城の京橋門




西村は、資金のめどがついた後、大阪府知事時代から昵懇の侠客、小林佐兵衛に石碑建立を依頼していますが、石碑の下には発起人として二人の名前が仲良く並んで刻まれているので二人の強い信頼関係が伺えます。




この小林佐兵衛は、司馬遼太郎が小説
侠客万助珍談」で鍵屋万助、小説「俄」では明石屋万吉として登場させている人物です。




小林は、安治川口に沈んでいた巨大な大坂城残念石を引き上げてこれを寄付、当時中之島にあった豊国神社の前に見事な石碑を建立したのです。




石碑に刻まれている書の、日下部 東作(1838〜1922年)は、西村と交流のあった彦根藩士で、維新後新政府に仕えていましたが、官吏を辞めて書家となり、明治の三筆と呼ばれた人物です。



名優の演技が観客の心を動かしたことで建ったこの石碑は、114年を経た今も当時のままの姿で中之島公園に置かれています。

 

参考文献:自己流・大阪志 長谷川幸延著



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