野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



毎日早朝、自宅周辺をウォーキングしていましたが、日の出時間が遅くなり、11月末にはうす暗い中の散歩となってしまいました。

そこで、11月末から会社の始まる少し前に出勤し、中之島公園の中を散歩することに切り替えました。

中之島公園といえば、大阪を代表するバラ園があります。

そのバラ園では、11月末なのにまだバラが咲いていました。

殺風景な自宅周辺よりも、バラ園の中をウォーキングする方が気持ちが宜しいことはお判りでしょう。

まだ蕾のバラもあるので、しばらくは楽しめそうです。

ツバキの花のような、珍しいバラも咲いていました。

この季節まで、こうしてバラを開花させるのは、かなり高度な技術が必要なのではないでしょうか。

中之島公園は、歩道が整備されていて、空も広く、ウォーキングには最適の公園です。



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今回の東京旅行で宿泊したのは、銀座1丁目交差点(銀座通)から南に2本目の通りにあるホテルモントレラスール銀座です。・・・写真左、赤い消火栓の看板の向こう

外国人客が増え、東京のホテルも取りにくくなっていましたが、東京ブックマークを使って1泊朝食付きのこのホテルを予約できました。・・・正面

NET(楽天トラベル)のサイトで見ると、広さ21㎡のツインルームが1泊18000円からとありましたので、銀座通りのすぐ近くというロケーションを考えると割安かも知れません。・・・ホテルの正面

チェックイン時に入浴剤のプレゼントを受けました。・・・フロント

ロビーにあった香水瓶のコレクション

エレベーターは、客室カードキーを当ててから階数ボタンを押すセキュリティ対策がしてありました。エレベーターホールの階数表示は時計の文字盤のようなアナログ表示

客室は、パリのアパルトマンを思わせるイメージで内装したそうですが、21㎡という狭さです。

バストイレゾーン。このクラスのホテル客室にしてはやや広めの浴槽でしたが、洗面台が無く洗面器があるだけ

すぐ西に姉妹店のホテルモントレ銀座があり、ホテルモントレラスール銀座の朝食券はここでも使えます。しかし朝食会場は狭く、ビュフェ料理も特筆するようなものではありませんでした。



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東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)の豊洲駅から1駅先の新豊洲駅まで、ある夕方散歩してみました。

東雲運河の対岸には高層マンションが工事中です。来年7月に完成予定のベイズ タワー&ガーデンでしょう。

ベイズ タワー&ガーデンの運河をはさんだ対面には昭和大学江東豊洲病院

こちら左が晴海の超高層マンション、右は「アーバンドックららぽーと」の北にある豊洲のマンション

ベイズ タワー&ガーデンは総戸数550戸、予定最多販売価格は、6000万円台だそうです。大阪の新築マンションの倍の値段でしょう。

東雲運河に沿った遊歩道は、運河沿いと護岸の上にもあり、2本の歩道が並行していました。運河の向こう左側は、江東区東雲の超高層マンション群です。

こちらが護岸の上の遊歩道、右はベーカリーショップ

ベイズ タワー&ガーデンの高層階からの眺めは、こんな感じではないでしょうか。

こちらはレインボーブリッジから品川区方向の夜景です。



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11月末の野鳥園に早朝でかけてみると、カモ達が一斉に飛び上がるのを見ることができます。

その際に上空を見ると、たいてい猛禽類が飛翔しているようです。

猛禽類よりも大型のカモ達も、あわてて飛び立ち、観測塔のすぐ近くを通過することがあります。・・・カルガモです。

その猛禽類の代表がこのチュウヒで、殆んど真下を向いて獲物を探しています。

飛行中ごく稀に正面を向くことがあり、その時に眼を撮影することができますが、大抵下向きに飛行しているので眼をちゃんと撮影するのが難しい鳥です。

こちらは頭がやや白いチュウヒ。こちらも眼が、はっきり写っていません。

遠くにハイタカ(準絶滅危惧種NT)がいたので、とりあえずデジタルズーム機能を一杯にして撮影してみました。かなり鮮明度の悪い写真となりましたが、その存在の証拠写真です。

遠くの干潟に、先月まで良く見かけたアオアシシギが1羽、まだいました。これから越冬地に旅立つのでしょう。

フェリーさんふらわあの前を横切るのはムクドリです。猛禽類は野鳥園に多くいるムクドリをあまり襲わないようなので、食べても不味いのかもしれませんね。



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地下鉄有楽町線の豊洲駅のある豊洲1丁目から5丁目は運河に囲まれた地域で、西の対岸が中央区晴海、そこでは巨大タワーマンション(ザ・パークハウス晴海タワーズ)が工事中でした。

豊洲公園の南西部も運河となっていて、手前が首都高速の橋、その左奥にレインボーブリッジの塔が小さく見えています。その左に林立しているのは新豊洲市場工事現場のクレーン

豊洲公園の南は、新交通臨海線(ゆりかめめ)の新豊洲駅のある辺りで、そこにも巨大なタワーマンション(左の工事中がBEYZ)が見えています。

その新豊洲駅の先まで散歩してみました。左の工事中のビルは、2017年開校予定の芝浦工大付属中高

新交通臨海線(ゆりかめめ)の新豊洲駅辺りの歩道は広く、横並びで自転車を走らすことができます。

 工事中のタワーマンションBEYZ。運河(キャナル)の街のタワーマンションに住む男性サラリーマンは、キャナリーマン、女性は白金のシロガネーゼをもじってキャナリーゼと揶揄されているとか。

こちらは既に完成しているマンション

そのマンションからは、来年11月完成予定の豊洲市場の工事現場が良く見えます。

築地市場の移転は紆余曲折がありましたが、1年後にはこちらに移転するようです。

 



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先日七五三のお祝いに東京江東区の氏神ともいえる富岡八幡宮に行ってきましたので、その歴史などを紹介しましょう。・・・鳥居は金属製

八幡宮の公式HPによれば<富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました>から始まり

<周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得、世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です>と誇っています。

 <江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました>

<また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています>とありました。この日も多くの参拝客が訪れていました。

Wikipediaには<1627年創建、1683年に火災で焼失、1703年には地震で損壊、1923年の関東大震災でも損壊、1945年の東京大空襲で焼失、1956年に現在の社殿が造営された>とあり、社殿はコンクリート製の新しいものでした。

また江戸時代、富岡八幡宮境内では相撲の本場所がたびたび開催され、現在も新横綱の奉納土俵入りがここで開催されるそうです。

大関力士碑には現存最古の番付に大関として載った力士から琴欧州まで114名の四股名(横綱に昇進した力士は含まず)が引退順に刻まれているそうです。

境内にある伊能忠敬の銅像は、当時富岡八幡の近くに居住していた伊能忠敬が測量に出かける際に、安全祈願のため必ず参拝に来ていたことから2001年に建立されたものだそうです。



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昭和1812月本土決戦に備え召集された公爵大山柏少佐(18891969年)は、陣中日誌に召集されてからの出来ごとを学者らしくこまかく記録しています。大山公爵より士官学校11年後輩の山階侯爵に敬意を表して野鳥(チュウヒ)の写真と一緒にその日誌を紹介しましょう。大山公爵と陸軍士官学校の同期でインパール作戦を指導した牟田口廉也中将のことは以前紹介しました。

昭和20年4月1日、米軍が沖縄に上陸して沖縄の地上戦が始まり、4月7日には海上特攻した戦艦大和が米軍の攻撃で沈没、特攻した3000名が一挙に戦死するなど南方は悲惨な状況でした。

大山少佐はこの頃根室から室蘭に移動して米軍迎撃の守備についています。昭和20年4月8日(日曜日)が、新しい官舎に引っ越しの日だったため午前中部屋の片づけ、午後に新しい宿舎に移って夕食、その後読書、19時に入浴、20時に就寝といつもとかわらない休日でした。

北海道での大山少佐は、配属から終戦まで、日曜日は殆ど出勤せず、魚釣りや読書などでのんびり一日を過ごし、平日も含めて20時前後には就寝、朝は6時半頃起床していたことが判ります。

沖縄戦で日本軍が全滅した直後の昭和20年6月29日、米軍の大型爆撃機(B29)が室蘭上空を通過、室蘭の陸軍高射砲隊が射撃すると1機に命中して火を出しながら退去したと日誌にあるので守備隊は一応の戦果を挙げていたようです。

7月に入ると室蘭でも連日空襲警報があり、7月15日には米軍の艦砲射撃を受けるなど緊張が高まっていますが、日誌はあいかわらずのんびりしたムードのまま、大山少佐は7月21日に室蘭を視察にきた阿南陸軍大臣(陸軍士官学校の4年先輩)と会談しています。

その後東京に戻った阿南陸軍大臣からという、お礼の酒肴料を7月25日に受け取っているので、阿南大臣も大山少佐との会談は愉快だったのでしょう。大山少佐の父親(大山巌元帥)は、陸軍大臣を何度も務めた人物だったので、阿南大臣は息子から大山元帥の陸軍大臣時代のことなどを聞きたかったのかも知れません。

大山少佐は、終戦直前の日曜日だった7月29日(日)、8月5日(日)、8月12日(日)も出勤せず、のんびり読書などで過ごしています。師団長よりも士官学校2期先輩だった大山少佐の行動を批判する師団幹部は誰もいなかったのでしょう。

8月15日、阿南大臣は早朝自決していますが、大山少佐は12時に終戦の放送を聞いたあと部下の将校と会食、その後司令部に出頭して夕方戻り、夜も将校達と二回目の会食、22時就寝と日誌にあります。会食の席での雰囲気がどうであったか知りたいところですが、そこまでは書かれていませんでした。

参考文献:北のまもり 大隊長陣中日誌 大山柏著



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11月に見ることができる南港野鳥園の野鳥を紹介しましょう。・・・少し前の写真ですが中央、ナンキンハゼの幹の間に何かいます。

ズーミングしてみましょう。尾羽を下向きにして留まっている変わった鳥です。

全身が出てきました。どうやらキツツキ科のアリスイです。

アリスイは、長い舌を使ってアリなど小さな昆虫を食べる野鳥です。あまり目立たない鳥なので、アリスイを見た人は少ないのではないでしょうか。

こちらは大阪府の鳥に指定されているモズ♀。

秋になると渡ってくるジョウビタキの♀。

こちらは野鳥園への途中、緑道で見かけたジョウビタキの♂

 11月に咲くヒマラヤザクラの蜜を吸いに集まったメジロ

普通、サクラとメジロは春の写真ですが、秋に咲くヒマラヤザクラにも留鳥のメジロはやってきます。



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昨日の山階候爵に続き、昭和181254歳で召集された貴族院議員大山柏公爵(退役陸軍少佐)のことを紹介しましょう。山階侯爵の山階鳥類研究所に敬意を表して野鳥(ミサゴ)の写真も合わせて紹介します。

明治半ばになっても(公・侯・伯・子・男の)爵位を持つ華族の中から訓練が厳しい軍人になる者は少数でした。既に華族となっていた軍閥の大物たちは、「皇室の藩屏」である華族が命を国家に捧げる職業につかないのでは国民に対して具合が悪いと考えたようです。

そこで軍人の子弟は、軍人となる可能性が高いであろうとして、軍の幹部にどんどん爵位を与え、将来に渡って華族の中に軍人が一定の割合を占めること(軍人華族の再生産)を狙う方針を立てています。

日露戦争での満州軍総司令官だった大山巌(18421916年)侯爵は、戦後爵位最高の公爵となり、バルチック艦隊を破った東郷平八郎(18481934年)は、いきなり上から3番目の伯爵(後に侯爵)となっています。

それまで爵位最高位の武家公爵は徳川旧将軍家、島津家、毛利家当主、爵位第二位の侯爵が徳川御三家や加賀百万石前田家ということで、薩摩の下級武士が大出世したのです。

大山巌公爵の次男で後に家督を継いだ大山柏(18891969年、母親は山川捨松)は、父親と同じコースを辿ることを期待され、陸軍幼年学校から陸軍士官学校(22期卒業、牟田口廉也と同期)に進みますが、在学中から考古学に興味を示し、陸軍少佐になった昭和3年(1928年)に慶応大学講師に転職して考古学者となっています。

ところが太平洋戦争中の昭和1812月、大山柏公爵(貴族院議員)は突然召集され、第七師団(北海道旭川)配下の大隊長として根室付近で本土決戦に備えた防衛任務についています。

日露戦争の英雄大山元帥の息子(妻は元首相、公爵近衛文麿の妹)も本土決戦に立ち上がったと、陸軍が戦意高揚に利用したかったのでしょうが、既に54歳となっていた本人には迷惑だったと思います。

また配属された第七師団長の鯉登(こいと)中将(18911972年)は、陸軍士官学校の2年後輩、皇室儀制令(大正15年)で公爵は中将(高等官一等、但し師団長を除く)少将(高等官二等)よりも上位席次とされていた関係もあって、大山少佐より上位の階級にいた幹部もやりにくかったと思います。

参考文献:華族たちの近代 浅見 雅男著 北のまもり 大隊長陣中日誌 大山 柏著

 



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昨日の記事に続き、今も鳥類研究所として精力的に活動している山階鳥類研究所の創設者、山階芳麿(1900年〜1989年)元候爵のことを野鳥園のカモの写真と一緒に紹介しましょう。

陸軍を退役した山階芳麿侯爵は、1939年(昭和14年)より北海道大学で鳥類の研究に取り組み、1942年(昭和17年)理学博士号を授与されています。

太平洋戦争が激戦となった昭和18年12月、大山柏公爵(退役陸軍少佐、大山巌の子息)は54歳で召集されましたが、当時43歳の貴族院議員だった山階芳麿候爵(退役陸軍中尉)は理学博士号を持っていたせいか召集を免れています。(大山少佐の話は次回紹介する予定です)

その代わり、昭和19年1月から兵器の物理的基礎研究を任務とする陸軍第七技術研究所の専任嘱託研究員に招聘されています。しかし、理学博士山階芳麿侯爵の専門は鳥類だったので、兵器研究には役に立たなかったようです。

その後、陸軍獣医学校嘱託に異動、軍が通信用に活用している伝書鳩(軍鳩・ぐんきゅう)をハヤブサの襲撃から守るための研究や、軍馬の生理学研究などを担当したようです。鳩を猛禽類の攻撃から守る研究を真面目にやっていたとは驚きました。

1945年(昭和20年)5月24日の東京大空襲で山階芳麿邸は焼失しましたが、懸命の消火活動で鳥類研究所と貴重な標本だけは焼け残ったようです。

戦後は財産税の納付のために研究所周辺の土地1ヘクタールを売却、さらに侯爵としての地位に伴う収入も無くなったために地所を切り売りしながらのタケノコ生活を余儀なくされたとか。

また鳥類の染色体の研究に取り組んで国内外から高い評価を受け、1949年(昭和24年)に関連論文の集大成『細胞学に基づく動物の分類』を上梓し、1950年(昭和25年)に日本遺伝学賞を受賞しています。

さらに鳥類の保護に大きな熱意を注ぎ、日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、国際鳥類保護会議副会長、同アジア部会長等を歴任。

1977年(昭和52年)、鳥学の世界のノーベル賞とも言われるジャン・デラクール賞を受賞。1978年(昭和53年)「世界の生物保護に功績があった」としてオランダ王室から第1級ゴールデンアーク勲章も受章、大好きな鳥類の保護と研究に生涯を捧げることができた恵まれた人生だったようです。

 

参考文献:山階芳麿の生涯 青木営治編

 

 



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今も鳥類研究所として精力的に活動している山階鳥類研究所の創設者、山階芳麿(1900年〜1989年)元候爵のことを野鳥園に飛来したヘラサギの写真と一緒に紹介しましょう。

江戸時代に皇室から親王の宣下を受ける宮家は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4家でしたが幕末、京都山科の門跡寺院・勧修寺で出家していた伏見宮邦家親王の王子、晃親王が還俗し、山階宮の宮号を賜っています。

その山階宮晃(あきら、18161898年)親王は、国事御用掛として幕末の政界で活躍、明治維新後は、議定・外国事務総督など親王の身分で政府の要職を占めています。・・・こちらは10月末に撮影したクロツラヘラサギ

晃親王の王子で山階宮2代となる菊麿王(18721908年)は、理科系の人物だったようで気象学研究に打ち込み自弁で筑波山に気象観測所を建設したりしていますが36歳の若さで薨去、菊麿王の嫡男、武彦王(18981987年)が山階宮3代を継いでいます。

山階宮菊麿王の次男芳麿王(1900年〜1989年)は、学習院中等科のとき宮家男子の義務とされていた陸軍中央幼年学校予科に入り、陸軍士官学校(33期)を経て陸軍少尉に任官。砲兵将校となっています。

しかし親王家の次男以下は皇室内規に従って臣籍降下を願い出ることとなったため、1920年(大正9年)に山階(やましな)の家名と侯爵の爵位を受け、さらに従四位(陸軍少将と同格)に叙任され、20歳の山階侯爵が誕生、勲一等旭日大綬章も受章しています。・・・ヘラサギの脱糞

また祖父山階宮晃親王の明治維新での功績が評価されたのか、莫大な下賜金(現在の価値で40億円程度)も受けたようですが、臣籍降下を許された親王家の男子は、最高で侯爵、殆どが伯爵の爵位に留まるので、薩摩の下級武士出身だった大山公爵より宮中席次ではランク下となっています。

さて、山階芳麿侯爵は、筑波山に気象観測所を創った父親の理科系血筋のせいか、動物学に進みたいとして陸軍を中尉で退役、1929年(昭和4年)東京帝国大学理学部動物学科選科(のちの大学院)に入学しています。

1931年(昭和6年)東京帝国大学理学部動物学科選科修了後、翌1932年(昭和7年)には渋谷区南平台町の自邸に山階鳥類研究所の前身である山階家鳥類標本館を設立しています。

つづく

参考文献:華族たちの近代 浅見 雅男著



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 先日、このブログの更新ができなくなりました。いままで一度も無かった「ログインパスワードの入力」を要求されたからです。野鳥園のアカアシシギの写真と一緒にその経緯を紹介しましょう。

実は、10年前に登録した(と思う・よく覚えていません)パスワードを完全に忘れていました。そこで事務局になんとかならないかと相談のメールを入れましたが、事務的な回答しかありません。

<こちらはgoo事務局お問い合わせの件でございますが、登録情報の管理やパスワードの管理は、利用規約にもあるとおり常に最新の状態を保っておくことなど、お客様自身の管理をお願いしております>とのこと

それにもめげず、何度も事務局とメールでやりとりしたところ、古いケータイのメールアドレスが登録されたままだったために事務局からのパスワード再登録が受けられないことが判りました。

そこで、新しいアドレスにパスワードを送ってもらうよう、最近買い換えたスマホの(設定画面にあった)アドレスを連絡し、待っていましたが、事務局からのパスワード再設定メールがきません。

どうもスマホで一度も使ったことのないグーグルのメールアドレスがスマホの設定画面に出ていて、それを間違って事務局に連絡したようなのです。

そこで、ミスを謝り、スマホでいつも使っているメールアドレスを再度連絡し、もう一度パスワード再設定メールを送ってもらうよう頼みました。

ところが<通常代理修正は行ってないところを2度ほど弊社にてメールアドレスの変更を承っております。変更をお受けした際に、今後は同じように変更を承るとは限らないとお断りさせていただいたかと存じます>と冷たく断られてしまいました。

仕方が無いのでスマホ代理店まで足を運び、一度も使ったことのないグーグルメールの受信方法を教えてもらうと、ちゃんと受信できていました。それでログインパスワードの再設定が可能となり、やっとブログの記事が書けるようになったというドタバタ劇の経緯でした。

途中 難航しましたが、9日ぶりにブログが書けるようになったので、めでたしめでたしでしょう。いやあ良い勉強になりました。読者の皆さんパスワードは忘れないようにしましょう。



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ミサゴは、タカ目ミサゴ科の猛禽類、魚を主食としているので魚鷹の異名があります。・・・ミサゴが魚を捕まえて帰ってきました。

ミサゴの体長は54~64cm、同じタカ目の中のイヌワシ(75~95cm)などと比べるとやや小型です。・・・仲間では右足に魚を持ったまま、高い杭の上に停まろうとしています。

しかし、タカ狩りにつかわれるハイタカ(27~38cm)、チョウヒ(48~58cm)、ハヤブサ(45~51cm)などよりも大型の猛禽類です。・・・杭に到着

杭の上では左足で立ち、右足は魚を持ったままでした。

別のミサゴが獲物を横取りに襲来。

ミサゴのバトル

魚をつかんでホバリング

ホバリングしながら、また杭に向かいます

魚を持って杭に到着



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下呂温泉を朝出発したバスは、恵那峡を通ってJR恵那駅に向かいます。・・・ここで映画「青い山脈」の背景が撮影されたそうです。

JR中央本線恵那駅の隣には、ここから恵那山西側に沿って約25km南にある明智駅まで通じる明知鉄道(旧JR明知線)恵那駅があります。

旧明知線は、1933年(昭和8年)に恵那駅(旧大井駅)から阿木駅までの10.0kmが、翌年に終点の明知駅までが開業、今年で開業から82年という古い歴史を誇る路線です。

今回乗った車両(アケチ10形)は、1998年に登場した新造のディーゼルカーで、車体長15.5m、295psのエンジンを1基搭載しています。・・・スピードメーターは120km/hまで表示できますが、営業速度は40km/h程度

この明知鉄道には、2つの峠を越える急勾配と急曲線の連続する路線があり、途中にある飯沼駅と野志駅は、日本で第1位と第2位の急勾配駅として鉄道ファンに知られています。

急勾配に対応して動力台車は2軸駆動式で、砂撒き装置を台車に装備しているそうです。・・・飯沼駅の看板には急勾配33‰(パーミル)日本一の急勾配駅とちゃんと表示してありました。

現在の明知鉄道の駅数は、11駅、全線単線、全線非電化でワンマン運転のディーゼルカーが折り返し運転されています。今は使われなくなった複線区間が一部残っていて過去の賑わいを示していました。

慢性的な赤字路線だった旧明知線は、国鉄再建法で1981年の第1次廃止対象路線となり、1985年に第三セクターの明知鉄道に転換。それから30年が経過した現在は、僅かながらも黒字を計上しているようです。

今回下車したのは極楽駅。つまり恵那駅から明知鉄道に乗った客は、全員極楽へ連れて行って貰えるという、味のあるローカル列車の旅でした。



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今回のツアーでは、江戸時代初期の林羅山(1583〜1657年)が有馬温泉・草津温泉とともに、日本三名泉に数えた岐阜県の下呂温泉に宿泊しました。・・・JR下呂駅

下呂の地名は、776年頃に設置された下留(しものとまり)駅が、音読みの(げる)駅と呼ばれるようになり、その(げる)が(げろ)に転じたという説が有力です。・・・飛騨川沿いの下呂温泉街

西暦950年頃、温泉地の東方にある湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近に温泉が湧出したのが下呂温泉のはじまりで、山頂からの湧出は鎌倉時代(1265年)に止まりましたが、その後、飛騨川河原に湧出している湯が発見されたようです。・・・東の山から朝日が昇るのが良く見えました。

室町時代には五山僧・万里集九(1428〜1507年?)が草津・有馬とともに天下三名泉として紹介、それを林羅山が1621年の著書の中で引用したことで下呂温泉の名前が全国に広まっています。

下呂の温泉地は、飛騨川の氾濫の度に被害を受け、その度に復興、幕末(安政期)の大洪水でも湯脈が破壊され、明治時代の下呂温泉はすっかり寂れてしまったようです。・・・今では立派な温泉街となっています。

大正時代になると地元の有志によるボーリング採掘が始まり、昭和初期には高山本線の下呂駅が開業(1930年)、名古屋の実業家・岩田武七による湯之島館も飛騨川東の高台に1931年に開業しています。・・・山の中腹にあるのが湯之島館

現在、下呂温泉最大の宿泊施設はJR下呂駅のすぐ隣にある「水明館」の246室、その次が飛騨川西の高台にある「くさかべアメリア」の125室、3番目が「小川屋」が96室、老舗旅館「湯之島館」は8番目の67室とか。・・・「くさかべアメリア」の正面玄関

今回はその「くさかべアメリア」に宿泊しました。ホテルそのものが高台にあり、その8階にある露天風呂から見える飛騨川沿いの温泉街と湯ヶ峰(1,067m)の眺めは素晴らしいものでした。

ツアーに含まれていた夕食「飛騨牛会席」も大変美味しく、ついつい飲み過ぎてしまいました。

 明日は明知鉄道ローカル列車の旅を紹介しましょう。



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