伊勢神宮には比較的近い大阪に住んでいながら、なかなか行く機会が無かったのですが、今回やっとそのチャンスが巡ってきましたので、これから数回に渡って伊勢巡礼報告をしてみたいと思います。
伊勢市駅から歩いてすぐのところにある外宮は、正式名を豊受大神宮といい、元は農業、現在はすべての産業の守護神として崇められています。
豊受大神宮(中は撮影禁止)
もともと伊勢にあった地元の土着神に代わり、豊受神をこの地に祀ることとしたのは、雄略天皇(418~479年)で、伊勢神宮の起源もこの頃からでは無いかとされています。
由緒
伊勢神宮は、200年後の壬申の乱(672年)の際、勝利した天武天皇側に付いたことで、特別の神社として「神宮」と称されるようになっています。
一方、反対勢力だった石上神宮などは、それまでの神宮から一段低い「石上神社」と改めさせられたようです。
石上神宮
それ以降、奈良平安を通じて天皇家の最高守護神として尊崇され続け、庶民は勿論、貴族の参拝も許されないほど格式の高い神社だったようです。
橋
1161年には、参議だった平清盛が天皇の代理という立場で、二条天皇の宣命を奉じて参拝したという記録が残っています。
1の鳥居
しかし鎌倉時代、後鳥羽上皇の承久の変(1221年)によって天皇家の力が衰えはじめたことから、豊受大神宮は、新興の東国武士団に対する伝道師(御師おんし)による布教活動をスタートさせています。
2の鳥居
たまたま当時起こった元寇の際、豊受大神宮の神徳によって神風が吹き、日本が蒙古に勝利したと御師が宣伝したことで、武運をもたらす戦の神として武家の人気が爆発的に高まっています。
3の鳥居
また御師達は、豊受大神宮は、東国武士の財力の元である農を司る神で、豊穣を祈願すれば必ず願いがかなうと布教したようです。
神楽殿
中世、東国への伊勢神道の布教によって外宮は潤い、内宮が衰える状況となったために、内宮の禰宜家は、外宮が信者を独占していると訴えているほどです。
五丈殿、九丈殿、神楽殿
武家や民衆にとっては、天皇家の祖先よりも武運長久、家内安全、無病息災、万年豊作、商売繁盛に霊験あらたかな、豊受大神のほうが有難かったのはいうまでもありません。
風宮
このため鎌倉時代から戦前まで、豊受大神宮(外宮)のほうが、天皇家の祖先を祀る皇大神宮(内宮)よりも参拝者が多かったのです。
多賀宮
豊受大神宮社殿の石段から奥は写真撮影が禁止されていましたが、その社殿は近くにある風宮や多賀宮の建物とそっくりだったので、この写真で想像できると思います。
参考文献(伊勢神宮、著者:藤谷俊雄、直木孝次郎)
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