昼休み、少し暑かったが御堂筋を散歩し、以前から気になっていた難波神社に立ち寄ってみた。
この神社のHPによれば、反正天皇(在位406年~410年)が大阪府松原市に丹比柴籬宮(たじひのしばがきのみや)を開いたとき、父帝の仁徳天皇を祭神として創建されたと伝えられる。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち、慶長2年(1597年)現在地に遷座したらしい。
言い伝えが正しければ反正天皇からは1600年、この地に遷座からすでに409年が経過しているので、現在の難波駅からは相当北に離れた場所にあるが、こちらのほうが正当な難波である。
東鳥居
昭和20年(1945年)3月、大阪空襲により全焼したため、昭和49年7月(1974年)再建されている。
西鳥居
この神社の特徴は東西南北4箇所に鳥居があり、古いものから順に北(万延元年、1860年)、西(明治13年、1880年)、南(大正6年、1917年)東(昭和15年、1940年)と建立の年が違うのが面白い。
北鳥居に彫られた文字
御堂筋側からの入り口(東の鳥居)には「府社難波神社」という碑があり、陸軍大将 鈴木孝雄という署名がしてある。
この鈴木さんは明治2年に千葉県に生まれ、日清、日露の戦争に出陣、昭和2年には大将に昇進、陸軍の要職を歴任し昭和8年に退役している。
その後、昭和13年から21年まで靖国神社の宮司を勤め、昭和39年94歳という高齢で天寿を全うしたラッキーな人である。
南鳥居
実兄は海軍大将から総理に就任した鈴木貫太郎で、兄弟が海軍と陸軍の大将まで昇進した例は少ないのではなかろうか。
境内には大阪市指定保存樹第一号に指定された樹齢推定400年以上といわれる大きな楠木がある。
この樹齢が正しければ、豊臣時代末期の楠ということになる。
拝殿は坐摩神社と同じように鉄筋コンクリート造で再建されており、あまり有り難みは無い。
拝殿の左側には赤い鳥居の博労稲荷があり、この神社の境内は、1811年頃より明治まで続く人形浄瑠璃文楽座のもととなる稲荷社文楽座が興行した場所で、境内東門外に「稲荷社文楽座跡」の碑がある。
人形浄瑠璃は1684年ごろ、 竹本義太夫 が大坂道頓堀に竹本座を開設して一世を風靡したが大阪では歌舞伎に押されて一時衰退してしまう。
稲荷の鳥居とエプソンビル
寛政(1789~1800)年間、初世植村文楽軒は廃れつつあった人形浄瑠璃の伝統を引き継ぎ、高津橋に座をつくり再興させた。
その後2代目植村文楽軒がここ難波神社の境内で人形浄瑠璃小屋を開いたので、文楽発祥の地と云われているらしい。
文楽座はその後、西区の松島に移ったが、明治17年には前年に旗揚げした反文楽軒派の「いなり彦六座」がこの境内に移ってきた。
その後約十年あまり続いたこの一座の看板は、豊沢団平と三代目大隅太夫という明治期を代表する名人達であり、一時期は松島の文楽座をしのぐほどの勢いだったといわれている。
今から約200年前に文楽座がこの神社の境内で興行をスタ-トして明治の後半まで約100年、ここは文楽という芸能を楽しむ大阪市民のハレの場所であったのである。
丁度、劇団四季の興行がある梅田のハービスエントのような場所だったのであろう。
境内の南西の一角に小さな庭園があるだけであるが、広い境内にもっと花や樹木を植えれば、さらに快適な憩いの場所となるのであるが神社の奮起を期待したい。
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