野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



拝観券売り場からまっすぐ続く石畳の突き当たりを右に曲がると霊宝殿である。




石畳の左の階段を上がり霊宝殿に入ると、残念ながら撮影禁止と書いてある。



広隆寺に2体ある国宝の弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像が霊宝殿の中央に安置されていた。



像高は約123センチ、 アカマツ 材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す有名な弥勒像である。

制作時期は7世紀とされ、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像とみられているが、日本での制作とする説もあるらしい。

以前、学生が触って像の指を破損した事件があって、かなり遠くに安置されていたのが残念であった。



弥勒菩薩半跏像の両側には12神将像をはじめとする28体の重要文化財がずらっと並び壮観である。

弥勒菩薩像の向かい側には高さ3m近い国宝の木造千手観音立像、木造不空羂索観音立像があり、これらの像は珍しいことに後ろ側からも見ることができる。

境内



838年成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』によれば、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために帰化人の秦河勝によって建立されたとある。

秦河勝を祀る太秦殿



たしかにこの辺りの地名は太秦というくらいで、昔から秦氏の支配地域であったようであるが、広隆寺が当初からこの地にあったかどうかは定かではないようである。



その後、818年の火災をはじめ、たびたび災害に見まわれており、創建当時の建物は現存していない。

836年に広隆寺別当(住職)に就任した道昌( 空海 の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、中興の祖とされている。

1150年にも火災で全焼したが、比較的短期間で復興し、1165年に諸堂の落慶供養が行われている。



このときに再建された講堂が今も残っているのである。



幾多の火災にもかかわらず、霊宝殿には6体の国宝仏像と28対の重文仏像があるのにはビックリさせられる。

新霊宝殿を出ると京都らしく杉苔で覆われた庭がある。



庭の古木の緑は美しく、池には蓮の葉が顔を出していたが、花はこれからであろう。




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今から38年前に一度訪問したことがあるが、久しぶりに有名な弥勒菩薩を見に広隆寺まで出かけてみた。



広隆寺は京福電鉄太秦駅のすぐそばに山門があり、山門の直前を電車が10分おきに走っているという騒がしい所であった。

この楼門は今から300年前、1702年の建立と伝えられており、左右に2対の仁王像が寺を守っている。



山門を入ると広い境内に石畳が敷いてあり、右手に京都最古の寺院建築と言われている1165年創建の講堂、左手に薬師堂、能楽堂、地蔵堂を木立の中に見る事が出きる。



38年前に来たときには、この講堂で弥勒菩薩を拝観したような記憶があるが、現在では立ち入り禁止となっていた。



梅雨の晴れ間だったので外は蒸し暑かったが、緑の多い境内はさすがに涼しい風が吹いて心地よい。



石畳の正面には本堂の上宮王院太子殿、その右手には太秦殿がある。



上宮王院太子殿奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像が安置されているが、この像には今から886年前の元永3年(1120年)の銘があるという。



太秦殿には秦河勝が祀られていたが、秦河勝と奥方の像は重要文化財として霊宝殿に安置されていた。

そういえばこの広隆寺は秦氏の氏寺でもあった。

上宮王院太子殿の手前で左に曲がる石畳の道を進むと、拝観券の売り場があり、拝観料700円を支払ってさらに奥に向かう。

奥の正面は突き当たりとなり石畳の道は右に曲がるので道なりに歩くと、国宝弥勒菩薩半跏蔵など多くの国宝重要文化財の仏像を安置する霊宝殿があった。

この新霊宝殿は1982年に新築された鉄筋コンクリートの建物で、私が38年前に来たときには無かった建物である。


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昼休み、少し暑かったが御堂筋を散歩し、以前から気になっていた難波神社に立ち寄ってみた。



この神社のHPによれば、反正天皇(在位406年~410年)が大阪府松原市に丹比柴籬宮(たじひのしばがきのみや)を開いたとき、父帝の仁徳天皇を祭神として創建されたと伝えられる。



その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち、慶長2年(1597年)現在地に遷座したらしい。

言い伝えが正しければ反正天皇からは1600年、この地に遷座からすでに409年が経過しているので、現在の難波駅からは相当北に離れた場所にあるが、こちらのほうが正当な難波である。

東鳥居



昭和20年(1945年)3月、大阪空襲により全焼したため、昭和49年7月(1974年)再建されている。

西鳥居



この神社の特徴は東西南北4箇所に鳥居があり、古いものから順に北(万延元年、1860年)、西(明治13年、1880年)、南(大正6年、1917年)東(昭和15年、1940年)と建立の年が違うのが面白い。

北鳥居に彫られた文字



御堂筋側からの入り口(東の鳥居)には「府社難波神社」という碑があり、陸軍大将 鈴木孝雄という署名がしてある。



この鈴木さんは明治2年に千葉県に生まれ、日清、日露の戦争に出陣、昭和2年には大将に昇進、陸軍の要職を歴任し昭和8年に退役している。

その後、昭和13年から21年まで靖国神社の宮司を勤め、昭和39年94歳という高齢で天寿を全うしたラッキーな人である。

南鳥居



実兄は海軍大将から総理に就任した鈴木貫太郎で、兄弟が海軍と陸軍の大将まで昇進した例は少ないのではなかろうか。

境内には大阪市指定保存樹第一号に指定された樹齢推定400年以上といわれる大きな楠木がある。



この樹齢が正しければ、豊臣時代末期の楠ということになる。

拝殿は坐摩神社と同じように鉄筋コンクリート造で再建されており、あまり有り難みは無い。



拝殿の左側には赤い鳥居の博労稲荷があり、この神社の境内は、1811年頃より明治まで続く人形浄瑠璃文楽座のもととなる稲荷社文楽座が興行した場所で、境内東門外に「稲荷社文楽座跡」の碑がある。



人形浄瑠璃は1684年ごろ、 竹本義太夫 が大坂道頓堀に竹本座を開設して一世を風靡したが大阪では歌舞伎に押されて一時衰退してしまう。

稲荷の鳥居とエプソンビル



寛政(1789~1800)年間、初世植村文楽軒は廃れつつあった人形浄瑠璃の伝統を引き継ぎ、高津橋に座をつくり再興させた。

その後2代目植村文楽軒がここ難波神社の境内で人形浄瑠璃小屋を開いたので、文楽発祥の地と云われているらしい。



文楽座はその後、西区の松島に移ったが、明治17年には前年に旗揚げした反文楽軒派の「いなり彦六座」がこの境内に移ってきた。

その後約十年あまり続いたこの一座の看板は、豊沢団平と三代目大隅太夫という明治期を代表する名人達であり、一時期は松島の文楽座をしのぐほどの勢いだったといわれている。

今から約200年前に文楽座がこの神社の境内で興行をスタ-トして明治の後半まで約100年、ここは文楽という芸能を楽しむ大阪市民のハレの場所であったのである。

丁度、劇団四季の興行がある梅田のハービスエントのような場所だったのであろう。



境内の南西の一角に小さな庭園があるだけであるが、広い境内にもっと花や樹木を植えれば、さらに快適な憩いの場所となるのであるが神社の奮起を期待したい。


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大阪の北新地から快速で40分たらず、JR宝塚駅に到着すると到着ホームがそのまま改札口になっているので、1分で改札を抜けることができる。



改札を出ると道路の向こうに阪急宝塚駅が見え、道路にかかる屋根つきの陸橋にはエスカレーターがあるので雨でも足の不自由な人でも楽に横断することができる。

以前住んでいた広州では想像もできないくらい、高齢者や弱者に優しい都市のインフラが宝塚にはあった。

恐らく11年前の阪神大震災をきっかけに、駅周辺の整備が大幅に進んだのではないかと思うのであるがどうであろう。



阪急宝塚駅はショッピングゾーン、飲食ゾーンが充実していて通勤客は、この駅で買い物がすべてできる利便性を持っているようである。



阪急宝塚駅を素通りして駅の南側に出ると武庫川が流れ、宝来橋というS字に湾曲した新しい橋がかかっている。



橋を渡ると右手に一目で安藤作品と判る「クリスタル スパ リゾート 宝塚温泉」の特徴のあるコンクリート打ち放しの外壁が目に飛び込んでくる。



平成14年に完成したこの施設は、地下2階から5階まであり、地下1階は駐車スペースと、武庫川を眺めながら食事ができるレストラン。

1階には入浴料1300円を支払う受付、2階3階には男女別の裸浴スペースがあり、鉄分を多く含んだ赤茶色の金泉、除鉄した無色透明の銀泉の2種類の温泉が楽しめるらしい。

水着着用のバーデゾーンは2~4階で、ジャグジー、打たせ湯、フットバスなど10種類近くの湯めぐりができ、4階にはボディケアルーム、5階に休憩室も完備されているという。

「宝塚温泉」の歴史を調べてみると、室町時代まで遡るらしいが、明治20年になって旅館分銅屋の創始者である小佐治豊三郎が中心となり、武庫川右岸で炭酸泉の掘削に成功したのが宝塚温泉街の始まりらしい。

その後、温泉客を見込んで阪鶴鉄道(現在のJR宝塚線)、箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)が開通している。

明治44年には、武庫川左岸に宝塚新温泉が開場、 その余興として阪急の創始者小林一三によって宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が誕生し、宝塚は歌劇と湯の町として発展していった。

1970年の大阪万博のころには61軒の入浴施設に年間133万人が訪れたほど賑わっていたという。

しかし、今では温泉のある旅館・ホテルはたった3軒にまで減ってしまい、宝塚市が「湯の街の復活を」との願いを込めてこの「クリスタル スパ リゾート宝塚温泉」の建設を決めたらしい。

設計した安藤忠雄氏とは数年前に一度だけ食事をご一緒したことがあるが、「東大の学生は皆アホや」という先生の言葉にビックリした記憶がある。

橋を渡ると旧宝塚温泉街で、今でも営業している温泉ホテルがあるが、周りは住宅街となっており、客の入りはあまり多くは無さそうであった。

この辺りは武庫川からすぐに六甲山系となるので、坂の多い山の斜面にできた街となっている。

山の斜面のマンションからは六甲の眺望が楽しめ、敷地の緑も豊かであるが、毎日の買い物や通勤時の坂の上り下りは大変であろう。


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大阪駅前ロータリーの上に去年3月オープンした、大阪駅フロートコートの2階にある飲食店街は、大阪駅の近くで比較的ゆっくりと昼の食事が摂れる穴場的な場所である。



ここは2011年までの仮設店舗ということなので、テナント集めが大変だったのか、JR系列の飲食店が多いようである。

この大阪駅フロートコートの2階から駅前の陸橋に直接出て、向かいの阪神百貨店まで行くことができるので、このルートを知っていると街歩きに便利である。

去年オープン当事には回転すしの「がんこ寿司」があったが、いつの間にか「がんこ」は無くなり店が変わっていた。

JRの改札南口の前にある階段のエスカレーターを登ると、一番手前にある飲食店が「麺とお惣菜臼臼」である。



臼臼という屋号はJRの系列の飲食店で三宮駅にも「麺と鶏料理臼臼」という店がある。

入り口にはサンプルが置いてあり、中でも980円の松花堂弁当が美味そうであった。



店の中の客席は広くてゆったりとして、ウエートレスもキビキビと働いていて気持ちが良い。

席に案内され注文を聞かれたので松花堂と答える。



昼ごはんにはちょっと贅沢であったが、月に一度くらいは許されるであろう。

5分くらい待たされて出てきた松花堂は、サンプルと寸分違わないものであったのが嬉しい。



テンプラには塩味がついているということで、天ツユが無かったが、他の惣菜も含めてまあまあの味であった。

京都の観光名所で食べると同じような松花堂は、恐らく2500円から3500円はすると思うので、大阪駅前という立地を考えると安いのではないかと思う。

11時半に店に入り、11時50分には店を出る。

階段を下りると目の前に改札があるので11時54分発の電車に余裕で間に合うという飲食店は、忙しいサラリーマンには貴重である。

さて、腹も一杯になったので昼からの仕事も頑張ろうか。

ROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆
インテリア  ☆☆☆
サービス   ☆☆☆
味      ☆☆☆
ボリューム  ☆☆☆
値段     ☆☆☆

総合評価   ☆☆☆



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T苑に引っ越して最初の土曜の日、朝ゆっくりと起きて近所を探訪してみようと11時半にマンションを出た。

龍口西路から見たT苑



まずは、T苑のすぐ西、龍口西路にある「花蘭」という観葉植物の店に入り、あまりやる気の無さそうな男の店主にニイハオと挨拶する。

店の中の商品は手入れが悪く、売り場も雑然としていて、やはり店主の商売に対する姿勢が良く出ている。

従ってあまり魅力のある商品は無かったが、高さ1mくらいある大鉢に植えた葉の大きい観葉植物を指差していくらかと聞くと、250元(3200円)という。

同じ植物のプラスチック鉢に植えられた物はと聞くと120元(1500円)とのこと。

交渉すれば100元にはなりそうであったが、これから散歩にでかけるので、今度又買いに寄ろうと思い店を出る。

それにしてもこの龍口西路にはケーキ屋がやたらと多い。

そのせいか、若い女性の通行人を良く見かけるが、まさか皆がケーキを買いにきているわけではあるまいと思うのであるが。

ケーキ屋で売っているショートケーキは日本で350円くらいするものが、だいたい3から4元(40から50円)という値段である。

若い人の通行が多い龍口西路を南へ下り、昨日買い物をしたスーパー「好又多」の前を通る。



このスーパーは地下1階、地上2階の低層建物であるが、中は結構広くて商品が豊富にあるのが良い。

スーパーの前には200人くらいが座れるベンチとテーブルが置いてあり、このテーブルで買った食べ物をゆっくりと座って食べられるというお客にやさしい配慮がしてある。

スーパー「好又多」から天河路まで出て今度は東に向かって歩くことにする。

何のイベントも無いのに、歩道は無数の人で大混雑している。

いったいこの人たちはどこから沸いてくるのであろうか。


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最近評判のビュフェレストラン柿安 三尺三寸箸 Naturel ホテル日航ビル心斎橋店に行ってみた。

夕方、心斎橋筋から日航ホテルの地下1階に入ると、丁度ミニコンサートをやっている。



若い女性フルート奏者と男性ギタリストの二人で、店舗広場に40席ほどの椅子を置いてのコンサートである。

フルートの大山紗代をネットで調べてみると、第7回フルートコンベンションコンクール・アンサンブル部門高校の部にて銀賞受賞、2003年大阪音楽大学大学院修了。

第50回全日本学生音楽コンクール入選、第10回日本クラシック音楽コンクール全国大会にて審査員特別賞受賞、第40回なにわ芸術祭・新進音楽家競演会にて新人奨励賞受賞という経歴と実力の持ち主らしい。

ギターの永田参男は1982年生まれ。17歳でギターを始め、大阪音楽大学短期大学部音楽専攻科ギターコースにてギター・作曲法・指導法等を学び、イギリスのギルドホール音楽院(Bachelor of Music Course)に留学、現在吹田市にてギター教室を持つという。

エーデルワイス、サンサーンスの白鳥、ツーランロット、くまんばちの飛行、アルファンブラ宮殿の思い出等をフルートとギターでたっぷりと聞かせてもらって気分を高め、地下2階の柿安 三尺三寸箸店に入る。



柿安は明治4年、赤塚安次郎によって三重県桑名市で牛鍋店としてスタート、昭和43年、柿安本店の商号で法人設立されている。

創業者の安次郎は柿などの果樹園を営み、「柿の安さん」とか「柿安」と呼ばれていたため、それをそのまま屋号にしたらしい。

柿安 三尺三寸箸店は、現代に生きる人間にとって、最も必要なものを「自然」と考えて、「自然な食材」「自然な料理」等「自然」にこだわった料理と場所を提供することをコンセプトとしている。



料理は入り口のまん前にあるカウンターに20品目、その裏にさらに10品目、スイーツも10品目くらいと結構種類が多い。



自然をコンセプトとしているので素朴な野菜料理がメインであるが、ジャガイモを柔らかく煮込んだ「肉じゃが」が一番であった。



丁度1時間ほどで満腹したので店を出たが、食べ放題のビュッフェスタイルで昼1680円、夜2500円という料金はリーズナブルな値段であろう。



時間によっては、タイムサービスで写真の特別料理がでてくるシステム



この店のトイレは大阪市内のレストランでも最高ランクではないかと思うほどの豪華さであった。



柿安 三尺三寸箸 Naturel ホテル日航ビル心斎橋店へのROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆
インテリア  ☆☆☆
サービス   ☆☆☆
味      ☆☆
ボリューム  ☆☆☆☆☆
値段     ☆☆☆
トイレ    ☆☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆


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100元札の裏面



人民公社の農民によって土法高炉の鉄を溶かす燃料にするために、中国の山や丘陵から木々が残らず伐採され、それでも不足した分は農家が解体されて高炉で燃やされたのである。

1958年からの4年間、毎日9千万人の農民によって伐採された中国の樹木は膨大な数量となり、中国の砂漠化に一層の拍車をかけたのである

最近、中国や日本でも深刻化している黄砂被害の起因者は、大躍進政策を実施した毛沢東であると私は考えている。

人民公社同士は毛沢東から熾烈な生産量競争を強いられ、土法高炉による製鉄作業はすべてに優先された結果、9千万人の農民は農作物の収穫時期になっても優先順位の低い農作業に戻ることが許されなかった。

その結果、農産物の総生産量は増加したものの肝心の収穫量が激減して、食糧の配給も大幅に縮減されている。

農作物の減収で、1958年末から1961年までの4年間に渡って中国全土では3千8百万人という大量の餓死者が出ている。

この期間の飢饉は餓死者の数では人類史上最悪の飢饉として、世界の歴史に特筆されるものであった。

最近読んだ許家屯、元新華社香港支社長の著書「香港回収工作」にも、2千万人から4千万人が餓死した大躍進の期間に香港から大陸の親族に大量の食料品が送られたが、香港人は皆「共産党恐怖症」になったと書いてある。

1960年の中国政府公式統計では、国民カロリー摂取量は一日1535キロカロリーであるが、実質は1200キロカロリー程度であったと想定されている。

一方、悪名高いアウシュビッツでユダヤ人の囚人が摂取していたのは1700キロカロリーということなので、毛沢東の大躍進期間がいかに酷い状況であったのか推測できる。

しかしこの期間、毛沢東は中国人民の飢饉を知りながら、ソ連から購入する武器の代金として2年間で700万トンの穀物を輸出しているのである。

この輸出穀物を中国の農民に配分していれば、餓死者はほとんど出なかったと言われている。

1957年、モスクワを訪問した毛沢東は、世界革命に勝利するために3億人の中国人を犠牲にする用意があるとまで発言しているので、数千万人の餓死者と聞いても全く意に介していない。

彼の論理で言えば、餓死者を出すのは地方の幹部の指導が悪かったと簡単に片付けられる問題なのである。

1958年末、毛沢東は農民が死んだら土地が肥えるので畑に埋葬し、埋葬した上に作物を植えるように指導している

毛沢東は餓死した国民の遺体を国家が配分できない肥料の代わりに使うよう指導したのである。

飢餓状態の農民が文字通り必死になって土法高炉で生産した鉄は、何の使い道の無い、単なるクズ鉄の塊であった。

4年間かかってやっとこの事実を認識した毛沢東は、しぶしぶ大躍進政策を諦めるほかなかったのである。

それにしても「中国皇帝となった毛沢東」の気まぐれで、餓死者3800万人を出したこの膨大な無駄「大躍進」は、今の中国共産党としては最後まで隠し通したいところであろうが、人類史上最も極悪非道な行為として特筆大書しておかなければならないと思う。


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昼休みに散歩を兼ねて伊藤忠ビルの裏側にある、ひっそりとした坐摩神社(通称ざまじんじゃ、正しくは、いかすりじんじゃと読む)を訪ねてみた。



この神社の鳥居はコンクリート製であるが、左右両側にも小さな鳥居を持つユニークな形をしている。

奈良の大神神社の鳥居と同じ、かなり古い様式の鳥居らしい。

今は大阪のど真中にあるせいか境内は狭く、ビルの谷間にあるような神社であった。

鳥居の正面には鉄筋コンクリート造の拝殿があり、拝殿の昇段には神社の紋章(鷺丸)にちなんだ鷺草の植木鉢が置いてある。



鳥居から入った境内の右手には5つの小さな拝殿があるが、右手の奥には隣のビルの壁が聳え立っていて、神社のおごそかな雰囲気とはそぐわないような環境であった。

拝殿の左手から西向きにさらに奥に抜ける通路があり、その両側に紫陽花の鉢植えと小さな花畑があった。



紫陽花は満開を少し過ぎていたが、まだまだ花は綺麗である。



最近品種改良された「隅田の花火」という品種が、真中の小さな花の周りに大きな花が花火のように咲いて綺麗である。



拝殿から続く本殿の左手を通って裏に抜けると、同じ敷地に陶器神社という比較的新しい神社があり、その拝殿の左右両側に焼き物で作った灯篭が置いてあるのが珍しい。



その裏に出ると、裏門には右に坐摩神社、左に陶器神社という表示がしてある。



この坐摩神社の歴史を調べて見ると、神功皇后が三韓征伐から戻ったとき(日本書紀によれば西暦200年)に淀川の川岸に坐摩(いかすり)社を祭ったのが始まりというので、同じ神功皇后を祭る住吉大社と同様に摂津国の一宮となっている。



この神社は西暦905年に編纂がスタートした延喜式にも名前が見られるので、今から1100年前には既に存在していたという相当由緒のある神社なのである。



その坐摩社が最初に置かれた場所は、現在の京阪天満駅のすぐ南、中央区石町であるが、1583年秀吉の大阪城築城に当たり、海から淀川を遡って運んだ石垣の揚陸地点となったために邪魔になり、現在の地である船場に移されたらしい。



船場への遷座後は、大阪の中心にある摂津の一宮ということで、豊臣、徳川時代を通じて多くの物売りや見せ物が門前に集まっていたらしい。



そのうち「坐摩の古手屋(古着屋)」として有名になり、いつしかこの辺りには古着屋が多く集まるようになってきた。



ここから程近い心斎橋の「そごう」も最初は古着屋として、この地で商売をスタートさせたという。



このように坐摩神社は、船場が繊維の町として発展するきっかけになった神社であり、伊藤忠、丸紅などの繊維問屋から発展した日本を代表する総合商社の氏神となっているという。




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朝、地下鉄の難波駅で途中下車し、本町の会社まで久しぶりに御堂筋を歩いてみた。



朝8時前の御堂筋は、通行する人が少なく、空気が清清しくて快適である。

御堂筋の歩道は、いまや人造石の平板で綺麗に舗装されており、凹凸や段差が無いので、非常に歩き易い。

以前はよく見かけた歩道の掘削工事も、最近あまり見かけ無くなったのは、大阪のインフラ整備がほぼ終わったということか。

2年前まで暮らしていた広州でも毎朝30分の徒歩通勤をしていたが、人が多いこと、歩道がデコボコで躓き易いこと、道路の石が濡れると滑りやすいこと、車道との間に大きな段差があることなど実に歩き難い街であった。

広州の狭い歩道



又5年前に行ったニューヨークでも、歩道が狭くてデコボコがあり、かなり歩き難い街であったという鮮烈な印象がある。

それらに比べればこの難波から本町までの御堂筋は、国際的にも誇れる良く整備された歩道ではないかと私は考えている。

梅雨晴れの朝、御堂筋の東側を歩いていれば、ビルの陰で日差しも遮られ、気温23℃の歩道は少し汗ばむくらいの快適さである。

広州の6月は朝から30℃を超える日が多く、徒歩通勤は激しいスポーツをするくらいの覚悟がいるが、6月下旬の大阪の気温は広州の3月頃の気温であろうか。

広州の横断歩道(赤信号でもかまわず渡る歩行者)



道頓堀橋を渡るとスポタカのビルが西に見える。



このビルには、ついこの前までサッカーの宮本選手の垂れ幕があったが、いつの間にか無くなっていた。

クロアチア戦でイエローカードを貰い、ブラジル戦に出場できなくなったので外したというのであれば、やけに手回しの早い対応ということであるが、真実は不明である。

三津寺の横を少し北に歩くと、ナイキオオサカのビルがあり、ここにもサッカーの小野選手の看板が目立っている。



しかしワールドカップの決勝進出が難しくなったので、この看板もかなり近い時期に撤去されてしまうのであろう。

ナイキオオサカを過ぎるとすぐに大丸、そごうである。

開店2時間前の百貨店は静まり返って、営業中の喧騒が嘘のようで、不気味でさえある。

それにしても両百貨店の前の歩道がこれほど広いとは思わなかった。



そごうから北にエルメス、グッチ、フェンディ、シャネル、長堀通りを渡るとルイビトン、フェラガモ、ダンヒルなどの高級ブランド店が軒を並べ、御堂筋と長堀通りの周りは、いつの間にか有名なニューヨークの五番街のようになっている



五番街はもっと歩道が狭く、雑然として歩き難かった印象があるが、この辺りの御堂筋は整然として歩きやすく、銀杏並木が見事である。

その五番街の高級ブランド店では、すべての店に客を威圧するプロレスラーのような体格をした黒服のドアマンがいて、嫌でもニューヨークが治安の悪い街ということを思い知らされる。

しかし、大阪の高級ブランド店では、プロレスラーのようなガードマンを見たことがないのでそれだけ街が安全なのであろう。

どうもひったくりや路上駐車、暴力団など、マナーと治安の悪い街という印象ばかりが強調されているようであるが、現実はブランド店の店員を見れば判る通りであり、大阪市民はもっと街の安全性を誇って良いのである。

御堂筋を北に歩き、工事現場の仮囲いの面白いデザインの前を通って中央大通りを越え、さらに本町通りに近づくと1976年に完成したイトマンビルの解体現場がある。



難波から本町のここまで早足で一気に歩くと、さすがに広州の徒歩通勤で鍛えた体とはいえ、額に汗が滲んでくる。



地下鉄本町駅の入り口では恒例のティッシュ配りと、フリーペーパー配りが今日も始まっていた。



無料の物配りがこれだけ長く続いているということは、その宣伝効果に無視できないものがあるのであろう。


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毛沢東のつるの一声によって1958年から4年間、資金を一切使わずに食料増産を実現するため、約1億人の農民の労働力が灌漑事業に強制的に投入された

この間、人海戦術という手法、所謂つるはしとスコップだけの人力でスエズ運河950個に相当する土砂が掘削されたという。

しかし、何の計画性もなく単に毛沢東の指示だけによって急に着手された灌漑事業の大多数は、途方もない浪費に終わっただけでなく、ダムの完成によって1千万人以上の農民が故郷を奪われ、粗雑なダムの崩壊で何十万人もの溺死者を出している。

この膨大な無駄な作業によって破壊された広大な自然環境はもはや修復が困難で、今も中国各地で発生する洪水の原因となっていると私は考えている。

この年、毛沢東は突然粗鋼の生産量を倍増させ、イギリスの生産量を上回るようにせよと無茶な指示を出し、既存の製鉄所の増産では不足する生産分を9千万人の農民を動員して土法高炉によって達成するように命じている

この土法高炉とは、中国中の農村に作った小さな溶鉱炉で、強制的に供出させた鉄製品を溶かして粗鋼を生産するというものであった。

農機具、荷車の部品などの生産活動に使う道具、なべ釜調理器具などの生活必需品もすべて供出させられ土法高炉で溶かされてしまうという徹底ぶりであった。

この作業のために毛沢東は農村の全人口を人民公社という単位にまとめ、農民を集中して管理せよ指示を出している。

公社化された1億世帯の農家は土地、家屋、家畜、樹木すべてを公社に提出し、共同の宿舎で暮らすことを強制されたのである。

人民公社とは強制収容所と同じで、5億5千万の農民から人間としての個性を奪い、家畜のように毛沢東の意のままに動く労働力にすることであった。

看守は共産党から派遣された人民公社幹部で、彼らには奴隷監督の役割に徹することが求められた。

看守は農民の逃亡を防ぎ、殴りつけ、虐待し、食べ物を減らすと脅して無理やり働かさなければ自分や家族が奴隷の立場になるのである

農民は昔から飢饉があると食べ物のある地域に移動してしのいでいたが、毛沢東は奴隷化した農民に移動の自由を禁止したのである。

ユンチアンの取材に応じた農民の一人は、逃げ出せる自由があったので日本に占領されていた時代のほうが毛沢東の時代よりもはるかに良かったと述懐している。


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1953年7月27日朝鮮戦争の休戦協定が締結された時に中国側が発表した戦死者は15万人であるが、ソ連の公式文書には中国人死者数を100万人としている。

1953年からはじまる中国の第一次5ヵ年計画における軍事工業への支出は予算の61%を占め、教育、文化、保健の支出は8,1%でしかない。

中国人民には中国の工業化に使われるソ連製の設備は「ソ連の援助」であると説明されていたが、実際は有償であり代金は食糧で支払われた。

この事実は当時厳重に秘匿され、今も公表されていない。

当時の中国がソ連とその衛星国に輸出していた物資は自国民の生活必需品だった。

中国の耕地面積は世界の7%であるのに対して人口は22%もあり、中国は伝統的に穀物の大量輸入国であった。

にもかかわらず、毛沢東は穀物まで輸出品リストに加え、国民から食べ物を取り上げたのである

当時、農民として戸籍登録された国民は職業を変えたり、都市や他の村に移住することができなかったが、都市に対しては配給制で食糧を保証する政策を取ったので、飢えるのは農民であった。

このために農村送りの恐怖は、刑務所送りと同じと解釈され、都市住民の反抗行動を防ぐ強力な抑止力となっている。

農民から搾り取った貴重な農作物は、軍事品を輸入する代金として使われただけでなく、国際的影響力の拡大を望む毛沢東が、各国に景気良くばらまいた無償の援助として使われている。

毛沢東は世界共産党陣営のトップになることを目指し、当時中国よりも遥かに裕福なヨーロッパの共産主義諸国にも気前よく食糧を贈与していた。

1953年、東ドイツで大規模な暴動が起きたときには5千万ルーブルの食糧を無償で提供している。

1953年秋には全国的な食糧供出制度が導入され、国民に必要な食料を穀類相当で一人年間200kgとし、残りをすべて国家が取り上げる制度を実施している。

1955年にはこの制度のせいで農民は極度の困窮状態に追い込まれたが、この年毛沢東は農村の集団化を強行してさらに締め付けを強化している。

この食糧供出制度と農村の集団化に対する抵抗を抑える目的で、毛沢東は得意の政策を実施している。

すなわち5年間で150万人の反革命分子を逮捕せよという粛清運動を開始したのである。

農民に同情的な役人はことごとく、公開批闘会で肉体的に虐待される恐怖を目の当たりにして毛沢東の意のままに動くようになった。

1956年、核開発計画にあわせて12年後に穀物換算で5億トンの食糧を供出させることを狙った農業の12年計画が立案されている。

5億トンとは歴史上最高の収穫のあった1936年の3倍以上となるが、国家からの投下資本無し、肥料の支給無しに数字を達成せよという無茶な指示であった。






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長時間露出撮りのコツはカメラに三脚をつけ、セルフタイマーを使ってシャッターを押し、ブレないように注意することである。

また感度を上げるとノイズが乗ってざらついた写真になるので、きめ細かい写真を撮るために感度は最小に設定しておくのが良い。

感度が低いと露出時間が伸びでしまうが、三脚で固定してあれば安心である。

しかし人通りの多い歩道で大きな三脚は使えないので、長さ20センチくらいのミニ三脚を歩道上にある何かの台に載せて撮影することになる。

夜景の長時間露出撮り歩きでは、三脚を載せるその台を探すのが大変であり、被写体を丁度良いアングルで狙える位置に、格好の三脚台はなかなか無いのが難点である。

私のカメラでは長時間露出モードでのシャッタースピードを1秒から15秒まで設定できるが、あまり長くすると、画面全体が白くなり、建物の形が判らなくなるので1秒くらいで十分である。

但し、撮影の時間帯にもよるが露出時間を長く設定すると暮れたばかりの空が青く綺麗に写ることがあるので、そのバランスが難しい。

中ノ島関電本社ビル



先日、大阪ミナミの夜景を長時間露出で撮り歩きしてみた。

シャッターを押す瞬間にブレるようなので、1秒以上の露出をする場合には押してから2秒後にシャッターが切れるセルフタイマーを使うのが正解であろう。

高島屋を御堂筋の東側歩道から見たところ。
手持ち撮影したがどうしてもブレてしまう。



同じ高島屋をカメラを三脚において撮影したもの。



ミナミにはキタの大阪駅前のような明るい場所が無く、かなり暗く写ってしまう



歌舞伎座を手持ち撮影してみたらやはりブレている



同じく三脚を使った撮影




道頓掘橋から工事中の戎橋方面を手持ち撮影。露出オーバーでした。



道頓掘橋からキリン会館を望む場所で三脚を使用してオーバー気味に撮影した



スポタカにはサッカーワールドカップに出ている宮本の大きな写真。手持ち撮影






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T苑に住んで4日目の夜、早めの夕食後に散歩を兼ねてぶらりと散髪に行く。



T苑の広い敷地を出て南へ歩くと結構高級そうな美容院「アロマコレクション髪型顧問中心」がある。

中に入ると女性客が多かったが、すぐに私が外国人とわかって、英語のわかるマネージャーのような若い男性が出てきた。

そこで、髪型の希望を伝えると解ったみたいで、散髪代は28元(360円)と言っている。

28元なら広州では高価かも知れないが、日本の散髪代の十分の一であり何の文句も無いので、中国でも通じる「OK」と言ってすぐに始めてもらう。

まずは例によって黒いガウンを着せられて、店の奥のシャンプーコーナーまで移動して仰向けになる。

広州に来てからの散髪で、はじめて若い男性店員にシャンプーしてもらったが、頭の皮を引っかかれる恐れのある爪の長い女性店員よりも男性のほうが各段に上手であった。

最後には力を入れて頭のマッサージを入念にしてくれて、心地の良い時間を過ごすことができた。

龍口西路



シャンプーの後で散髪椅子に戻り、「アンディ」という名前の理容師に散髪してもらったが、かなり丁寧な仕事をしてくれた。

料金28元を支払って店を出ると9時10分になっており、1時間20分もかけて散髪して貰ったことになる。

広州では一番サービスの良い散髪屋と思ったので、これからの散髪はこの店でしようと思う。

散髪屋を出て400mくらい南に歩くと、巨大スーパー「好又多量販」(英語表記ではトラストマートとなっているが中国語ではハオヨウドオ)がある。



閉店時間は月から木曜日が午後10時まで、金土日が午後11時までと結構遅くまで営業しているので、夜遅くなっての買い物には有難い。

信号無視の車が強引に通る天河北路の横断歩道を渡って、買い物客でごった返しているスーパー「百佳」に行くよりも、交通量の少ない龍口西路を散歩しながら買い物客の少ない「好又多」に行くほうが遥かに楽である。

天河北路



また香港系の「百佳」よりも地元の「好又多」のほうが値段も安いし、品揃えも豊富で、第一売り場が広くて買い物し易いのが良い。


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3時半にすべての引越し作業が終わり、3人でロビーのフロントマンのところへ、引越しの挨拶とセキュリティロックの開錠方法を聞きに行く。



若いフロントマンから密―1F―6789とキーを押せば開錠できると教えてもらった。

しかしこの操作も顔を覚えてくれたフロントマンが、私の入室のたびにリモコンで開錠してくれるので実際の操作は全く必要が無かったのである。

私の住んでいる棟は34階建てで、2階から上の33階分に1階当たり8戸、計264戸の住宅がある。



夜の窓の明かりから判断すると、このマンションに住んでいる住民は住戸の数よりもかなり少ないようなので、フロントマンは全住民の顔を覚えているようである。

私の顔もすぐ覚えてくれて顔を見ると必ず挨拶してくれるので気持ちが良い。

人が住んでいない住宅が結構あるのは、恐らく香港人や海外華僑が投資目的で買ったまま値上がりを待っているのではないかと思う。

一人で部屋に戻って、少し荷物の整理をしてバスにお湯を入れて汗を流す。



以前のマンションよりも少しは増しであるが、バスタブは相変わらず浅いので気をつけないとすぐにお湯が外に流れ出してしまう。

しかし大理石の床が広いので、少々溢れ出しても床全体が濡れるということが無いので安心である。

このT苑のバスはガス湯沸かし器が浴室内に設置されているが、換気扇を回さなくてもお湯が使える給排気バランス型の機種がついていた。



前のマンションでは湯沸かし器への給気のために、お湯を出すと強制的に換気扇が回って冬の入浴は寒くて辛いものがあった。

この浴室には便器も付いているが、日常使わずにもう一箇所あるトイレのものを使い、この部屋は風呂専用として使う生活をしようと思う。



ダンボール3個の荷物の片づけが残ったが、6時を回ったので向かいのスーパに行き買い物をする。

1個30元もする高価な蛍光灯型電球を7個も買ったので、結構な物入りとなったが、今度の部屋の照明は白熱電球だけでも明るく白熱電球独特のムードがあり、蛍光灯にする必要は全く無かった。



又、スーパーで久しぶりに惣菜売り場の焼き飯と冷凍のシューマイを買って帰り、リビングから下界を見下ろしながらの夕食は結構気持ちの良いものであった。



11時頃にはベッドに入ったが、高速道路に近い前のマンションと違って静かな環境なのでぐっすりと休むことができた。



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